三成は人質作戦を完全にはあきらめなかった。その狙いは細川家に向けられた。細川家の大坂屋敷には当主忠興の妻である玉がいた。そしてすでに細川家の屋敷は包囲されていた。
玉こと細川ガラシャはロザリオを握り、信じるデウスに祈りを捧げていた。その後には細川家臣小笠原少斎がいた。
「お方様、お覚悟の時かと」
「……」
玉は三成の人質として大坂城に入れと云う勧告を拒否。玉は子供たちを逃したが、自身は大坂屋敷に立て篭もった。切支丹として自害は出来ない。だが明智光秀の娘として最後の意地を見せてくれると覚悟を決めた。誰が何と言おうと玉は父の光秀を誇りに思っている。
本能寺の変、彼女の父である明智光秀が主君織田信長を攻め滅ぼした。その後、光秀は細川家に援軍を請う。忠興は玉に
『任せておくがいい。光秀殿は我が父ぞ』
と述べたが、父の幽斎は非情だった。長年友誼を深めてきた光秀を見捨て、あげく玉を斬れと述べた。忠興は当初、光秀に加勢するつもりであったが父には逆らえず玉を幽閉に至る。孤独の玉はそのおりにキリスト教に傾倒し、やがて教徒となった。洗礼名はガラシャ。やがて羽柴秀吉より玉を許す旨が伝えられた。細川家に戻った玉の良人への心はすでに冷え切っていた。忠興と玉は明家とさえと同じくらい仲睦まじい夫婦だったが、仲が良かったゆえにこじれたら修復は難しい。忠興は玉をどう扱ってよいか分からなくなり、時にひどい言動も浴びせ、夜閨も拒否しようが無理やり強要した。
それからほどなく、細川家は九州に大幅な領地加増を受けて丹後の地を後にするが玉は豊臣家の御掟に伴い大坂に留め置かれ、そして半ば軟禁状態。細川家臣の監視下に置かれていた。そんなある日、柴田家から細川屋敷に使者が来た。明智日向守様の周忌を西教寺で行うので玉も出席して欲しいと云うのである。
羽柴秀吉に討たれた明智光秀、当時は稀代の謀反人として蔑まれていたが光秀に恩義のある柴田明家は『日向殿は丹波の民に今も慕われています。丁重に弔うことは殿下の器量を丹波の民に示す良きことと存じます』と秀吉を説得し、光秀を弔うことを許された。明家は光秀旧領の主なる民と話し合い、光秀がその音色を好んだと云う鐘がある西教寺を菩提寺に選び、光秀夫婦を弔った。光秀の嫡子の光慶は討ち死にしており、明智秀満、津田信澄に嫁いでいた二人の娘は明家の領地で丁重に遇されていた。明家はその姉妹と共に毎年光秀と熙子の周忌を行っていたのだ。
今までの周忌にも明家は玉の出席を要望していたが忠興が行かせなかった。しかし忠興は九州にあり玉は大坂。細川が丹後の大名の時はかなわなかったが今ならば、と玉は細川家臣に父の御霊を慰めに、ぜひ行かせてほしいと懇願。根負けした家臣たちは忠興様には内緒で、と云うことで許した。細川屋敷に柴田家の迎えが来て、輿に乗って西教寺に行った。父の御霊に会うためもあるが、何より玉は明家に会いたかった。初恋の男子、竜之介に。玉を出迎える姉妹。懐かしい姉と妹の姿に涙が溢れた玉。
「姉上様、英!」
長女はすでに没しており、次女から四女の光秀の娘たちは再会を喜び抱き合った。次女は園、四女は英、すでに落飾して尼僧となっている。
「元気そうね玉」
「姉上様も」
「玉姉さん、今日は語り合いましょうね」
「ええ英、本当に懐かしい…」
すると寺の入り口から
“越前守様、ご到着”
と云う声が聞こえてきた。玉の胸が高鳴る。初恋の人、竜之介が来た。数人の供を連れて西教寺の境内に来た明家。園と英が頭を垂れた。
「お二人とも、早いですな」
「「はい」」
明家は玉に気付いた。
「……た、玉子か?」
「はい…!」
「……き、きれいになったな…」
「竜之…い、いえ越前殿もご立派に」
(何と凛々しき!美しさすら感じる)
それに加わり、今の世でただ一人、父光秀と母熙子を大切に思い丁重に弔ってくれた人物でもある初恋の人。玉の胸は少女のようにときめいた。典礼は滞りなく終わり、最後に明家は改めて光秀と熙子の墓に合掌した。玉も一緒に合掌する。
