天地燃ゆ   作:越路遼介

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ついに隆広の出生が明らかになります。


清洲会議、そして隆広の出生

 上杉への使者を終えて隆広一行は春日山城を後にした。行きは街道を馬で進んだが、帰りは船で直江津から敦賀に戻るため、彼らは直江津で宿を取った。その夜の事だった。隆広は不思議な夢を見た。

 見た事もない美女が隆広の前に現れた。自分が名乗り、その女に名を訊ねて言葉が話せないのか優しく笑うだけで声を発しない。そして着物を脱いで隆広の愛を求めた。夢の中で隆広はその女を愛しく抱いた。そして満足した女はそのまま風のように消えていった。

「ハッ」

 隆広は目覚めた。

「なんだ今の…」

 越中が夢精で汚れていたので、いそいそと変えていると

「やれやれ、少し奥方と会えないだけで夢精でござるか」

 護衛がてら隣で寝ていた慶次が突っ込んだ。

「う、うるさいな! こういう時は気づいても寝たふりしているのが思いやりってモンだろ!」

「へえへえ」

「でもオレもどうかしている。さえやすずと会えないのはいくさ場に出れば当たり前なのに何で今日に限って夢の中で知らない女と…」

「若い若い、まあそのくらいの歳では毎日でも女を抱きたいモンでござる」

「まあそうだけど…。何か気になって…!」

 隆広はハッとして部屋を飛び出した。

「?」

 慶次もすぐに追いかけた。隆広が向かったのは宿にある厩舎だった。慶次が着くと隆広が呆然と立ち尽くしていた。

「どうされ…!?」

 その厩舎で隆広の愛馬ト金が死んでいた。彼女はまだ老境に至っておらず、まだ十分に戦場で走れるのだが、競走馬に体躯が近いと云われた彼女は並外れた脚力と引き換えに寿命を縮めたのであろうか。

「さ、さっきの女は…そなただったのか…」

 ト金の食事は必ず隆広自ら運び、彼女に水浴びさせるのも人任せにしなかった隆広。今日も寝る前に頬擦りして一日の走りを労ったばかりである。時に愛妻さえが妬くほどに隆広が愛情を注いだ愛馬が逝った。慶次はト金の亡骸に一礼してその場から去っていった。自分がいては主人は泣けない。

 隆広は悔やむ。時に違う馬に乗り換えていれば彼女はもっと長生きできたのではないかと。だがそれは違うだろう。そうでなければ主人の夢の中で抱かれるだろうか。ずっと今まで愛して乗ってくれた事は彼女にとって無上の幸せだったはずである。横たわる愛馬にすがり泣く隆広。

 今までの思い出が浮かぶ。最初に会ったとき、自分から寄って来て隆広の頬に自らの頬をつけたト金。手取川の撤退戦では隆広を乗せて上杉謙信の本陣に突撃し、あの北陸大返しでは休憩も取らせる事もできなかったのに彼女は走った。

 柴田の下っ端武将のころから自分を乗せて走ってくれた最高の恋人が逝ってしまった。隆広の涙は朝まで止まる事はなかった。

 

 朝があけると隆広は無理して笑っていた。馬を愛する事では隆広に劣らない慶次は見て痛々しくてならない。だから提案した。『帰りも陸で帰りましょう』と。いぶかしげに自分を見る隆広に更に言った。

「ト金殿を弔うのはかの地しかございませぬ」

 一行は慶次の案に乗り、北陸街道を西に進んだ。愛馬ト金は荷台に乗せて隆広自身が引いていた。

「ここか慶次」

「ええ、手取川の殿軍のおり、殿が謙信公に一太刀浴びせた場所にございます」

「うん…。ここしかない。あの時のト金は上杉本陣突入と同時に謙信公の前に立ちふさがった兵二人を吹っ飛ばした。主人の敵と分かっていたんだよな、やっぱり…」

「たてがみは剃って持ち帰り、北ノ庄でもお墓を作りましょう。しかしト金殿はこちらで」

「うん」

 隆広は愛馬を埋める穴を掘った。慶次も手伝うと述べたが『オレ一人にやらせてほしい』と断った。そしてト金を埋めた。墓石は誰かが見つけてきた丸い石を置き、そして花を添えた。

