天地燃ゆ   作:越路遼介

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妻への贈り物

 伊丹城の戦いから数ヶ月が経った。毎日忙しい身の隆広であるが、やはり帰宅しても忙しかった。さえとずっとイチャイチャしていたいだろうに、それはできずに勝家に出す報告書や部下への命令書を書くために文机に向かっていた。

 隣の部屋でさえは夫の仕事を邪魔しないように針仕事などをやっていた。そんな静かな夜だった。

「う~ん、今日はこのへんにしてフロにでも入る…」

 と大きいあくびと一緒に体を伸ばした時だった。

「……!」

 

 チャキッ

 

 隆広は傍らに置いてある刀を取り鯉口を切った。

「だれだ!」

 庭の障子を開けた。

「へえ、結構鋭いじゃない。気配を消していたのに」

「女…?」

「薄情だね。もう忘れたのかい?」

「おう、舞殿か。すず殿に白殿も一緒ですか」

 隆広宅の庭に、忍者三名が横一列にひざまずいて並んでいた。

「はい、お久しぶりです。隆広様」

 すずが恭しく頭を垂れた。

「お元気そうですね。銅蔵殿とお清殿はお元気でございますか?」

「はい」

「とにかく、そんなところに座っていないでこちらにどうぞ。お茶でも入れますから」

 

「お前さま、今の音はなに?」

 と、さえが隆広の部屋に入ってきた。

「ああ、さえ紹介するよ。父の元部下の子弟で…」

 妻へ気軽に忍者を忍者と紹介できるはずがない。

「…? 何を言っているのですか、お前さま?」

「え?」

「さえには誰もいないように見えますが…」

「え?」

 舞、すず、白は忽然と姿を消していたのである。

「大したものだな…」

 

「それよりお前さま、そろそろお仕事はやめて湯になさった方が」

「ああ、そうする」

 そして隆広だけに聞こえる声でいずこから舞が囁いてきた。

(…藤林一族、本日をもって水沢隆広様の配下となります。私たち、不知火舞、藤林すず、そして白が隆広様の手足となって働きましょう)

 同じく白も隆広だけに囁いた。

(明日、我が父源吾郎の私宅にお越しくださいますか。お話したきこともございます)

 隆広は軽く首を縦に降ろした。

(それでは本日はご挨拶までに。明日を楽しみにしております)

 すずの声を最後に忍者は消えた。

(すごいものだな忍者とは…)

「お前さま? どうしたの、ボーとして」

「ん? いや何でもない。さ、一緒に入ろう!」

「はい…(ポッ)」

 

 翌日、隆広は掘割工事の指示を与えた後に源吾郎の家に向かった。源吾郎は藤林山で隆広と会って以来、よく隆広と話した。忍者ではなく商人として。

 源吾郎は柴田家ではなく隆広個人の御用商人となっているが、隆広の持つ経済観念は時に本職とも言える源吾郎が舌を巻くほどであった。

 息子の白、彼は普段は『利八』と名乗り父の店で丁稚奉公をしているが隆広の内政主命の人足としてしばしば参加している。隆広の仕事を見届けるよう父に指示されていたからである。しかしその仕事ぶりはまじめで、隆広の兵士たちからも利八と親しみを込めて呼ばれるほどにもなった。彼は隆広と同じく美男の優男であるが、チカラ仕事などは大人顔負けであった。

 そしてこの日、源吾郎の店に看板娘が二人出来ていた。それが舞とすずである。源吾郎こと藤林一族の上忍である柴舟の家が彼女たちの北ノ庄城における根拠地となったようである。舞は『琴』と名乗り、すずは『雪』と名乗っていた。

 源吾郎は北ノ庄市場を取り仕切ると同時に、導入された楽市楽座を実質は隆広を通して柴田勝家から任されているものの、無論のこと自分の店もある。和漢蔵書がかなり充実した本屋と共に、茶器や武具なども売っていた。質屋と米屋も併営しているのでかなり大きい店である。表立ってやってはいないが、隆広から鉄砲の購入も指示されている。その店で『琴』と『雪』は働き出していたのであるが、早くもその看板娘二人は評判となっていた。そこに隆広がやってきた。

