天地燃ゆ   作:越路遼介

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史実編にあった豊臣秀頼を関白家にして存続させると云うことが“無かった”ものとして物語はスタートいたします。前後編で終わるのを見て分かるように、戦の終結までは書いていません。主人公柴田快斎が戦場に向かうまでのストーリーです。お楽しみ下さいませ。


史実編異伝-大坂の陣-【前編】

柴田越前守明家、関ヶ原の戦いでは徳川家康に付き東軍勝利に大きく貢献した。明家は『戦のない世の構築』のため、断腸の思いで石田三成と袂を分けて敵となった。徳川家康ならば戦のない世を作ってくれるだろう。明家自身が天下人と云う野心はなかった。ただこの日本と云う国に戦が無くなり、家康の言う天下泰平、それに尽力できればと思った。

 

しかし、それは考えが甘かった。家康は豊臣秀頼を生かしておくつもりなどなかったのだ。非情とも言えるが家康にも言い分はある。このまま秀頼を生かしておけば動乱の火種になることは明白。好む好まない関係なく、討たざるをえない。

 

だが今は戦を起こせない。島津や毛利をはじめ、関ヶ原で徳川を恨んでいる諸大名が豊臣につくのは明白だからである。家康の算段は十年の間は戦を起こさず、世を平和に慣れさせて徳川幕府に刃向かう大名がいなくなってから踏みつぶす、そういう方針であった。

 

慶長八年、徳川家康は征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開き、江戸城を始め普請事業を行うなど政権作りを始める。二代将軍となる徳川秀忠の娘である千姫を秀吉の子の豊臣秀頼と結婚させた上で、秀頼の官位を右大臣とした。豊臣恩顧の諸将の安心を得るためであった。

 

 

柴田明家は関ヶ原の戦いのあと間もなく隠居して柴田快斎と名乗っている。隠居した理由は重臣奥村助右衛門の進言によるものが大きかった。助右衛門は舞鶴城の戦いで受けた傷が重く、もはや長くはなかった。だが彼は最後まで明家と柴田家を案じていた。

 

明家は軍事と内政、いずれも飛びぬけた才覚を持っている。軍事では総大将と参謀、政治では君主と宰相、彼は何ごとにおいても一番二番の才能と器量を兼備しているのだ。丹後若狭の豊かさを見れば、それは誰もが認めること。

 

しかし偉大な父であるがゆえに、それが次世代の柴田を滅ぼす起因となる恐れがある。武田家の二の舞になってはと思う助右衛門は、まだ働き盛りの主君明家に家督を嫡男勝秀に譲るよう進言した。評価しつつも内心は明家を恐れている家康に対しても有効であると。熟慮の末、明家は助右衛門の意見を入れて四十二の若さでありながら隠居し、名を快斎と改めた。連歌、書画、能楽に通じた明家に朝廷が贈った号である。

 

家康にも隠居の理由はそのまま正直に述べている。書状には

『このまま私が柴田家の舵取りをやれば、若い者が育ちません。私は亡き大納言殿(利家)の御遺言にあるように秀頼様の守役に専念いたします』

 

家康はこれを読み

『なるほど武田が二の舞を避けたと見える。しかし快斎が秀頼様を養育とは、あまり歓迎できんが…それを止める理由も思いつかぬ』

 

関ヶ原の戦いが終わり、天下の帰趨が徳川に決した今、もっとも恐ろしい男は柴田快斎であるのだから。快斎は柴田家と丹後若狭を息子に委ね、彼自身は妻四人を連れて大坂に常駐することになる。亡き前田利家は秀頼の守役に明家を指名して逝っている。家康を含めた五大老、五奉行も同意の人事となったため、たとえ隠居しようが秀頼の守役は快斎なのである。家康自身もかつて認めた人事であるに加え、快斎は秀頼の伯父であるため強権を駆使するのは時期尚早と見て、それ以上のことを言うことはなかった。

