天地燃ゆ   作:越路遼介

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閉鎖した我がホームページ『ねこきゅう』には私の旅行記も多く載せておりましたが、私が旅好きとなったのは何を隠そう、このお話を書くため九頭竜川に取材しに行ったことが始まりであったりします。


九頭竜川の治水

 その夜、三成は北ノ庄城の図籍庫から九頭竜川の地形図を自宅に持ち帰り、それを元に人員配置や必要資器材の調達の金額を割り出すためにそろばんを弾いていた。

「お前さま」

「ん?」

「夕餉のお支度ができました」

「ああ、すぐいく」

 妻の伊呂波が用意した夕餉の膳。美味しそうな匂いだった。

「お、今日も美味しそうだ」

「そう言っていただくとがんばり甲斐がございます。さ、冷めないうちに」

「うん」

 美味しそうに愛妻料理を食べる三成。

「ねえ、お前さま」

「ん?」

「ずいぶん熱心に、何をお調べに?」

「うん、夕餉の席で言おうと思っていた。実はな伊呂波」

「はい」

「大仕事をもらったぞ!」

「え?」

「九頭竜川の治水工事! オレが総奉行だ!」

「え、ええ!」

「当分戻れないが…許してくれ。だが成し遂げれば大手柄だ。お前にきれいな着物も買ってやるからな」

「……」

 伊呂波は夕餉の乗る膳を退けて夫に対した。

「…? どうした?」

「お前さま、伊呂波一生のお願いです」

 真剣な妻の面持ち。三成も椀と箸を置いて膳を退けた。

「この願いを叶えて下されたら、伊呂波はきれいな着物なんて一生いりません。だから真剣に聞いてください!」

「言ってみなさい」

「私の父を、その工事に加えてください!」

(やはりそれか…)

「ご存知の通り父は今、今浜(長浜)で名前を変えて浪人となり、母と共に細々と暮らしています。聞けばお酒にも逃げているようで…」

「そうか…」

 伊呂波の両親である山崎俊永夫婦は現在、婿の石田三成の仕送りで生活している。俊永の主君である磯野員昌(かずまさ)追放の知らせは妻を通して三成は知っていたのであった。当然、織田信長から仕官溝(家臣として取り立てる事を禁じる事)が出ている事も。三成は“それがしの屋敷に来られよ”と述べたが、俊永夫妻は“それでは婿殿に迷惑がかかる”と応じなかった。

「磯野家の家臣であっても、治水技術を買われて近江に限らず大殿直轄領の治水も担当して大殿の信頼も厚かったのに、その功も帳消しにされてしまい今は浪人。娘としてこんな悔しい事ありません…!」

「うん…」

「だから、再び治水の現場に立たせてあげたい! しかも相手は名だたる暴れ川の九頭竜川! きっとまた覇気溢れる父に戻ってくれる! だからお前さまお願い!」

 泣いて伊呂波は夫に頼んだ。平伏する妻の肩を抱き上げ涙を拭う三成。

「…大至急、義父上に北ノ庄に来ていただくように文を出しなさい。ただし名は変えたままになっていただくが」

「お前さま!」

「オレにはもう父母はいない。そなたの父母はオレにとっても父母。孝行もしたいさ」

「あ、ありがとう…! お前さま!」

 天才能吏、石田三成も妻の涙には弱かった。

 

 長浜で落ちぶれていた山崎俊永は娘の手紙を読んで感涙し、大急ぎで妻と共に北ノ庄の三成の屋敷にやってきた。

「父上!」

「おお伊呂波! 婿殿は?」

「もう現場に行っています。この地に本陣を構えるそうです。父上が到着次第ここに来ていただくようにとの事です」

 伊呂波が差し出した地図を取ると、俊永は休息も取らずに九頭竜川に向かった。

「あらあら、あの人。今は娘の伊呂波より婿の三成殿に会いたいようね」

「母上…」

「でも私は少し疲れたわ。何せ手紙受け取ってから休む事なく馬でやってきたのだから」

 腰を押さえて苦笑する伊呂波の母の竹子。

「すぐに湯と蒲団を用意します」

「伊呂波…」

「え?」

「素晴しい夫とめぐり合えたわね」

「はい!」

 

