「その儀はひらにご容赦を!」
突如に信長から発せられた直臣への誘い。しかもすぐに那古野城を与えると言う破格の申し出である。しかし隆広は断った。信長の顔つきが変わった。
「ネコ、今なんと言った?」
ものすごい威圧感、圧迫感である。新陰流の使い手である隆広が恐れのあまりにツバをゴクリと飲むほどに。平伏する隆広の額から汗がにじみ、畳に落ちた。
「お、大殿の直臣にはなれませぬ…。それがしは柴田勝家様の家臣にございます!」
「ワシが権六(勝家)に劣るとでも言うのか!」
「人物の優劣ではありませぬ! 殿は! 勝家様は養父を亡くして孤児となり、途方にくれていたそれがしを拾って下さり! そればかりか士として無上なほどに遇して下さっております! 先の内政の功を上げられたのも勝家様がそれがしを認めて信任して下されたからにございます! 士は己を知る者のために死す! 勝家様に褒めてもらえる事を何よりの喜びとして今まで仕えてきています。それはこれからも同じでございます!」
「……」
柴田勝家の背中が小刻みに震えているのが後ろにいる前田利家には分かった。
(親父殿…嬉しかろうな…)
「勝家様に粉骨砕身仕える事が、結果大殿に仕えるも同じとネコは信じております! もし柴田家でいらぬと仰せあるのなら! ネコは自分の無能を恥じ! 腹かっさばくまで!」
ダンッ!
信長は立ち上がり、魔王のごとき形相で隆広を睨み、そして隆広もその視線をそらさない。小姓の坊丸に持たせてあった太刀を奪い、ドスドスと隆広に歩んだ。
斬られる…! その場にいた諸将すべて思った事だった。隆広は逃げもせず、そのまま座っていた。すると…
「なんじゃ権六」
柴田勝家が信長の前に立ち、そして膝を屈し、両手を広げて隆広の前に塞がった。
「殿…!」
「…我が家臣のご無礼、主君のそれがしがお詫びいたします。それゆえ! 一命だけは!」
「勘違いいたすな権六」
「…は?」
信長は勝家の横を通り、座る隆広の前に立った。
「お、大殿…」
信長はニッと笑い、持っていた太刀をズイッと隆広に差し出した。名刀『大般若長光』だった。信長と足利義昭しか所持していないと伝わる名刀の中の名刀である。
「ネコ、その気持ち、いつまでも忘れるなよ」
隆広の顔がパッと明るくなった。
「は、はい!」
隆広は両手でそれを受け取った。
「はっははははは! 見事にふられたわ! 権六よ、そなたは本当によい拾いものをしたものよ! はーははははは!」
「はっ! それがしもそのように思っております」
「言うわアゴめ! ネコもう良いぞ、下がれ」
「は!」
与えられた刀を大事に抱き、隆広は利家の後ろに戻った。諸将は今の隆広と信長のやりとりを感慨深く眺めていた。隆広の若いながらも主君を思う心に隆広の父親世代が多い織田の将たちは素直に感動したものだった。
また直臣になる事を視線で訴えた森蘭丸も、何かホッとした様子だった。立場上、信長の願いどおりに隆広が直臣になる事を勧めはしたが、結果的には一番いい展開とも思えた。
(大殿の直臣にならずとも、竜之介のヤツは織田家中で男を上げたな。大したモンだ)
「お蘭」
「あ、はい!」
「閉会だ」
「はい! コホン…」
蘭丸は一つ息を吸った。
「これにて安土大評定は終わりますが、今宵は宴がございます。琵琶湖の珍味と京料理の数々と銘酒を用意しましたので各諸将もお楽しみそうらえ! では夕刻まで自由にされるがよろしかろう。以上解散!」
各諸将は評定の間を出て行った。勝家もまた利家と隆広を連れて、城下町の柴田屋敷へと歩いた。
「…バカなヤツだ。むざむざ城持ち大名になれる好機を捨てるとは」
信長の誘いを断った隆広。その隆広に勝家は呆れたように言った。
「親父殿も素直じゃありませんな」
「又佐(利家)うるさいぞ!」
隆広は信長からもらった太刀を抱いたまま、だまって勝家の後ろを歩いた。