「旦那様、水沢様がお越しです」

 下働きの小僧が源吾郎に伝えた。

「丁重にお通ししなさい。あと利八、琴、雪も呼んできなさい」

「はい!」

 

「粗茶ですが」

 雪と名乗っているすずが隆広に茶を出した。

「ありがとう」

「ようこそお越し下さいました、水沢様」

「楽市楽座、だいぶ賑わいを見せてきましたね」

「はい、これも水沢様のおかげ。我々も毎日嬉々として働いております」

「高瀬舟の造船はどうですか?」

「はい、敦賀港の船大工たちに大量に発注しました。掘割が完成したら城下町の流通ですぐにでも使えるでしょう」

 別に腹のさぐりあいではないが、やはり隆広と源吾郎の会話は御用商人と行政官の内容になってしまう。いつになっても自分たち忍びの話が出ないので、舞は思わずあくびをしてしまった。

「これ琴! 水沢様との要談中なのに横であくびをするとは何事か! コホン、教えただろう、忍びとして他国に商人や僧侶での姿で侵入しても付け焼刃の商人と僧侶では必ずその地の忍びに見破られる。藤林の忍びは変装する商人や僧侶としても本物でなくてはならぬのだ。今までの隆広様との会話は商人の交易として色々参考になることも含まれておるのだ。くノ一とて商人として一角になるためには…」

「子供のころから耳にタコが出来るほど聞かされていまーす」

 つまらない会話をしているお前たちが悪いと言わんばかりに琴と名乗る舞はツンと横を向いて答えた。

「こ、これ! なんだその言い方は!」

「ははは、まあいいではないですか。それではそろそろ本題に入りますか、柴舟殿」

「はっ」

「柴舟殿、正直に言うがオレはまだ忍びを用いた事がない。せいぜい忍びに関わる事と云えば、子供のころにやった忍者ごっこくらいなのです」

「正直ですね、ではお教えしましょう。まず一番に行わせる事になるのは情報収集でございましょう。敵勢力の兵力や財力などを調べることを命令します」

「どの程度まで判明しますか?」

「隆広様が召抱えます忍者は、今ここにいる三名のみです。私はこの三名の統括と里との連絡番をしますから、隆広様からの実際の主命はこの三名が受けます。何故三名かと云うと…」

「分かっています。それがしにはまだ多勢の忍び衆を雇うお金はございませぬ」

「その通りです。逆に我らが負担となってしまっては本末転倒でございますから。しかしこの三名は里が誇る優秀な忍びです。三名とはいえ十分な働きはするでしょうし、主命の内容によっては班長の私も動きますのでご安心を。それに一旦支持すると決めた以上は投資と云う意味で隆広様が身を投じるであろう大事な合戦には里の軍勢が参戦いたしますので心配無用です。話が少し逸れましたが、どの程度まで判明するかと云うと、残念ながら詳細に至るまでは無理でございます。兵力を『大中小』で報告するのがせいぜいかと」

 舞はムッとしたが、それが現実である。三名ではどうしても限界はある。

「いや、『大中小』が分かれば十分です。あとは?」

「敵勢力の戦略を調査するのも我らの任務です。指定された拠点を訪れ、当主の戦略を聞き出せるまで潜伏します。隆広様の護衛も中心となる任務でしょう。これは指示がなくても我らで勝手に行います。あと攻撃的な主命となると破壊工作、流言操作、放火などがございます」

「どれも危険そうですね…」

「そりゃあそうです。忍びの仕事とはそういうものですし」

 

「さあ、隆広様。我らに初主命を」

 まるで新たな主君を試すかのような舞の言い方であるが、隆広は気に留めなかった。

「分かった、指示させてもらおう」

 三人の忍びは隆広に頭を垂れた。三人は隣接する小松城の内偵か、加賀の国に侵入し門徒たちの戦略を探らせるのかと読んでいた。だが全然違う主命だった。

「『流行つくり』を命じる」

 柴舟も聞いた事のない主命だった。舞はポカンとクチをあけていた。

「『流行つくり』? …それはなんですか?」

「越前の名物、越前カニ、甘エビ、越前蕎麦を琵琶湖流通で畿内に出して儲けたい。だがいまいち畿内ではこれらの美味しさが伝わっておらず、越前でしか消費されていない。大漁でもさばけない時があると敦賀の漁師がなげいていたのを聞いたことがある。都への流通を確保したいのだ。京の都や堺の商人衆がぜひウチで扱わせてもらいたいと思わせるほどに、先の三品の評判をあげてくるのが仕事だ」

