天地燃ゆ   作:越路遼介

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愛馬ト金

 初夜の明けた朝、隆広は庭で木刀を振っていた。いつもより振る回数が多い。こうでもして体力を使わないと、朝起きたと同時に新妻を求めてしまう気がした。

(女とは…あれほどに良いものだったのだな…。女で身を滅ぼす男が後を絶たないのがよく分かる。オレはまだ修行の身。新妻の肌に溺れるなどあってはならん)

 だが、たった今自分に戒めた事も愛妻の顔を見て吹き飛んでしまった。さえが隆広を呼びにきた。

「お前さま、朝餉の支度ができました」

「うん」

(お前さまかあ…いいなァ…)

「どうなさいました? ポーとして?」

「ん? いや昨日の閨を思い出して…」

 カァッとさえの顔が赤くなった。

「は、早く食べて下さい! んもう!」

 

 戦国武将の中で正室を深く愛した男は多くいるが、隆広はその中でも五指に入るほどだった。彼は正室さえを溺愛したと云う。後に隆広も側室を持つようになるが、やはり正室のさえを一番愛した。

その猛烈な愛妻家ぶりは他の大名も知るほどに有名で、隆広は陣中からも妻に恋文を送り、敵方が大事な密書と勘ぐり、その書状を奪った時、あまりの熱烈な文面に敵将が赤面したほどである。

 無論、水沢家中では周知のことであるが、家臣や侍女たちが時に目のやり場に困るほどであった。さらに困ったことに隆広は妻とのノロケ話を家臣や家臣の妻にするのが大好きだった。そのノロケ話に相槌を打ち、かつ聞き流せるようになって初めて隆広の家臣団や家中の女衆では一人前と言われたほどだった。

 

 そして今は新婚ホヤホヤ。食事をしながらウットリと自分を見つめる隆広を見て、嬉しい反面、さえは不安になってきた。

(大丈夫かな…女を知ったとたんに堕落なんてしないでしょうね…)

「さえ、今日の朝餉も美味しいぞ」

「そう言ってもらえると、作りがいもございます。ところでお前さま」

「ん?」

「明日に安土へ発たれるそうですが、今日は何を?」

「外出は明日に乗っていく馬を錬兵所に注文してくるくらいかな。あとは家で報告書を何枚か書くくらいだよ」

「そうですか」

「うん、今日一日、さえと一緒だ」

「んもう、お前さまったら」

 

 その報告書は、主君勝家に述べた九頭竜川の治水工事に伴う費用の見積もりと、実行する場合の治水方法について記したものである。

 開墾作業の寸暇を利用しては、隆広は氾濫の起きた地域を調べて製図にしていた。今それを一枚一枚入念に分析して報告書を書いている。文机に向かい、算盤をはじき、筆もスラスラと進めている隆広の姿を見て、さえは安心した。仕事をしている時は、やはり以前に見たように厳しい顔をしていたからだった。

(そうよね、私が見込んだ隆広様が女を知ったくらいで堕落するワケないわ!)

「お前さま、お茶を」

「うん、ありがとう」

「何をそんな真剣な顔をして書いていたのです?」

「ん? ああ九頭竜川の治水についてさ」

「九頭竜川の?」

「途中まで、『霞堤』と云う治水技法で朝倉氏がやっている。それを上手い具合に継げないものかと思ってな」

「……」

「そう、その『霞堤』の治水工事の現場指揮官は、さえのお父上の朝倉景鏡殿だ」

「し、知っていたのですか?」

「現場に行くまでは知らなかったよ。だって開墾地は景鏡殿の領地だった大野郡じゃないからな。景鏡殿は主君義景殿に九頭竜川の氾濫の脅威を訴え、進んで主家の領土の治水を行った。だが織田の大攻勢でその工事は中止にせざるをえなくなった。景鏡殿は工事を中止することを地元領民に詫びたそうだ。地元領民は武士が初めて自分たちに頭を下げたのを見て大層驚き、そして感動して、その名前を覚えていたんだ」

「……」

「言いにくいが、オレも景鏡殿の事を少なからず良い印象は持っていなかった。だから河川沿岸の領民にそれを聞いたときは正直言うと驚いた。そして、その後にさえに求婚して知ったそなたの父の名前。不思議な偶然もあるものだな…」

