天地燃ゆ   作:越路遼介

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天下統一

 徳川領に進攻中の保科正光の元に父正直の首が届けられた。父の首に対面した保科正光、父の正直は最期まで徳川家康に付き従い、そして真田勢と戦い討ち死にした。関ヶ原で槍を交え、かつ父の死に様、正光は父を誤解していたと気付く。命を惜しんで武田を見限ったのなら敗走する家康に最後まで付き従うわけが無い。父は保科家の存続のため、武田と袂を分けたのだ。息子の正光が後武田家の家老になっているのを見届けた正直は保科家の存続と安泰を確信し、最後は己の武士道を貫いて討ち死にした。

 正光は父の首に平伏し一晩中泣いた。恥ずかしい、ずっと父を腰抜けと呼んでいた自分が。家の存続のため故郷を捨て、息子にも軽蔑される道。こちらの方が死よりもつらき道。戦って潔く死ぬと云う美徳に逃げずに父は生き抜く事を選び、そして最期は家康を守るため戦って死んだ。

「正光は父上を誇りに思います…」

 その後、正光は浜松城にいた母と妹たちを引き取り、父にできなかった分の孝行を母にしたと云う。

 

 徳川家康の死からしばらく経ち、甲斐、信濃、駿河、遠江、三河が完全に柴田に併呑された。もはや抵抗する力は残っていなかったのかもしれない。信じられないほどのあっけなさである。

 総大将の前田利家は降伏すれば許し、現地の民への略奪暴行は固く禁じ、しかも石田三成が同時進行で民心掌握を行っていた。飢えている民には施し、夜盗などの悪漢、狼藉者は捕らえ治安の向上を図ったのである。武田、北条、徳川としのぎを削った地である甲斐、信濃、駿河、遠江、三河の五ヶ国。結果は歴史に選ばれた一人の天才にすべて飲み込まれた形となった。

 論功行賞が行われた。九州攻め、関ヶ原、そして徳川領進攻戦の三つの合戦同時に行われた。今まで論功行賞と云うものは土地を与える事が第一と言われていたが織田信長の出現により大きく異なり出している。茶器や書画などの名物を欲する大名も多く、なまじの土地より金銀がモノを云う時代になっていた。信長の言っていた『これからは銭の時代だ』を継承した明家、領地だけ与えていっては限界がある。論功行賞は金銀や宝物を織り交ぜ、そして領地も武功に応じて与えていき、戦死者の家族には手厚い報奨が贈られた。領地と財が増えて喜ぶ諸大名や部下たち。しかし明家もしたたか。柴田の天領もこれまた増やし中央の覇者の武威を確固たるものとしたのである。

 

 論功行賞も終え、関ヶ原の後始末も一通り落ち着けたある日、黒田官兵衛が明家と話していた。

「殿、論功行賞や関ヶ原の後始末も終えたゆえ、ご命令どおり九州に行き、新たな柴田天領の内政の指揮を執ろうと思いまする。半年ほど大坂を留守になりそうでございます」

「うむ、任せる。奥方や吉兵衛(長政)も連れて行くと良い」

「かたじけなく存ずる。それと一つ報告がございます」

「何か」

「殿に下命されておりました九州の人身売買の件ですが…」

「…ふむ」

「再び大友はやりました」

「……」

「幸い、坊津水軍への指示が間に合い、海上で奴隷の娘たちを救出できました」

「そうか…」

「殿、これも殿が宗麟殿の詭弁に迷ったからにございます。確かに『清濁合わせ飲む』は天下人に必須。しかしながら、その論を吐くからには発する者が正しくなくては、ただの取り繕い、詭弁、言い訳に過ぎませぬ。何故迷われた。何故その場で宗麟殿を斬り、奴隷を買う伴天連たちを撫で斬りにせなんだのか」