「ちょ、ちょっと待ってよ! 私たちは忍びだよ! 確かに先代隆家様の遺訓で商人としても一角になれるよう指示されたけれど! 何であなた個人のお金儲けに使われなくてはならないの!」

 憤然として舞は怒鳴った。

「オレ個人じゃない。越前の民が豊かになるためだ。民が豊かになれば、それを聞き民も増える。その民もまた富む。それが成れば税を減らした上で国力が富む。残念ながら合戦には金がかかる。国を守るにも金がかかる。この越前カニと甘えび、蕎麦の流通が成れば、敦賀に来る蝦夷地の牡蠣や東北の名産の交易も視野に入れている。これはオレ個人の金儲けなどではない。越前の民のためなのだ。軽視してもらっては困る」

 舞は何も言い返せなかった。そして柴舟が静かに言った。

「舞、隆広様にお詫びせぬか」

「は、はい」

 舞は隆広に頭を下げた。

「考えもなしに口答えして申し訳ございません」

「分かっていただければよいのです」

 隆広はニコリと笑った。

「隆広様、『流行つくり』、確かに拝命しました。具体的な方法の指示はございますか?」

 と、柴舟。

「事はそんなに難しい事ではありません。三品を越前から持っていき、山城、石山、亀山、安土、そして堺でその地の民に食べさせればいい。三人が旅人か、その地の有力な人物に変装して美味しい美味しいとサクラになって行えばさらに効果はあるでしょう」

「かしこまりました、琵琶湖流通の航路確保などは私に任せて下さい」

「ありがたい、では当面の資金を後ほど届けます。ここはこれにて」

 

 源吾郎と三人は店先まで隆広を送り、隆広の背が見えなくなるまで頭を下げていた。そして柴舟が感嘆していった。

「まさか…初主命があんなものだとはな…。おそらく私が述べた忍びの高い作戦遂行能力を聞いて思いついたのであろう。大したお方だ。あれでまだ齢十六歳…恐ろしさすら感じてくる」

「…しかし父上、『流行つくり』なんて主命、我々はやったことが…」

「今からさっそく修練を始めよう。なに、お前たちなら一日も試行錯誤すれば立派なサクラになれる」

「私も誤解していた…。ずいぶん遠くまで見ていらっしゃるお方なのね」

 してやられたと云う感じの舞であるが、不思議と悔しさは感じなかった。すずはずっと隆広の立ち去った方角を見ていた。

「すず、いや雪、どうしたの?」

 舞の言葉も右から左だった。

「凛々しいお方…」

「はあ?」

「い、いや何でも! さあ、琴、利八! がんばって立派なサクラとなりましょう!」

 

 隆広は城に上がり、主君勝家に『流行つくり』の件を報告した。

「なるほど、都への流通確保か」

「はい」

「しかし…カニや甘エビといえば痛むのが早い。大丈夫か?」

「それも考えてあります。幸か不幸か、越前は雪の国です。朝倉の時代から九頭竜川の上流に清流を引き入れて作った氷池や竪穴式保存小屋(氷室)が、所々に点在しています。当初は民の作りましたこの二つから氷を分けてもらうことと相成りましょうが、今年の冬季から我々の手でもそれを作れば氷の確保は容易です。氷も都では貴重品。海産物と共に越前の名産となるでしょう」

「うむ、見事だ。いかほど入用だ?」

「いえ、それがしの忍びたちも始めて行う主命ですし、氷の件もまだ机上に置いたままの事です。何よりそれがしが殿への許しもなく勝手に進めてしまった事で、加えて成功の可否も分からない状態ですから今回はさえを説得して私の貯金から出します。一度二度成功した上で改めて本格的な資金を頂戴したいと存じます」

「かまわぬ、勝敗は兵家の常と云うであろう。新しい試みをするたびに臣下に自腹切らせては、新しい事を試みる者がいなくなるではないか。金は出す。また現場指揮官がいちいち主君に許しを得ていたら時間がいくらあっても足りぬであろう。そんな事は気にせず、失敗を恐れずにやってみろ」