「美濃の山中で光秀様に命を助けられずいぶん経つが…何か昨日のように感じるな…」
「はい」
明家は少年期に養父長庵の課す修行に耐えかねて正徳寺を飛び出したことがあった。その道で彼は川に落ち、やがて熱を出して倒れた。路傍で倒れていた竜之介を光秀が助けた。そして悪寒で震える竜之介を抱きしめて温めてくれた光秀の妻の熙子、明家はその恩義を終生忘れない。そしてそこにいた美少女に生まれて初めて恋をしたことも。
「越前守殿」
「竜之介でいい。何だ?」
「何で父の墓を作ってくれたのですか?こんなことをすれば太閤殿下に睨まれましょうに」
「死ねばみな仏、謀反人も天下人もない。ま、今の言葉はさすがに言えなかったけれど…光秀様と熙子様がいなければ今の俺はない。せめてもの恩返しかな」
「竜之介…」
「何よりこうすれば…」
「え?」
「玉子が喜ぶと思った」
「りゅ、竜之介ったら(ポッ)」
コホンと一つ咳をした玉。
「そうね、嬉しいわ。たとえ誰が何と言おうと父上は私の誇り。大好きなの」
明家は二十年ぶりに会った初恋の女に胸をときめかせた。同じ思いを玉もしているとは想像もしていないだろうが。だが必要以上に親密になるのは許されない間柄である。別れを惜しみながら言葉を交わす。公の場なので言葉も丁寧だった。
「玉殿、来年の周忌、またご参内いただければと存じます」
(元気でな玉子、来年また会おう)
「喜んで参らせていただきます、越前守殿」
(うん、楽しみにしているわ竜之介)
目を見れば互いの心の中にある本当の言葉も分かる。たった一日の再会であったが、それほどのものであった。しかし、これが今生の別れであった。この西教寺行きも忠興に知られ、翌年は行くことを禁じられたのであった。
炎上する細川屋敷。キリスト教徒は自害を禁じられている。玉は細川家臣の小笠原少斎に自分を切れと命じた。首を刎ねやすいよう、髪をたくし上げる玉。
「違いまする奥方様」
「え?」
少斎は胸のロザリオを握る仕草をした。少斎の意図を察した玉は着物の胸元を掴んで両手で広げた。
「遠慮は無用、玉はデウス様の元へと参ります」
槍を構えた少斎。
(竜之介…)
槍が玉の胸を貫いた。
(今度生まれくる時には貴方と…)
玉は死んだ。辞世『散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ』享年三十八歳。
西軍の人質作戦。柴田家は何とか退けたと云うさえからの報告を陣で読んでいた柴田明家。胸を撫で下ろしていたところ
(竜之介…)
「ん?」
文を読む目が止まった。それに気づく勝秀。
「どうしました父上」
「いや、何でもない」
(玉子の声が聞こえたような…)
やがて忠興に玉の死が伝わった。玉の侍女が知らせに来たのだ。どんなに冷たく当たっても、そして嫌われようとも忠興は玉を愛していた。聞くや忠興は
「すまぬ…玉…!」
と泣き崩れ、そして怒りの形相で西方を睨んだ。
「治部めが…!絶対に許さんぞ…!」
明家にも玉の死は伝わった。聞いた時は『そうか』しか言わなかったが、その夜、陣屋で一人篭り玉の死を悲しんだ。今も愛している初恋の女。それが死んで悲しくない道理があるだろうか。
この諸大名の妻子人質作戦は失敗だった。逆に怨嗟を抱かせ裏目となる。人質作戦は頓挫するも、三成の構想する家康討伐計画は毛利輝元を担ぎ出したことを成功させた以上、中々良好な滑り出しに見えた。しかし実情を見ると前途は暗い。
伏見城陥落の知らせを受けたのは二十四日、下野小山に到着した日のことだった。山内一豊の妻である千代が機転を利かせて良人の一豊に知らせたのだ。家康は諸将を集めた。世に云う『小山会議』である。明家も参集が命じられた。家康の陣に向かう明家に山内一豊と堀尾忠氏が声をかけた。堀尾忠氏は一豊の朋友である堀尾吉晴の次男で堀尾家当主。そして一豊の一人娘与禰姫の良人である。
