天地燃ゆ   作:越路遼介

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感想で再掲載をリクエストされたので、PC内を探してみたところ、まだデータはありましたので、ハーメルンに投稿いたします。


異伝-松姫-

 柴田明家糟糠の妻であり、柴田家御台所のさえが逝った。享年二十三歳であった。

 突如の病に襲われ、名医である曲直瀬道三にも手に負えなかった大病。良人の柴田明家は最後まであきらめず看病に当たったが、それは報われなかった。さえはずっと看病してくれた良人に微笑み、静かに息を引き取った。明家は人目はばからず号泣した。

 

 殿は抜け殻となる――

 

 柴田家の家臣の誰もが思った。明家の愛妻家ぶりは異状とも言えるほどであった。

宝にて命――。明家は妻をそう言っていた。そして妻のさえもその愛情に応え、本当に仲の良い夫婦だった。その妻が逝ったのだ。

 葬儀の時も痛々しいほどで喪主である身なのに涙を堪えきれない。葬儀が終わった後は誰とも会おうとせず妻の位牌を抱いている。まさに抜け殻だった。

 明家は自分を責めていた。彼は父の勝家から柴田家の家督を継いで間もなく、二人の姫を側室にしていた。佐久間盛政の娘の虎姫。小山田信茂の娘の月姫。いずれも明家から要望してのことではなかった。当主が空席である佐久間家と小山田家からの強い要望で娶ることになった。正室のさえはこれに激怒していた。政略的なこともあるが二人の姫は元々明家に恋をしていた。明家を愛する彼女にしてみれば受け入れられることではない。しかし柴田家の君臣充実のために、と筆頭家老の奥村助右衛門に説得されれば柴田家の御台所として飲まざるを得なかった。“あの人はずるい、あの人は私を裏切った”さえの怒りに明家も弱り果てていたが、上杉の援軍に向かう前日にさえは何ごともなかったように明家に微笑んでいた。戦国時代屈指の智将明家も妻のことには盲目であり、これにすっかり安心した。出陣前の良人を笑顔で見送るのが夫人の鉄則。たとえどんなに腹に一物あろうとも、怒った顔で見送ることを武将の妻は絶対にしてはならないのだ。義母お市にその徹底を改めて釘刺されたさえは、その鉄則に従ったに過ぎない。

 しかし、やはりさえは明家を愛している。そんな嘘八百の笑顔で戦場に送り出したことを大変悔やんだ。そしてさらに追い討ちがかかる。さえが大病に冒されたのだ。良人が無事に帰ってくるまでは死ねない。さえはそれで気力を振り絞り病と闘った。知らせを聞いた帰国中の明家は飛んで帰ってきた。

 真っ先にさえの臥所に行った。名医の曲直瀬道三から『お覚悟を』と告げられても明家はあきらめなかった。懸命に看護した。しかし願いは届かず、さえは逝った。明家は軽率に側室を作ったからだと自分を責めた。最愛の妻を失った理由は自分にある。病床で生前のさえは明家のこの詫びに対して毅然と否と言っている。私の病はそれと関係ないのです、と。しかし妻を失った明家はそう思ってしまった。彼は心を壊してしまった。

 

 だが日本最大勢力大名である明家の立場でそれは許されない。心を壊したことを認められない。さえが死んで数日経った日だった。父の勝家が明家の部屋を訪れた。さえの位牌を抱いて部屋の隅に泣きべそをかいて座っていた。見るも無残な息子の姿だった。

 

 首根っこ掴んで城主の間に引きずっていく。まったく無抵抗で引きずられていく明家。勝家は息子の軽さが悲しかった。六十の坂を越した自分が片手で引きずっていけるほどに息子は抜け殻となっている。そして城主の席に無理やり座らせた。家臣たちが心配そうに明家を見る。同じことを奥村助右衛門と前田慶次もやった。怒鳴ろうが殴ろうがまったく効果はなかった。もはや父の勝家が荒療治をするしかない。

