天地燃ゆ   作:越路遼介

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小田原攻め

 豊臣秀吉が思った以上に柴田明家は優れた男だった。人づてではあるが明家は本能寺の変を予測しており、それを主君の柴田勝家に進言していた事を伝え聞いていた。勝家はそれを一蹴したが、もし勝家が明家の意見を入れていたら明智光秀を討ったのは羽柴ではなく柴田になった可能性もあった。

 しかし、勝利の風は明家には吹かず武運つたなく敗れ、父母の仇である秀吉に仕える事になった。賤ヶ岳の戦いにおける柴田明家軍のすさまじさ。漆黒の魔獣の松風に乗る前田慶次を先頭に怒れる龍のごとき突撃。それは秀吉と羽柴全軍を震え上がらせた。さすがは上杉謙信を寡兵で退けた男と思い知らされた。実質、明家は羽柴の大軍に寡兵で勝利したとも云えるのだ。

 

 その柴田明家も今は羽柴秀吉の家臣、だが戦場では寡兵にも関わらず事実上秀吉に勝利し、小牧長久手の合戦、四国と九州の合戦にも智の技で大功を立てた明家が何故信頼されたのか。すでに黒田官兵衛を疎んじて遠ざけている秀吉。その黒田官兵衛以上とも言える智将明家を何故信頼したのか。幼き頃の邂逅も少なからずあるだろう。しかしそれだけではなかった。

 尚武の柴田家に智将として位置していた彼、父の勝家に信頼され階段を駆け上がる如くの出世をした。当然先輩諸将の妬みはすさまじいものがあったが、主要な人物は佐久間盛政、佐々成政、柴田勝豊くらいであり、他の先輩諸将は味方につけていたのである。これは明家に分別があり処世術にも精通していたとも言えるだろう。

 彼の養父の水沢隆家は斉藤道三の懐刀であった。猜疑心の強い道三が戦神とも呼ばれ近隣大名を震え上がらせた隆家をなぜ何の疑いも持たずに重用したか。道三と竹馬の友ではあったが、そんなものは蝮の道三にとって重用の理由にはならない。道三の隆家への信頼ぶりは後世の歴史家をずいぶんと悩ませているが結論を先に言えば隆家は臣の道と王佐の術を熟知していたと云う事だろう。その技を隆家より学んでいたとしたら明家は処世能力も卓越しているはずである。

 

 松永攻めのおり、腹心の前田慶次に出過ぎる事の危険性を諭された彼は、その後の軍議では他の将に名案を出させるべく、誘導的な言葉をよく発していた。徹底した『能ある鷹は爪隠す』を実行していたのである。

 また養父隆家から『大将となったならば、苦労は率先して担い、手柄は部下に与えよ』と教えられていた明家は手柄を立てても部下に与えていた。爪を隠すのと同時に部下たちの信頼も得る。水沢隆家の『ことは何事も一石二鳥とせよ』の真髄と云える。

 

 そしてそれは明家が羽柴家に仕えてから、さらに徹底の様相を見せる。秀吉や秀長への進言も分をわきまえた内容であり、けして二人に警戒心を持たせなかった。特に秀吉と秀長は若き頃に竹中半兵衛の智慧に頼っていたせいか、性格が野心を抱かない半兵衛と似ている事が分かったのだろう。黒田官兵衛は内に秘めた野心を見抜かれていたかもしれない。

 しかし秀吉に信頼されたのは、これだけではなかった。亡き義兄、竹中半兵衛が自分に残してくれた注釈付きの『史記』。その中に付箋をさしていた頁があった。それは秦王(後の始皇帝)に仕えた王翦(おうせん)の話だった。貪財将軍と呼ばれた老将だった。疑り深い事では人後に落ちぬ秦王が一点の疑念も持たずに六十万の兵権すら与えた。それは何故か。

 王翦は日頃から宮廷の残り料理などを持ち帰り、将軍の身でありながら何と卑しいと下っ端役人にさえ軽蔑された。後輩将軍の別荘さえ安く売れとねだったと云う。秦の版図拡大に大いに貢献してきた彼であったが、もはや年老いた麒麟、駄馬として蔑まれ秦王も王翦の辞職願をあっさり受理してしまう。