「いよいよ治部が立ちましたな越前殿」
と、一豊。
「そのようですね」
「越前殿は治部の旧主、どうなさるおつもりか?」
堀尾忠氏が訊ねた。
「さあて、まずは徳川殿の話を聞かないことには。では急ぎますので」
足早に明家は走り去っていった。
「うーむ、婿殿、越前殿が治部についたら厄介ですぞ。何せあの淀の方様の実兄、彼が治部につけば秀頼様の出馬もありうる」
「確かに。徳川殿は越前殿に根回しとかしておらんのでしょうか」
「どうじゃろな」
「とにかくそれがしは徳川殿が西進される時、浜松の城を差し上げる所存。味方をする限り、このくらいはせんと」
「城を?」
「はい」
「ふーむ」
そして徳川家康本陣、石田三成が挙兵した旨を改めて伝え、そして伏見城がすでに西軍の手で陥落したことも告げた。そのうえで
「諸侯の証人(人質)は全て大坂におられる。それゆえ全員自由にこの陣を引き払い大坂にへ上り、西軍に属するのは自由にござる。留め立てはいたさぬ」
と諸将に言った。静まり返る家康本陣。誰もが秀吉亡き後の天下人は家康と思っていた。だが家康に付くのは豊臣家に弓を引くこと。すぐにクチを開く者はいなかった。
家康は柴田明家に視線で合図を送った。事前に『味方を表明して欲しい』と家康に頼まれていた。それはそうだろう。現在ここにいる軍勢で徳川本隊を除けば一番多くの軍勢八千を持つ三十二万石の大名の柴田明家。しかも大老であり人望もある。黒田長政、本多正信はこの上杉攻めの進軍の中、『もはや三成との合戦は避けられない。三成と親しいのは知っているが、ぜひ徳川についてほしい』と要望されていた。
特に正信は必死だった。明家が石田につけば秀頼の出陣さえ考えられる。明家自身は自分が茶々にそれを要望しても拒否されることは分かっていたが、徳川の者でそれを知る者はいない。柴田明家さえ徳川につけば秀頼出馬の危険性はなくなる。たとえ柴田軍が戦場で首一つ取らなくてもかまわないのである。徳川についてさえくれれば、その名前だけで十分なのだ。
しかし明家は中々旗幟を明らかにしなかった。できなかった。やはり三成と戦うのは気が重かったのである。明家は家康自身にもそう言った。すると家康、
『お悩みあれ、よくよく考えられよ。あっさり組した者ほど逆に油断できぬもの。もし治部に付いたとしても怨みはいたさぬ。堂々と戦場で合間見えよう』
と返した。だが小山会議前日、いよいよ天下取りの大合戦の前にはそんなことも言っていられない。明家が『西軍につく』と言って引き揚げれば、賤ヶ岳で戦い、朝鮮の役ではその采配で戦い、柴田明家の恐ろしさを知る福島正則や加藤嘉明も去りかねない。家康は明家の陣に自ら出向いて助勢を願った。この時すでに明家は家臣に家康に付くことを明言していたため了承した。そして会議の皮切りを要望された時、
「お安い御用です。それがしが真っ先に発言いたしましょう」
「おお、ありがたい」
本多正信と顔を合わせ安堵する家康。だが明家はしたたかである。
「お味方すること、そして会議の皮切りを担うこと、それに伴い要求して良うございますか?」
「何でござる?」
「これから起こるであろう大合戦、それがしも粉骨砕身戦いますが、その合戦で勝利を収めし時…」
「無論、大幅に加増いたしますぞ」
「新たな領地はいりません。武功に見合う金銀でいただきたいのです」
「は?」
「しかしながら丹後若狭より柴田を移動させず、徳川ある限り丹後若狭は柴田家の国であること、かつ世の情勢がどう移り変わろうと柴田が現状で行っている交易の継続、そして更なる販路開拓を許すと云うお墨付きをいただきたいのです。これを受け入れて下されれば西軍との戦で柴田がどのように武功重ねても領地の加増はいりません。金銀で結構です」