「ト金…。今までありがとう。そして夢の中のそなたは最高の女だった。また出てきて抱かせてほしいな…」

 隆広はこの後、ここに彼女を祭る廟を建立し毎年の墓参を欠かさなかった。後年、この地には謙信・隆広一騎打ち像が建てられるが、その横にあるト金を祀る廟は現在『馬神神社』と呼ばれ、近年にはト金像が建立された。寄進者は水沢家と上杉家の末裔である。競走馬に体躯が近かったと言われていたト金は競馬関係者に馬神と崇められ、馬の安全を祈願する神となっている。

 

 北ノ庄城に戻った隆広。ト金の後釜はすでに決まっていた。ト金の娘である。現在二歳になったばかり。父は慶次の愛馬松風である。今まで乗った事はあるが、ト金は隆広に他の馬のにおいがついているとヘソを曲げた。見られた日には拗ねて一歩も足を動かさないと云うほどのヤキモチ妬きで、娘に乗ってもそうだった。だから隆広は乗るに乗れず今まで水沢家の厩舎で大事にされていたが、人間で言えばお姫様育ちも同様な馬だった。

 彼女の父親松風に乗る前田慶次でさえ『かような姫育ちの馬に殿の愛馬が務まるとは…』と首を傾げたが隆広は決めていた。

 しかし母親が死んだ事を悟ったか、彼女はお姫様などではなかった。足の速さは母親に一歩ゆずるが父の松風譲りの馬力が彼女にはあったのだ。お姫様の顔は母親を立てての事だったのか、とんだじゃじゃ馬であった。『二代目ト金』の誕生である。隆広が母親顔負けのヤキモチ妬きと知るのは、もうちょっと後である。

 

 二代目ト金の馬力を北ノ庄城の馬場で堪能している隆広に城から使いが来た。

「ご家老様(隆広)、殿がお呼びにございます」

「分かった、今参る」

 隆広は馬場にト金を預けて、急ぎ登城した。

「殿、美濃にございます」

「入れ」

「ハハッ」

「上杉の和議を整えて戻り、さっそくでスマンが佐和山に行ってくれ」

「丹羽様の元へ?」

「ふむ、光秀を討つに秀吉と歩を同じゅうした五郎佐(丹羽長秀)であるが、今は羽柴から離れ居城に帰っておる。清洲会議の趨勢を決めるには五郎佐の賛同も得たいゆえな、前もって味方につける。口説き落としてまいれ」

「承知しました」

 かくして隆広は新しい愛馬二代目ト金に乗り、石田三成と護衛に手勢五十を率いて北ノ庄城から佐和山城に向かった。途中琵琶湖から船を使い南下したので二日で到着した。長秀は柴田からの使者である隆広と快諾して会い、城主の間に通した。

「ほう、では権六殿は三七様(信孝)を跡目に考えておられるのか」

「はい」

「それでワシにどうせよと?」

「宿老の丹羽様に、殿の意見に賛同していただきたく思いまする」

「それは権六殿の意志かな?」

「御意」

「なるほど…」

(ふむ…。勢いに乗る権六に味方したほうが当家のためか)

「承知した、大殿の仇を討ったのは権六殿。しかも跡取りが三七様と云うのも筋が通っておるの、丹羽家は柴田家につこう」

「恐悦に存じます」

 