「隆広よ…」
「はい」
「だがワシは…嬉しかった…。本当に嬉しかった!」
「それがしも…殿が大殿の前に立ちそれがしをかばってくれた時も…嬉しゅう思いました。本当に…」
「そうか、いやまあ…何か成り行きでな」
「はい」
勝家は隆広が城持ち大名の道も捨てて、自分の家臣であろうとする姿勢が嬉しく、隆広には勝家が身を捨てて自分をかばってくれたのが嬉しくてたまらなかった。この親子ほど歳の離れた主従の絆は、よりいっそう深まっていったのであった。
後日談になるが、隆広の幻となった那古野入府を一番残念がったのは他ならぬ那古野の民たちであったと言われている。隆広の名行政官ぶりは日本海に面した越前から、その反対側の太平洋に面した尾張にも伝えられていた。“水沢様が我らのお殿様ならどんなに暮らしが楽になっただろうか”と口々に言った。
この時、水沢隆広が那古野入りをしていたら戦国史はどうなったか。それは今日の歴史小説家たちの良き題材となっている。ある歴史家などは、あの時点に水沢隆広が那古野入りしていたら今日の日本の首都は変わっていたかもしれないとまで述べている。
話は安土城下に戻る。隆広は柴田屋敷に行くと、信長から賜った『大般若長光』を勝家に献上した。勝家以外から褒美をもらうワケにはいかないからである。そして隆広は前田利家立会いのもと、改めて勝家から『大般若長光』を賜った。
「ありがたく拝領します」
「刀とはいえ、これも褒美であるからな。ちゃんとさえに渡す事を忘れるな」
「はい」
「まあ、他のものならば銭に代えて水沢家の資金にするに止めはせぬが、さすがにこの名刀を金に換えるのはマズい。さえにそれだけはするなとクギを刺しておけ」
「分かりました!」
「さて、親父殿、夕刻とはいえさほどに時間がござりませぬ。正装を解いて一息入れたらもう城に戻りませぬと」
利家の言葉を聞いて、陽の落ち具合を見る勝家。
「ふむ、もうそんな時間か。では二人とも再度城へ戻る準備じゃ。宴とはいえ大殿の前じゃ。粗相をいたすなよ」
「「は!」」
自分の部屋に戻る隆広に前田利家が声をかけた。
「はははは、隆広よ!」
「なんでしょう?」
「大殿の誘いをはね付けたそなたの態度、立派だったぞ。もしあのまま大殿の誘いを受けていたらワシはお前に失望していたじゃろう」
「過ぎた要望でございましたが、それがしも殿と北ノ庄の地が好きなので」
「それとさえに『恩知らず』と怒られるのが怖くて、か?」
「そ、それもあります。怒られるならまだしも、嫌われたくないもので…」
「あははは! どうやらそれが一番の理由じゃな! お互い女房殿に嫌われるのは鬼権六の一喝より怖いからな! あははははは!」
利家は親しみを込めて隆広の背を叩いた。
勝家、利家、隆広は安土城に戻った。評定の間で盛大な宴が催される。信長が祝杯を挙げた。
「今年は毛利と武田を攻め! 加賀の一向宗門徒も根絶やしにいたす。その意気をあげるための宴じゃ!」
「「はは!」」
「みなの者、今宵は無礼講である。心置きなく飲むが良い!」
「「はは―ッッ!」」
歳若い隆広は、先輩諸将へ酒を注ぎに回った。利家に若い者はそうするものだと宴の前に言い聞かされていた。無論、隆広もそれをわきまえていた。新米幹部らしく先輩武将に礼を尽くした。
「丹羽様、一献」
「うむ、ありがたくいただく」
丹羽長秀の杯に並々と酒を注ぐ隆広。
「隆広、先刻のふるまい、見事であったぞ」
「恐悦に存じます」
こうして隆広は滝川一益、九鬼嘉隆、池田恒興、川尻秀隆、細川藤孝、筒井順慶、稲葉一鉄ら諸将から褒められた。みな隆広と同年ほどの息子を持っているから、その姿が重なったかもしれない。羽柴家の席にいた山内一豊に隆広は酒を注いだ。
「聞くと隆広殿は軍事内政何でも出来る器用な方と伺いましたが…存外不器用にござるな」
「は?」
