天地燃ゆ   作:越路遼介

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大河ドラマ『麒麟がくる』の朝倉景鏡さん、いいですね!素晴らしい!
大河で、あそこまでの登場人物として描かれるのは初めてではないでしょうか!
史実では不遇な最期となり、裏切り者のイメージが強い方ですが朝倉の軍事内政、そして外交でも活躍し、かつ死にざまも壮絶だった人物。彼を筆頭ヒロインのお父さんにした私は何というか嬉しくてならんですよ!

また、今回のお話は、その景鏡さんが回想で出てきますし、その景鏡さんの形見の小母衣を婿殿が装備して出陣です。いやぁ縁と云うのはあるのですな。


外伝さえ 九【大返し、そして…】

 北ノ庄城に柴田勝家本隊が帰ってきた。城下に出たさえとすず。いくら探しても『歩の一文字』の軍旗がない。

 

「奥方様、殿の旗が…」

 もう軍勢のすべては目の前を通り過ぎてしまった。

「あの人は…あの人は…大丈夫なのかしら…」

「義姉上―ッ!!」

 不破家一族にて侍大将、そして隆広義弟の不破角之丞光重が駆けてきた。義兄隆広の妻なのだから光重はさえを義姉としている。

「奥方様、角之丞殿です」

「角之丞殿…」

「はあはあ…。義兄上はしんがりを勝家様に仰せつかりました」

「し、しんがり?」

 しんがりが合戦において、もっとも困難な任務とさえも知っている。一度は上杉相手に無事に帰還した隆広だが、さすがに二度も取り逃がすほど上杉も甘くないはず。

 

「そ、それで水沢勢は上杉軍と接触を?」

「しんがりの手前を行く軍勢が可児勢です。接触あらば反転する手はずとなっています。しかし今だ水沢勢と上杉勢が接触した知らせは届いていません」

「そうですか…」

「それにしても義兄上の先読みには驚きました…。道中には佐吉殿の手配で迅速に引き返せるようしておいででした。こたびの撤退の手柄は大きいですよ義姉上」

「ありがとう、でも生還すればこその話しです。早くあの人のお顔が見たい…」

 

 その日、少し時間差を置いて可児勢も帰還した。馬上の才蔵に

「可児様、水沢勢は」

 と、大声で訊ねた。良人がしんがりと聞いてから生きた心地がしないさえ。

「心配いらん。上杉の追撃は越中加賀の国境で止まっている。明日の朝にでも帰ってくるだろう」

 にこりと笑い、さえに答えた才蔵。今にも泣きそうだったさえの顔が明るくなった。

「あ、ありがとうございまする!」

「礼には及ばない。知っていることを伝えただけだ。ふはは、相変わらず仲の良いことだ」

 

 

 才蔵の言う通り、水沢勢は上杉勢の追撃を振り切り、無事に北ノ庄へと帰ってきた。

「お前さま!」

 加賀内政の主命達成当日に上杉への出陣命令、激務と合戦、そしてしんがりと云う任務を経て、いささか疲れた隆広もさえを見るなり、

「帰ったぞ!今宵は寝かさないからな!」

 城下町を凱旋中に言い切った。将兵と城下町の領民たちは大爆笑。

 さえは顔を真っ赤にして

「んもう、知らない!」

 と、言いつつ嬉しそうな顔だった。

 

 勝家に帰城の報告を済ませた隆広はすぐに屋敷に帰った。門前で妻と抱きしめ合う。さえも力が入る。しんがりと云う任務を果たして無事に帰ってきてくれたのだから。

「おかえりなさいませ…」

「さえ、会いたかった…」

「私もです。しんがりと聞き、もう生きた心地がしませんでした」

「さすがに疲れたよ…」

「湯と床は用意してございます」

「うん、風呂に入るよ。さえもどうだ?」

「疲れているのではなかったのですか…?」

 呆れたようにさえが言った。

「体は疲れていてもナニは元気なんだ」

 