 九頭竜川治水総奉行、石田三成。当時まだ十八歳だったと云う。それが国家予算とも云うべき八万貫を用いて、大事業とも云うべき一大治水工事を行う。

 後の世に名宰相と呼ばれる彼だが、三成にとり補佐役としてではなく自ら陣頭に立ってこれほどの工事を行うのは初めてで、いかに彼とは云え緊張の色は隠せない。九頭竜川沿岸に立ち、

「こりゃちょっとした合戦だ…」

 と暴れ川九頭竜川を見つめる三成。頼りになる補佐役がほしいと、根っからの補佐役性分の彼自身が思っていると、それは案外近くにいた。舅の山崎俊永である。

 彼の仕えていた磯野員昌は織田家から追放され、彼も浪人となってしまった。しかも信長は旧磯野家の者の登用さえ禁じていた。だが三成にとり俊永は愛妻の父親である。しかも同時に織田家一の治水家であった。石田三成はあえて水沢隆広、柴田勝家、織田信長にも背く人材登用を行ったのである。後に『妻の機嫌を取りたかっただけ』と彼は笑い飛ばしているが、一歩間違えれば、あの信長の事。即座に首を斬られる可能性さえあったのである。

 

「義父上、お久しぶりにございます」

「婿殿」

 九頭竜川治水工事本陣、ここで石田三成と山崎俊永は会った。

「本当のお名をお呼びできないのが残念でございますが…」

「いや、お気遣いあるな。ここでは…そうですな熊蔵と名乗りましょう」

「では熊蔵殿」

「はい」

「それがしの治水術は熊蔵殿に比べれば浅学。ですがこの治水で熊蔵殿からすべての術を盗む所存。それがし総奉行とはいえ熊蔵殿の弟子と同じ。誤っていたら遠慮なく叱ってくだされ」

 石田三成は熊蔵こと舅の山崎俊永に平伏した。

「承知仕った。遠慮はいたしませんぞ。婿ど…いやご奉行殿」

「はい!」

 九頭竜川、その名前が示すとおり北陸一の暴れ川である。台風の時はまさに竜の如く暴れ出す川だった。

 また台風は来なくても越前は雪の国。その雪解け水が九頭竜川に流れ竜の逆鱗に触れたごとく荒れ狂う。しかも水は中々引かないと云う厄介さだった。

 今まで水沢隆広と石田三成が手を尽くしていくつかの支流は治める事はできたが、本流へは手がつけられない状態だった。だから九頭竜川が暴れ出す予兆を感じた場合は迅速な避難を領民に指導する防災計画しか立てられなかったのが現状で、柴田家の前に越前を治めていた朝倉氏は治水しても治水しても徒労に終わる九頭竜川への完全治水は半ばあきらめていた。

 しかし水沢隆広の妻さえの父、朝倉景鏡は何とか成し遂げたく工事に着工したが織田家の越前侵攻のため頓挫せざるを得なかった。その後に越前入りした柴田勝家も一向宗門徒との戦いに追われ、ほとんど手をつけていないのが実情であったが、あきらめなかった者が三人いた。それが水沢隆広、石田三成、吉村直賢である。

 ちなみに言うと九頭竜川沿岸の全域地形図を製図したのは朝倉景鏡と水沢隆広である。景鏡の元居城である越前大野城を柴田家が破却するため同城を訪れた時、城内の図籍庫から発見されたのである。

 だが未完の状態で、それを継承したのが奇遇にも水沢隆広である。一度も会った事のない舅と婿が作り上げた地形図である。今日の製図技術をもってしてもほとんど狂いはなく、謀反人である朝倉景鏡の意外な一面として伝えられている。