 丹羽長秀の取り込みに成功した水沢隆広は佐和山城を出た。そこには随伴してきた石田三成が待っていた。

「丹羽様の取り込みの首尾は?」

「ああ、丹羽様は殿に…」

 同じく佐和山城の入り口に歩んでくる一行がいた。

「羽柴様、お久しぶりに…」

 と隆広は笑顔で久々の再会を喜んだが秀吉は笑顔一つ見せず隆広を睨んだ。笑って対せるはずなどない。隆広は自分の中国大返しを無にした男なのである。

「美濃」

「は、はい」

 いつも隆広に笑顔を向けてくれた秀吉。だがこの時の秀吉は敵のように隆広を見つめるのだった。

「五郎佐に何を申した…?」

「は…?」

「質問に答えよ」

「…申せません」

 秀吉の後ろにいる山内一豊、仙石秀久もすでに隆広を敵のように見た。

「策を弄したか、美濃殿」

「一豊殿…」

「よせ一豊、ワシも五郎佐を取り込もうとしていたのじゃからお互い様よ」

「羽柴様…」

「…五郎佐が勝家の篭絡に落ちたのなら佐和山に用はない。帰ろう」

 秀吉はくるりと隆広に背を向けて歩き去った。

「お、親父様!」

「なんだ佐吉?」

「い、いえ…」

「用がないのなら呼ぶな、たわけ」

「申し訳ございません…」

 一豊、秀久も去っていった。あんなに自分と親しくしてくれた秀吉とその臣下たち。だが今や権謀術策がうずまく敵も同然なのである。

「佐吉…」

「……」

「行くのか…?」

「……」

 三成は答えられなかった。そして神経が擦り切れるほどの選択を心の中でしている三成に対して隆広は何も言えなかった。

「帰ろう、今のお前の家は北ノ庄。家族も待っているだろう」

「…は」

 

 そして数日後、世に云う清洲会議が催された。会議と云うより、ほぼ勝家からの伝達の場と言って良かった。勝家恩顧の府中三人衆は無論、織田の重臣である丹羽長秀、滝川一益、そして池田恒興も勝家についた。無論、隆広も勝家と意見を同じくしている。清洲会議の議事録は今に残るが、書かれている文はほとんど勝家の言葉である。

「以上である、織田の頭領は本日より信孝様じゃ!」

「待たれよ!」

 秀吉が発した。

「承服いたしかねる。信孝様は事もあろうに大殿の甥御である津田信澄様を殺害し、あまつさえ京の日向(光秀)に一番近い位置にいながら何ら動かず、あげく兵に逃亡されるという体たらく! とても新たな当主として、この筑前認められぬ! 修理亮殿(勝家)が信孝様を推すのは、信孝様元服のおり、加冠の役を務めたからでござろう!」

「バカを申せ、そんなつまらん了見で大事な世継ぎを推薦するものか」

 隆広は以前に“信孝様でなく殿が継いではいかがか”と遠まわしに進言したが、それは勝家に一蹴された。臣下としてそれは出来ないと云うのである。

「では筑前、誰が新たな当主ならば納得するのか」

「その前に!」

「その前に何じゃ?」

「この筑前、修理亮殿にお聞きしたい事がござる!」

「ワシに?」

「北陸からの大返し、誰がどう見ても早すぎもうす! まるで中央に狂乱ある事を存じていたとも思える!」

「何が言いたい?」

「修理亮殿は日向が謀反! 存じておったに相違ない!」

「なんじゃと?」

「修理亮殿はおそらく日向と共に大殿を討つ算段をして、日向が事を成した後に天下が欲しくなり、まだ謀反人の状態である日向を討ち、まんまと天下餅をかっさらったのじゃろう! そうとしかあの大返しは説明つかん!」

「筑前キサマ! ワシが大殿を討つ絵図を描いたとほざくか!」

「そうでござる! 五郎佐殿、恒興殿、一益殿、権六(勝家)にだまされまいぞ!」

 丹羽長秀、池田恒興、滝川一益も顔を見合わせた。確かにあの電撃的な大返しは前もっての備えがなくばおぼつかないと考えるのも無理はない。

「しばらく」

「おぬしは引っ込んでおれ美濃!」

 怒鳴る秀吉。

「いいえ、修理亮が家臣として黙っておられませぬ。筑前殿、明智日向守殿の謀反、柴田は存じていたわけではござらぬが、危惧してはいました」

「なにぃ?」

「安土大評定ののち明智家で催された茶会にて、日向殿がそれがしを始め、重臣の秀満殿と利三殿が話しかけても気付かず黙り込んだままで、何かを深く考え込んでおりましたのを、この目で見てございます。これは重大事を考えているとそれがし読み取った次第で、その後に思案いたしました。日向殿が重臣が話しかけても気付かないほど考え込む事案は何かと。家中のこと、ご家族のこと、戦、政治、と頭の中で列挙していきましたが、最後に残ったのは叛意にございました」