 明日には京都に向けて出陣、一日しか北ノ庄にしかいられないのだ。夢中でさえを求める隆広。ヘトヘトになったさえに清水を入れた茶碗を渡した。一気に飲んださえ。

「ふう、今日は激しゅうございましたね…」

「久しぶりだからな。それに、もうしばらくすればお腹も膨れてくる。さえを抱けなくなっちゃうから、ついつい夢中で」

 さえは先日に懐妊が認められた。娘の鏡姫が胎内に生を宿していたのだ。

 

「ふふっ、でも心地よき疲れの中で眠れそうです」

 眠りに入る前、床で抱き合いながら語り合う隆広とさえ。

「お前さま、一つお聞きしてよろしいですか?」

「ん?」

「お前さまは明智様が謀反をするかもしれないと云うことを少なからず読んでいたとのこと」

「いや、別に読んでいたわけじゃないよ。危うい、そう思っていただけだ」

「危うい…」

「『そんなことで気づかないで』と、さえに怒られるかもしれないが…実を言うと今回明智様の異変を察することが出来たのは義父殿のおかげなんだ」

「ち、父上のおかげ?」

「監物から聞いたことがあったんだ。義父殿が主君義景を討つ前に様子がおかしかったと」

「様子がおかしかった…」

「そう…。監物の話によると『夕餉の時、姫様が話しかけてもその声に殿は気づかず、箸と椀を持ったまま眉間に皺を寄せて床を見つめたまま。そんなお姿を何度か見た。今にして思うと殿はずいぶん前から謀反を考えていたのでしょう』そう言っていた。まさに安土の茶会で見た明智様はその姿だった」

「……」

「何か大事なことを考えている。そう思った。そして俺なりに考えた。明智様がそれほどに考え込むことは何であろうと。その結論が謀反だった」

 

 加賀内政の主命遂行中に出席した安上大評定。隆広は勝家や共に随員していた前田利家に相談することも考えたが隆広にとって明智光秀は命の恩人。信じたかった。四国攻めが決定して面目を失ったことは分かる。武田攻めの後の理不尽な仕打ちも分かる。

 それでも主君を討つなんて短慮をあの明智様がするはずがない。先読みと云うより、単なる隆広の願望と云える。

 

「俺が明智様に本格的に疑惑を抱いたのは魚津攻めの前日。今でも悔いる。大殿や信忠様、乱法師に注意を促していれば良かったと。しかし明智様が潔白なら譲言となり、俺は無論のこと殿まで大殿に罰せられる。それを恐れて俺は結局何も出来なかっ…いや、何もしなかった…」

「お前さまは神仏ではないのです。魚津から迅速に撤退できる段取りをしただけでも大手柄ですよ」

「さえ…」

「やですよ、お前さま、私はそんなことで怒りませんよ。父上は今ごろあの世で苦笑いしているかもしれませんが…でも自分と云う先例があればこそ、婿殿は織田家中で一番早く明智の異変を気づけた。そう思っているかも」

「確かに監物から義父殿の異変を聞いていなければ…俺は明智様の異変にも気づかなかったに違いない」

「うふふっ、私を妻にして良かったですね」

「まったくだ。さえは俺に幸運をもたらす観音様だよ。ありがたやありがたや」

「まあ、お前さまったら。さあ、もう寝ましょう」

「うん」

 

 隆広とさえは抱き合いながら眠った。そして夜明け間近にさえがふと目覚めると

「あれ?」

 

 一緒に寝ているはずの良人がいない。すずのところへ行ったのかと思ったが、すずは懐妊して腹が膨れているので夜閨は慎まねばならない。厠かと思ったが中々帰ってこない。起き上がって屋敷内を歩いて探してみると、良人隆広はさえの父、朝倉景鏡の甲冑の前に座っていた。

「…お前さま」

 

 そう声をかけたが隆広は聞こえなかったようだ。何か義父景鏡に言っているようだ。隆広はさえが眠るとすずの寝所に行った。抱くことは出来ないが、すずの動かない足を愛撫して、しばし語り合った。そのすずも眠ると義父の甲冑の前に来て心を落ち着けていたのだ。

「義父殿…。貴方は主君義景殿を討つ時、何を思っていたのでしょうか。家のため、越前のため、もしくは娘のことなのでしょうか…。いずれにせよ、ご自分の大切なものを守るために、止むに止まれぬ行為だったのでしょう。きっと…明智様も同じ…」