「見よ明家」

「…………」

「家臣に心配されてしまっている。それが柴田家当主の姿なのか!」

「……もう、いいんです」

「何がだ!」

「さえが死んで、柴田明家もまた死にました」

 勝家は明家を殴打。そして明家の顔面を床に何度も叩き付けた。

「家臣に詫びよ!お前の双肩には柴田家すべての将兵と領民の命が乗っかっている!お前の命はお前だけのものではない!軽々しく死んだなんて申したことを家臣に詫びよ!」

「大殿さ……」

 勝家を止めようとした三成だったが、助右衛門がそれを制止した。

「見ろ、大殿の目を。泣いておられる」

「…………」

 

 この荒療治を経ても明家に覇気が戻ることはなかった。その夜、勝家は明家の側室であるすず、月姫、虎姫を呼び出した。

「さえが死んでから、そなたらに対してどうか?」

 沈黙するすず。しかし同時に虎姫と月姫が泣き出した。

「どうした?」

「大殿様、殿は……私たちを娶ったことで御台様を亡くしたと思っているのです」

 と、虎姫。

「なに?」

「あんまりです…!私たちとて一生をあの方に捧げる気持ちなのに…!」

 と、月姫。彼女たちとて心から明家を愛しているのだ。

「その方らを遠ざけているのか?」

 無言で頷く虎姫と月姫。

「あの馬鹿者が……。そなたらを娶ることは儂も認めたことだぞ。相分かった、言って聞かせるゆえ泣くでない」

「大殿様……」

「なんだすず」

「私ごときが出過ぎた言いようですが…」

「…お市のことか?」

「はい…。大御台様の気持ちは分かるのですが…あれでは殿はもう……」

 

 明家生母のお市、彼女は妻を亡くして心を壊した息子を見ていられず、自分に好きなように甘えさせていた。勝家は『武士の母のやることではない』と叱りつけた。しかし

『あの子に母親が必要な時に私は側にいてあげられなかったのです。あんなに悲しんでいる息子をどうして放っておけますか』

 と、言い返す。お市はさえが死んでから奥や隠居館には身を置かず、明家の側にいて嘆く息子を抱きしめていた。彼女自身が言うように幼いころに側にいてやれなかった申し訳なさ、浅井長政との間に出来た万福丸を兄の信長に殺された悲しさ、それが息子明家への盲愛とさせるのだろう。

「まるで…香林院様(織田信長・信勝生母)と信勝様を見ているようだった。母親に甘えきりの、あの信勝様に…」

「失礼ながら大御台様のすべきことは、それでも武士か、男かと尻を叩くことと思います」

「儂もそう思う。しかし何度言ってもお市は聞かぬ…」

「大殿様…」

「…あいつは…明家は母の愛を知らずに育った。さえは妻としてだけではなく、母親のような慈しみで明家を包んでもいた。その妻が死んだのであらばその嘆き悲しみも分かる。その息子を放っておけないお市の気持ちもまた分かる。だが、柴田家は明家の心が快癒するまでを待つことは出来ない…。何とかならんものか」

 

「大殿様、御台様は生前に後添えを指名しております」

 と、すず。

「なに、それは誰じゃ?」

「武田の松姫様にございます」

「…松姫、亡き中将様(信忠)が婚約者であった姫か?」

「はい」

 すずは懐から書簡を出して、さえが書いた文を出した。そこには『後添えには武田家の松姫様を』と記してあった。

「明家とも親しいとは聞いていたが…さえはどのような理由で松姫を指名したのだ?」

「松姫様の器量を見込んで、とのことです。病の床の上での言葉ゆえ、詳細を伺うことは無理でした」

「ふむ…明家はそのことを」

「存じてはおりません」

「松姫か…。すずは高遠で会ったことがあるのだったな。小山田家の月姫も当然会ったことはあるだろう」

「はい、妹のように可愛がって下さいました」

「どんな女子だ」

「芯のしっかりした方です。そして何より一途」

「ふむ…。一途か、それは分かる」

 家柄は申し分ない。明家と松姫は年齢も同じである。信忠に操を立てて尼僧になった一途さも何とも潔い。

「信玄公の息女じゃ。天目山にて勝頼と運命を共にしようと覚悟もしたと聞く。腰の据わった女子に相違ない。決めたぞ。その娘なら明家を救える!」

 勝家は亡き嫁の遺志を尊重した。

「松姫を柴田家正室として迎えよう。急ぎ武州に使いを出す」

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 武州の恩方(東京都八王子市)、武田遺臣たちが移り住んだ集落。松姫はそこで信松尼と名乗り信忠を弔っていた。そこに奥村助右衛門が訪れた。筆頭家老の助右衛門自らが出向いた。柴田家の強い気持ちが伺える。助右衛門に会った信松尼。