山内一豊も不器用な事では人後に落ちないが、その一豊に隆広は言われてしまった。
「立身出世を望む者なら、先の大殿の誘いを受けていたでござろう。立身出世は望んでおられないのですかな?」
「かような事はございません。だけどそれは柴田勝家様の下で遂げたいのでございます」
「なるほど不器用だ。柴田殿もよき若者を見出したものですな」
「恐悦に存じます。さ、山内殿もう一献」
この席の最年少者は隆広である。彼は酒瓶を替えては替えては先輩武将たちに酒を注いで歩いた。柴田の若き柱石であろうと、ここではまだ青二才。当然の立ち振舞いである。自分はまだ一滴も飲んでいない。
「官兵衛殿、一献」
羽柴秀吉の家臣、黒田官兵衛も隆広の杯を受けた。
「かたじけない、ありがたく受けまする」
官兵衛は隆広から受けた酒をグイと飲み干した。
「ところで隆広殿」
「はい」
「先刻の大殿の要望、あれは大殿の願望も含まれていようが、隆広殿を直臣にと願ったのは他ならぬ若殿でしょう」
「信忠様が?」
「断られて肩を落としているやもしれませぬ。『柴田家の家臣で織田家には陪臣と云う形であっても、信忠様の御下知ならばいつでも従う』と、ご寵愛が解けぬうちに機嫌を取っておきなされ。それも組織の中での立ち振る舞いでございますぞ」
「はい! お教えありがとうございます」
「いえいえ、ならばそれがしからも一献」
「ところで義兄上は…」
「ん? ああ半兵衛殿は所用がございましてな」
「そうですか…。一緒に酒を酌み交わしたかったのに残念です」
この時、官兵衛が少し顔を曇らせた事に隆広は気付かなかった。竹中半兵衛はこの時、病で伏せていたのである。
官兵衛の酒を受けたあと、隆広は信忠の元に行った。
「信忠様、一献」
「ああ、すまん」
まるで恋焦がれた娘に振られたかのように、信忠は隆広を見た。
「惜しいのォ隆広。そなたになら尾張一国与えても良かったのに…」
「そんな、それがしには手に余りまする」
「そう謙遜するな」
「それに…たとえ柴田の家臣とは云え、それがしは織田に仕えし者。信忠様の御下知あれば戦場でも内政でも懸命に働く所存です」
「まことか…!」
「はい!」
「ようございましたな若殿!」
前田玄以が信忠の気持ちを察して言った。
「そうか、嬉しく思う。さあ飲め!」
「はい!」
明智光秀、羽柴秀吉、柴田勝家らは信長と飲んでいたため、さすがに割り込んで酒を注げにいけなかった。他の諸将に酒を注げ終わり、隆広はようやく自分の席に戻り、前田利家と飲み出した。
「うーむ、どうも鮒鮨は匂いがキツいのォ」
「確か、まつ様が大好物と?」
「そうなんじゃ。持っていってやりたいがナマ物じゃからな」
「それがしもこの『鯉のあらい』をさえに持っていってやりたいです。身重ゆえ滋養をつけ…」
「キンカン! そなたワシの酒が飲めぬと言うか!」
いきなり信長の怒号が響いた。
「それがしは下戸ゆえ…」
申し訳なさそうに明智光秀が述べるが信長は聞かない。
「やかましい! 正月の宴であるぞ! 下戸が通るか! さあ飲まぬか!」
「大殿…」
「飲まぬか!」
信忠がその場に駆け寄った。
「父上、言葉が過ぎます! 酔われたのですか!」
「黙れ!」
「いやいや大殿! さっき光秀殿は『こんな銘酒、我が部下は飲んだ事がないであろう』と言っておいででしてな! この上は下戸の光秀殿を美酒で労わずに、斎藤利三殿や明智秀満殿に美酒を与えて明智家中の幹部を労うてはいかがですかな! それが結果、大殿への忠勤となりますぞ!」
すかさず秀吉がとりなした。
「…羽柴殿」
「ふん、まあよかろう。だが一杯は飲まねば許さぬ。大杯をもて!」
それはゆうに一升は入る大杯だった。
「さあ飲め!」
光秀は拳をギュッと握り、そして意を決して飲んだ。だが…
「ゲホッ」
二合も飲まぬうちに、大杯の中に酒を戻してしまった。