 この地形図は隆広と景鏡の名を合わせ通称“広鏡図”とも呼ばれ、さえは父と夫の共同作業の地形図を大切にしたと言われている。

 

 九頭竜川の治水は今まで越前を治めた領主すべてが放棄したと述べても過言ではない一大工事。領民もあてにしていなかった。しかし毎年のように暴れる九頭竜川。死者も出れば今まで作り上げた田畑の実りは根こそぎ奪われる。領主がこれを解決してくれるのを望まぬ者がおろうか。かくして石田三成率いる四千の兵士が現地入りした。

 領民は“こんな若僧が…!?”と落胆した。こんな一大工事を行うのだから領民は“水沢様が指揮を執られるはずだ”と思っていたが、やってきたのはその部下である。

“柴田家は本腰じゃない。あくまで我々に治水をやっているぞと見せかけているだけだ”と最初は思っていた領民たち。だがその考えは数日で変わる事になる。

 石田三成は羽柴秀吉と水沢隆広が得意とする『割普請』をここで実行した。工事区域を数箇所に分けて班ごとに競わせる方法である。

 そして長期の工事で兵を飽きさせないために、敦賀と金ヶ崎の町から娼婦や酌婦を大量に雇い、工事の本陣を拡大して妻を呼び寄せる事や交代で休日を取らせて北ノ庄に戻る事も許可していた。

 

 工事の進行状況だが、さすがに舅と婿の間か、総奉行三成と、その右腕を務める熊蔵こと山崎俊永の息はピッタリであった。熊蔵の治水術は工兵の辰五郎一党さえ感嘆させ、三成に熊蔵をウチの一党にくれとも言った。まさに熟練した匠の技とも言える熊蔵の治水術。辰五郎もその一党も熊蔵から技術を盗もうと思い、新参者とも言える彼を下にも置かぬほどに敬った。

 熊蔵の仕立てた治水の図面がどんどん具現化していく。吉村直賢の調達した大金を使い、人員、資器材は惜しみなく使える。この工事作業中に三成、熊蔵、辰五郎が鼻歌で歌っていた音頭が現在にも残っている。『石積み音頭』『杭打ち音頭』と呼ばれているが、今日も九頭竜川沿岸に住む地元の民たちは、この柴田家の治水工事に感謝して夏祭りなどで『石積み音頭』『杭打ち音頭』を歌い踊り、先人の偉業に感謝と尊敬の念を込めているのである。

 九頭竜川沿岸に今日ある『九頭竜川公園』には石田三成像、吉村直賢像もある。現地の人々がどれだけこの治水工事に感謝したか伺い知れる。“三成さん”“直賢さん”と親しみを持って人々に呼ばれ、彼らの命日には現在でも供養祭が行われている。

 

 即急に成さねばならないと云う勝家の命令。近くの近隣農民も三成は積極的に雇い、賃金も厚くし、飯は腹いっぱい食べさせた。これは水沢隆広流の人の使い方とも云える。柴田勝家の兵三千、水沢隆広の兵一千、そして近隣の民たちが一丸となって暴れ川『九頭竜川』に挑んだのである。大雨が降った時は、全員で作りかけの堤防を守り逃げ出す者はいなかったと伝えられる。

 この工事において犠牲者は皆無だったと云うから、三成と俊永の指揮がどれだけ優れていたものか推察は容易である。現地の女たちは現場で煮炊きをして給仕を懸命に勤めた。ここで生涯の伴侶を見つけた兵たちも少なくなかった。

 後世の創造の話であるが、三成に対して叶わぬ恋と泣く娘の物語がこの地には伝えられている。これは三成が己を厳しく律して現地において女に見向きもしなかった事から作られた物語と云われている。

 

 時を同じして、北ノ庄城下町の拡大工事を行っていた水沢隆広。日本各地で合戦が行われていた時代である。住処を武士の合戦で無くした下々の者たちは当然に次に住むなら強い殿様のところと思う。そうなると日本最大勢力の織田家の統治する地と最有力の軍団長柴田勝家の領内に移民を望む。