「…そうですか、竜之介殿はそんなに悲しんでおられるのですか」

「はい」

「おいたわしや…」

 信松尼も涙を禁じえなかった。

「信松尼様、我ら柴田家すべてのお願いを聞いていただきたいと思います」

「…言わなくても分かっています」

「え?」

「私を美濃守様(明家)の後添いに、との話ですね」

「な、なぜご存知に?」

「私と亡きさえ様とは文のやりとりをしていました」

「初めて知りました」

「はい、美濃守様も知らないと思います」

「どうして文を?」

「私は天目山で『信忠様より早く竜之介殿を知っていたならば、私は貴方の妻になることを望んだ』と竜之介殿に言いました。それを聞いていた前田殿がさえ様にそれを伝えたそうです」

「なるほど」

「前田殿はヤキモチを妬くさえ様が見たかったようですが、さえ様はそれで私に興味を持ったようでした。やがて本能寺の変で中将様を失った私の心痛を知り、文を届けてくれました。以来、文のやりとりをしていたのです。そしてこれが」

 懐から封書を出した信松尼。

「さえ様からいただいた最後の文です」

 差し出すが

「読めませぬ。信松尼様宛ての書ではござりませぬか」

「かまいません」

「…では遠慮なく」

 書状に一礼して書を読み出す助右衛門。字はひどく汚い、おそらく病のさえが力を振り絞って書いたのだろう。

 

『信松尼様へ

 私は病によって間もなく天に召されます。良人明家は毎日懸命に看護してくれます。それなのに応えることの出来ない我が身の病を呪うばかりです。今この私が身罷れば良人は抜け殻になります。悲しんでくれるのは良いのですが、それでは柴田家当主としての責務が果たせません。

 何より良人は側室を娶ったゆえと自分を責めています。このままでは私の死後に虎姫と月姫を邪険にしかねません。二人の女の一生を預かる重さを分かっていません。私は安心して逝けないのです。だから信松尼様にお願いしたい。どうか私の亡き後に妻となって良人を支えてくれませんか。良人が抜け殻になることは柴田家の滅亡にも繋がること。柴田家が潰れれば、またも国内は群雄割拠の乱世に逆戻り。良人の悲願であり、この国の民がすべて望む戦のない世の到来のため、どうか柴田明家の妻となっていただきたいのです。さえ、一生のお願いにございます』

 

「御台様……」

 丁寧に文をたたみ、信松尼に返す助右衛門。

「それで信松尼様、ご返事は」

「まず竜之介殿に会ってみます」

「信松尼様…」

「話は…それからです」

 

 かくして信松尼は奥村助右衛門と共に安土へと向かった。畿内は現在不穏な様相だった。紀州の雑賀党や根来衆が伊賀忍者の残党と手を組んで織田信雄の領内で一揆を扇動し、そして家督継いで間もない柴田の節目は狙い目。

 かつて信長に滅ぼされた浅井や六角、波多野も徒党を組みだし、柴田の直轄地で暴れている。急激に領土拡大してしまった柴田家、先代勝家にすべてをまとめることは出来ず、君臣にも不和が生じだした。やはり、すべてを押さえるには明家しかいないのだ。この情勢で筆頭家老の助右衛門が武州に出向いたのである。信松尼によって明家が復活するのを願う気持ちが分かる。

 

