関白秀次が謀反の罪で処刑され、今まだ彼の正室と側室、子供たちまで処刑されようとしている。宿老の前野長康さえ連座して切腹した。奥羽攻めで秀次の参謀を努め、個人的にも親しかった柴田明家とていつ咎めがあるか分からない。
いや、そんな咎めなどどうでもいい。彼が問題としているのは秀次妻子の処刑のことである。これを黙って見ていて良いのか。こんな理不尽を許してよいのか。
雷雨、稲光轟く夜、自室で長考する明家。ひときわ激しい稲光の轟音が響く。静かに稲光を見つめた。目には決意。ついに明家は決断した。
「誰かある」
「はっ!」
小姓に明家は言った。
「鹿介と勝秀を呼べ」
「承知しました」
しばらくして山中鹿介、柴田勝秀が来た。
「父上、お呼びですか」
「近う」
「「はっ」」
二人に明家は静かに言った。
「明日、三条河原で処刑される秀次様の妻子を救出する」
「「……!!」」
驚く鹿介と勝秀。
「父上、そ、それは謀反…!?」
「規模は小さいが、まあそうなるな」
「し、しかし再度の唐入りのため、奥村殿と前田殿はすでに国許にあり、ここ伏見にいる将は山中殿だけ!兵は百五十ほどです。今ここで謀反いたせば我らは皆殺しに!」
「殿、日本全土を敵に回す覚悟はおありなのですか」
「そんなものはない」
「は?」
「日向殿(光秀)と違い、主君を直接討つわけではないのに、何で袋叩きに遭わなければならないのだ」
「し、しかし父上、その刑場荒らしは明らかに謀反」
「今の太閤殿下には冗談は通じませんぞ」
「刑場荒らしをしたうえ、それを太閤殿下に許させる。俺はまだ死ぬわけにはいかない」
「そんな夢のような展開は無理かと」
「できるぞ勝秀、いいか」
耳を貸せと勝秀と鹿介を手招きする明家。
「幸か不幸か、今は日本の大名が海の外に外征に行くなんてバカげた唐入りなんぞしている。太閤殿下もこの時期に内乱は避けたいはずだ」
「確かに…」
と、鹿介。
「だから我々柴田家は刑場荒らしのあとに丹後若狭に行き、当初のご下命通り朝鮮に行く」
「恐れながらお考えが甘うございます。そんなことをすれば最後、手薄の丹後若狭が太閤によって焼け野原とされましょう」
「話は最後まで聞け鹿介」
「はあ」
「実はこの決起、前田利家殿にだけ事前に申し出てある」
「ええ!!」
勝秀は『ことは秘密裏をもって』と常日頃から言っている父らしからぬと驚く。しかし鹿介は
「なるほど得心しました」
と、静かに笑った。『ことは秘密裏をもって』などは場合による。秘密裏と根回しは絶対に両立できないからである。
「そして味方につくことを約束して下された」
秀次妻子処刑が秀吉から発せられた時、懸命に諫めたのが柴田明家と前田利家だった。しかしどんな言葉を重ねても秀吉は聞く耳持たなかった。
『あやつは儂を日本の恥とぬかしよった!あやつの命だけではこの暴言の腹はおさまらぬ』
それは建前、そんな暴言があろうがなかろうが秀吉は断行していただろうと明家と利家は読んでいた。利家はかつて『藤吉郎』『犬千代』と呼び合った友のあまりの狂気が悲しくてたまらず、明家以上の懸命さで止めたのだ。だが秀吉は聞く耳を持たなかった。
無念の利家、帰宅したあとは部屋に篭ってしまった。いっそ秀吉を斬るか。むしろそれが秀吉への情けなのではないかとさえ思う。誤った道に進んでしまったのなら討つのも友情。しかしそれをやったら前田家は終わりである。友なればこそ斬ったなんて誰が納得するか。秀吉を斬ることはすでに政治である。
「我が身安泰で暴走する友も斬ってやれぬ…。槍の又佐が聞いて呆れるわ…」
と塞ぎこんでいると、
「殿、お人払いのときにすみませぬ」
「まつか、どうした?」
「越前守様がお越しです」
「越前が?」