 義父の甲冑は何も答えない。当たり前だがそれでいいのだ。さえは襖越しに座った。

 

「やはり、悩んでおられたのね…」

 良人は悩みがあると、それがすぐ夜閨に出る。夫婦になって五年、肌を合わせれば分かる。でもさえは何も聞かない。私を抱くことで悩みが少しでも消えてくれればと願い、身を委ねていた。襖を静かに開けた。

 

「眠れないのですか?」

「うん、ちょっとな…」

「…何をお考えに?」

「…さえ、大殿と信忠様が死に…織田家は分裂するだろう」

「はい」

「これから俺は明智様と戦わなくてはならない…。いずれ羽柴様とも…」

「……」

「俺は明智様も羽柴様も好きだ。戦いたくないし、お二人に死んで欲しくない…」

 

「…お前さまのなさりたいようになさりませ」

「え…?」

「私は…そんな優しいお気持ちを持つお前さまが大好きです。たとえ余人が『甘すぎる』と言おうとも…私は大好きです。ううん、私だけじゃない。すずも、奥村様も前田様も佐吉さんも、そして勝家様も、そんなお前さまが好きなのだと思います」

「さえ…」

「これから、お前さまにとり辛い戦ばかりとなるでしょう。いっぱい悩まれ苦しむでしょう。でも最後は自分が思うことを信じて貫いて下さい。辛くて苦しくて泣きたくなった時には…いつでも私がいます」

「ありがとう、さえ」

 

 少し頬を染めて、にこりと笑うさえ。笑顔千両、隆広も笑顔で返す。隆広は寝床に戻り、さえと寄り添いながら眠りについた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 そして朝、いつものように庭で木刀と木槍を振り鍛錬に励み、家族と共に朝餉を食べたあと、さえとすずが手馴れた手つきで隆広の軍装を着せ付ける。装備を終えると隆広はさえに

「さえ、貸してほしいものがある」

「なんです?」

 義父景鏡の甲冑を指す隆広。

「あの小母衣だ」

「分かりました」

 さえは父の甲冑にかけられている南蛮絹の小母衣を取り、隆広に羽織らせた。

 景鏡の小母衣は黒一色の単調さで、裏地は赤一色。周りは金糸で縁取られている洒落たもの。

 さえの父の朝倉景鏡が特に気に入っていた一品だった。

 それを隆広は身につけた。

 

「似合うか?」

「はい♪惚れ直しました」

 隆広は『黒』を好んだと云われているが、黒一色の甲冑に不動明王を背負う武田勝頼から受け継いだ朱色の陣羽織、そしてこの黒母衣は隆広の男ぶりを上げた。

「では行ってくる!」

「「いってらっしゃいませ!」」

 妻のさえ、側室すず、八重と監物や他の使用人、そして嫡子の竜之介に見送られて隆広は家を出た。

 

 

 しばらくしてから北ノ庄城より出陣太鼓と法螺貝が鳴り響いた。軍勢を見送るため、さえは城下の大通りに出た。すずも杖をついてさえの横にいる。

「一日しかおられませんでしたね」

「ごめんね、すず。あの人を独り占めしちゃって」

「いえ、どのみち私はいま殿を受け入れられないですから」

 膨れたお腹をさするすず。昨夜隆広はさえを抱いた後にすずの寝所を訪れ、すずの話を聞きながら痛む傷跡と動かない足を愛撫していた。すずはそれだけで十分幸せだ。

 

 城下の若い娘たちの黄色い声が上がりだした。

「水沢様よ!」

「ああ、なんと凛々しき…」

 若い娘ばかりだけではなく

「なんと、あの小母衣が男ぶりを上げておるのう…」

 

 老婆までうっとりとして隆広を見ている。

 当の隆広は女の黄色い声など耳に入らぬほど戦いに集中して目は前を向いている。さえとすずも声をかけられない気迫を感じる。前方はすでに大返しのため走り出している。二陣の水沢勢はまだ走り出さない。

 

「申し上げます」

 水沢軍赤母衣衆、小野田幸猛が来た。

「第一陣最後尾、徳山則秀隊がすでに疾駆の状態と相成りました」

「よし」

 隆広は少し前方に進み、くるりと馬を返した。

 