つまり現状維持を約束せよと云うことだ。今の願いの口上を記した書面を家康に差し出す明家。正信と家康は読み、顔を見合った。正信はうなずく。家康は了承した。
「良うござる。すぐにお渡した方がよろしいですかな」
「はい」
はたしてこれは無欲か、いや違うだろう。正信は心中で苦笑した。
(なんてしたたかな奴…。一見無欲にも見えるが、さにあらず。とんでもない欲張りじゃ…)
家康は一旦本陣に帰り、『お墨付き』を書いて明家に渡した。封書の表には徳川の三つ葉葵の紋所。文には家康の印判と花押(サイン)が記載された。
「確かに、柴田はけして盟約にそむきません。お任せを」
同じく心中で苦笑していた家康。
(何ともちゃっかりした奴よ、無欲のようで実はそうではない。かつ、こういう時に無欲な男は逆に信用されないとも心得ておる。とにかく今は越前が助力は不可欠、丹後若狭二ヶ国とは云え合わせて三十二万石、保証するくらい容易いわ)
しかも明家、自分は丹後若狭だけで十分。家族、家臣、領民が安泰ならそれでいいと家康に示している。つまりそれ以上の野心はないとも暗に言っている。家康も信長と秀吉にはずいぶん配慮したものだが、この若僧も中々と家康は感心していた。家康にはそれが振りかそうでないかは分かる。明家には天下を取ると云う野心はないのだ。ただ、この国から合戦がなくなれば。それが明家の悲願であった。そして家康にとっても。
そして小山会議。約定どおり柴田明家が立った。
「この越前、内府殿にお味方いたす」
他の諸将は驚いた。石田三成と水魚の君臣であった柴田明家が真っ先に味方すると明言したのだった。
「言われるとおり、妻は大坂。しかしそんなことで去就を迷うのは武士としてはならぬこと。それがしは内府殿に己が夢を賭けまする」
「己が夢とな越前殿」
「戦のない世の到来です。もうたった一つの合戦が民の汗水の結晶たる稲穂を台無しにする世は終わらせなければなりませぬ。それがしが父母の仇である太閤殿下に仕えたのも戦のない世を作りたかったがゆえ!もしこの大合戦、縁起の悪いことを申し上げて恐縮にございますが治部が勝って何になりますか。御歳七歳の秀頼様に政治は出来ず、結局治部が実権を握ります。それを全国の諸大名が黙っているとは越前思えませぬ。またぞろ天下は騒乱となりまする。しかし内府殿ならば乱世を終わらせることが出来る!創造も守成も!そのためならこの越前、治部との友情を断ち、徳川家康を勝たせます!」
「お、おお…、おおお…!!」
家康は床几から立ち、明家を見つめ、そして心で言った。
(の、信康…!まさにそなたを見るようじゃ!)
たとえ出来ていた話とはいえ、味方をすることを主張する言葉までは決まっていない。明家の言葉は他の諸将たちを同時に説得もしていた。『治部が勝ったとしても何になるか』と。
家康が明家と親しくしていたのは、明家を認めていたこともあるが何より言動や仕草が亡き嫡男信康にそっくりと云うことだった。あのまま信長に殺されず、長じていたらこんな武将になっていたのではないか、こんな言葉を発していたのではないか、家康は明家を見て何度もそう思った。
だから明家から妹の江与を徳川の若者にと要望されたときは世継ぎの秀忠と娶わせ、秀吉に謀反をした時には庇った。何か助けてやれずにおれぬ不思議な気持ちだった。徳川信康と柴田明家は一つしか年齢が違わない。『徳川家康を勝たせる』と云う言葉も亡き信康は三方ヶ原の合戦前に父の家康に言った。それを明家は知らない。立ち会っていた本多忠勝は『信康様と同じことを…』と驚いていた。
柴田明家に徳川信康の面影がある、それを感じていたのは父の家康や忠勝だけではない。信康の妻であった五徳姫(信長の長女)、彼女は織田信雄の人質として京に滞在していたが聚楽第にて明家の背中を見た瞬間に『信康様』と発している。信康正室が見間違うほど明家には信康の面影があったと云うことだ。