 

秀頼は伯父快斎を尊敬し、もはや大名ではない快斎であるが優美な大坂の屋敷と一万石の扶持を贈られていた。

 

家康は豊臣家の財を消耗させるため秀吉の御霊を慰める神社仏閣の建設を多く行わせている。それぐらいで豊臣の財はビクともしないものの、徳川から一文の寄贈もないのはどういうことか。加藤清正からその旨、相談を受けた快斎は家康に会いに行った。家康は考えてもいなかったろうが、快斎にとっては事の表裏を見極める会談であった。

 

『神社仏閣建築に伴い費用も莫大、幕府からも資金を出していただきませぬか』

しかし家康は

『勧進におよばず』

 

金は出さない。そう冷淡に返している。これで快斎は確信した。いずれ幕府は豊臣を滅ぼすつもりなのだと。屋敷に帰り、文机の引き出しを開けた。そこには豊臣と徳川共存の道を照らす案を記す書が何通かしまわれていた。

 

平清盛は源頼朝を生かしておいて結果どうなったか、そう思えば家康の豊臣秀頼を討とうとするのは誤りではないのだろう。だが受け入れられない。秀頼を討てば最愛の妹の茶々も死ぬ。秀吉に降伏して犠牲を強いた妹は絶対に見捨てられない。快斎は両の手にズシリと分厚く乗る書の束を持ち庭に出た。

 

「豊臣家を関白家として、名誉だけ持たせて力を奪う…。さすれば内府殿に簒奪の汚名はない…か。机上の空論であったな…」

書の束を燃やして捨てた。

 

「しかし、徳川が天下を取って戦はなくなった。関ヶ原の時点で東軍に付いたのは誤りではなかった。西軍が勝っていたら、関ヶ原以降も乱世であったろうからな…。幼い秀頼様と治部に天下を取り仕切れたわけもなし」

 

炎を静かに見つめる快斎。

「秀頼様には将器がある。今ならば豊臣を勝たせても大丈夫だ」

 

 

しばらく時が流れた。平和に慣れさせて幕府に刃向かう気持ちを失せさせてから豊臣家を討つ。家康の目論見どおりになっている。家康の政治目標は長期的に安定的な政権を作ることであったとされ、徳川家の主君筋に当たる豊臣家の処遇が問題となり、徳川家を頂点とする幕府の段階的組織構造では豊臣家は別格的存在となり、家康は徳川幕府の今後の安泰を図るため、豊臣家の処分を考え始めた。

 

家康は秀頼に対して臣下の礼を取るように高台院(秀吉正室)を通じて秀頼生母の淀殿に要求するなど友好的対話を求めた。淀殿は会見を拒否するが、加藤清正と柴田快斎の説得もあり淀は渋々ながらも承知し、慶長十六年に家康と秀頼の会見は二条城において実現する。

 

大坂の豊臣家と江戸の徳川家は表向きこそまだ友好関係にあるが、いつ合戦になってもおかしくない状況であった。家康には二つの重しがあった。加藤清正と柴田快斎である。この二人は家康と秀頼が二条城で会見する時、秀頼の後見を務めている。秀頼はこの時初めて、家康に臣下の礼を取っている。

 

しかしながら、その心底を見るために家康も巧妙な罠を仕掛ける。会見の時、下座ではなく共に上座にて話しましょうと言ったのだ。清正と快斎は瞬時に家康の罠と見抜いた。その言葉に応じてしまえば、秀頼は本心で徳川に臣下の礼を取るつもりはないと見る。秀頼も身の危険を感じたようで清正と快斎をチラと見た。清正と快斎、その手に乗るなと首を静かに振った。秀頼もうなずき

『ありがたき仰せなれど、それがしは下座のままで結構にございます』

と、返した。豊臣家が徳川の下になったことを内外に証明する会見であった。この時に家康と快斎に少しのやりとりがある。家康はお茶菓子を秀頼に出した。しかし

 