「はい」
「通せ」
明家が利家の伏見屋敷を訪れた。
「夜分にすみません大納言殿(利家)」
「かまわん、何だ一人か?」
「はい、二人だけで話したくて」
「うむ…」
「実はずいぶんと厚かましいお願いをしにきました」
「ほう珍しいな、聞こう」
何か嬉しい利家。
「三条河原に殴りこんで秀次様の妻子を救出します」
「なに?」
しばらく見つめあう明家と利家。目には確固たる決意が見える。
「家臣たちは何と申した」
「息子や家臣には決起を前日に述べます。なまじ時間があると迷いが出ます」
「ではその話を聞くのは儂が最初か」
「はい」
よくもまあ、そんな大事を儂に話す。利家は苦笑した。
「無用心ではないのか、そちらしくもない」
「槍の又佐を警戒する心をそれがしは持ちません」
世辞を言いおって、だが利家はますます嬉しくなってきた。利家と明家は豊臣家の大老としてではなく、北ノ庄でよく酒を酌み交わして笑い会った当時に戻っていたかのようだ。腹を割って何でも話したあの頃のように。
(今の秀吉に逆らうつもりか。もっともこいつは信長様にも噛み付いた男、不思議ではないな。そこまで思い切れるのは若さかな。儂には思ってもできぬ)
コホンと一つ咳をして続けた。
「それで厚かましい願いとは?助力は出来ぬが他で儂に出来ることなら手を貸そう」
「かたじけのうございます。刑場荒らしをしたのなら、すぐに舞鶴へと向かいます。そのうえで朝鮮に向かいます」
明家の考えを読んだ利家。
「なるほど謀反しておいて、一方では唐入りの下命に従う。結果秀吉に許させる腹だな」
「はい」
「秀吉も内乱は避けたいはず。できない話ではないな」
「しかし怒り狂った殿下がそれがしの領地に侵攻してくる可能性もありえます」
「そんな真似はさせん」
「え?」
「儂の目の黒いうちは戦しても阻止をする」
「大納言殿…」
「なにをわざとらしく驚いているか。厚かましい願いと云うのはそれであろうが」
明家は赤面し、頭を掻いて笑った。
「ばれましたか」
「いいかげん長い付き合いだからな」
笑いあう二人。
「まあ、秀吉もどんなに腹が立とうとも儂とお前を同時に敵に回すほど壊れてはいまい。何より唐入りでおおよその軍勢が西に行き、今の秀吉の手元には前田を掃討したうえで丹後若狭に攻め入る兵力はない。徳川が秀吉の援軍になるとも思えん。三条河原では思いっきり暴れて来い。あとは任せろ」
「お頼み申します!で…もう一つ厚かましいお願いが」
「なんだ?」
「三条河原に殴りこめるのは少数です。加勢してくれとはいいません。ですが大坂と伏見の屋敷にいる女子供を」
「分かった。前田で護衛して舞鶴に送り届ける」
「ありがとうございます!ああ良かった!」
「なぁにが『ああ良かった』だ!儂が断るまいと最初から思っておるくせに」
また明家は赤面し、頭を掻いて笑った。
「ばれましたか」
「いいかげん長い付き合いだからな」
再び大笑いしあう二人だった。明家と利家の絆は豊臣政権でも有名である。前田利家は賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を見捨て戦場を離脱したことを今でも激しく悔いている。明家はそんな怨み言を一切利家に言わず、豊臣政権下では一層親しくなり友誼を結んでいた。勝家を親父様と呼んでいた利家にとって勝家嫡男の明家は歳の離れた弟のようなもの。蒲生氏郷や黒田如水のように、その才覚を秀吉に恐れられながらも明家が遠ざけられないのは利家が何かと庇っているからである。柴田家臣なら誰でも知っていることだ。何より利家嫡男の利長と明家は朋友である。盟約を交わした誓書なども必要ない。絶対に盟約を反故にしない。前田家が柴田家についた。