「なんたるヤツ! キサマそれでも織田の軍団長か!」
「ハアハア…」
信長に言い返す気力も湧かない光秀。下戸の彼には二合の酒量さえ猛毒に近い。信長はまだ引かない。再び他の大杯になみなみと酒を注いだ。
「さあ飲め!」
「父上、光秀は下戸でございます。無理強いはなりませぬ」
「黙れ! 主人の酒を飲めぬとは何事か!」
嫡子信忠の諌めも聞かない信長。だがその時…。
「いや~こんな美酒は初めてにございます。またまだ飲み足りないなぁ」
隆広が酔ったふりをして信長と光秀の間に入り、その大杯を一気に飲み干してしまった。隆広は体躯こそ華奢だが酒は強い。そんな大杯を飲んでしまった隆広を信長、信忠、秀吉、勝家、そして光秀もあぜんとして見た。
「あれ? 何かマズかったですか? あははは!」
そのまま酔ったふりをして自分の席に戻り、何事もなかったかのように膳の料理を美味しそうに頬張る。
「ふん、毒気を抜かれたわ! ワシは寝る! そなたらは宴を続けよ!」
信長は退室した。信長の顔は少し苦笑していた。取りとめもない事から引っ込みがつかなくなってしまった光秀への酒の強要。それを酔っ払ったふりをして横から飲んでしまった隆広。
「ネコめ…あの一杯の酒で明智を味方につけよったわ。ふっはははは!」
夜も暮れた安土城の廊下に信長の笑い声が響いた。その通りだった。信長が退室すると明智家の幹部である斎藤利三、溝尾庄兵衛、明智秀満が隆広に駆けて平伏した。
「水沢殿! かたじけない!」
と、息子ほどの歳の隆広に深々と頭を垂れる斉藤利三。
「ん? 何の事です?」
「もう芝居はよいですよ、隆広殿」
二合の酒でもフラフラとなっている光秀が歩んできた。
「大丈夫ですか? 明智様」
「ははは、それがしのセリフでございますぞ、それは」
即妙に信長と光秀の間に入り、場を収めてしまった隆広。その振る舞いに明智家の家臣たちは感涙した。無論当人の光秀も胸が熱くなる。まさに隆広は一杯の酒で精強を誇る明智軍を味方につけたと同じである。
「もはやそれがし…隆広殿を『隆家殿の息子』などとは呼べませぬな。…と、失礼!」
光秀は評定の間を飛び出した。嘔気はまったく止んでいなかった。溝尾庄兵衛が水を入れた小瓶を持って追いかけ、斉藤利三と明智秀満も心配してついていった。
「大丈夫でござろうか明智様は…」
「横になれば大丈夫だろう。お、隆広よ次の料理が来たぞ!」
利家と隆広の前に料理が配膳された。
「鶏の塩焼きですね! これもさえは大好きなんです。持っていってあげたいなァ」
明智家臣たちが戻ってきた。
「水沢殿、主君に代わり礼を…」
「いやいや利三殿、礼には及びません。それより新しい料理も来た事ですし、飲みませぬか?」
「ほう、鶏の塩焼きでござるか、これは嬉しい。利三殿お言葉に甘えよう」
と、明智秀満。
「そうよな! 我らの膳もここに持ってこよう!」
明智秀満と斉藤利三は隆広と飲みだした。前田利家も加わり、後に四人は敵味方となるとも知らずに楽しい酒を飲んだ。
「おう楽しそうじゃな」
少し遅れて溝尾庄兵衛が戻ってきた。
「庄兵衛様、殿は?」
明智秀満が尋ねた。
「ああ、水を飲んで別室で休まれた。隆広殿に礼を言っておいてほしいと」
「そんな礼など。昔の恩を少しお返ししただけで…」
「昔?」
「え? ああ、いや何でも! さあ溝尾様も一献!」
「頂戴いたしまする」
明智光秀の老臣、溝尾庄兵衛は隆広の酒を受けた。庄兵衛は想像できたろうか。たった今、美々しい笑顔を向けて自分の杯に酒を注いだ若者と後に戦う事になろうとは。
信長の威圧から解かれ、勝家もまた丹羽長秀や滝川一益と飲みだした。
「柴田殿、まこと良い若者を召抱えましたな。大殿も思わずポカンとしていましたぞ」
べんちゃらではない丹羽長秀の言葉が勝家には嬉しい。
「五郎佐(丹羽長秀)に言ってもらえると嬉しいわい。あっははは!」