「みなの者、大返しだ。目指すは怨敵明智日向守光秀!人馬もろとも駆けて駆けて駆け抜けい!!」

「「オオオオオオオオッッ!!」」

 

 隆広率いる柴田軍第二陣が走り出した。

 柴田軍は北ノ庄城から京都へ向けて走って行軍を開始したのだ。

 途中の金ヶ崎において騎馬武者以外の兵は兜、甲冑、旗差し、刀、槍、鉄砲も武装解除した。専属の運搬隊を組織してあり、武具はその部隊が運んだ。かつ食糧、塩、砂糖、そして水も完備された支給場を先々の領民を高値で雇い設置させた。

 すべて水沢隆広と石田三成の差配である。

 握り飯を馬上で食べる佐久間盛政は

「ふん、相変わらず小賢しいやつよ…」

 とはいえ、魚津から徹底した補給の確保をしてのけた手腕がなければ今だ柴田は越中にいただろうと盛政は分かっている。

 

「あいつばかりに武功は立てさせぬ。戦場では負けぬぞ隆広!」

 竹筒に残った水を顔面にかけて自らに喝を入れた盛政。

「佐久間隊は戦場に一番乗りを果たすぞ!走れ!走れ!」

「「オオオオオオオッッ!!」」

 

 

 柴田軍は北ノ庄から全軍出陣を終えた。さえとすずは軍勢が向かった先をしばらく見つめていた。

「あの人、二陣の総大将だったんだ…」

「そ、そのようですね…」

 全然知らなかったさえとすず。当たり前だろう。隆広とて出陣直前に下命されたのだから。

 

「奥方様」

 柴田家の御用商人源吾郎が歩んできた。ちなみにさえもすでに源吾郎と云う名は仮の名で本当は藤林忍者の柴舟と云うことは知っている。しかし城下では源吾郎と呼ぶ約束だ。

「源吾郎殿」

「私はこたび留守居として北ノ庄に残ります。頭領より柴田軍に万一あらば奥方二人とお子たちをお助けあるよう言われております」

「ありがとう、その万が一の無いことを一緒に願いましょう源吾郎殿」

「はい。ところで…傷の痛みはどうでございますか、すず様」

 かつての部下と云えど、今のすずは主君の側室、柴舟は態度を改めていた。すずの傷跡と足は気候によって少しの痛みを生じさせていた。

「ええ、今日は比較的温かいので…」

「ただいま、里の薬師に傷に効く薬を研究させております。しばらくご辛抱を…」

「ありがとうございます。でもこれしき何とか」

「いやいや、甘く見てはなりませんぞ。どうか大事に」

「はい」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 京都に向かう柴田軍に蒲生氏郷と九鬼嘉隆が合流した。両名人質を勝家に差し出したが勝家は人質無用と拒絶している。取らぬ方が逆に蒲生と九鬼両家の将兵の心を掴めると思ったからである。安土城の明智秀満を蹴散らした柴田軍は西進を続ける。このころになると水沢隆広が“主戦場は瀬田となりましょう”と断言しており無理な進軍はしておらず、睡眠も食事も十分に取らせていた。

 

 明智光秀は秀満が敗れたことを知らず、柴田軍を迎え撃つべく進軍した。途中雨に降られ、鉄砲の火薬が濡れた。

 

 家老の斎藤利三は『これでは戦にならない』と決戦に反対したが光秀は決断した。そしてついに瀬田の地で明智と柴田が対峙した。日本史三度目となる『瀬田の戦い』である。

 

 結果は柴田軍の圧勝、明智光秀は勝竜寺城に撤退。柴田軍は三手に別れた。勝家本隊は勝竜寺城、前田利家は丹波亀山城、水沢隆広は坂本城に進軍を開始した。

 

 

「姫様―ッ!」

 ここは北ノ庄城、吉村直賢が水沢屋敷に駆けた。味方の勝利を願い、父の甲冑と神棚に手を合わせていたさえの元に待望の知らせが届いた。

「お喜びを!お味方は大勝利にございます!」

 喜びのあまりすずと抱き合ったさえ。

「何よりの朗報です!して直賢殿、あの人は?」

「はい、瀬田の戦の後に坂本城攻めを下命されましてございます」

 と、同時にさえの元に驚愕の知らせが届いた。

 