 柴田勝家と水沢隆広の仁政により、豊かかつ治安もよい越前北ノ庄は移民も増えて、今までの城下町では手狭となり、隆広が城下町の拡大工事を行い、そしてメドがついた。

 この工事には奥村助右衛門が隆広の補佐についているが、前田慶次は三成の現場の方に赴いていた。暴れ川に挑む方が性に合っている、と云うのが理由であるが、実はイマイチ威厳に欠ける三成が年長の兵や民たちに指揮官として軽視されるのではないかと隆広が危惧し付けた補佐役である。いわば慶次は柴田、水沢の兵士たちに睨みを効かせるためにつけたのである。だが、

『~と、云うわけでそれがしの睨みなど必要ありませんでした。佐吉はうまく人を使い工事を進めておりますぞ』

 と、慶次が三成の思わぬ手腕を褒める手紙を主君隆広に届けていた。城下町拡大工事の本陣、ここで慶次の手紙を読む隆広。

「嬉しい内容のようですな。ニコニコして」

「うん」

 助右衛門に慶次の手紙を渡す隆広。彼も満足そうに読む。

「ほう佐吉が」

「やっぱり佐吉はすごいヤツだ」

 その通りである。一日平均三千から四千の動員数である。それを長期にわたり統率したのだから、やはり石田三成と云う男もただ者ではない。

「城下町拡大と同時進行していた九頭竜川の治水もそろそろメドが立つころでしょう」

「ところで助右衛門知っているか?」

「何を?」

「あいつ時々、現場を抜け出して北ノ庄に帰ってきていたんだ」

「隆広様に何か報告を?」

「いや伊呂波殿に会いに帰ってきていたんだヨ」

「ほう」

「伊呂波殿に半刻(一時間)会うために、片道一刻半(三時間)馬に乗ってきてそうだ」

「ははは、どっかの誰かに負けないくらいの愛妻家ですな」

「うん、明日に殿と視察に行く。久しぶりに佐吉と慶次にも会える。抜き打ちで申し訳ないが成果を見たいからな」

「それがしもまいりましょう」

 

 翌日、柴田勝家、中村文荷斎、水沢隆広、奥村助右衛門は九頭竜川に向かった。そして勝家は九頭竜川に到着するなり感嘆した。

「見事じゃ…!」

 霞堤、雁行堤、河川分流の治水術の『将棋頭』、そして水沢隆広もっとも得意な堤防『信玄堤』も随所に築かれていた。不毛の地に引水も完了しており、すでに良田の灌漑にも着手していたのである。期限の半年にまだ一ヶ月も余裕があった。