「お前さま…」

「景鏡殿は当時、朝倉の重鎮。それが民に頭を下げるなんて、そうできることではないな。さえの云うように…残念ながら景鏡殿は歴史に汚名を残し続けるであろうが、旧朝倉領に景鏡殿の心底を知っている民はいた。素晴らしいことだ」

「お、お前さま…」

「さえ、そなたの父が無念にも途中でやめざるをえなかった九頭竜川の治水。なんとか柴田のチカラで引き継げるよう、がんばるよ。景鏡殿はオレにとっても父上だからな!」

「んもう…女房を泣かせる事ばかり言って」

「さすがはオレの見初めた女子。泣き顔もかわいいなあ」

「んもう、知りませぬ!」

 さえは隆広の部屋を出て行った。嬉し涙を前掛けでぬぐい、ふと空を見上げた。優しかった父の顔が浮かんできた。

「父上、見てくれましたか…。私が好きになった殿方を。父上の仕事を継いで下さると言って下さいましたよ…。きっと父上が今も生きていたら…天下一の婿殿をもらったと私を褒めて下さったでしょう…」

「さえ―ッ」

「は、はい!」

「錬兵所に馬を注文に行く。ちょうどいい小春日和だ。散歩がてら一緒に来ないか?」

「はい、すぐに支度します」

「別にそのまんまのナリでも十分かわいいぞ」

「んもう! 女には色々と準備があるのです!」

 あの世にいる、さえの父、朝倉景鏡も天から娘夫婦を見守るにも、どうにも目のやり場に困ったに違いない。

 

 城下町を歩く隆広とさえ。当時は『女は男の三歩後ろに』が一般的であったが、二人は並んで歩いた。さすがに往来で手は繋げなかったが、ピッタリ寄り添っているので道行く人たちは仲睦まじい若夫婦に微笑んでいた。

 そんな中、商店に活気がないことや、町行く人が沈んでいる事にさえは気付きだした。

「あまり商家に活気がございませんね、人々も何か元気ないですし」

「そろそろ、年貢の時期だからな…。みんな頭を悩ませているのだろう」

「あ、そういえばそんな時期でしたね…」

「一揆が起こる最大の原因は重税だ。だから一向宗門徒に付け入られてしまう。そして、その門徒を倒すために軍備がかさみ、いっそう民に税を強いるしかない。泥沼だな」

「その泥沼を打開する方法はないのですか?」

「ある。大殿のやっている楽市楽座の導入。そして柴田家中に『国費を稼ぐためのみの商人集団』を作ることだ。民からの搾取のみで国費をまかなう時代はもう終わりにしなければならないんだ」

 さえはピタと歩くのを止めた。

「どうした? 何かオレ変な事言ったかな?」

「い、いえ…」

 隆広がポツリと言った一言にさえは驚いた。特に『民からの搾取のみで国費をまかなう時代はもう終わりにしなければならない』と云う言葉。こんなことを言う武士をさえは初めて見た。しかも、それを言ったのはまだ十五歳の少年である。

 夫が柴田家中で重職につけ、私がその内助をできたらどんなにいいだろうと、さえは思っていたのだが、さえはこの時に初めて感じた。柴田勝家、前田利家、可児才蔵が思ったように、もしかすると夫はとんでもない大将になるのではないかと。

 

「ほら、もっとくっついて歩こう」

「は、はい!」

 再びピッタリ夫にくっつき、一緒に歩くさえ。そして聞いてみた。

「お前さま、軍資金を稼ぐためのみの仕事って?」

「つまり柴田家そのものが産業を持つことだよ。敦賀港があるとはいえ、今まで柴田家は敦賀商人から税を取るだけで、自分で交易をしようとまで考えていない。越前の名産は漬物、米、味噌、醤油、塩、蕎麦。そして日本海の恵みだ。大規模な大陸交易をしなくても、利益は望めるし、何より減税が可能となる。越前内にある城の商店すべてに出店に伴う関税もなくせば、色々な商人が領内に来て、国は富むし、名産も新たに生まれる事だってある。つまり交易だけでも、柴田家が直接行う事でこれだけの成果が見込まれるんだよ」

「すごい、夢のようです。とうぜん城下も賑わいますね」

「ああ、文化だって入ってくるし、美味しい食べ物だって入ってくる」

「すごいすごい!」

「その実現のために、オレも働くつもりだよ。越前のため、殿のため…そして…」

「そして?」

「愛しいさえのために」

「んもう!」

 手は繋いでいなくても、ハタから見て十分にイチャイチャして見える二人だった。ある母親などは幼子の目を隠したほどだった。

 