「奥方様―ッ!」

 柴舟が来た。血相を変えている。

「ど、どうなさいました?」

「う、上杉軍が越前に進攻してまいりました!」

「な…っ!?」

「上忍様…。越後は冬将軍の到来が間近だ云うのに、それでも進攻を?」

 と、すず。

「その通りです。謙信とて今の時期の出陣は控えておりましたが景勝はやって来ました!」

 

「加賀も取られてしまったのですか?」

 さえが訊ねた。

「北陸街道を通過したのみです。金沢城も鳥越城にも上杉は寄せていません」

「妙な動きですな…。今ならば加賀は取れると云うのに…」

 と、直賢。

 

「いずれ柴田本城であるこちらに和戦を問う使者が参りましょう。ともあれすぐに殿のご家族には藤林の里に避難していただきとうございます。明日の朝に迎えに参りますので支度のほどを」

「分かりました」

 

 柴舟は去っていった。上杉軍から戦闘の意思なしと云う使者が北ノ庄に届いたのは、それから数刻後のことだった。荷物をまとめていたさえは

「どういうことでしょう…。越前に寄せていて、どうして上杉軍は…」

 と、不思議でならなかった。

 その上杉の使者が水沢家を訪れた。

 

「ごめん」

 応対に出た千枝は名を聞いて耳を疑った。

「手前、上杉家に仕えし泉沢又五郎と申します。内儀は御在宅ですかな」

 

「お、奥方様~ッ!!」

 大慌てで奥にいるさえを呼びに行く千枝。

「何です、そんなに慌てて。誰が参りました?」

「う、上杉家の方がこちらに!」

 大急ぎで門前に走ったさえ。

 

「私が水沢の室、さえと申します。何用でしょう」

「おお、これは美しい」

「は?」

「いや失敬、夫君とは敵味方に分かれたとはいえ、上泉伊勢守様の同門でございましてな。改めてそれがし泉沢又五郎と申します」

「とにかく玄関先では何ですから、お上がりを」

 

「いやいや、上杉家の者を屋敷に上げてはいらぬ疑念を持たれましょう。それがしはこれを渡しに来ただけにございます」

 一通の封書を出した又五郎。

「…?」

「反感状にございます」

「はんかん…じょう?」

「敵軍の士の武功を記した書にございます。主君景勝より夫君に」

「う、上杉家から主人に?」

 

「はい、夫君は上杉の各城を落とす際、勝家殿を説得して城から落ちる将兵に攻撃しないよう差配いたしました。そればかりか撤退のおりに魚津と富山の城を修築し、戦死者を手厚く弔っておりました」

「……」

「我が主景勝はその武人の心に大変感動し、こうして反感状を記しましてございます」

 

 反感状を受け取ったさえ。さえは嬉しかった。敵将を感動させる振舞いを良人はやっていたのだと思うと嬉しくてたまらない。

 上杉が戦闘の意思はないと表明した理由が分かった。

 

「しかし戦闘の意思がないのに、なにゆえ越前に?」

「手薄の越前と加賀を一向宗の残党が狙っていると云う報が入りましてな。ここは柴田に恩を売っておこうと考えたのです」

 柴田勝家自身の口から『能登と越中を返す』と言わせるために。直江兼続の思慮によるものだった。

 

「そうですか…。まさか上杉家か越前加賀を守って下さるなんて…」

「正直、夫君の振舞いがなければ、我ら上杉は加賀と越前を蹂躙していたかもしれませんな。貴女の旦那様は大したものです。越前にいなくても越前を守る」

 

「ありがとうございます」

「それと、これはそれがし個人の用件ですが」

「はい」

「『大きな男になったな竜之介、又五郎は同門として悔しくもあり嬉しいぞ』と伝えて下さい。そう言えば分かるかと」

「分かりました。必ず伝えます」

「はい、それと『童のころ、ちび介とか言ってすまなかった』とも」

「まあ、ふふふ」

「それにしてもまあ竜之介はべっぴんを嫁にしたものですな、あっははは!」

 