 安土の城門をくぐり、城の入口で輿を降りた信松尼。三人の女が出迎えた。

「よう来て下さいました」

「これは…。お久しぶりですね。すずさん」

 高遠城の戦いで二人は会っている。雑兵に犯されかけた自分と百合を助けた水沢軍。隆広の横にいた美々しいくノ一の姿は信忠と初めて会った瞬間であっても松姫は覚えていた。そして水沢隆広を庇って背中に銃弾を受けたその瞬間も松姫は見ているのだ。

「お背中の傷は…」

「寒い日には…少し痛みます」

「それは…。武州に良いお薬があるので、今度お送りしますわ」

「まあ、それは助かります」

「信松尼様…」

「月…。まあ大きくなって!」

 月姫は一時期、小山田家の人質として躑躅ヶ崎館にいたことがあり、信玄末っ子である松姫は妹のように慈しんでいた。

「お懐かしゅう…。合わす顔がないと思っていましたが、こうして再び会えて嬉しく思います」

 月姫の父、小山田信茂は松姫の兄である武田勝頼を最後の最後で裏切った。そのことを月姫は松姫に詫びたのだが、松姫は微笑み

「それはもう言わないで。信茂殿もよくよく考えてのことだったのでしょう」

「あ、ありがとうございます…!」

「月」

「はい」

「美濃守様にひどいことを言われていませんか?」

「い、いえ別に…」

「言われております。娶るのではなかったと」

「貴女は?」

「失礼いたしました。佐久間盛政が娘、虎と申します」

「貴女が…」

「我が父盛政は三方ヶ原の戦いを誇りにしていました。ひどい負け戦だったけれども命の燃える時を感じたと。その娘である私が武田のご息女である貴女とこうしてお会いできるのも、何か奇縁です」

「はい」

「で…。月殿と私も…御台様を死に誘った者として良人に嫌われています」

「なんてひどい」

「それが今の…柴田明家なのです」

「……」

「会っていただけますか、私たち三人の良人に」

「会いましょう」

 城内に案内されて、明家の部屋に行く信松尼。側室三人も一緒に歩いた。

「申し上げます」

「…………」

 小姓の言葉に返答しない明家。

「……殿、武州より信松尼様がお越しです」

「…………」

「失礼いたします」

 

 信松尼が衾を開けた。そこには母のお市に膝に抱きつく無様な明家の姿があった。その明家の頬を愛しそうに撫でているお市。絶句した信松尼。お市の方の聡明さは信松尼も伝え聞いている。しかし息子への盲愛はここまでその聡明さを曇らせるものなのか。ズカズカと明家に歩んだ信松尼は

「この腰抜けぇッ!!」

 なんと力任せに明家を蹴った。女の蹴りに吹っ飛ぶ明家。驚いたお市。

「何をする!」

「お市様」

「……?」

「これは侮辱です」

「…侮辱?」

「武田への、これ以上はない侮辱です!」

「な、何を言っているの?」

「武田を滅ぼしたのは織田信長、しかし実際に手を下したのは総大将の…我が婚約者であった織田信忠様。その織田信忠の軍師であったのが水沢隆広、つまり柴田明家!お市様、武田はこの男の采配によって戦場の露となったのです!」

 お市は一言もない。信松尼に剣幕に圧倒された。そして言葉から気づく。この尼僧は甥の信忠の婚約者であった武田の松姫と。信忠に操を貫こうとするその精神に敵方であったお市もかつて賞賛したことがあった。その松姫がいま眼前にいて、息子明家にすさまじい形相を見せている。

「それが…伴侶を亡くしたごときでこんな体たらく!武田を倒した男がこんな三流の男に成り下がるなんて武田信玄の娘として許せない!」

「松姫様…」

 

 やっと松姫の名前を呼んだ明家。キッと明家を睨み、鞠のように明家の顔を蹴った。

「それでも、それでも武田を倒した男なのか!武田信玄のいでたちをして上杉謙信に真っ向から挑んだ男なのか!」

 蹴りまくる信松尼、慌てて止めようとする小姓の肩をすずが押さえた。

「よいのです」

「い、痛い、痛いよ松姫様」

「安心してあの世に逝けぬさえ様はもっと痛い!貴方に娶るのではなかったと言われた側室たちの心の痛みはもっと大きい!私の蹴りはさえ様の蹴りと知りなさい!」

「……」

 