ちなみに信康切腹事件の発端は彼女と現在言われているが、それは後世の創作に過ぎない。彼女自身が父の信長に懸命に助命嘆願した事実があるのである。ゆえに彼女は良人を死に追いやった父親を憎み、信康の死後は父のもとではなく兄の信忠のもとに身を寄せている。五徳と明家は同年齢である。後年に親交を持つ二人であり、音曲や踊り、連歌などを楽しんだという。しかし女好きの明家だから愛人説もあり、五徳自身もそれを否定しなかったと言われている。
話は戻る。
「のぶ…いや越前殿、よう申して下された!家康は今のお言葉忘れませんぞ!」
家康は明家の手を握り感謝を示した。
「先陣を頼まれて下さるか!」
「喜んで拝命いたします」
明家の発言が皮切りとなり、次々と味方を表明する諸将。そして山内一豊、隣に座る忠氏に言った。
「どうされた?先のことを申し上げなくては越前殿以上の印象は与えられませんぞ婿殿!」
いざとなると堀尾忠氏は居城明け渡しを申し出ることをためらった。まだ徳川と石田、どっちが勝つか分からない。石田が勝てば堀尾は路頭に迷う。忠氏が申し出ないので一豊、
「徳川殿、それがしを越前殿の先陣部隊に組み入れて欲しいと存じます」
「対馬殿(一豊)」
「また、この合戦に先駆け、掛川の城、差し上げまする」
家康も驚くが忠氏も驚いた。
「な、何と申された対馬殿」
「それがしの掛川には長年により蓄えた兵糧もございます。すべて徳川殿にお渡しいたします」
「対馬殿!家康感謝の言葉もない!」
会議の流れと云うのは恐ろしいもの。家康の西進の途中にある城を持つ諸大名が競って城の明け渡しを申し出た。
「各々方に感謝いたす。それでは西に向かい、石田治部と決戦いたす!」
「「「オオオオッッ!」」」
本陣を引き揚げる堀尾忠氏を呼び止めた一豊。
「すまん」
「何のことでございますか?」
「婿殿の案を横取りしてしもうて…」
「いえ、大事の時に申せなかったそれがしが未熟なのです。ああいう席でもすでに戦は始まっているもの。改めて学びました」
「婿殿…」
ペコリと頭を下げて忠氏は自陣に帰っていった。
「対馬守殿」
「おお越前殿」
「思い切ったことを申されましたな。それがしの言もかすんでしまいました」
「いやいや、実は婿殿の考えたことをそれがしが横取りしたのでござるよ」
笑いあう明家と一豊。
「しかし、この戦がそれがしの最後の出陣となりましょうな…」
「それがしも最後にしたいものです」
「その最後の戦を越前殿とできるとは幸運でござる」
「それがしも同じ思いです。共に先陣にござれば、功名を立てましょう」
「おう!」
そして柴田明家の居城である舞鶴城に丹波福知山城主である小野木重勝(公郷とも)を総大将とする丹波と但馬の軍勢が向かった。その知らせを聞いた奥村助右衛門。
「申し上げます!丹後の民たちが国境に陣取り、西軍の侵入を防ごうとしております!」
「すぐに解散させよ!民を盾にしたとあっては助右衛門、主君越前守に合わす顔がないわ!」
「はっ!」
小野木重勝は助右衛門の居城である小浜は無視した。事前に小浜には千五百ほどの兵しかいないと云うことは調査済みである。本城の舞鶴に援軍の出しようもない。舞鶴を落とせば他の城も落ちる。舞鶴には奥村助右衛門率いる柴田の精鋭が守備に当たった。助右衛門は藤林忍軍に明家の胸中揺れていると噂を流させた。しかしさすがは石田三成、藤林が流した噂に過ぎないと歯牙にもかけなかった。
「やはり効かぬか佐吉には。柴田明家をよく知っておる」
「ご家老」
と、松山矩久。
「ん?」
「民が敵の進軍を防ごうとした。殿は領民に慕われていますな」
「そうだな、ならばこそ殿を慕う民たちのため、踏ん張らねばならん。援軍はないが負けんぞ」
「御意」
「矩久、そなたは貧乏くじを引いたかもしれんぞ」