 だがいよいよ秦が天下統一をする大国の楚との戦いで秦王が見込んでいた若い将軍の李信はその戦いに敗れてしまい、もはや秦王は王翦の出陣を請うしかなく、それを要請した。王翦はその際に都にある良田美宅を要望したのである。六十万の兵を率いて、大国の楚を倒す大将軍が望む褒美としてはあまりにも小さきものだった。秦王はそれを快諾。そして王翦は出兵した。そして事あるごとに戦場から良田美宅をくれますようにと云う手紙を秦王に出して念を押した。小ざかしい奸臣が

「貪欲な王翦が反逆を起こしませんよう注意を」

 と秦王に言った。だが疑り深い事では中国の歴代皇帝随一とも言える秦王が、

「それはお前の考えすぎだ。小利を貪る様な者は、秦国を得ようなんて野心は持たぬ」

 と、一笑に付して全く王翦を疑わず、勝利して帰った彼に約束どおり良田美宅を与えたのである。そして王翦は、その良田美宅を惜しげもなく、先に楚へ攻め込んで敗れ、その責任を取らされて平民に落とされていた李信に与えている。

『つまり、王翦が良田美宅を欲しがり、かつ貪財を装っていたのは疑り深い秦王の心を知り尽くし、かつ信任を得て任務を全うするためであったのである』

 竹中半兵衛はこの王翦の話の最後にこう注釈している。傑出した能力を持つ者が、敵ではなく味方に滅ぼされる末路を歩むのは歴史にいくらでも事例はある。竹中半兵衛は王翦の話に付箋を指して、義弟に注意を促したのだろう。

 

 つまり明家は、この王翦の真似をしたのである。幼き日にあった秀吉との邂逅、そんなものがあったとて明家は自分だけが特別など微塵も考えなかったのだ。

 明家は大坂城築城における後半期の指揮を執るが、秀吉の許可をもらい廃材を持ち帰り、大名が集まる宴においても、残った料理を箱に入れて持ち帰った。大坂城の台所では『越前殿用』と云う箱があり、野菜屑や魚や鶏の骨などが捨てられていた。明家が『いい出汁が出るからもったいない』と数度持ち帰った事から始まった。

 新田開発や治水に長けた明家が統治した若狭は入府時八万五千石であったのに、今では十五万石になっており、かつ明家が商人司と云う独自の機関を配下に持ち、柴田家そのものが交易を行い、表面上の石高より利を得ているのは諸大名知っていた。柴田家は当時としては稀な経済国家を作り上げていたのである。その利の半分を豊臣家に献上し、かつ残り半分を豊臣家の内政のため役立てているため秀吉も黙認していた。と、云うよりその実入りは秀吉にも大きく奨励していた。柴田家は豊臣家の武将の中では屈指の裕福さである。それなのに明家は廃材や残った料理や調理の際に出た食材屑を欲しがった。いつも『もったいない、もったいない』と言って物を大事にするので『もったいない越前』とも陰口を叩かれ笑われていた。

 諸大名は『柴田の若き智恵袋も落ちたもの』『何たる貪欲、恥を知れ』と陰口を叩いたが、貪欲と言われているわりに明家は誰もが垂涎の的にするものは一切欲しがらなかったのである。この態度に豊臣家の諸将は『越前殿は大きいものを欲せず、どうでもいいものを欲しがるわけの分からない方だ』と不思議がった。大坂や聚楽第にある柴田屋敷もこじんまりした感の屋敷だった。秀吉が

「お前も若狭の国主なのだから、もっと贅沢をしたらどうか?」

 と言ったところ、

「いえ、それがしには美しい妻が二人もおります。十分贅沢はしています」

 と、秀吉にさえノロケを言ったのである。さすがの秀吉も大笑いするしかなかった。小さい富と小さい幸せは貪欲に欲するのに、大きい富と名誉は欲しがらない明家、徹底したこの姿勢が実を結び、秀吉から疎んじられる事はなかった。無論、妹の茶々や前田利家の隠れた援護もあるだろうが。

 