「申し訳ございませんが、秀頼様と我らはすでに食事を済ませております」

そう快斎は返している。家康は

「ほう?快斎殿は儂が秀頼様を毒殺するとでも?」

「食事は済ませたと申してあげているのです」

「我が膳を受けられぬのは毒殺を見込んでとしか思えぬが?」

「武将が用心を重ねることは恥ずべきことではございませぬ。他ならぬ大御所ご自身が三方ヶ原以来実践してきたことではござらぬか」

 

家康の顔から笑みが消えた。自分自身を例えて返されれば、さしもの家康も返す言葉はない。そして秀頼を見つめる。今の家康と快斎のやりとりも微動だにせず聞いている。会見が終わったあと、家康は秀頼の成長振りに驚いたようなことを側近に言っている。家康は当時の寿命をゆうに越した七十二歳で秀頼は十九歳、立派な美丈夫となっていた。やはり、強引な手を行使しても快斎の指導を受けさせるべきではなかった。

 

快斎は秀頼を仕込む時は厳しかった。刀槍の稽古では容赦なく打ち、投げ飛ばした。学問もかつて快斎が快川和尚より教わった時と同じ、帳面に記載は許されず、すべて暗記せよと云う厳しいもの。予習と復習の徹底を課したのも同様であった。利家でも出来なかった養育だろう。快斎が出来たのは秀頼生母の茶々が兄に全幅の信頼を置いていたに他ならない。関ヶ原以降、快斎と茶々の間には溝が出来たが、さすがはお市の娘、それは私事にすぎないと割り切っており、秀頼の養育に対しては快斎に一言の口出しもしなかったのだ。

そしてそれは正解だった。秀頼はいま良い面構えなっており言動も堂々としたもの。家康から見ても並々ならぬ将器と思った。

 

しかし、その会見から間もなく加藤清正が死んだ。急死であることから毒殺説もある。秀頼に対して忠誠を示し続け、かつ二条城の会見では秀頼に手出しあれば家康と刺し違える気であった清正、家康がその存在を恐れたからと噂は流れた。

そして清正以上に恐れられているのが同じく秀頼の後見を務めた柴田快斎である。すでに黒田官兵衛、真田昌幸も没した今、家康にとって恐ろしい武将は柴田快斎しか残っていない。柴田快斎は義のために太閤豊臣秀吉にも逆らった武将である。

 

豊臣と徳川、双方快斎の妹が嫁いでいるが、やはり犠牲を強いたと快斎が考えるのは徳川に嫁いだ江与ではなく秀吉の側室となった茶々の方であろう。それゆえ快斎は正室さえと同じくらい茶々を大事にしている。

もし豊臣と徳川が戦えば快斎は大坂に付く可能性が高い。そうなれば大坂方を滅ぼすのは数倍困難になるどころか、逆襲されることさえありうる。徳川もきれいごとで泰平の世は掴めないと分かっている。家康の側近たちは、もはや邪魔者でしかなくなった快斎に迷いなく刺客を差し向けることだろう。家康も己が大望を成し遂げるためには手段を選ばない。加藤清正を始め、前田利長、池田輝政、浅野長政・幸長親子、堀尾吉晴と言った主なる豊臣家臣が近年続々と亡くなっている。徳川による暗殺か、そう考えても不思議ではない。豊臣寄りの大名が死に、豊臣の孤立が顕著になって一番得をしているのは徳川なのであるから。食べ物に毒を混入か、それとも違う暗殺の武器か。徳川は梅毒持ちの遊女を標的と定めた大名に近づけさせたと云う話もある。

それゆえ快斎も食事には細心の注意を払い、女を抱くにしても正室と側室のみとしていた。遊女は絶対に近づけさせなかった。

 