「……」

「日向殿が亡き大殿より受けし数々の理不尽を思えば、叛意を抱いても無理らしからぬこと。それに大殿は筑前殿の援軍に赴くため西に向かいましたが、軍勢を連れて出たわけではなく、身の回りの世話を焼く小姓たちや番兵だけ連れて、ゆっくりと京に入り、しかも宿泊する場所は城でも何でもない本能寺。その本能寺を織田の京本陣にすべく改修したのは他ならぬ日向殿。この機会を逃すだろうかと、それがしは主人修理亮に相談した次第にございます。

 そして主人はそれを入れ、府中勢を先に北ノ庄に帰したのです。それがしも万一に備え退却を円滑に進めるべく家臣に北陸街道一定間隔に兵糧と水を用意させました。別に裏も何もありはしません。柴田は明智が怪しいと思ったから備えただけ。そしてそれが功を奏しただけにございます」

「美濃、もうよい」

「はっ…」

「筑前、美濃の申したとおりだ。しょせん間に合わず播磨で愚図ついていたキサマの負け犬の遠吠え。痛くも痒くもないわ。今の戯言は忘れてやるゆえ感謝するのだな。はっははは!」

「……」

(ふん、智慧美濃なくば今のワシの言に反論もできなかったのによく言うわ猪が!)

「で、筑前。誰ならば新君主と認めるのじゃ」

「三法師君にござる」

「異な事を…! 三法師君は御歳三歳じゃぞ!」

 三法師は中将信忠の長男である。

「織田家は代々嫡流が継ぐものにござる! 大殿は信忠様以外の子に織田姓を名乗らせなかった。ゆえに信忠様亡き後は中将信忠様の忘れ形見を家臣一同で盛り立て…」

 

「だまりゃ!」

「お、お市様…」

 秀吉は無論、丹羽長秀、滝川一益、池田恒興、そして隆広も平伏した。お市は大殿である織田信長の妹なのであるから当然である。そして怒気を含み、秀吉を見据えるお市。

 お市は秀吉を憎悪している。彼女と浅井長政との間に生まれた男子の万福丸を殺したのは秀吉当人なのであるから。温和な笑みを浮かべるお市の顔しか知らない隆広は額に青筋立てて激怒しているお市に圧倒された。

「お市、別室で控えおれと…」

「いいえ殿! この猿めの企みを思うと市は黙っておられません!」

「た、企みとは心外にござい…」

「だまれ! その方三法師を主と立て、己の傀儡とするつもりであろう! 会議の前に三法師に玩具を与えて手なづけておったろうが!」

「玩具を献上したのは三法師君を主と思えばで…」

「見苦しい言い訳はするな! 我が子万福丸を殺したその方、市は断じて許しておらぬ!」

 確かに当時木下藤吉郎と名乗っていた秀吉が万福丸を殺したのは事実だった。小谷落城後に万福丸を殺せと信長に厳命されていた秀吉は心ならずも、その幼い命を奪ったのである。

 秀吉は万福丸助命も条件にお市と茶々、初、江与の三姉妹を小谷城から連れ出した。しかし信長の命令には逆らえなかった。自分をだまして、我が子を殺されたお市の怒りは並大抵のものではない。夫の勝家が秀吉を嫌う尺度さえ越える憎悪だった。

 一方秀吉は小者の時代からお市に憧憬の念を抱いていた。だがその憧れたお姫様に憎悪を受ける事になった自分。そして、その恨みが一気に自分へ爆発した。

「それにその方、兄の信長が光秀に討たれたあと、何しておった! 備中で女でも漁っていたか!」

「それは…」

 ほんの、わずかな日数で秀吉は勝家に先を越されてしまった。結局何も働けてはいなかったのである。

「そのサル耳の穴を開いてよう聞け! 怨敵明智光秀を討ったのは、我が夫の柴田勝家!そして…!」

 お市は万感の思いを込めて言った。

 