 持ち帰った料理は、翌日に弁当にして大坂城の普請の人足に無償で与え、野菜屑や魚や鶏骨の出汁で作った粥も現場でふるまい人足たちに大いに喜ばれ、それは今日でも京料理で『柴田粥』と云う名で残り、今ではそれが高級なお粥料理に変貌しているのだから世の中不思議なものである。

 余談だが、『柴田粥』は柴田明家の正室さえが最初に調理したと云うから『さえ粥』とも言われているが、それを世に伝えたのは大坂城普請の時に明家に雇われた人足だと云う。彼は普請現場に来て人足に粥を与えていたさえをこれでもかと云うくらいに褒めちぎり持ち上げて調理法を細かく訊ねて、大坂城の普請後に故郷の京に戻り、店を開いたのだった。これが今日の『柴田粥』の祖と呼ばれている。

 

 大坂城築城で出た廃材の方であるが、それは改めて手を加えられ明家の領地の材木や炭となり再利用された。秀吉の警戒を解くと共に食材と資材の倹約。『事は一石二鳥にせよ』の養父の教えのたまものだろう。

 明家は小利をやたら欲しがる態度を見せて、大きいものは欲しがらない。つまり大それた望みは持たないと見せていたのである。他の将と違い、明家は秀吉に必要以上の世辞は言わないが、小さいもの、どうでもよいものを欲しがる明家を秀吉は安心して用いた。しかしこの信頼を得るまでの苦労は並大抵ではなかった。明家は後世視点から見れば、異常なほど秀吉に神経質になっている。佐々成政が最期の時『秀吉には一瞬たりとも油断するな』と明家に言い残したが、まさにそれを実践、一瞬とて秀吉に油断しなかった。その安心を持たせるために心を砕いたのだった。

 

 九州北部が羽柴の領地となったので、若狭の隣国である丹後の大名の細川家が今までの忠勤が認められて加増となり、豊前小倉に異動となった。その丹後は柴田家に与えられている。ずっと褒美は金銭で済ませていたが、とうとう領地が加増された。固辞は秀吉の心証を悪くするので拝領した。丹後は十二万石。すでに若狭の地を十五万石にしていた明家は二十七万石の大名となった。加えて貿易港として名高い舞鶴港を得たのは大きい。柴田家の上納金に快くしていた秀吉は明家に舞鶴でもどんどん商売を行えと奨励している。

 さらに明家は舞鶴港を北に臨む平城を築城した。舞鶴城(史実の田辺城)である。ここは若狭の国境にも近く、東西に伸びる明家の領地である丹後若狭の中心に位置し、統治するには絶好の場所でもあった。今まで居城であった小浜城は首席家老の奥村助右衛門に与えた。

 明家は秀吉に物事を頼むのも上手であった。秀吉が苛立っている時や気分が不快の時はそしらぬ顔で近寄ろうともしないが、気分爽快でご機嫌な時にニコニコしながら風のようにやってきて話しかけてくる。秀吉が明家に頼み事をされる時は決まってご機嫌な時と決まっている。つい『ウン』と言わされてしまう。そして後で『しまった』と思わせないように貢物も欠かさない。秀吉は苦笑しながら『越前は不思議な男だ』と語っていた。

 

 またこの頃、山内一豊は再び長浜城主となった。清洲会議の結果によって、一豊は長浜から他の領地に移動が余儀なくされ、丹波の地に長浜の時と同様に二万石を与えられていた。彼が賤ヶ岳の論功行賞に不満を覚え、妻の千代にグチッたのは二万石から三万石にはなるかと踏んでいた期待が崩れたからである。側近中の側近である五藤吉兵衛が討ち死にしているのだ。五百石の加増だけでは腹に据えかねるのも無理もないだろう。しかし堪えた甲斐があった。一豊は長浜四万石を与えられ、晴れて城主に返り咲いたのだ。

 かつ、江北地震により破損著しかったのに、清洲会議の後に入城した柴田勝豊により完全に改修されている。城の改修費用を考えれば、一時期とはいえ召し上げられたのも何かの運命と感じてしまう。