山中鹿介は後顧の憂いがないことを知った。それなら話は別である。むしろ柴田の家名をあげるまたとない好機となる。誰もが恐ろしくて逆らえない豊臣秀吉に公然と逆らうのである。尚武の柴田さすがよと諸大名に知らしめる。
どんなに秀吉が怒り狂おうと、前田親子が絶対に丹後若狭に攻め入らせることはさせない。柴田軍が丹後若狭で徹底抗戦を主張するならまだしも、しおらしく朝鮮に行くことは行くのだ。結局秀吉はどこかで妥協して許すしかないのだ。
(何より、もはや足腰がふらつく秀吉では余命もそうあるまい…。時間を稼いでいれば秀吉がそのうち死んで何もかも帳消しだ)
鹿介の思うそれも明家の算段にはあるだろう。負ける戦はしない柴田明家。何ともしたたかだと今さらながら苦笑した山中鹿介。
「しかし、そう根回しはしたものの謀反だからな。本当にやるか、つい先刻まで決断するに時を要した」
「でしょうな」
「だが人として、やらねばならぬ」
「承知しました。この鹿介も参りましょう」
「山中殿」
「若殿、父上が勝算なき戦をしたのは丸岡だけでござる。これは勝てます」
刑場荒らしそのものの勝利ではなく、その後の秀吉との駆け引きも勝つ。鹿介がそう言っているのは勝秀も分かる。勝秀も不安がないと言えばウソになるが勝てそうな気がした。しかし別の戸惑いがあった。
「でも刑の執行官は我が師である治部少様。師と戦うのはちょっと…」
「ははは、治部少殿は処刑に反対していた。案外嬉しがるかもしれないですぞ」
「そ、そうかな」
「殿、この戦は義戦、何とぞ若殿の晴れの初陣と」
「そのつもりだ」
「え?」
「明日の刑場荒らしを勝秀、そなたの初陣としよう」
「……」
「なんだ?晴れの初陣が刑場荒らしでは不服か?」
「そ、そんな…」
「顔に書いてあるぞ。しかし勝秀、この戦は不義に対して義をもって挑む戦だ」
「不義に対して義をもって…」
「話したことがあるな。秀次様は俺の希望だと。秀次様は軍事こそ凡庸であるが行政手腕は見事だった。豊臣は二代続かないかもしれないが、秀次様なら上手く幕引きが出来るかもしれない。柴田はその補佐をしようと」
「はい」
「だがその秀次様は太閤殿下の理不尽極まりない仕打ちのすえ命を絶たれた。そして今、その方の妻子さえ殺されようとしていると云うのに太閤殿下を恐れ何もしない。それはもはや武士ではなく虫けら以下だ」
「父上…」
「せめて妻子をお助けすることをせずば、柴田は今後『尚武の家』を名乗る資格はない」
その通りだと思う息子勝秀。
「父上!勝秀この義戦、我が初陣にいたしたいと存じます」
勝秀の決意に頷く明家と鹿介。
「では明日の出撃に備えておいてくれ」
「「はっ」」
山中鹿介は部屋に戻った。そして
「天鬼坊」
「はっ」
鹿介に仕える忍び羅刹衆、その一人の天鬼坊がスッと姿を現した。鹿介は柴田の決起を話した。さすがは幾多の修羅場を鹿介と経てきた天鬼坊、顔色を変えない。
「我が羅刹衆の任務は?」
「三条河原から舞鶴までの道のりの安全を確保して先導せよ。女子供もいる一行ゆえな」
「承知しました」
天鬼坊は去った。ふと鹿介は月を見た。かつて『願わくば我に七難八苦を与えたまえ』と願った月に。
(秀吉の死後、世の中はどう変わるかは天のみぞ知ると言うわけであるが、明日の義挙は必ず柴田の財となる。久しぶりの義戦、血が滾るわ)
◆ ◆ ◆
関白秀次の謀反の罪により、秀次の側室たちも処刑されようとしている。美濃の金山城でそれを知った明家の幼馴染の鮎助こと野村可和は金山から京の伏見へと駆け続けた。秀次の側室には彼の妹のふみがいる。明家とも幼馴染のふみが。可和は柴田伏見屋敷を目指した。森家の一武将に過ぎない彼には妹の助命を豊臣家大老の明家へ頼むしかなかった。