「なあに、終わってみなければ分かりませんよ。こっちの方がでっかい当たりクジかもしれないではないですか」
明家が城の防備にあたり、慶次、鹿介、勝秀以外の将を好きなだけ連れて行け、と言ったが助右衛門は矩久だけで結構です、と返した。隆広三百騎の筆頭にして黒母衣衆筆頭の松山矩久、不良少年のたぐいであった彼だが今では智勇兼ねた立派な大将となっている。助右衛門が矩久だけでいいと言ったことがそれを物語っている。
「かわいい幼な妻のためにも負けられぬな」
「はっははは、ご家老、手前の妻とて、もう三十を越していますぞ」
「そうだったな、どうにも昔の印象が消えんよ」
矩久は二十三歳の時に十二歳の村娘を妻にした。仲間たちが次々と年頃の娘を嫁にもらうなか独り者だった彼。そんな彼がある日突然に十一年下の少女を妻とした。北ノ庄城の郊外で新田開発を主君隆広と遂行していた時、たまに給仕に来るその少女を見初めていた。少女の名前は春乃と云う。
そして主命を終わらせ城下に帰る日、意を決した矩久は大きい籠を背負って春乃の家に行き、春乃の父母に『娘御を嫁に下さい』と懇願、娘の幼さと農民と武士は一緒になれないと言うのを理由に父母は断るが矩久にそんな理屈は眼中に無く春乃を抱き上げるや『俺の女房になれ』と籠の中に入れて自分の家に連れて帰ってしまった。春乃の父母は何のためにそんな大きな籠を持ってきているのかと思ったが、まさか娘を入れて持ち帰るためとは思わず、大急ぎで追いかけたが健脚の矩久は足が速く逃げられてしまった。現在なら完全に誘拐である。当然春乃の父母は激怒したが矩久の熱意に根負けし、しばらくすると嫁入りを認めたと云う。家中から『お前、少女趣味だったのか』とよく言われたものだった。
かわいい幼な妻の春乃のためにがんばり続け、陰日向に主君明家を助け、筆頭家老の奥村助右衛門にも深く信頼された。その奥村助右衛門と松山矩久が主君明家の城を守るべく命がけで戦う。
そして舞鶴城の奥、柴田明家の側室しづ、甲斐、そして勝秀正室の姫蝶がいた。
「まさか再び、篭城戦を体験しようとは…」
と、甲斐姫。武蔵国(埼玉県)忍城にて石田三成二万の軍勢と戦って以来の篭城戦であった。
「私も丸岡以来です…」
しづが答えた。まだ少女であったが給仕と看護に懸命に励み、降伏落城の時は大声で悔しさに泣いたことを覚えている。
「私は初めてです。怖い…」
体を震わせる姫蝶。
「大坂の屋敷も大変であったそうにございますが、こちらも安全ではございません。でもしづ様、姫蝶様、けして殿の判断を怨んではいけませんよ。東軍についたのは絶対に誤りではありません」
「甲斐殿…」
「治部ごときに天下が取れるはずがない。少しの辛抱です」
「そのとおりです」
「奥村殿」
助右衛門が来た。しづ、甲斐、姫蝶は頭を垂れた。本来は明家以外は入れない奥であるが、今の助右衛門は城代であり、彼の妻の津禰と側室の雪駒も奥にいた。
「甲斐姫様、少し宜しいか」
「…?はい」
甲斐姫は奥から連れ出された。
「奥村殿、なにか?」
「まあ、ついてきて下され」
「…?」
甲斐姫は助右衛門に言われるまま、舞鶴城の櫓まで連れてこられた。
「ご覧あれ」
「……!?」
城門の前には三百から四百の牢人たちがいた。牢人たちは甲斐姫に気付いた。
「おお!姫様じゃ!」
「我らが菩薩様じゃ!」
「甲斐姫様―ッ!」
「おお、相変わらずめんこいなぁ!」
「お、忍城のみんな…!」
甲斐姫の目に涙が浮かんできた。みんな知っている顔ばかり。石田三成の忍城攻めで共に命がけで二万の軍勢に立ち向かった仲間たちだ。成田家の旗を誇らしげに掲げている坂東武者の男たちである。各々が武州の地で野に下り帰農していた者たちで、中には彼女の父である成田氏長(正史ではすでに故人。本作では存命とする)の烏山三万石に再仕官できていた者さえこちらに駆けつけた。畿内に孤立する舞鶴城に甲斐姫がいると知り、彼らは飛んでやってきたのである。