「さて官兵衛、一豊。大殿も退室された事だし、我らも帰ろう」
「御意」
羽柴秀吉はさっさと退室してしまった。安土城下の羽柴屋敷に戻る道中、秀吉は黒田官兵衛と山内一豊に語りだした。
「のう官兵衛、一豊…」
「「はい」」
「あれは…まだ織田家が美濃尾張しか領有しておらず、ワシが木下藤吉郎と云う名前であったころじゃ」
「は?」
「墨俣築城などで大殿に認められ、小者から成りあがったワシは、あのころ家中の妬み嫉みを一身に受けていた。それでとうとう家中で起きた盗難騒動の犯人にされた。織田家の前にも仕えた松下家でもそんな事はあったが、いいかげん周囲の妬み嫉みに嫌気がさしてきた。そのウサ晴らしに岐阜の町で一人ヤケ酒を飲んでいてな。ワシは酔った勢いでこう叫んだのじゃ『くそったれ! 今に一国一城の主になってやる!』とな」
「はあ…」
急に秀吉が昔話を始めたので官兵衛と一豊は顔を見合わせた。
「だが…その場にいた者すべてがワシを笑ったわ。無理もないのう、どう見てもワシはうだつの上がらぬ小男の風体じゃからな。酌婦に至るまで腹抱えて笑っておった。だが一人だけ違う者がいた」
「違う者?」
と、一豊。秀吉は夜月を見て微笑み、しみじみと語る。
「父親の酒を買いに酒場に来ていた寺の坊主だった。歳は七つくらいの坊主頭のワラベがワシの言葉に目を輝かせて拍手しておった」
「ワラベが?」
「ああ、そしてこう言ってきた。『すごいや、おじちゃん! その時は家来にしてよ!』とな」
(そのワラベとはもしや…)
官兵衛と一豊は直感的にある人物が浮かんできた。
「そのワラベが気に入ったワシは自分の席に座らせた。寺の修行で腹でも空いていたかワシのフトコロ事情など眼中なしでメシをバクバク食いよってな…」
秀吉は懐かしそうに思い出を語る。こんな優しい顔をする秀吉を官兵衛と一豊は初めて見た思いだった。
「で、ワシは酔っていたので普通は五歳ほどのワラベに聞かせるような事ではないグチも言った。情けない話よな。酔ってグチ言える相手が初対面のワラベとは。だがワラベはイヤがらずに聞いてくれた」
十数年前、岐阜の町の酒場。
「というワケでな、オレは周りの無能者たちに妬まれて、信長様秘蔵の脇差を盗んだ犯人にされてしまったんだ! ああ悔しい…!」
「おじちゃん、その脇差ってお金になるの?」
頬に麦飯の粒一杯につけながら童子が訊ねた。
「ん? そうだな、売れば五十貫にはなるかもしれんな」
「だったらさ! この町の武器屋さんにその脇差を売りに来たヤツがいたらオレに教えてくれと頼んでみればいいじゃないか! それでおじちゃんに悪い事を押し付けたヤツが捕まえられるよ!」
藤吉郎は持っていたお猪口をカランと落とした。
「お、お前天才か?」
「やったあ褒められた! 岩魚注文していい?」
「ああ、どんどん食え! あっはははは!」
そして安土城下を歩く秀吉と官兵衛、一豊。
「とうてい五歳かそこらのワラベの発想ではなかった。ワラベの予想は当たり、数日後に武器屋に脇差を売りに来た男をワシは捕まえる事ができて潔白を証明できた」
その当時はすでに秀吉に仕えていた一豊。あの知恵をそんな童子が出したのかと驚いた。
「殿、その童子はもしや…」
「ん? ははは、さてな」
そして秀吉の顔は険しいものへと変わった。言葉には出さずも心の中でつぶやいた。
(恐ろしい男に成長したものよ…。大殿の誘いをはねつけ、勝家への忠義を貫き諸将を感嘆させ、またあの一杯の酒で明智を味方につけよった。あやつの軍事内政の才は無論、もっとも恐るべきは、あの人を惹きつける徳。“人たらし”などと言われるワシだからこそよく分かる。羽柴と柴田の軍団長同士の出世と功名の争いに勝家より恐ろしいのはむしろあやつ。もはやこの秀吉、あの時のワラベとは思わぬ。ワシの前に立ちはだかるのなら容赦はせぬぞ水沢隆広!)