「はあはあ!」
柴田伏見屋敷に着くや
「開門!開門!手前、森忠政が家臣、野村可和と申す!柴田越前守殿に目通り願いたい!」
と、門を叩いて怒鳴った。邸内は妙に静かだった。
「…留守か、くそ!こんなまごついている間にもふみは!」
「なに、鮎助が来た?」
刑場荒らしのため支度をしていた明家に知らせが届いた。
「よし、入れろ」
「よろしいのですか?我らの決起が彼の口から漏らされたら」
と、門番の男。
「急な挙兵のため兵が足りない。剛勇で知られた鮎助が加われば助かる。俺が加わるように説く。入れよ!」
邸内に通らされた可和は屋敷の庭を見て驚いた。兵が武装しており、完全な合戦準備である。明家と会った可和。
「竜之介、どこへ攻める気なんだ!?」
「鮎助、いいところへ来た。急な挙兵なので人手が足らない、手を貸せ」
助けてほしいと頼みに来たのに逆に手を貸せと言われて面食らう可和。
「ど、どこへ攻めるんだ?まさか大坂城とか言わないだろうな」
「三条河原だ」
驚いた可和、助命の取り成しを頼もうとしていた相手がふみを救うため戦うつもりだ。
「ちょっと待て!そんな事をすれば、いかに五大老の一人のお前とて太閤殿下に殺されるぞ!」
「やれるものならやってみるがいい」
小姓たちが明家に甲冑を着せ付けさせていたが、それが終わった。
「よし、そなたらも出陣の支度をせよ」
「「はい!」」
小姓たちは出て行った。
「ふみのために…」
「ん?」
「ふみのためにお前…」
「悪いがふみはついでだ。俺は太閤殿下のやりように我慢が出来ない。関白殿下の妻子を殺すことは絶対に間違っている。いかに臣下の礼を取っていようと俺も大名。譲れる線と譲れぬ線がある」
「……」
「だがやはり決断には時を要した。規模は小さいがこりゃ謀反だからな。そんなもんだから決起にしても伏見屋敷にいる兵しか用いられない。主なる家臣も唐入りのため国許に帰して準備させているゆえな」
「軍勢はいかほどだ?」
「正味百五十」
「三条河原にいる兵たちは?」
「およそ三百、首切り人を入れれば三百三十だ」
「相手は倍かよ!」
「まあそうだ。でもそこで都合よくお前が来てくれた」
「え?」
「手を貸して欲しい。剛勇で鳴らしたお前が加勢してくれれば助かる。ここにいる百五十の兵で突撃し、首切り人と番兵を蹴散らし、関白殿下の妻子を救出し虎口から脱出させる」
「一つ聞いて良いか」
「何だ?」
「お前の部下たちはこれから太閤殿下に叛旗を翻すと知っているのか」
「もちろんだ。俺は部下に秘密は作らない」
屋敷にいる兵たちは気合の入った目で合戦準備に取り掛かっている。さすが賤ヶ岳、四国、九州、朝鮮でその名を轟かせた柴田明家軍と見る可和。これからの合戦に気負いもない。
「分かった。喜んで加勢する」
「ははは、石投げ合戦以来か。鮎助と一緒に戦うのは」
「そうだな、しかし腕がなる!」
「父上!準備が整いました!」
「よし行くぞ!」
「ちょっと待て!お前息子まで連れて行く気か!」
驚いた可和、明家の息子の勝秀も武装して出陣しようとしていたからだ。
「無論だ。百五十しかいないのだ。嫡男だからと言って高みの見物はさせない」
「し、しかし…勝秀殿はまだ十五であろう…」
「俺の初陣も十五だ」
「初陣なら尚更だ。初陣は普通もっと公然たり、勝機が多分にある戦を選ぶべきじゃないのか?しかも刑場荒らしだし…」
「鮎助、これは公然とした戦だ。不義に対して義をもって挑む、これがまっとうな戦でなくて何なのだ。確かにお前の言うとおり初陣は後々の自信づけのために勝機が多分にある戦を選ぶものだ。だが俺はそんな優しい父親ではない。俺はむしろ初陣にこういう義戦を息子に与えられたのが嬉しい」