 

 又五郎は去っていった。反感状を神棚に供えて手を合わせるさえ。味方の称賛ならまだしも敵方から称賛されるのはよほどのこと。ましてや上杉家から称賛されるなんて。

 

「奥方様」

「なに?すず」

「今だから言えますが…殿にお仕えした時、何て甘い大将なのかと思ったことが何度かあるのです。優しいと言えば聞こえはいいですが、そんな甘さでこの乱世を生き抜けるのか、我ら藤林は最初そう危惧していました」

「…すず」

「しかし、それは強さあっての優しさと、すぐに分かりました。ご養父隆家様も女子供に優しい大将であったと父も言っていましたし」

「強さあっての優しさ…」

「殿のその強さを支えているのは、奥方様ですよ」

「え…?」

 にこりと笑うすず。

「ありがとう、すごく嬉しい。でも、あの甘えん坊をこれからも支え続けるのは一人でしんどいわ。すずも頼むわよ!」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 一方の隆広、悲しい別れがあった。明智光秀が腹を切り、隆広が介錯をした。光秀は死に際に

『儂の屍を肥やしとして大きな男となれ。織田信長よりも大きな男となれ』

 と言い残した。

 

 子供のころ修行に耐えかねて寺を逃げた竜之介。山中を迷い、高熱を発して倒れたところを助けてくれた光秀。光秀のあの時の優しさがあればこそ、今の自分は生きている。その恩人を討たなければならなかった隆広は我が身を呪った。

 

 光秀と共にいた斎藤利三も自害して果てた。利三は隆広に頼んだ。七つになったばかりの娘、名前は福、一人前の女子になるまで育ててほしいと。隆広は引き受けた。斎藤利三は敵将に遺児を託したのだ。

 

 

 さらに辛い別れがあった。光秀の妻の煕子である。

 幼い竜之介に生まれて初めて母の温もりを与えた煕子。何度も降伏勧告はした。

 しかし煕子は受け入れなかった。一日の母として恥ずかしくない最期を見せましょう、煕子の壮烈な覚悟であった。

 

 坂本城内の兵糧が尽いたころ、城代の明智秀満が水沢陣に使者として赴いた。明智家の家宝、そして息子の左馬介と斎藤利三の娘の福を託すためである。秀満もまた、自分の通称をそのまま名付けるほどの最愛の息子を隆広に託したのだ。

 

 福は隆広を憎しみ込めて睨む。父上の仇、そう思っている。そんな福を隆広は抱きしめ父親になることを改めて利三に誓うのだった。

 

 家宝を託すと云う秀満のふるまいに心動かされた隆広は坂本の非戦闘員である女子供、年寄りを明日の総攻めの前に落ちさせよと秀満に言った。光秀の旧領である丹波の有力者たちに明智の女子供、年寄りを丁重に遇するよう添え書きまで持たせることを約束した。

 

 そして翌日、非戦闘員が坂本を去ったと同時に水沢隆広は総攻めを決行。必死に抵抗するが多勢に無勢、勝負にならなかった。

 やがて坂本城は落城し炎上した。煕子を助け出せなかった無念。隆広は両の拳を握った。

 福は燃える坂本城を見て泣きに泣いた。

「福の、福のお城が…」

 そして隆広を見て

「許すもんか!」

 いつか父上の仇を討ってやる。そう決めた。

 隆広はその日のうちに二毛作に書を持たせた。さえ宛てに手紙を書いたのだ。

 

 

 戦時において、さえが一番楽しみにしているのは良人からの手紙だ。それゆえか、さえは二毛作の馬の音が屋敷の奥にいても分かるほどである。

 届いた手紙を胸ときめかせて広げるさえ。そこには養女をもらったと記されていた。養女にするまでの詳しい経緯も記されている。

『形式だけの養女ではなく、俺は実の娘のように福を愛して立派に育てるつもりだ。さえも福の母親となってほしい』

「お前さま…」

 

 裏切り者と呼ばれる明智光秀の重臣斎藤利三。その娘を養女とすると言う。少し理解の悪い女なら冗談じゃないと思うかもしれない。謀反に組した以上、斎藤利三もまた謀反人の裏切り者なのだ。