「勝家と私の愛する息子、水沢隆広じゃ!」

 

「……え?」

 勝家ももう市がこの言葉を言うのを止めなかった。お市の言葉は城主の間にいた者すべてがあぜんとした。隆広もポカンとするだけだった。

「猿、三法師の跡目は認めぬ。夫の押す信孝じゃ。それが不満なら姫路に戻り攻めてくるがいい! その方ごときサル智恵で、夫勝家の武勇と息子隆広の智謀に勝てるものなら、やってみるがいい!」

 言うだけ言うと、お市は城主の間から去っていった。

「そういう事だ、筑前。異存あるまいな…」

「は…」

 勝家の言葉に秀吉は静かにそう答えた。

「では、領地わけを始める。まず信孝様は二条城に入り畿内の政治にチカラを注いでいただきたいと存ずる。すでに京中の宮大工に突貫工事で新たな二条の城の築城を命じておりますれば、じきに入城はかないましょう」

「承知した」

「ちょっと待て勝家!」

「信雄様、何か?」

「何かではない! どうして三男の信孝が後継者になる! 次男はオレ…」

「だまらっしゃい!」

 勝家の鬼の一喝に信雄は黙った。

「先年勝手に伊賀に侵攻し、忍びどもに翻弄されて大敗の失態! 大殿が大激怒され、『親子の縁を切る』とまで言われたのをお忘れか! そんな信雄様にここまで版図を広げた織田一門の命運を委ねられまするか!」

「くっ…!」

「また、明智秀満が退去した後にそれがしが信雄様に安土城に入っていただくのを要望したのは何のためか! 安土城の防備にございまする! それなのに火災を起こす不始末振りは呆れるばかり! 信雄様は冥府の大殿に何とお詫びする所存か!」

「……」

「信孝様は大殿に四国方面の総大将を任された。これを考えても大殿が信孝様の実力を買っていたのは確かでござる。信雄様は今までどおり伊賀と南伊勢を治められよ」

「……」

「さて、秀吉。そなたは今までどおり姫路を中心の播磨を治めよ。北近江にある長浜城は柴田がもらう」

「な…!?」

「急ぎ城主の山内一豊を退去させよ」

「……」

「どうした? 播磨から遠く離れた北近江に城を持っていても仕方あるまい? それとも女好きのそなたゆえ、おね(秀吉の妻)の知らない女でも長浜に住まわせておるのか?」

「かような事は…」

「ならば良かろう」

「一つ条件がござる」

「なんじゃ?」

「長浜はご養子の柴田勝豊殿に与えてくだされ」

「ワシに譲るも勝豊に譲るも同じであろうが、あっはははは!」

 秀吉は悔しさで一杯だった。だが

(ふん、勝豊に譲れと云うワシの深慮が分からぬか。猪めが)

 と内心あざ笑っていた。

 

 丹羽長秀、滝川一益、池田恒興らの所領も発表された。明智討伐に功のあった将は隆広をのぞいて大幅に領地が加増され、信長存命の頃から勝家寄りだった将にも加増が果たされた。光秀の旧領と信長直轄領を絶妙に分配した。これで勝家支持はより上がった。

 この論功行賞の知行分けを記した文書は今日に残るが、無論花押と印判は勝家のものである。しかしその差配は水沢隆広の知恵だろうと言われている。この論功行賞に不備があれば、それに伴い不平を漏らす者を味方に付けようと思っていた秀吉の構想はここで頓挫した。秀吉はこの巧妙な人事が隆広の知恵である事を察していた。

(かような人事、猪の権六にできようはずがない。げにも忌々しきは美濃よ…!)