 柴田勝家が来た、と云う知らせを聞いて三成がやってきた。

「勝家様、お越しいただき恐悦に存じます」

「うむ、見事じゃぞ三成!」

「は!」

 視察を終えて、成果に十分満足した柴田勝家は中村文荷斎、水沢隆広、奥村助右衛門、そして石田三成と前田慶次も共に本陣にて昼食をとった。その後に三成は

「勝家様、お引き合わせしたい人物がございます。この工事、それがしの右腕として働いて下された治水名人にございます」

「うむ、ワシも会いたい。通せ」

 三成はその男を呼びに行った。

「隆広、楽しみじゃのう。どんな男じゃろう」

「はい、それがしも会うのを楽しみに…」

 その男が三成に連れられてやってきた。

「熊蔵にございます」

「な…!」

 隆広は唖然とした。

「どうした隆広、知り合いか?」

 勝家の問いに答えが詰まる。隆広と山崎俊永は三成と伊呂波の祝言の時に会っているので面識がある。勝家は俊永とは面識はない。何とか茶を濁そうと思う隆広。だが、

「水沢殿、遠慮なくそれがしの名をお呼びあれ」

「…殿、このお方は元磯野家家臣、山崎俊永殿にございます」

「なんじゃと!」

 勝家は持っていた茶碗を落としかけた。

「そなたが磯野の土木屋と言われた山崎俊永か!」

「はい、柴田勝家殿と対面かない、それがし恐悦至極にぞんじます」

「どういう事じゃ三成! 大殿が旧磯野家の者は登用するなと発布したのを知らんとは言わさんぞ!」

「存じておりました」

「ならばどうして召抱えた! そなた一人の責任では済まないのだぞ! ワシも隆広も大殿に罰を受ける!」

「恐れながら、二卵をもって干城の将を捨てるは愚直と考えます」

『二卵をもって干城の将を捨てる』とは、はるか昔の唐土(中国)にて、大将の才能ありながらも若く貧しい頃に一時の空腹に負けて民家に盗みに入り、二つの卵を奪って逃げたと云う過去を持つ男がいた。

 ある賢相がその男の将器を認め、君主に推挙したが、その君主は男の盗みの過去をあげて、『そんな男は召抱えられない』と一蹴した。

 賢相は『それは了見がせまいと云うもの。今は一人でも有能な将が欲しいのに、わずか二つの卵ごときで、あたら干城の名将を捨てるのは愚かにございます』と諌めた。だが君主は聞き入れず、やがてその国は、その狭量な君主のおかげで滅びるに至った。

 干城とは干(たて『盾』)と城、共に外に防ぎ内を守るもので、干城の将とは国にとり大切な名将と云う意味である。『二卵をもって干城の将を捨てる』とは小罪の事で大功を忘れる、小さな過失のことで大人物をかえりみない、と云う事である。三成はそれを勝家に述べたのである。

 完成間近の治水工事の様子を見れば、どれだけ山崎俊永が優れた手腕を発揮したか子供でも分かる事だった。勝家は三成の言葉に一言の反論もできず、

「名はもうしばらく熊蔵でいよ。今にワシが山崎俊永と名乗られるよういたす」

 興奮を鎮めて、三成と俊永を罪に問わなかった。

「勝家様!」

「やれやれ、例え話で返すとは三成も隆広に似てきたものよな。はっはははは!」

「勝家殿…」

「三成、熊蔵はこの治水工事が終わったらどうなる?」

「いえ、まだ決めては…」

「しようのないヤツだな、で、熊蔵とやら」

「はっ」

「そなた架橋はできるか?」

「はい、心得ています」

「よし三成、こやつワシが召抱える」

「え!」

「心配いらぬ。完全に工事が終わってからじゃ。お前や隆広は仕事は出来るが要領はあまりよくない。熊蔵を大殿の目から隠しとおせるとは思えん。ワシが隠し、そして使う。異存あるか?」

「い、異存ございません!」

「勝家殿!」

「熊蔵、『殿』と呼ぶように」

「は!」

「ようございましたなあ! 義父上!」

「ああ! ああ…!」

 山崎俊永は平伏しながら涙を落としていた。織田信長に内密であったせいか、熊蔵と山崎俊永が同一人物であったと云う確実な資料は今日に無い。

 だが熊蔵の行った治水は、ほとんどが山崎俊永の治水術と一致し、総奉行の石田三成の舅でもある事から、今日では同一人物説が定説となっている。

 

 そして九頭竜川の治水がいよいよ完了した。工事に携わった兵と領民には勝家から酒と肴も贈られ、完了の日は工事に関わった人々すべてが喜びの宴に酔いしれた。隆広もさえと監物夫婦を連れてやってきていた。