 そしてその一人娘。さえは福と自分が重なった。さえの父親もまた謀反人の裏切り者と呼ばれる朝倉景鏡なのだから。

「あの人もお福と私を重ねたかもしれない…」

 

 さえは手紙を懐にしまい、監物を連れて北ノ庄の城下にある福志寺に行った。水沢隆家と朝倉景鏡の墓がある寺だ。父と義父の墓を清めて手を合わせ、本殿に行き改めて仏に手を合わせた。監物も一緒に手を合わせる。

「仏様、もし私が一度でもお福をもらい子扱いし粗略にしたら天罰をお与えください。私は息子竜之介と分け隔てない愛情を注ぐことを誓います」

「姫様…」

 

「いきなり七つの女の子の母親かぁ…」

「母と娘と云うより、姉と妹ですな。年齢差わずか十四にござる」

「ふふっ、しかし手紙によると、お福はあの人を父の仇と思い憎んでいるとか」

「それはまた…」

「燃えてきたわ。見ててごらんなさい。あの人への憎悪を私が思慕に換えてみせるから」

 

 

 やがて柴田勢は越前へと帰ってきた。国境付近で上杉と和議を結び、勝家は正式に越中と能登を返した。そして上杉軍も引き上げて行った。

 北ノ庄に入り、軍勢は解散。隆広はお福の手を握って帰宅。出迎えのため門前に並んでいた隆広の家族や使用人たちを見て怯えの表情を見せるお福。

 さえはお福に歩み、お福の目線に腰を下ろす。

 

「おかえりなさい。私が今日からお福の母になるさえです」

「は、はい…」

「さあ疲れたでしょう。お風呂が沸いているから入りなさい」

 お福に優しく手を出すさえ。お福はそれを握った。

「ほっ…」

 

 安堵する隆広だった。子どもを安心させるに男は女に遠く及ぶものではない。すぐにさえの手を握ったお福に安心した。さえに連れられて屋敷に入ったお福。

 隆広は竜之介を抱きあげて使用人たちに言った。

「みな、あの子は斎藤内蔵助利三殿の一人娘福。彼ほどの武将に遺児を託された以上、一人前の女に育て、しかるべき男に嫁がせなければならない。それまでは当家で厳しくも暖かく育てる。みなも協力してくれ」

「「ははっ」」

 

 福は坂本から北ノ庄までの旅が疲れたか、風呂に入って食事をするとすぐに寝てしまった。さえや侍女たちが暖かく福に対し、福も安心したようだった。坂本から北ノ庄までの夜営中には見られなかった安らかな寝顔だった。

 その寝顔を見て、隆広はさえとようやく二人の時間に入った。

 

「かわいい子です」

 と、さえ。

「うん、だが福は俺を許してはいない」

「お前さま…」

「福は幼いが、さすがは内蔵助殿の一人娘だけあり気の強い子だ。さえも手を焼くであろうが…」

「気長に対し、いっぱい愛し、福の心が開くのを待つつもりです」

 隆広の言葉は、逆にさえの母性本能に火を着けたようだった。

「ありがとう、それと…柴田の名声が高まる一方で明智の名前は畿内でひどい言われようとなっている。人の口に戸板は立てられない。内蔵助殿の悪評は福にも届くことがあろう。父の悪評を聞くつらさを誰よりもさえは分かっているはずだ。支えてやってくれ」

「分かりました」

 

 唐土の故事に『遺児を託す』と云う言葉がある。それは託す者から深い信頼を得ている他ならない。斎藤利三は敵将である水沢隆広を信頼し遺児を託した。それに応えるのは武士の本懐であり人の道。その気持ちは妻のさえにも十分伝わるものだった。

 

「さえ、腹に触れてよいか?」

「はい」

 嫡子竜之介が生まれる前のように、隆広は愛妻の膝を枕とし、お腹に耳をつけた。

「…さすがにまだ何も聞こえないな」

「まだ膨れていませんから…」

「ははは、そうだな」

「だからまだ伽は務められます(ポッ)」

 珍しく大胆なことを述べるさえ。顔は真っ赤であるが。

「今日は明るい部屋が良いな」

「いやです。恥ずかしいですから」


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