しかし、徳川がなりふり構わぬ手段に出る前に快斎が病に倒れた。重病と云う。家康は快斎に見舞いの使者を送った。見舞いと云うより病が本当なのかと云う視察だろう。使者の本多正純が大坂の快斎邸に着いた。妻四人と息子勝秀、常高院(初姫)が快斎の部屋にいた。

 

「快斎殿、本多上野介にございます」

「おお…。但馬殿(柳生宗矩)か」

「い、いえ、柳生殿ではなく本多上野介にございます」

「ほう、但馬殿は上野を拝領されたのか、それはようござったな…」

「……」

布団から弱々しく起き上がった快斎。さえが支えている。髪の毛はボサボサ、やつれはて目の下にはクマが出来ている。さえが見舞客の名を改めて夫に述べた。

「殿、本多正純様です」

「なんじゃ正純か、ゴホゴホ」

「無理をなさらず」

「で、正純。このくたばりぞこないに何用か」

「病と伺い、見舞いに来た次第で」

「なに?」

「いや、ですから…お見舞いに来たのです」

「おお、左様か…。どうも最近耳が遠くてな」

「これが大御所様(家康)から快斎殿にと見舞いの品にございます。大御所様自らが処方されたお薬に」

「これはありがたいの…」

「殿、お薬の時間です」

しづが薬湯を持ってきた。しかし

「あらあら、殿ったら」

上手く飲めずこぼしてしまっている。しづとさえが体を拭く。

(…だめだな、こりゃ。完全にボケちまってる)

柴田快斎は長くないと考えた正純。豊臣を攻めても柴田が大坂方に付くことはない。たとえ付いたとしても現当主の勝秀ならば柴田は怖くない。

 

「では快斎殿、それがしはこれにて」

「おお、また後日のう」(後日?貴殿はそこまで生きていないだろう)

心の中で失笑して正純は帰っていった。

 

柴田快斎の死が家康の耳に届いたのは、それから一ヶ月後のことであった。家康は

「そうか、快斎がのう…」

警戒し、恐れてはいたが、彼自身が漢と認めた武将の死、かつ自分より若いのだ。家康は肩を落とした。

「名将とは快斎のような漢を言うのだ…。何と惜しいことか…」

 

柴田家の江戸屋敷には弔問の使者が続々と訪れ、快斎の死を悼んだ。秀忠の妻である江与は兄の死の悲しみのあまり寝込んでしまった。何より衝撃を受けたのは茶々である。茶々は兄の明家に豊臣の天下を奪わせるべく秀吉の側室となった。秀吉の子を生めば、その子が世継ぎ、兄の器量があれば豊臣を乗っ取れる。

 

しかし肝心の明家がそれを固持した。許せなかった。兄が関ヶ原で西軍につけば徳川は滅び、豊臣の権威は盤石になっていたかもしれないのに。そう思うと、どうしても許せなかった。

 

だが、兄の快斎は態度を変えず秀頼に尽くしてくれた。前田利家亡き後は秀頼の師となり、息子を仕込んでくれた。城の中だけにいては心がいびつになると、丹後若狭を始め、色んな場所に連れて行き見聞を高めてもくれた。秀頼は立派に成長したが、それは兄の指導によるもの。心の中で兄への怒りも氷解して行き、仲直りしようと思っていたが、いざ対すると言えなかった。その兄が死んだ。仲直り出来ないままに。それを知った茶々は

『どうして今まで許してあげなかったのか。私の幸せを誰よりも望んでいたのは兄上様なのに』

茶々は人目憚らず泣き叫んで、天橋立の方向に平伏し、畳に顔を叩きつけて兄に詫び続けた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、兄上様…!」

 