「お前は本当に童のころから口が達者だな。思わず納得しちまうよ」
「そんなに褒めても何にもやらないぞ」
「褒めてないだろ。しかし武者震いしてきたぜ!」
屋敷の入り口に集結した柴田軍。
「殿!」
「おう、さえ」
「ご武運を!」
「うん、そなたも早く舞鶴へと参れ。俺もあとから追いかける」
「はい」
「奥方、急ぎ伏見の東門に。三条河原のことを太閤が知れば、大挙してこちらに寄せてきますぞ」
「分かりました村井殿」
すでに前田家から柴田屋敷に出迎えが来ていた。伏見は利家重臣の村井長頼、大坂は同じく重臣の冨田重政が担当したと言われている。そうそうたる利家の重臣二名である。とても女子供の護衛ごときで用いられる将ではない。これは暗に利家が明家に前田は絶対に約束を守ると云う強い意志を示すためであった。伏見屋敷の女子供は旅支度も終えていたが、さえは良人と息子に出陣の励ましをしたかった。最初は良人の謀反に驚いたが仔細を聞いて納得した。さえも痛快と感じた。誰もが逆らえない天下人秀吉に良人は逆らうのである。
「勝秀殿」
「はい母上」
「なんと立派な若武者ぶり、お父上の初陣姿より素敵ですよ」
「はい!」
「姫蝶は殿に惚れ直しましたよ」
「本当か、ようしがんばるぞ!」
「姫蝶」
と、明家。
「はい、義父上様」
「そなたの父上(仙石秀久)をチト困らせるかもしれんが、まあ許してくれ」
「いいえ、どんどん困らせて下さい。少しくらい波乱があった方が父上は喜びます」
「あっははは!では参るぞ!よいか!これは謀反ではない、尚武を誇る柴田が義戦だ!俺に後れを取るでないぞ!」
「「オオオオオオオオオッッッ!!」」
◆ ◆ ◆
京の三条河原、ここで関白秀次の妻や愛妾、そして子供たち、はては使用人たちやその家族、秀次一族すべてが処刑される。白装束を身にまとい、死を待つ秀次一族たち。
石田三成と増田長盛が刑の執行官に当たった。そして、さながら屠殺場のような光景があわや展開しようとする、その時であった!
「刑場荒らしだぁぁーッ!!」
「なに?」
三成が声の方向に向いた。見物人たちが道を開ける。
「どけどけどけーッ!柴田越前守明家!義によって関白殿下がご一族、もらい受ける!!」
「柴田丹後守勝秀、参上!」
「山中鹿介幸盛、参る!」
「野村可和、義によって助太刀いたす!!」
明家愛馬のト金が処刑場の竹柵を飛び越え、つづく軍勢が柵を薙ぎ倒した。処刑場を警護する番兵や首切り人はアッと云う間に蹴散らされた。義戦に燃える柴田軍はこのとき勇武絶倫だった。百五十と云う少数とはいえ、忍びもいれば明家と勝秀を警護する馬廻り衆もいる精鋭である。まして若殿勝秀の初陣、何としても勝たねばならない。死が決定していた女にとって『歩の一文字』の旗が神仏の武人たちに見えただろう。
「一の台様(秀次正室)!越前守様ですよ!私たちを助けに来て下されたのです!」
秀次の側室たちは感涙した。一の台も馬上の明家に見惚れた。
「ああ、何と男らしい…。太閤に逆らっても義を貫くとは!」
かつて秀次は一の台に言っていた。
(俺は越前を右腕にして平和な世を作るのだ)
「ご覧になっておりますか殿!越前守様が私たちを助けるために来て下さいましたよ!」
あまりの猛攻、防ぎきれないと悟った長盛、このまま明家に秀次の妻女たちを奪われたら笑いものである。
「愛妾たちを片っ端から斬り捨てよ!」
と首切り人たちに命じた。一人の巨漢の首切り人が秀次の妻女たちが縛られて集められている場所に走った。
「「キャアアアアッッ!!」」
首切り人の大刀が側室駒姫に対して振り上げられた。駒姫は大好きな父、最上義光の顔を脳裏に浮かべた。
(父上…!)