 再び、柴田との交易を開始する山内、以前の敦賀と長浜の琵琶湖流通、今度は舞鶴と長浜の琵琶湖流通である。一通りの用談を終えると語り合う一豊と明家。

「丹後の国主になられた事、祝着に存ずる」

「いえ、忠興殿を慕う民は多く、中々往生しております」

「しかし、佐々殿の肥後と異なり一揆を発生させていない手腕は見事でございますな」

「忠興殿の執られていた政策をそのまま引き継いでいるだけにございます。領民たちには徐々に当家のやりように慣れてもらうつもりです」

「貴殿らしいやりようでござるな」

「ですが、再び交易の仕事で対馬(一豊)殿のいる長浜に来るとは思いませんでした」

「そうですな、つい昨日のように思えますのう。おう、そうだ越前殿」

「はい」

「与禰に会ってもらえませぬか」

 しばらくすると与禰姫がやってきた。

「お久しぶりです越前守様」

「これは…ずいぶんと大きくなって…」

「はい」

 一緒に来た千代は苦笑した。

「越前殿、そういう時は『大きくなって』ではなく『きれいになって』の方が女子は喜びますよ」

「え、いや、あははは!しかし千代殿の申すとおりです。何ともまあきれいになって」

「あ、ありがとうございます」

「あらあら、姫は顔を真っ赤にしちゃって。豊臣家二番目の美男子にかかってはイチコロね」

「は、母上!」

 一番は千代の夫の一豊と云う事である。

「こたびは嫁入りが決まりましてな」

 と、父の一豊。

「いずれの家中に?」

「堀尾吉晴の次男、忠氏殿にござる」

「それはめでたい」

 心より祝福する明家。しかし与禰姫の顔は晴れていなかった。二人は江北地震の時につぶされた家屋の跡地へとやってきた。ここで与禰姫は明家の隣で寝て、色々なお話をしてもらった。そしてここで寝ていたからこそ与禰姫は地震に巻き込まれず命を落とさなかったのだ。今は馬小屋となっている。

「つい昨日のようだが、本当にあの時は必死でござったよ」

「越前守様のおかげで、私はまだこの世にあります」

「いや姫に運があったからそれがしも助かったのでござる。しかし小さいと思っていた与禰殿がもう嫁入りする歳とはなァ。ははは、俺も歳を取るわけですよ」

「越前守様…」

「ん?」

「私、本当は堀尾家に嫁なんて行きたくないのです」

「え?」

「武家の娘って何なのでしょう…。好きでもない殿方の妻になり、子を生まなくては石女とも嫁ぎ先に罵られ…。でもそれでも好きな殿方の妻ならば耐えられます。でも…会った事もない人を夫と呼び仕えるなんて、私には分かりません」

「…その事、ご両親には?」

「言えるわけがありません。嫁ぎ先が決まり、嬉しがっている父母にどうしてこんな事を…」

「そうでしょうな…」

「越前守様にもご息女がお二人いると聞きます。やはり娘が会った事もない人へ嫁がせるのですか」

「…そうなるでしょう」

「でも越前守様と奥方は好きあって結ばれたと聞きました」

「それは…妻が天涯孤独の身であったからです」

「え…」

「妻は母のお市がそれがしにつけた使用人でございました。いつしか互いを想うようになり…まあ自然と」

「……」

「姫、私は男ですから姫のお気持ちをすべて分かってあげる事はできません。しかしながら大名の姫なら、それはやはり逃れられないものなのです。忠氏殿は中々の若者とそれがしも聞いています。きっと姫を大事に…」

「姫は…越前守様の妻となりたい…」

「は…?」

「幼き頃からずっとお慕いしていました。側室でも良いと…」

「それ以上は申してはなりませぬ」

「想う事さえも…」

「許されませぬ。今のは聞かなかった事にいたします」

「越前守様…」

「…人は我が身に訪れた縁を大事にし、そしてその縁を愛し、幸せを掴むのです」

「……」

「…よき妻と、そして母となられよ。陰ながらそれをお祈りしております」

 明家は去っていった。

「越前守様…」

 