「姫!我らも戦いますぞ!」
「一緒に西軍と戦いましょう!」
「まったく敵中に孤立しているこの城に加勢に来るとは物好きな」
苦笑して松山矩久が言うと甲斐姫は言った。
「それが坂東武者です!窮地にある者を助けるのが武人にございます!」
「甲斐姫様」
「何です、奥村殿」
「貴女こそが成田家だ」
鳥肌が立つほどに嬉しかった助右衛門の言葉だった。
「これ以上泣かせてくれますな…!」
「矩久、願ってもいない精鋭が援軍に来て下された。城に入れよ。まさに人は城、人は石垣よ!この戦、勝てるぞ!」
「はっ!」
城門から成田の旧臣たちが甲斐姫に殺到、甲斐姫はむさい男たちにもみくちゃにされながらも再会に感涙していた。それを見つめる助右衛門と矩久。
「殿は注意しないとな。我らが姫にこの世で唯一触れる資格を得ている者がろくでなしなら彼らに殺されるぞ」
「あっははは、お姫様を妻にするってのは大変ですな」
その夕方、軍議があった。そこに甲斐姫は甲冑姿で現れた。怪訝そうに甲斐姫を見つめる奥村家と松山家の重臣たち。しかし、その姿は大三島大明神の化身と呼ばれる鶴姫さながらの美しさである。真紅の着物に坂東の甲冑がよく映えた。評定の間の入り口で頭を垂れる甲斐姫。
「奥村殿、私、甲斐も戦わせて下さいませ」
「……」
「西軍は総大将が毛利輝元であろうが、率いるのは治部、忍城の戦の借りを返したいと存じます」
「承知した」
甲斐姫が逆に驚くほどあっさり助右衛門は認めた。
「「殿…!」」
仮にも当主の側室を戦場に出して、もしものことあらばと助右衛門の家臣たちは諌めるが助右衛門はそれを手で制した。
「姫、参陣する気ならばどうしてもっと早く来ないのだ。あんな精鋭を得た貴女を戦見物させるゆとりは当方にはないことくらい分かるであろう。おかげで持ち場がすでに大半決まってしまったのに、また最初から段取りし直しだ。大事な軍議に遅参とはたるんでおるぞ」
「こ、これは甲斐の落ち度でした。申し訳ございませぬ」
甲斐姫の後には武者一人がついてきた。堂々とした武人だ。
「城代の申すとおりにございます。姫と共にお詫びいたします」
「手前は柴田家家老の奥村助右衛門永福と申す。ご貴殿は?」
「元成田家家老の正木丹波守利英と申します」
「ほう、貴殿がそうか」
「手前をご存知で?」
「関東に攻め入った滝川一益と戦い、本能寺の変の後に滝川勢を追撃して震え上がらせたと聞く。そして忍城の戦では長束正家の軍を撃破したと」
「これは恐縮にございます」
「我が主、柴田越前に貴殿らの参戦を知らせるゆとりはないが、この奥村、家老と小浜城主の職責を賭けて貴殿らの厚遇を約束いたす」
「恐れながら城代、戦が終われば我らは再び武州に戻り土に生きる所存」
「ん?」
「我らはただ、窮地にいる姫をお助けに来ただけにございます。何もいりませぬ。ただ姫ともう一度戦い、豊臣に一矢報いるための機会を与えてくれれば良いのです」
フッと助右衛門は笑った。ここまで家臣の心を掴んでいる者を見たのは二人目だ。甲斐姫が男に生まれていたら、はたして三成は忍城で勝てていたか疑問だ。
「さ、座られよ。軍議を始めますぞ」
「はっ」
そして翌日、
「敵勢確認!総数一万五千ほどかと思われます!」
使い番が知らせた。
「来たか西軍!舞鶴は柴田明家が築城した城、易々とは渡さんぞ!迎撃準備!」
「「「オオオオオオオオッッ!」」」
のぼうの城で御馴染みの正木丹波登場です。彼の墓所は埼玉県行田市にありまして、一度墓参したことがあります。大好きなんですよねぇ、のぼうの城は。
それと、矩久が幼な妻をかっさらうあの場面は、明治時代の偉大な政治家、田中正造翁が妻の大沢カツさんに求婚した時のエピソードです。紛れもない実話ですから本当にいたわけですね。見初めた女を背負う籠に入れて連れ帰ってしまったと云う豪傑は。昔の男は色恋もまたすごいです。