「なんて情けない!勝頼兄様が見たらどんなに嘆くか、快川和尚様が見たらどんなに失望するか!いやさ呆れ果てて大笑いするわ、この腰抜け!」

「…………」

「甘ったれるんじゃない!この戦の世、生涯の伴侶を失ったのは貴方だけではない!!」

 松姫とて最愛の婚約者織田信忠を失っている。

 

 続けて松姫は明家を平手で叩く。

「目を覚ましなさい!もうさえ様はいないのよ!」

「……」

「柴田家の領内は大変なのよ!貴方の一日の抜け殻が何百人もの女子供を不幸にする!もう何日そんな体たらくさらしているのよ!貴方の腑抜けが何千もの人を不幸にしているのよ!」

「……」

「まさか、そんなのどうでもいいなんて思っていないでしょうね。自分の悲しみが優先されると思っていないでしょうね!もしそうなら、貴方はさえ様の良人の資格なんてあるものか!」

 

「松姫様…」

「竜之介殿…。私を失望させないで…お願い…」

 明家の胸を拳で叩く信松尼。泣いている。

「…申し訳ございませんでした」

 叩かれた頬をなでる明家。

「効きました…。よく殴ってくれました」

 松姫の肩を抱き、指で涙をすくった。

「ありがとう…。松姫様」

 ペコリと頭を垂れる。

「竜之介殿…」

 

「母上」

「明家…」

「生まれてから今までの分、存分に甘えさせてもらいました。もう大丈夫です」

「そうですか…良かった…」

 すうっと深呼吸をして、思い切り吐き出し、小姓に訊ねた。

「これ、風呂は沸いているか」

「はっ」

「そうか、じゃ入ろう。それと食事を頼む」

「竜之介殿、貴方の顔に精気が……」

 と、信松尼。

「叩かれなければ分からないなんて俺も駄目だな。な、すず」

「そうですね」

 虎姫と月姫に向いた明家。

「ひどいことを言った…。すまない」

「「殿…」」

「許してくれなんて言えないが、そなたらの一生を預かる重みを喜びとし、心から愛させて欲しい。そうさせてくれ」

「殿、良かった…。やっと虎が好きな殿の顔に」

「そんなにひどい顔だったか?」

「はい、絶世の美男子が目も当てられない醜男に」

「はっははは、言いえて妙だな月」

 

 明家は風呂にはいり、髷を整え、無精ひげも剃った。食事を取ったあとに寒風の中、水垢離をし、久しぶりに木刀を振った。体から湯気が立ち精気がどんどん顔に蘇ってきた。信松尼の鉄拳制裁、それがすべてである。まさにさえが信松尼の体を借りて行ったとも云えた。それが明家に喝を入れたのだ。

 翌日、すぐに山積してあった問題の処理に入った。矢継ぎ早に迅速的確な指示を与えていく。その様子を見ていた信松尼。

「これでいい」

 と、安心し、そして一緒に来ていた武田遺臣である三井弥一郎に

「さ、帰りましょう」

「え、後添いの件は?」

「いいのです。竜之介殿は吹っ切った。もはや私は必要ありません。さえ様の御霊と、すずさんたちがいれば十分です」

 信松尼は何の恩も着せず、黙って立ち去った。助右衛門や勝家も信松尼の後添いが決定したよう喜んでいた。お市も『あの女子ならば明家の後添いに相応しい』と大乗り気だった。さすがは武田の姫よ、織田の女の私も兜を脱ぐと認めた。息子と同年の女に怒鳴りつけられ気圧されたが、何とも後味の良いやられ方だった。

 しかし肝腎の信松尼が帰ってしまった。やがて信松尼がいなくなっていることに気づいた助右衛門とお市。置き文があった。

 

『もう美濃守様は大丈夫です』

 

「やはり、姑が織田信長の妹と云うのが…」

 と、お市。

「仇敵である中将様に操を立てようとした方です。それは関係ありますまい。とにかく連れ戻すことに」

「いえ、奥村殿」

「え?」

「明家に信松尼殿が帰ったことだけ伝えなさい。それからは明家次第です」

 