 錬兵所に到着した。錬兵所の兵士が隆広に歩んできた。

「これは水沢様」

「うん、竹作殿、勤めお疲れ様にございます」

「おお、それがしの名前など覚えておいてくれたとは嬉しゅうございます。今日は何用でございますか?」

「ええ、明朝に君命で安土に発ちます。大殿への使者ゆえに急がなくてはなりません。足が速く多少の段差など問題にせぬ馬を借り受けたいのです」

「かしこまりました。では放牧場にご案内いたします」

 

 竹作と共に、放牧場に行く隆広。しかし到着すると少し顔をしかめた。

「お前さま? どうしたのです?」

「うん…」

「水沢様、お気に召す馬がございませんか?」

「竹作殿、軍馬の仕入れはいつから滞っていますか?」

「恐れ入ります。一年以上は新馬の仕入れがございません」

「そうか…馬がなくては合戦にならない。殿も頭を悩ませているだろうな…」

「お前さま、どうして軍馬の仕入れが滞っていると?」

「負傷している馬と、歳を取った馬が多い。ましてや越前や周辺の地域の馬単価は高く、この近辺に野生馬の生息地はない。かといって安価な馬は一合戦でつぶれてしまう事も多い。他領の馬商人に注文をするも、おそらくは五百貫は先払いしなければ取引には応じないだろう。こいつは厄介な問題だ。でも何とかしなければならないな…」

 竹作は驚いた。他の将兵はここに馬を借りに来ても、『もっといい馬はないのか』と言うだけで『どうすればいいだろう』とまで言った者はいない。こんな若い武将が…と竹作は舌を巻いた。

「しかし、今は安土への使者を無事にやり遂げる事が先決だ。竹作殿、あの馬を借りよう」

「ほう…よくぞ、あの馬に目をつけましたな」

「よい馬なのですか?」

 と、さえ。

「はい、二歳になる牝馬で、この放牧場の厩舎で生まれた馬です。ナリは少し細く、重量を支えるチカラは少し頼りないですが、細身な水沢様ならば、十分に支えられますから足の速さは私が保証しますし、何より頭もいいですよ」

 その牝馬は自分を見る隆広に気付いたのか、寄ってきた。

「まあ、お前さまは馬の女子にも好かれる特技もお持ちなのですね」

 さえの言葉に照れ笑いしながら、隆広は馬の頬に触れた。

「いい馬だ…」

 

 ブルルル…

 

 まるで隆広の言葉が分かったかのように、触れている隆広の手に顔を擦り付けた。

「馬も水沢様が気に入ったご様子。お連れ下さい」

「良いのですか? 明朝取りにこようと思っていたのですが」

「それがし、ここの軍馬を見て『何とかしなければ』と言った大将を見たのは初めてでございます。軍馬の一担当者として、とても嬉しく思いました。そして何よりその馬を見初めた伯楽(中国で有名な馬の目利きに長けた人物の事)さながらの眼も感じ入りました。ここは貸すだけではなく、売るも請け負っておりますゆえ、貸すのではなく、お譲りとしたいと思います。代金は出世払いで結構ですから。もはやその馬も背を水沢様のみにしか預けないでしょうから」

「すまない! 竹作殿、恩にきますぞ」

「さっそく、あちらの馬場で試し乗りをされては?」

「そうしよう」

 

 ドドドッ

 

 その牝馬は、隆広の見越したとおり、いやそれ以上の速さで主人を乗せた。馬場をすごい速さで駆ける。

「まあ、本当に足が速い馬だわ!」

 馬場の外で、馬を駆る夫をウットリとして見つめるさえ。

「いやあ、水沢様の馬術も大したものですよ。かの武田騎馬隊も顔負けですな。ははは」

「すごいぞ、そなたは駿馬だ! さっそく名前をつけないと!」

 少し考えて、隆広は馬に言った。

「我が父、水沢隆家の旗印『歩』! その歩の成り『ト金!』 そうだ、今からお前の名前はト金だ! これから頼むぞ―ッ!」

 隆広の言葉が分かったかのように、美々しいいななきをあげ、ト金は走った。

 この馬こそが水沢隆広の愛馬『ト金』である。隆広が手取川撤退戦のおり、上杉謙信の本陣に突入した時に乗っていた馬は彼女である。竹作の言うとおり、確かに少し馬体は細いが、主人と人馬一体となり、上杉謙信の前に立ちふさがった兵士二人を彼女は吹っ飛ばしているのである