 同じ年、佐々成政の母親と妻子を柴田家が引き取った。これも秀吉がご機嫌な時にやってきて許可を取り付けた。明家は成政の家族に屋敷を与えて厚遇した。明家の元に来た成政の娘は三人いたが、舞鶴へ来てすぐに嫁ぎ先は決まった。智勇兼備の佐々成政、たとえ晩年は不遇となっても今だ柴田家では畏敬の念は強い。舞鶴に来る前から当家の嫁に欲しいと明家に要望が殺到していたと云う。

 成政正室のはるは落飾して尼僧になっていたが、明家正室さえの侍女となり、亡き八重以来の母親代わりと云うべき存在となった。後日談となるが、秀吉が没した後に明家は佐々家を再興させている。成政生母のふくは大変長命で、この再興のおりにも存命であった。だが佐々家の再興の直後、悲願成就に肩の荷が降りたか穏やかな死を迎え、息子成政と同じく

『殿のような孫がおれば…』

 と明家に言い、静かに息を引き取った。

 

 ところで、この当時の彼の家族構成はどんなものだったのだろう。今では丹後若狭の国主で大大名。しかも若く美男子。側室と望む女はいた。主なる者では明家が丸岡五万石の大名になった後に仕えた小山田家の月姫。そして滅んでしまった若狭水軍棟梁松浪庄三の娘の那美、この二人であるが明家は糟糠の妻のさえと自分を庇って歩行ままならなくなったすずを悲しませたくないと断り、優秀な家臣に嫁がせている。

 しかし、やはり明家も人の子だった。まだ若狭一国の国主だったころ、さえとすずがほぼ同時期に懐妊した時があり、明家は久しく空閨を余儀なくされた。小浜城に奉公に来ていた娘にしづと云う娘がいた。彼女は明家が長庵こと養父隆家に連れられ、北ノ庄城を訪れた時に出会った女童である。そのおりに突如攻め込んできた一向宗門徒。逃げ惑う人々に潰されて踏まれているしづを助けた隆家。それがため隆家は不幸にも流れ弾で命を落とした。しづも、その父母である鳶吉とみよもその恩を忘れていない。しづは明家を慕っていた。

 そして現在、成長したしづは花も恥らう美しさである。そんなある日、文机に向かい書類を書いていた明家に茶を持ってきたしづ。長き空閨を余儀なくされており、若く男盛りの明家はしづを見ていてたまらなくなり、押し倒してしまった。しづは嫌がった。好意は持っているが心の準備が出来ていない。事が済み、我に返る明家。大変な事をしてしまった。畳に赤い雫があった。処女だった。しづは涙を浮かべキッと明家を睨み『お殿様なんて大嫌い!』と泣きながら家に帰ってしまった。

 とにかく平謝りするしかない。自分を兄のように慕ってくれていた娘の純潔を奪ってしまった。父親の鳶吉も事情を知り激怒。明家が詫びに来ても『帰ってくれ!』と門前払い。明家は家の前で土下座して謝る。どうであれ殿様を家の前でそんな事をさせるわけにはいかず、しづの母のみよが家に入れた。

「みよ、しづはどうしている?」

「泣いています」

「だろうな…。ああ、大変な事をしてしまった…」

「何を考えているのですか、嫁入り前の娘を無理やり組み敷くなんて…」

 父親の鳶吉の方を向いてもプイとそっぽを向いている。明家は鳶吉に歩み、

「責任を取りたい」

 と伏して願った。

「責任?」

「ご息女を側室に迎えたい」

「お城にあげる時点で殿様のお手つきがありうる事くらいはある程度は覚悟しておりました。お気遣いは無用です」

 当時はそういう時代である。しかしながら鳶吉は柴田軍正規兵であるが工兵隊として戦闘を免除される代わりに士分ではない。ゆえに娘に殿様の手がついたと云うのは、むしろ幸運と言える。

 しかしそれは他の大名の話。大名の家臣団の性質は当主の性格が浮き出る。秀吉の家臣団は陽気、光秀の家臣団は主君の性格が映り、精強なものの陰気と云われる。明家の家臣団は主君の愛妻家ぶりが映り、女を愛する騎士道精神が旺盛である。嫁入り前の娘をキズ物にされれば殿様とて黙っておれない、そういうわけである。