「見ろよさえ、さえの父上のやり残した仕事を見事に佐吉が継いでやってくれた」

「はい…!」

 重いお腹をゆすりながら、さえは整然と美しい流れを見せる九頭竜川に見入った。

「ワシも景鏡様と治水工事に加わりましたが、途中で断念するのを悔しがっておられた。景鏡様の家臣として殿様にはどう感謝してよいか…」

「ははは監物、オレじゃなくて佐吉に感謝してくれ。そして直賢を思い切り褒めてやってくれ。オレは何もしていない」

「そんな事はございません。佐吉さんも直賢殿もお前さまが見出した方にございます。この九頭竜川の治水を成し遂げられたのはお前さまのチカラあってです。ねえ伯母上」

「その通りです。弟もあの世で婿を自慢しているでしょう…」

 隆広は褒められて赤面した。

「しかしオレの指揮ではこう見事には行かない。これから佐吉はオレの治水の師だ。教えを請いたいな」

 隆広の偉い点は、この治水工事成功で三成に針先ほどの嫉妬も抱かなかった事だろう。隆広は心から三成の大手柄を褒め称えた。

 

 夜空に宴の炎の灯が映える。三成は妻の伊呂波もこの日招いた。川沿いを二人で歩く。

「あの日、伊呂波がオレに義父上の登用を申し出てくれなかったら、今日の完成は無かった。感謝しているよ」

「そんな、私はただ父に生き返って欲しくて。しかも父の柴田家仕官も取り成して下されて…どう感謝して良いか」

「そなたの喜ぶ顔が見たかったからだよ。それに舅殿がいれば柴田家の土木技術は飛躍して上がる。一石二鳥だ」

「お前さま…」

「今回の治水で色々な事を学んだよ。苦労した時もあったが終わってみると名残惜しい気がするな」

 静かな川のせせらぎが二人を包んだ。

「伊呂波」

「はい」

「あの時、そなたは“願いを聞いてくれたら伊呂波はきれいな着物など一生いらない”そう申したな」

「申しました。それでいいんです。着物くらい自分で布切れを集めて作れますし」

「それはそれでいいが…。きれいな着物はオレに買わせてほしい。美しいそなたをずっと見ていたいからな」

 ポッと頬を染める伊呂波。

「ま、まあ…。ご主君様(隆広)が奥方様を口説く時みたいなお言葉を」

「おいおい、今の言葉は今日言おうと思っていたオレのとっておきだぞ。隆広様のマネじゃないぞ」

「うふ♪ 嬉しゅうございます」

(ありがとうお前さま、お前さまの妻になれた事は伊呂波の誇りでございます)

 

 石田三成は、この勲功で多大な褒美を得て、禄も大幅に上昇した。三成だけでなく、この工事に携わった柴田兵はみな恩賞を得て、働きを評価されたのだった。

 これ以降、九頭竜川は現在に至るまで氾濫を一度も起こさず、越前に恵みをもたらす川となっていったのである。三成が途中より平行して行った新田開発で作られた美田一帯は“三成たんぼ”と呼ばれて、現在も越前に実りを与えている。

 後に政治家として活躍する彼は、当然の事ながら時に恨みを買う時もあった。しかし九頭竜川沿岸の村や町では皆無だったと言われている。

“石田の三成さんの悪口言っちゃいけないよ。九つの頭を持った竜神様に食べられちゃうよ”

 こんな庶民の狂歌が残るほどに三成は慕われていたのである。

 

 また、めでたい事は重なった。石田三成の妻の伊呂波が懐妊したのである。山崎俊永夫妻は飛び上がって喜び、水沢家では盛大に宴が開かれた。

 三成の主君、羽柴秀吉もこの知らせを聞いて喜び、赤子の服やオムツを大量に贈りつけてきたと云う。自分にまだ子がないのに、家臣の妻が懐妊したと知り喜んでくれる秀吉の優しさが三成は嬉しかった。

 

 この九頭竜川の治水はその後の日本でも手本とされ、後年には海外からも学びに来た地理学者や治水学者もいた。そして工事の陣頭指揮を執ったのか当時十八歳の若者だったと聞き、その学者たちは感嘆したと伝えられる。石田三成が治水工事中に述べた言葉が残っている。

“志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、そのあとに成就があるのです”

 

 北ノ庄城下町の拡大工事、九頭竜川の治水。越前は水沢隆広と石田三成と云う稀有な行政官の手腕により、いっそう発展していく。この時、水沢隆広と石田三成まだ十九歳の若者であった。


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