 ちなみに言うと織田信長が御所にて催した『天覧馬揃』。この時、隆広の愛馬を見て諸将はその細い馬体に失笑を浮かべたが、信長は『いい馬だ』と評したと云う。

 隆広の愛馬ト金は後に残る合戦絵巻でも他の将が乗る馬より細い馬体で描かれていることが多い。だが記録では隆広が驚異的な速さで戦場の使者を務めた事実が残っている。また『主人がト金を本気で駆らせた時は松風さえついていくのがやっとだった』と前田慶次の手記にあることから、ト金は現在の競走馬の体躯に近かったと推定されている。馬体が細いというのは、ほぼ全身が走るための筋肉であったのではないかと考えられているのである。

 現在の牝馬の競走馬に『トキン何とか』と云う名が多いのはそれにあやかってだろう。隆広を乗せて走るト金は今日の重賞レースの覇者になるほどの速さだったに違いない。

 

 隆広はト金を自宅に連れて行き、丁寧に洗った。隆広宅には一頭分だけだが厩舎はある。

「ふんふんふ~ん♪」

 厩舎から聞こえる夫の鼻歌に苦笑するさえだった。だが、

(なによなによ、ついさっきまで私の事が一番みたいに言っていたのに、今じゃト金の方ばっかり!)

 その後、カッと顔を赤らめた。

(バ、バカじゃないの私! 馬にヤキモチ焼くなんて! あの馬を得られたからこそ隆広様は戦働きがいっそうできるのじゃない! 喜びなさいよバカ!)

 気持ちを落ち着けて、さえは隆広を呼んだ。

「お前さま~。夕餉の支度ができました」

「ああ、すぐ行くよ」

 

 美味しそうに、さえの作る夕食を食べる隆広。北ノ庄はあまり富める城下ではないゆえ、隆広の家もそんなに裕福ではない。粗末な夕餉でもあるが、愛妻の心のこもった手料理である。本当に隆広は美味しそうに食べた。

 そして、その夜。二人は夫婦の営みをして眠りについた。また灯を消してくれと要望された。明るい部屋で、さえの裸が見たいと隆広は要望し、目を皿のようにして眺めていたら、さえが恥ずかしさのあまり泣きだしたから慌てて消した。まだ初々しい新妻だった。

 

 翌朝、旅支度は終えていたので隆広の安土出発の準備は円滑に進み、屋敷の外でさえの見送りを受けていた。隆広の護衛には、松山矩三郎、小野田幸之助、高橋紀二郎がついた。彼らも前日に錬兵所で馬を借りていたのである。

「では、さえ行ってくるよ。帰りに越前の町を全体的に見てくるから少し遅くなるが、留守の間は奥方様や姫様たちにお仕えし、帰りを待っていてほしい」

「はい」

「じゃ行ってくる」

「では奥様、それがしらも」

「みなさん、夫をよろしくお願いいたします」

(奥様だって。うふ♪)

「はい、お任せを」

 

 馬をひきながら、城下町の出口に向かう隆広たちをさえは見送った。

「はあ、当分一人かあ…。前は一人でも平気と思っていたのに、今は一人がとても寂しいなあ…」

 すると隆広が戻ってきた。

「お、お前さま、忘れ物?」

「離れたくない…」

「はあ?」

「一緒に来ないか?」

「お、お前さま、私は馬に乗れませんし、君命に女連れは許されません…」

「だ、だけど…」

「ほら、別に私は逃げませんから。ちゃんとお帰りを待っています」

「う、うん…」

 トボトボと歩き去る隆広。しばらく歩くとまた戻ってきた。

「さえ、やっぱり一緒に」

「お、お前さま…」

 困り果てるさえに助っ人が来た。

 

「御大将! いいかげんにして下さいよ! 朝っぱらからそんな目のやり場に困るような光景見せられちゃたまったもんじゃない! オレたちゃあ独り者なんですよ! さあ行きましょう!」

 矩三郎と紀二郎が隆広の両腕を掴んで、ズルズルと引きずっていった。

「さ、さえ―ッ!」

「いってらっしゃ―い!」

 ようやく姿が消えた隆広に安堵して、さえは城に上がる準備を始めた。その顔は喜色満面だった。

「隆広様ったら、しょうのない人♪」


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