「しづは…俺を嫌いになったかな…」

「当たり前でしょうが!」

「でも、やはり責任は取るよ。今日は帰るけれど、何とかしづに許してもらい側室に迎えたい」

 明家は翌日も、その翌日もやってきた。少ししつこい。明家はどうしても謝りたかったのだろう。やっとしづは明家に会った。

「……」

「悪かった…。なんと詫びれば良いのか…」

「悪かったってどういう事ですか?」

「え?」

「詫びるなら、しづを元の娘に戻して下さい」

「そ、それは…」

「お殿様はたわむれに…ただ女子が欲しかったからしづを抱いたのですか?私でなくても女子なら誰でも良かったのですか?」

「い、いや…」

「…純潔を奪ってしまったなら側室にすればいい。そんなお考えなのですか?女子をバカにするのもいい加減にして下さい」

「……」

「もうお殿様はしづの好きだったおにいちゃんじゃない。お殿様なんて大嫌い、軽蔑します。二度と来ないで下さい」

 しづは奥の部屋へと引っ込んでしまった。

「殿…。聞いての通りにございます。あっしとカカァで一応説得してみましたが、しづはどうしても殿が許せないと…」

「…分かった。あきらめよう」

 明家は引き下がった。だがしづが自覚していたのかは不明だが、とった態度は明家を信頼している事を裏付ける。いかに女子を大事にする気風の柴田家にあっても、しづの態度は当時考えられなかった事である。相手は君主、家臣の娘であるのなら自分が君主にそんな態度を執れば父親がどんな目に遭うか想像に易い。だから他家では同じ目に遭っても受け入れるしかなかった。

 しかししづは毅然と拒絶した。これはしづが『自分がこんな態度をとっても、父親を不当に冷遇するような狭量な君主ではない』と無意識のうちに信頼していたからである。事実、明家は鳶吉に対する態度はまったく変えなかった。だが、しづとはこれで終わらなかったのである。

 

 さて、明家の家族構成に話を戻すが、この時点で明家の子は嫡男の竜之介、次男鈴之介、三男勝之介、長女鏡、次女舞である。妻もこの時点では二人である。側室を増やさなかったのも明家の処世術の一つと言われている。

 秀吉の甥である豊臣秀次が多くの愛妾を持ち、どんどん子を成していると聞いた。跡継ぎができなくて嘆いている秀吉がそれを愉快な道理がなく、実際その愚痴を明家は聞いた。子は柴田家にとっても宝であるので子作りはどんどんするが、側室を増やして子もたくさん作れば秀吉は自分も妬むと思い、妻二人だけとしたと云う。状況が許せば三人となっていたかもしれないが。

 ちなみにすずが生んだ次女の舞、名は言わずもがな賤ヶ岳の退却戦で明家を庇って討ち死にしたくノ一舞の名前から明家が次女につけた名である。

 

 明家は領内に仁政をしき、民から支持された。勝家の元にいた当時は明家自ら陣頭に立ち部下たちを使っていたが大名になるとピタリとやめてしまっている。豊臣家における主命は陣頭に立つ事もあるが、柴田家の運営はほとんど家臣に任せた。彼は豊臣の家臣の時と柴田家当主の立場の時を分けたのだ。

 丹後若狭の領地管理や運営のほとんどを家臣たちに縦横無尽にやらせ、そして最終責任は明家が取ったのである。かつ家臣の働きを公正に判断して評価した。主命の失敗も、失敗を理由には叱らず誤っていた点を見出し助言し再度同じ主命を与えたと云う。主命遂行のためにやむなく命令違反を行った家臣の失敗さえも明家は責任を取ったと云うから、今日の辛口の歴史家たちも“理想の指導者と言えるだろう”と賞賛を惜しまない。

 また明家はめったに新たに家臣を召抱えなかった人物とも知られている。禄を惜しんでではなく、余所で出来上がった優秀な者を高禄で新たに召抱えるより、今いる家臣を優れた者に育て上げた方が良いと考えていたからである。