 

 明家に信松尼が帰った旨が伝えられた。明家はぶっきらぼうに『そうか』と言うだけで仕事を続けて連れ戻すことをしなかった。さえが後添いに信松尼を指名していたと聞いても、これまたぶっきらぼうに『そうか』と答えただけで、妻に迎えようとしなかった。これはすずたち側室たちにも意外な態度だった。

「あの徳川殿も正室はいない。柴田の世継ぎは俺とさえの息子である竜之介(後の柴田勝明)とすでに決まっているのだから支障はない。そなたらがいればいい」

 と、言い

「今は二代目柴田家の初動処置の遅れを取り戻すことが先決だ」

 さえが生きていたころのように覇気を取り戻し、君主としての務めに励むのだった。そして時に疲れて癒すのは、すず、虎姫、月姫と云う側室たちである。一時は虎姫や月姫ともギクシャクしたが、すっかり仲直りして子作りにも励むようになった。

 

 やがて明家は紀州に出陣し、雑賀党と根来衆を討伐。雑賀党は頭目の雑賀孫市の自刃によって降伏。先代孫市の娘に奥村助右衛門の次男が婿養子に入り、精強の雑賀党の懐柔にも成功した。しかし根来衆は頑強に抵抗した挙句、明家に掃討された。

 浅井や六角、波多野の残党には味方するなら召し抱えるが、あくまで抵抗するなら討ち果たすと通告。これによって残党たちは誰が敵か味方か分からなくなり分裂。小集団では柴田に掃討されるのは明白であり、やがて矛を収めて柴田に降伏していった。

 君臣の不和も側近たちの働きにより徐々に解消していった。やはり当主が名君ならばまとまっていくものだ。勝家やお市も安心し、隠居館で過ごせるようになった。

 

 だが、徳川家康が織田信雄をけしかけて挙兵。尾張犬山の地で激突、しかし明家は朝廷工作を仕掛けて和議に持ち込み、その後に追撃してきた織田信雄を美濃の地で殲滅した。信雄の領地であった北伊勢と伊賀は柴田家の領地となった。伊賀の残党には新たに伊賀国主となった可児才蔵があたり、殲滅ではなく可児家に組み込むことに成功させた。その間にも明家の行き届いた仁政により畿内の不穏は解消し、今日にも名高い柴田明家の黄金治世へと入っていった。さえが死んで五年後のことだった。

 まだ明家は正室がいなかった。勝家やお市は正室を娶れと言うが

『いや、徳川殿だって正室空席じゃないですか』

 と、敵将をうまいこと言い訳に使いかわしていた。側室のすずや虎姫、月姫は順調に子を生んでいた。虎姫と月姫は無事に男子も生み、明家はその男児に佐久間家と小山田家の再興の君主とすると二人に約束する。二人がどんなに喜んだか言うまでもない。

 

 そして武州の恩方、いつものように信忠の位牌に手を合わせてから、庭の掃除を始めた信松尼。

「いい天気…」

 箒で庭の落ち葉を掃きながら、すうっと深呼吸し空を見上げた。そろそろ冬、澄んだ空気が美味しい。庭の枯れ枝を踏む音がした。空を見ていた信松尼はその音の先を見た。

「……!」

 驚いて、そこに立っていた人物を見る信松尼、立っていた者は静かな笑みを浮かべていた。明家である。

「…迎えに参りました」

「竜之介殿…」

 まるで城に使者でも行くような立派な正装姿で明家は現れた。

「…松姫様が来た当時、柴田家が抱えていた問題を解決するまで五年かかってしまいました」

「……」

「…すべて済んでから求婚しようと思っていたのです」

「…竜之介殿、私は信忠様に女の操を立てると言ったはずです」

「愛し続ければいい信忠様を」

「……」

「それがしもまだ、さえを愛しているのですから」

「……」

「でも、松姫様を抱きたいです。いっぱい愛したい」

「正直ですね…」

 クスッと笑う信松尼。

「それがしの妻となって下さい。そして」

「……」

「まだ戦国乱世は終わっていません。これからのいばらの道、それがしと一緒に歩いてください」

 静かに見つめあう明家と信松尼。そして信松尼は心の中で信忠に詫びた。

(お許し下さい信忠様…。こんな私を必要としてくれる方が目の前にいるのです)