「なお、ワシは安土城の跡地をいただき、城を築き居城とする。以上解散!」

「「ハハ―ッ」」

 

 各諸将は隆広をチラと見て、複雑な面持ちで出ていったが、隆広はまだ呆然としていた。

「奥方様が…オレの母上…? 殿がオレの父上…?」

「美濃」

「は、はっ!」

「すべて話そう、来るがいい…」

 勝家と隆広はお市の待つ部屋に行った。

「隆広…!」

「お、奥方様…」

「ああ、やっと名乗る事ができた。私があなたの母です。たくましく育ったそなたを見て…母はどんなに嬉しかったか…」

 そう言うとお市は隆広を抱きしめた。

「私の…愛しい息子…」

「…は、母上…?」

「もう一度言ってちょうだい…」

「母上…」

 お市がやっと抱擁から満足すると、勝家は語り出した。

「隆広、ワシとお市は君臣の間ながら好きあっていた。親子ほど歳は離れていたがの」

「はい」

「お市が浅井長政殿に嫁ぐ前、ワシとお市は一夜だけ結ばれたのだ。その時にお市の胎内で生を宿したのがお前だ」

「で、では…さきほど奥方さ…じゃなく母上が言ったとおりに!」

「そうだ。ワシがお前の本当の父だ」

「…殿が…それがしの父上…?」

「ですが、婚姻前に家臣と契り子を宿したと兄が聞けば、殿も私も兄の逆鱗に触れて、そなたもろとも切り捨てられたでしょう。ですから私は兄と殿が戦で家を留守にしたとき、思い切って兄の奥方の帰蝶様に相談しました。そして帰蝶様が亡き父の道三殿と等しく慕っていた斉藤家の名将、水沢隆家殿に預けることを申し出て下さいました。織田家の者に預ければ、いずれ兄の耳に入るのは避けられません。ならばいっそ織田と交戦状態にある斉藤家の水沢隆家殿に預けよう。隆家殿には子がおらず、かつ織田家の者で、その器量と人物を知らない者はおりません。すべてを分かってくれて赤子を預かってくれるはず。そしてきっと強い男子に育ててくれる。そう思った私は産んだそなたを帰蝶様と共に隆家殿に預けに行きました。そして隆家殿は快くすべて承知し引き受けて下されたのです…」

「そんな事が…」

「ワシも知らなかったのだ。その後に浅井殿は大殿に討たれ、ワシはお市を正室に迎えたが実は子がいると云うことをお市は話さなかった。いつか隆家殿が返しに来るまで話すつもりはなかったらしい。お前が初めて北ノ庄に訪れた時に持ってきた書状、それにすべて書かれてあった。驚きを隠すのが大変じゃったわ」

「そうだったのですか…」

「ワシは嬉しかった。愛してやまぬお市との間に息子がいたことを初めて知り、かつお前は頼りになる武将として成長していた。時に父の盲愛のためのエコヒイキが負担になった事もあるだろう。すまなく思う」

「そんな…」

「事が片付いたら、改めて養子に、いや正式に息子として迎える。だがその時が来るまで、お前はあくまで柴田家家老だ。若殿ではない」

「は、はい!」

 そういうと、勝家もまた隆広を抱きしめた。

「たくましく成長したな…! お前はもはやワシなど足元にも及ばぬ大将になった…! 父としてこんなに嬉しいことはないぞ…!」

「ち、父上…」

「もう一度言ってくれ…」

「父上…!」

「息子よ…!」

 お市もまた感涙に咽ぶ。夢にまで見た光景が今目の前にあるのだ。

 

 これよりほどなく、織田信長の葬儀が京都紫野の大徳寺で正式に行われた。喪主は織田信孝で主催は柴田家だった。多くの織田家臣が参列したが、羽柴家と織田信雄は参列しなかった。

 葬儀がされている夜、羽柴秀吉は姫路城評定の間でしばらく目をつむり考え込み、やがて目を開け月を見た。何かを決心した顔であった。

「夫勝家の武勇、息子隆広の智謀に勝てるものならやってみよ、か。お市様、そこまで言われたのなら武門として黙っておられませぬ。勝ってみせましょう。そしてその時こそ、あなたを我がものにしてみせます。ふっはははは!」


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