 彼は家康ほどではなかったが秀吉に比べればケチだった。交易を行い、領地を新田開発で富ませているにも関わらずである。明家は富んだ分を減税に当てて、民のために診療所建設や医師育成、戦死者家族への慰問金などの国営資金に当てていた。だから家臣たちは不満を言わなかった。何より明家は家臣たちより働いた。家臣たちが汗水たらして働いている時にのうのうと寝ている者に君主の資格無しと思っている明家。家臣より早起きし、家臣より遅く寝た。この当時の明家の言葉が残っている。

『足利幕府の天下が早く乱れ、下剋上の戦国に至ったのは幕府重臣までも褒美で釣ってハナっから物欲の集団を作ったからだ。関白殿下はやたら景気の良い褒美を出すけれども俺は違うし、それは出来ない。だから俺は物欲でしか動かない家臣はいらぬと決めた。しかしチカラある者はその才覚を十分に生かしきれる場を与えて任せるつもりだ』

 高禄よりも思う存分に志を伸ばせる生き甲斐によって報いようとしたのが、その心であった。これゆえに明家の家臣団は自己研磨を怠らなかった。まさに上に立つ者によって人は変わるもの。若き日は北ノ庄城のぐれん隊だった松山矩久や小野田幸猛なども今では智勇兼ね備えた立派な大将となっている。

 今いる者たちを認め、育て、任せていれば良い事。また明家は禄を世襲制としている。二代目が得る禄も先代が自分のため懸命に尽くしてくれた結果である。これは現在で云う終身雇用。葬儀も柴田の傘の下で行う事もできた。柴田君臣は運命共同体であった。これは明家が織田の陪臣であったころから行われていた。何より明家は家臣の父母と妻子の名前を全部覚えていたと言われている。だから柴田軍は強かった。まさに一つであったからである。『柴田の軍勢は一つの巨大な生き物』と言われる所以である。

 明家の領国経営、これには手本がいる。徳川家康である。ケチと呼ばれる御仁なのに、あの家臣たちの結束の秘訣は何だろうと明家は勝家の下にいた頃から学んでいた。家康は自分に学ぶ明家が気に入っている。彼の嫡男信康の面影がある明家だから、それは一層であろう。『儂の模倣は誰も出来ぬと思ったが、まさかあんな若僧がな』と明家を褒めた。そして腹心の本多正信には『越前は儂と似ている。儂の最大の味方となるか最強の敵となるかいずれかだろう』と言った。

 

 そして、いよいよ豊臣秀吉によって小田原攻めが敢行された。明家は留守居を務めた。大坂築城は未完の部分が多いため、その築城の指揮を執っていたのである。同じく留守居で築城奉行を務めていた増田長盛が明家に歩んできた。

「越前殿、武蔵国忍城を攻めている治部少殿(三成)より書状が来ております」

「かたじけない」

「いやあ、だいぶ出来てまいりましたな。殿下が越前殿を小田原に連れて行かず、こちらに集中させた事が分かりまする」

「いやいや、右少尉殿(長盛)が豊富な資金を用立ててくれるからにございますよ」

「ははは、まだ振る袖はございますゆえ、足りなくなってきたら申し出て下さいませ」

「承知いたした」

「と…今日は柴田粥をふるまってはおらんのですかな?」

 明家の妻さえが作った柴田粥は豊臣家臣団でも隠れ贔屓が多かった。大坂城の調理屑から作られるので最初は気が引けたのかもしれないが、一度食べたら病みつきになる美味であったのだ。秀吉も好んでいたと云う。

「ははは、一刻後に作り始めますので、城に運ばせましょう」

「ありがたい、大盛りで願いますぞ」

 増田長盛が去ると、明家は石田三成の書を読み出した。戦術の指南を願いたいと云う物だった。

『殿下から忍城を、あくまで水攻めで落とせと申し付けられ難渋しています』

 水攻めは、かなりの巨費を投入して実行される。つまり秀吉は北条家と関東の豪族たちに豊臣家の武威と財力を示すために、三成に水攻めを行えと命じたのである。

 しかし関東平野と言われるように、忍城の周りには自然の堤防が一切ないのである。自分たちで堤防を築いて利根川の水を入れるしかない。しかも忍城(現在の埼玉県行田市)の地は湿地帯。多少の水など地が吸い込んでしまう。三成はご丁寧に忍城の地形図と、近隣の河川の状況を細かく記した図面も書状に同封していた。三成の意図は分かっている。