 やがてニコリと微笑んだ信松尼、

「…分かりました竜之介殿」

 求婚を受けた。

「松姫様…!」

「ふつつかものですが誠心誠意お尽くしいたします。殿」

 

 

 信松尼は還俗し、お松の方として柴田明家の正室となった。白馬に乗った王子様とはいかなかったが、さしずめお馬に乗ったお殿様というところか。松姫の柴田家輿入れはよく戦国時代のシンデレラストーリーと言われる。武田家の滅亡、最愛の伴侶の死、もはやただの尼僧でしかなかった彼女が日本最大勢力大名の正室になったのだから。明家が再三再四、父母や重臣たちに正室を勧められても拒絶したのは後に松姫を正室として迎えるつもりだったからである。

 明家は柴田家の家督を継いで間もなく正室さえを失い、抜け殻になった。家督相続の節目であったに加えて、何の働きも出来ない新当主。これがため柴田家に対して不穏な動きは続発してしまった。松姫の一喝で覇気を取り戻した明家は、とにかく家督相続したばかりの柴田家初動処置の遅れを取り戻すことが先決と考え、それが終わってから松姫に求婚しようと決めていたのだ。五年もかかったと言ったが明家だから五年で終息できたとも言える。

 五年前、抜け殻になった柴田明家を立ち直らせ、何の見返りも求めずに立ち去った松姫は柴田家中にすでに重く見られていた。選ばれるべくして選ばれた柴田家の新たな御台所である。

 

 武州恩方にいた武田遺臣が花嫁の松姫を連れて堂々と安土城に入城した。彼らにより先んじて柴田家家臣となっていた小山田家を初めとする武田遺臣たちは城下の大通りに控え、そして『風林火山』の旗を立てていた。明家の計らいである。

 

 輿を降りた松姫の手を取る明家。安土城下の領民たちは新たな御台様はどんなんだと見物に来たが、その美しさに惚けた。香り立つような艶っぽさであった。

『いやぁ、さすが殿様、見る目が高い!』

『なんて美しいんだろうねぇ、天女のよう』

『しかし、柴田の城下に風林火山の旗が立つなんて時代は変わったよなぁ』

 頬を染めて明家の手を握り返す松姫。この時、柴田明家と松姫は二十八歳。二人が甲斐で出会ってから十六年経っている。まさかあの時に会った少女が、少年が、自分の伴侶になるとは想像もしていなかったろう。しかも戦国大名とその正室としてなどと。二人は手を握りながら同じ思いをしていたに違いない。

「さあ、祝言だ。松」

「はい、殿」

 城内で盛大に明家と松姫の祝言は行われた。

(さえ様、見ていてくださいますか。私が天下人に一番近いこのお方を支えられるかは分からない。でも私は懸命に務めます。そして心から良人を愛します。武田の姫ではなく、柴田家の御台として!)




 一度、さえ以外を正室にした柴田明家の話を書いてみたいと思いました。で、誰にするかと消去法で行くと松姫と玉姫が両巨頭で、あるいは与禰姫ということになりましょう。しかし玉姫こと細川ガラシャは細川家の正室だし、与禰姫は幼い。やはり松姫様が自然だなと思い、それで書いてみました。
 本当は結婚以後も少し書いたのですが、祝言までがちょうどいいと思いここまでにしました。この後、どんな夫婦となったのかはご想像にお任せします。史実においても芯の強い、腰の据わったお姫様であった松姫様。きっと明家を支える賢夫人になったんじゃないかと思います。
 松姫の肖像画、月に一度しか公開されない、一般的には非公開の肖像画。私は八王子の信松院まで見に行きましたが、本当に美人です。作中に『香り立つような艶っぽさ』と書きましたが、それは誇張ではありません。それを嫁にした明家がうらやましいです。毎日子作りしたに違いない。

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