初恋の人が逝った。茶々は数日の間、憔悴しきっていたと云う。

その茶々にさらに追い打ちがかかる。徳川家康が豊臣家を滅ぼすために動き出したのである。

慶長十九年に、家康は豊臣家が再建した京都の方広寺の梵鐘銘文を林羅山に解読させた。文中に『国家安康』『君臣豊楽』とあったものを、『国家安康』は家康の名を分断し、『君臣豊楽』は豊臣家の繁栄を願い徳川家に対する呪詛が込められていると断定し、鐘銘文の選者である清韓の処分や、豊臣家に対して謝罪と領地召し上げ大和への転封等を要求した。これは完全な言いがかりである。

 

兄が死んだ今、茶々の願いは豊臣と徳川の共存にあった。神社仏閣を立て、この戦国乱世で死んだ英霊たちを慰める。秀頼も立派に成長したことだし、そろそろ私は尼になって兄を弔おう、そう思っていたが、そんな穏やかな将来を家康は与えようとしなかったのだ。よもや、乱世に死んだ名もなき英霊たちのために作った神社を逆手にとって戦を仕掛けるとは。徳川家康は豊臣との共存などまったく考えてはいなかったのだ。茶々は大野治長を召した。

 

「何たる言いがかりを!」

怒りで体を震わせる茶々、それはそうだろう。まさに言いがかりである。

「ともあれ何とか弁明して、誤解を解きませぬと!」

治長が茶々に言った時だった。

「それには及ばない」

秀頼が茶々たちのいる部屋に入ってきた。治長と茶々は控えて上座を渡す。秀頼はそこへ座り胸を張って言った。

 

「弁明など無駄だ。あんな言いがかりをつけてまで戦を仕掛けている。どんな手段を用いても徳川は豊臣を潰すつもりだ」

「秀頼…」

「母上、徳川からすれば『平清盛は頼朝を生かしておいてどうなったか』と云うところでしょう。私の存在そのものが許せないのでござろうな」

「秀頼様…」

「そういう次第だ。それで修理(治長)、そなたに使者になってもらいたい。だが弁明は一切する必要はない」

「と、申しますと?」

「おそらく家康は、我ら豊臣方が卑屈にも近い形で弁明に来るのを手ぐすねして待ち構えている。さらにその使者を逆用して、大坂攻めの大義名分をより強固にすることもしてくる。もう戦が避けられないのであるのならば卑屈になる必要などなし。挑発して参れ」

「しょ、承知しました!」

 

治長は意気揚々と部屋を出て行った。家康とその側近らを堂々と叱りつけてよいと云う許しを得られたのだ。その場で怒った徳川の者に殺されても悔いはない。どのように罵倒してくれようかと心が躍る。

 

「秀頼…」

「母上、私は柴田快斎の高弟です。そう簡単にはやられません」

「…そうね、兄上にあんなに厳しく仕込まれたものね」

「母上は奥の束ねを。戦は私が指揮を執ります」

「分かりました。ご武運を」

 

治長と茶々が立ち去ったあと、秀頼は懐から一つの封書を出した。伯父快斎からの書である。

『快斎は死を悟りましたゆえ』

と、云う前口上から始まり、遠からず戦を仕掛けてくる徳川に、どう対応すべきかと記されていた。老い先短い家康はどんな汚い手を使っても戦を仕掛けてくる。おそらくそれは根拠もない言いがかりであろう。そして、その言いがかりに弁明に来るのもまた逆用しよう。戦は避けられない。徳川が絶対に避けさせない。

 

どうせ戦が避けられないのであれば、卑屈に弁明の使者など送らずに、むしろ関ヶ原の直江山城さながらに挑発するべき。それにより豊臣家臣たちは秀頼様に将器ありと見て士気が上がり結束する。徳川に怨み持つ者を集め、そしてその者たちに徳川と徹底抗戦も辞さずと云う姿勢を示すべし。母の茶々の制止を振り切ってでも。そういう内容であった。

 