『何とか、小田原の陣にいる殿下に取り成しをして、水攻め以外で戦って良いように事を運んでいただきたい』

 と、旧主明家に頼んだのである。文面に出さなくても明家には分かる。明家は急ぎ小田原の秀吉に書状を送った。まず大坂城築城の進行状態を報告。そして最後に

『恐れながら、忍城の地形を図面で見るに湿地帯の平野にございます。自然の堤がほとんどございません。いかに治部の采配とは云え不首尾に終わる可能性があります。巨費を投じて恥をかいては本末転倒。水攻めは殿下だから出来る城攻め、なにとぞ治部に自由に攻めても良いと云うご下命を』

 自分が伊丹城でも成功させた事は一切書かずに『殿下だから出来る城攻め』と書き送った明家。その言葉に気を良くしたのも手伝い、書状に同封された忍城の地形図を見た秀吉は、その日のうちに石田三成に『自由に攻めよ』と指示を出している。三成はその書状を歓喜して握り、思わず大坂にいる旧主明家に手を合わせた。三成には明家個人から書状が届いた。

『小田原が落ちれば、忍城も開城される。小田原の評定は四分五裂で内応者もいると聞く。忍城は包囲しているだけで攻める必要はないだろう。本城の小田原城が殿下の大軍に包囲されていると云うだけでも忍城内の士気はそう高くないはずだ。黙って城を囲んでいればいい。水攻めにあてるはずだった資金を味方にまわし、長対陣に士気が落ちないよう務めよ。また城主成田氏長殿の娘の甲斐姫に殿下は興味を持たれていた。殺してはならない』

 さすがに明家も心得てきたものである。甲斐姫のくだりを読んだ瞬間に三成は苦笑した。

 

 三成はその後には包囲を続けて兵糧攻めを仕掛けた。そしてやがて小田原の落城を待たずに降伏した。三成は包囲をしつつ、自軍の陣中に娼婦や商人たちを集めて、長対陣の退屈さを解消させたのである。三成が秀吉から学んでいた戦法である。その敵方の光景を見て忍城の士気は下がり、やがて兵糧も心細くなり、城を預かっていた成田氏長の妻の真名姫は開城を決意した。自決しようとした真名姫、娘の甲斐姫を救い出し、三成は忍城に入城し、翌日には小田原に向かった。三成軍は途中にある要害の鉢形城、岩附(岩槻)城も攻め落とす勢いだった。あのまま水攻めを続けていたらこの快進撃はない。三成は旧主明家に感謝の気持ちで一杯だった。

 このように明家と三成は、かつて主従だった縁から豊臣政権の中でも公私両面協力しあっていた。明家がこの時に行っていた大坂築城にしても、土木工事の指揮に長けた三成の家臣数名が明家のよき協力者として働いていたのだ。

 

 この秀吉の『天下統一』の仕上げに当たる戦い。時勢の流れが見えない北条氏は秀吉の再三の上洛要請にのらりくらりと言い逃れ従わなかった。

 そのとき、真田昌幸との間で小さな衝突があり(世に云う名胡桃城奪取事件)、これを口実に秀吉からとがめられて小田原攻めが実行された。いくら小田原城が天下の名城でも、後詰めもない上に、支城も次々に落とされ、まわりを二十二万以上の大軍に埋め尽くされては勝ち目がなかった。しかし北条親子は降伏しなかった。まだ物資は山とある。家祖早雲以来の名家を自分たちの代で滅ぼす事に耐えられなかった。しかし現実に秀吉に包囲されて北条氏政は圧倒された。

「何と云う大軍だ…。二十二万だと?どうやってそんな大軍を維持すると云うのだ」

 家臣が答えた。

「それどころか陣場に町などを作り長対陣に備えていると聞いています」

「なんと…」

 秀吉の陣から太鼓や笛、女たちの笑い声が聞こえてきた。

「ふざけよって秀吉!儂はあんな成り上がり者になぞ屈せぬぞ!断じて屈せぬ!」


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