だがその太刀は途中で止まった。矢が首から突き出ていた。巨漢は血を吐いて倒れて絶命した。矢を射たのは勝秀だった。そして勝秀とその家臣たちは首切り人たちの前に立ちはだかった。
「かかれぇ!」
「「オオオッ!」」
勝秀はそう下命しながらも自分の矢で死んだ男を見た。ゴクリと唾を飲んだ。
「童貞を捨てましたな殿」
つまり初めて敵を殺したと云うことだ。傍らに寄り添っていた勝秀重臣の毛受尊照(毛受茂左衛門嫡男)が言った。
「しかし馬で駆けながら矢で射殺するとは若殿もやりますな」
「うん、無我夢中だったが上手い具合に当たって良かった」
勝秀の隊は寄せる首切り人たちを蹴散らした。
「よし、ご妻女たちの綱を切ろう」
「はっ!」
女たちを縛る綱は勝秀たちによって斬り解かれた。駒姫の綱を脇差で切る勝秀、
「恐かったでしょう、もう大丈夫です、我ら柴田軍が貴女方の安全を保証いたします」
父親と比肩する美男と言われた勝秀、勇敢な美少年にウットリする秀次妻女たち。命が助かり、脱力して倒れる駒姫。
「おっと」
勝秀が抱きとめた。
「ありがとうございます…」
「なんの」
ぶっきらぼうに返した勝秀。その勝秀のもとに忍びたちがやってきた。
「若殿、妻女たちは我々藤林が守ります。初陣、思う存分にお働きを!」
「うん、頼むぞ!」
家臣を率いて戦いに向かう勝秀の背中を駒姫は忘れることが出来なかった。そして野村可和も無事に妹ふみを救出した。ふみは嬉しくて涙が出てきた。
「あんちゃん!」
ふみを見つけた可和は死に怯えていた妹を抱きしめた。
「もう大丈夫だぞ」
「あんちゃん!ありがとう…!」
刑場を警護していた番兵と首切り人は雲の子を散らすように敗走、執行官である石田三成と増田長盛が残った。
「治部殿、我らも逃げねば越前に殺されるぞ!」
「お先に逃げられよ」
長盛も逃げ出した。馬上の明家と静かに立つ三成が見つめあう。個人的にはよくやってくれたと思う三成。しかし…明らかにこれは秀吉に対する謀反である。さっきまでの喧騒が嘘のように静かだった。
「どういうつもりか越前守!」
初めて明家を呼び捨てにした三成。
「見ての通りだ」
「……」
「見たまま太閤殿下に伝えよ」
「殿下の怒りは凄まじいものとなりましょうぞ!」
「覚悟のうえだ。ああ治部」
ふところから封書を出した明家。
「殿下への上奏書だ。おりをみて渡してくれ」
馬丁が明家の文を受け取り、三成に渡した。
「読んでもいいぞ」
「かようなことはいたしませぬ。お渡しいたす」
明家に報告が入った。
「殿、関白殿下妻子、すべてお連れする用意整いました」
「よし舞鶴に退くぞ」
「はっ」
「全軍、舞鶴へと向かう!」
「「ははっ!」」
三成の顔を見つめる勝秀。その勝秀に三成が言った。
「これが父上の背中から学んだ…その答えか」
「はい」
「そうか、では何も言うことはない。さあ早く行け、置いていかれるぞ!」
勝秀は三成にペコリと頭を垂れて走り去った。三成はフッと笑った。
(ようやった。もうお前を『隆広様の息子』などとは言えんな)
柴田軍は秀次一族をすべて救出して風のように三条河原を去っていった。大勝利である。