「は、はい!」

 

 源吾郎の店に勝家から受けた資金を届けた。店の奥の方では舞の『美味しい!』と云う白々しいセリフが聞こえてきた。どうやらサクラの訓練中らしい。店先で源吾郎と隆広が会っていた。

「こんなに…よろしいのですか?」

「うん、殿も事のほか喜んでくれていた」

「そうですか! 氷の件は私にお任せ下さい。そして…これだけの資金があれば里からあと十人は忍びを呼べます。彼らにも『流行つくり』を任命しますので」

「いえ、それはダメです。あくまで担当はあの三名です」

「しかし…それでは逆に資金が余ってしまいますが…」

「その時は次の『流行つくり』に回して下さい。たまたま資金が余裕あるほどに確保できたからとは云え、担当者を増やしては三人も不愉快でしょう。私の忍びがあの三名だけならば、この『流行つくり』で彼らのチカラを見てみたい意味もあります」

「『事は何事も一石二鳥でなくてはならぬ』ですね」

「そう、父隆家の教えです」

「かしこまいりました。あの三人もいっそう気合を入れるでしょう。成果にご期待下さいませ」

「頼みます」

 

 隆広は掘割の現場に一度立ち寄り、工事の経過を見るとそのまま家に帰った。

「ただいま~」

「お帰りなさいませ!」

 玄関で隆広の刀大小を渡されながら、さえが訊ねた。

「珍しいです。お昼に戻られるなんて」

「いや、もう掘割工事も兵士の教練も、オレがいなくても大丈夫だからな、ははは」

 隆広は苦笑しているが、それこそが理想的な人の使い方ではないかとさえは感じた。現場指揮官がいなくても誰も怠けず仕事や訓練に励み、そして成果を出す展開に持っていったのは、まぎれもなく隆広なのであるのだから。

「ところでさえ。昼食を食べたら父の墓地に付き合ってくれないか?」

「分かりました。ではお食事と墓参の準備をいたしますから、しばらくお待ち下さい」

「うん」

 

 昼食後、隆広とさえは父隆家の眠る寺へと向かった。いつものように隆家の墓を掃き清め線香をあげて酒を供えた。合掌を終えると隆広が言った。

「さえ、隣のお墓も掃き清めよう」

「え?」

 それは今までなかった新しい墓だった。その新しい墓にさえは気付いていたが、特に気に留めていなかった。しかし様式は隆家の墓と同じ笠のついた木材の墓標である。

「お前さまに縁のある方のお墓なのですか?」

「墓標の背に書いてある俗名を見てごらん」

「あ、はい…」

 さえは墓標の背を見た。

「……!?」

「さえのお父上、朝倉景鏡殿のお墓だよ」

「お、お前さま…」

「以前に務めていた兵糧奉行の成果の褒美、その一部にこの墓の敷地と墓標をいただいたんだ」

 さえは墓標を愛しそうに触れ、そして泣いた。

「う、ううう…」

「十六歳の誕生日、おめでとう、さえ。妻への贈り物にしては華やかさに欠けるだろうけど、これしか思いつかなかった。今は父隆家の墓と同じく少し貧相だけれど、今にもっと立派なお墓を建ててやるからな」

「…嬉しゅうございます。これで十分です…」

 さえは嬉しくてたまらなかった。父の墓を本当に作ってくれたこと。そして言ってもいなかった自分の誕生日を知っていたこと。後から後から涙が出てきて止まらなかった。

「さえ、寺の和尚に改めて葬儀を頼んである。掃除を終えたら本殿へ行こう」

「は…い…」

 さえはやっと泣き虫をおさめて墓を清めた。嬉々として父の墓を掃除するさえ。だが隆広の贈り物は、まだこれで終わらなかった。

 

 二人は寺に向かった。かつて隆広の養父隆家の葬儀も行った寺である。

「水沢様、お待ちしておりました」

 住職である和尚が出迎えた。

「和尚、あれを妻に見せてあげてください」

「かしこまりました」

 和尚は奥に向かった。

「…? お前さま、あれとは?」

「今に分かるよ、さ、本殿に入るぞ。ここの和尚のお経は長くて有名だが小用は済んでいるか?」

「んもう! 子供扱いしないで下さい!」

「ははは、じゃ行こうか」

 