そして伯父快斎の予言通り、家康は呆れ果てるような言いがかりをつけてきた。あの本能寺の変さえ予期していたと云われる柴田快斎の慧眼さすがと云うことか。

とにかく、もう徳川との合戦は避けられない。ならば、もはや弁明など不要。

「伯父御…かたじけのうございます。この書なくば、私は家康に弁明の使者を送っていたでしょう。でも、そうやっても家康は豊臣を許さないのですよね。ならば戦い抜くまで」

 

側近の片桐且元を読んだ。

「と、云うわけで治長に江戸へ行かせた」

「ひ、秀頼様、徳川と戦うと!」

「こっちに戦う意思がなくても向こうにあるではないか。老い先短い焦りか、子供に小馬鹿にされるような言いがかりまでつけている」

「なりませぬ、ここは耐え忍び戦を避けるべきと!私が使者を務めます!」

「…且元、私はそなたに相談をしているのではない。決意を言ったのだぞ」

「秀頼様…」

「且元にやってもらいたい仕事は軍備だ。関ヶ原に伴い牢人となっている者は多いであろう。名のある在野武将をどんどん召し抱えよ。徳川家康に怨み持つ者を集めよ!」

且元は驚く、母親の言いなりになっていた彼と違う。いよいよ戦が避けられないと云う、この局面で眠っていた将器が出てきたか。

「徳川家康、目にもの見せてくれようぞ」

 

 

 

江戸城に到着した大野治長、四面敵ばかりだが気持ちは高まる。

(亡き快斎様のもと丸岡で戦った時を思い出す…。毎日が薄氷を踏む思いであったが、あれほど命が燃えたことはなかったからな…。巨大な敵に挑む、武人の本懐よ)

応対には本多正純が出た。どんなに卑屈になって言い訳するかと思っていたが

 

「正純」

いきなり呼び捨てだ。

「……?」

「改めて聞きたい『国家安康』『君臣豊楽』のどこが悪いのか」

「さ、されば『国家安康』は家康公の名を分断し、『君臣豊楽』は豊臣家の繁栄を願い徳川家に対する呪詛でござるゆえ!」

「本気でそう思っているのか?」

呆れて物も言えない、と云う態で笑う治長。

「無論」

「…もう少しマシな大義名分を見つけてほしかったものだな。ただ豊臣を潰したいだけだろうに」

「ふはは、先に呪詛をふっかけてきたのは豊臣であろう」

「ふう、お前じゃ話にならない。あのナマグサ坊主どもを呼んでこい。林ナントカとナントカ崇伝と云う破戒僧」

「こ、言葉を慎まれよ!」

「お前が言うな、この君側の奸が」

「わ、儂が君側の奸じゃと!」

「家康殿はもうちっと賢いと思った。お前のような君側の奸と破戒僧二人に良いように踊らされてなぁ…。何が海道一の弓取りか」

「修理殿!貴殿は自分が何を言っているのか分かっているのか!徳川家に戦を挑むか!」

「あんな子供じみた言いがかりをつけておいて、よく言うな」

完全に治長の独壇場だ。そして関ヶ原の直江状さながらに徳川家康の罪状を並べていく治長。正純は何度刀に手をかけたことか。

「家康も耄碌したものよ。老醜ここに極まれり」

「き、貴様…!」

「とにかく、喧嘩なら買うゆえ、いつでも寄せてまいられよ。また三方ヶ原のように馬上で糞を漏らしても知らんぞ、そう狸爺に伝えろ!」

 

治長は去っていった。まさか豊臣から挑発してくるとは想像もしていなかった。正純と治長の用談は祐筆が議事録として書きとめていたが、それを読むや家康は怒り

「修理め、いや秀頼!ようも言いたいことを!直江の書とてこれほど無礼ではなかったわ!」

 

しかし、これは予想外だった。秀頼は母の淀の方に逆らえず、甘やかされた御曹司。今回勃発しそうな徳川との戦いが初陣とも云える。それなのに使者をよこして堂々と挑発してきた。やはり二条城で見た時に感じた危惧は本物であった。秀頼には将器があるのだ。