当然、秀吉はこれを聞いて激怒した。聞くや立ち上がり肘掛けを蹴り飛ばし、三成と長盛を激しく叱責した。しかし豊臣の屋台骨を支える行政官二人を斬るわけにもいかない。
「すぐに越前をここに連れて来い!彼奴も秀次と謀反を起こす気であったのだ!」
と、激しく厳命した。怒りのあまり肩で息をし、そして言った。
「越前め…!儂に対する当て付けか!!」
その秀吉に一人の使い番が来て耳打ちした。それを聞くや傍らにいた前田利家を睨み付けた。
「又佐!」
「何か」
「伏見と大坂の越前が屋敷はもぬけの殻じゃ!前田家が脱出させて舞鶴へ向かったと聞くが事実か!」
「事実にござる」
三成は驚いた。明家は前田を味方にしていた。悪びれずに答える利家に秀吉は激怒。
「又佐、おのれも謀反をするか!」
「あっはははは!」
「何がおかしいか!」
「見損なうな秀吉、お前を討つなら戦場で堂々とやるわ」
「なんじゃと…!」
「越前には『大坂と伏見の屋敷にいる柴田の女子供を舞鶴まで安全に連れて行ってほしい』と頼まれただけ。刑場荒らしをするなんて聞いておらんわ」
「恐れながら大納言様、答えになっておりませぬ」
と、石田三成。
「答えになろうがなるまいが、それが事実だ」
前田利家はスッと立ち上がった。
「どうするのだ秀吉、越前を討つのか?」
「又佐…」
「だが儂を殺してからやれ」
「又佐衛門…!」
「げにも晩節をまっとうするのは難しきものよ」
そして立ち去った。秀吉はペタンと脱力して座った。三成は戦慄した。
(柴田と前田が組めば豊臣は終わりだ…!)
たんに二人の大老を相手にするだけでは済まない。柴田と前田が組んで秀吉に牙を剥けばどうなるか。豊臣政権に不満を持つ諸大名がすべて柴田と前田につく。その大軍勢を不敗の柴田明家が指揮をすればどうなるか、大坂城に篭るも、その大坂城を築城したのは明家である。蟻の一穴の一つや二つ知っていることだってありうる。
(豊臣は勝てない…!)
三成は秀吉を見た。秀吉は呆然とし
「竜之介と又佐が…儂を殺しにくる…」
と、視線を中に泳がせていた。
「親父様…」
ハッと気付いた三成、明家から秀吉に渡してくれと頼まれた上奏書。そういえば『読んでも良い』と言っていた。あれは暗にお前が読めと言っていたのかと三成は察し、上奏書を広げた。短い内容だった。
『越前は帰国後にご下命に従い、朝鮮に出陣いたす』
これで三成はすべてを悟った。謀反はするが、また一方で下命に従い出陣する。明家は秀吉に免罪を要求しているのだ。謀反を無かったことにしてくれと言っている。何と虫がいいことを。しかし現実それを飲まざるを得ない。秀吉が明家を許せば話は驚くほどにあっさり終わる。だがあくまで許さなければ、柴田と前田の本物の謀反を誘発し豊臣は滅ぶ。
「その工作を俺にせよと…!殿下に柴田の免罪をさせるようことを運べと言うのか…!石田三成を何だと思っている!もう俺は貴方の家臣ではないのですぞ!」
上奏書を握り、肩を震わす三成。だが…。
「しかし選択の余地は無い…。相変わらず見事な仕事ですな隆広様…」
フッと笑い、三成は腹を括った。