 本殿に入ると、簡素だが葬儀の用意がされていた。和尚が隆広に言われていた『あれ』を持ってきた。

「それでは奥方様、お改めを」

「……!!」

 それは焼けた竹の棒の軍配、鞘の焦げた脇差、汚れた鎧兜と陣羽織、破けた小母衣、そして骨壷だった。

「この軍配と脇差…! 陣羽織と鎧兜! 南蛮絹の小母衣! 父上の!」

「そうだ、なんとか見つけたよ」

「…お前さま…!」

 おさめた泣き虫がまだ爆発してしまった。

「言うまでもないが、さえのお父上は越前大野郡の領主だった。最期は…とても気の毒ではあったものの、領内では善政をしいた名君で領民にはとても慕われていた。一部の領民は朝倉を裏切ったと門徒と共に蜂起したが、それでも慕う民の方が多かった。だから考えた。景鏡殿の最期の場所となった平泉寺。この周辺の領民で、もしかしたら騒ぎのあとに同所を訪れ、景鏡殿の遺体や遺品を持ち去り、弔った者がいるのではないかと」

「ぐしゅぐしゅ」

 泣いていて返事は出来ないが、さえは何度もうなずいて答えた。

「オレが大野郡の開墾もやったのは知っているよな。その時に集まった周辺の領民に訴えた。『朝倉景鏡殿の遺体や遺品を平泉寺から持ち帰った者がいるのなら教えて欲しい』と。しばらくすると名乗り出てくれた民がいた。そして差し出されたのがそれだ。正直遺骨まで見つかるとは思わなかった。残念ながら首はなかったそうだが…その遺体を持ち帰り荼毘にふして弔ってくれたそうだ」

「う、ううう…」

 さえは父の陣羽織を胸に抱いた。

「遺骨は改めて本日に埋葬し、遺品すべて修繕して水沢家の宝とする」

 何度も何度もさえはうなずいた。

「ほら、鼻水をふけよ。和尚がお経に入れずに困っているだろう」

「んもう! お前さまがさえを泣かせるからいけないのです!」

「分かった分かった、ほらチーンと」

 隆広の手にあるちり紙へ素直に鼻をかむさえ。そして違うちり紙でさえの涙を拭く隆広。

「…さえのお父上が世間で言われているような悪い武将ならば、この遺骨と遺品は残らなかった。生前の景鏡殿がいかに領内を思いやる領主であったか領民はちゃんと分かっていたんだ。父上を誇りに思えよ、さえ」

 静まりかけた泣き虫がまた爆発してしまった。今度は隆広の胸で泣いた。

「やれやれ、お父上もさぞや目のやり場に困っておろうて…」

 和尚は苦笑した。そして骨壷だけ拝借して神棚に供え、お経に入った。しばらくしてようやくさえは泣き虫がおさまり、改めて神棚に合掌した。

 おおよそ日本の歴史の中でも戦国武将の妻たちほど苛酷な運命に弄ばれた者たちはいない。人質になったり、落城の炎の中で自刃したり、合戦に負けて捕らえられれば敵の雑兵に陵辱を受けたり、時に骨肉相食む運命の岐路に立たされたりと、現代では想像もつかないみじめな目にあっている。

 だが、そういう戦国の女たちの中でも、さえは抜群に幸せな妻だっただろう。当時の武家社会では珍しく好き合った上で夫と結ばれ、そして夫は同じ歳の妻をこれでもかと云うくらいに大切にしたのである。

(父上…さえは今すごく幸せです。こんな素晴らしい人と夫婦になれて…)

 隆広も目をつむり、お経を整然と聞いていた。その時だった。不思議な声が聞こえた。幻聴だったのか、それとも単なる気のせいか、確かに隆広に聞こえたのである。

(…婿殿ありがとう、娘を…さえをよろしく頼みますぞ)

 その声に一瞬ポカンとした隆広。だが心ですぐに返事をした。

(お任せ下さい、義父上)

 隣にいる妻の顔を見て、隆広は冥府の義父に約束するのだった。




この時代、誕生日を祝う習慣など無かったかもしれませんが、それは言いっこなしですぜ、旦那!

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