「伊達に幼いころから快斎に仕込まれてはおらぬということか」

「太閤殿下の血というわけですかな」

 と、本多正純

「ふん、秀頼は太閤の子ではないわ。先の鶴松にしてもな。あの男には子種がないのだからの。現に秀頼は太閤と似ても似つかぬ美男ではないか」

「では噂通り…。修理が間男と?修理も実の子の窮地ならば必死ですな」

「修理の子にしては器が大きい男に育ったものよ…。二条城で会った時には本当に驚いた。十八かそこらで、あれほど堂々とした男を見たのは快斎以来だ。知恵と人格、秀頼はそれを備えている。庶民の人気もべらぼうに高い…。秀頼は磨けば光る…。磨く時間を与えれば、その光は徳川を飲み込むであろう…」

「では磨く時間を与えなければ良いだけのこと」

「その通りじゃ、とにかく今は豊臣を討つことに全力を注がねばならぬ」

ふう、と一つため息をついた家康。

「快斎、すまんが秀頼は討たねばならぬ。それがお前と儂の望む『戦のない世の構築』には不可欠なのだ。お前が溺愛した妹は助けてやりたいと思うが、そうもいくまい…。あの世でいかようにも詫びよう…」

 

 

豊臣家では戦準備に着手し、秀吉の遺産である金銀を用いて関ヶ原以後に増大した牢人衆を全国から結集させて召抱える。また豊臣恩顧の諸大名に大坂城に集結するように檄文を送り、決戦に備える。だが、大名は一家として応じなかった。池田利隆の元に行った使者などは指を切られて片目を抜かれたと云う。ここまでして徳川に誠忠を示す必要が大名によってはあったのだろう。

 

大野治長のもとには参戦を拒否する旨が書かれた書が次々と届いた。

「それほどに家康が怖いのか」

歯ぎしりする治長に茶々は

「太閤殿下の死後、寵愛された重臣に去られ、今また恩知らずの大名に背かれた。ただそれだけのこと」

「姫様…」

「そなたとて、この乱世の無常は分かっているでしょう」

「……」

「まあ…。太閤殿下の天下を兄に乗っ取らせようと思っていた私ですから…こうなるのも運命であったやもしれませぬ」

「しかし姫様、柴田からは連絡はありませぬ。甥御の丹後殿(勝秀)ならば!」

「丹後はそんな愚かではありません。沈みゆく船にどうして…」

 

「お茶々―ッ!!」

それは和平を主張して大坂城から追放された織田有楽斎であった。やはり茶々の叔父であるため、門番は立ち入りを厳しく制限できないようだ。

「お、叔父御、お立場を考えて下さい。ここはもはや叔父御にとって敵地も」

「それどころではないぞ、お茶々!」

血相を変えている有楽斎、顔を見合った茶々と治長。

「どうしたのですか叔父御、そんなに慌てて」

「し、柴田軍が!」

「え?」

「柴田軍が大坂方に参戦じゃ!」

「えっ、ええっ!?」

 

急ぎ、城門に駆ける茶々たち。堂々たる軍勢。見える旗は確かに柴田家家紋の二つ雁金、馬印は金の御幣、そして軍旗『歩の一文字』である。

 

「ああ丹後!叔母の私のために!」

徐々に近づいてくる柴田軍、不利な戦いにも関わらず、ただ一家だけ駆けつけてくれた甥を心から抱きしめたい、そう思い城門で待っていると

「……!?」

柴田軍の先頭にいる者は勝秀ではなかった。茶々はあぜんとして先頭にある者を見た。我が目を疑った。尚武を尊ぶ威風堂々の柴田軍を率いて参戦したのは

「あ、兄上様!!」

それは死んだと伝え聞いた兄の柴田快斎であった。ニコリと笑い、茶々の前で馬を降りた。

そして妹茶々の頭を撫でて

「お前が心配であの世から戻って来たぞ」




後編に続く!

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