「あの場で宗麟殿や伴天連を斬る事は得策ではなかっ…いや、これは言い訳だな。なぜ迷ったのか、それは己が理想とする政治体制は、そして行っている政治や軍務も客観的に見れば清き水に過ぎるのかもしれない。大名になってからそんな事ばかり考えていた。確かに宗麟殿の言った事は言い訳に過ぎず、若い娘を異国に売り飛ばす正当性にもならぬ。だが『大納言のやる政治や軍務は清廉に過ぎる』と言われギクリとした。誰も今まで言わなかった。父勝家も弾正(助右衛門)も治部も、だから迷った」

「言わなかったのではなく、言う必要がなかったからにございます」

「なに…?」

「弾正殿と治部、そしてそれがし、殿が誤っていても何も言わぬ不忠の腑抜けと言われるか」

「そんな事を言ってはおらぬ」

「ご隠居様にしても、いかに老いては子に従えでも殿が誤った君主になろうとすれば鉄拳を浴びせるお父上。今まで何も言わないのも殿が間違った事をしていないと見ているからです。無論、それがしもです」

「出羽守…」

「正しいと思った事をなされませ。そして誤っている時は誰も黙ってはおりませぬ」

「…よう言うてくれた。嬉しく思う」

「それでは改めて宗麟殿の裁きをお伺いしたいと存じますが」

「一度は見逃した。しかし二度は無理だ」

「御意」

「大友宗麟は斬首、大友義統は父の愚行を止められなかった咎で関ヶ原の武功は帳消しのうえ領地没収、大坂で閉門蟄居。九州にいるキリシタン宣教師は国外退去、なお今まで奴隷を買う役目をしていた伴天連を召し取り、首を刎ねよ」

「はは!」

「九州では水面下で行われてきた悪しき慣習らしいが、俺の目の黒いうちは断じて許さない。今後行った者はどんな些細な関わりでも極刑であると発布せよ」

「承知しました。しかし伴天連を斬らば、当然欧州列強も黙っていないと思いますが…」

「それで欧州列強が攻めてくるというのであれば戦うのみだ。女子たちは国の宝にて根本、それを拉致られ奴隷として弄ばれるのを黙って見ていて何が天下人か。義はこちらにある。返り討ちにしてくれよう」

「はっ!」

 

 官兵衛は城主の間から去った。しばらくして吉村直賢が入ってきた。

「殿に申し上げます」

「うむ」

「北条攻めの軍事物資、すべて整いましてございます」

「よし早い、相変わらず見事だな」

「恐悦に存ずる。つきましては…お願いの儀がございます」

「何か」

「このお勤めを最後に、この備中(直賢)は隠居したく存じます」

「相談役として大坂にいてほしい…。と言うのは俺の我が儘か」

「申し訳ございませぬが…それがしは見ての通り体に故障ある者、加えてそろそろ五十路にて体がよう利きませぬ。この辺でご容赦を…」

「そうか…。それでこれから?」

「商人司はそれがしの配下である与太之助に預けとうございますが…」

 与太之助はあの北ノ庄の元不正役人、かつて明家に追放処分を受けたが帰参を許され、以後は直賢の手足となり働いてきた人物であり、今や老獪な堺や博多の商人らも一目置く商将となっている。

 直賢は男子三人に恵まれていたが自分の後を継がせて商将にしようとはしなかった。交易の世界は実力のある者が陣頭指揮を執らなければならない。柴田家にあって唯一世襲でない組織『商人司』。この先代が後継者を指名と云う仕組みは以後も続けられていく。

「与太之助か、そなたが押すのなら間違いあるまい。認めよう。そなたはどうする?」

「倅が居城掛川にそれがしと家内の隠居館を作ってくれました。そこへ移り住みます。本日を持ちまして柴田の禄を辞退し、夫婦で温泉にでも行き、趣味と風流を楽しみ余生を過ごそうかと」

 直賢の嫡子の直隆は父と同じ商将にはならず、直賢がかねてから望んでいた武将となり、初代吉村家を旗揚げした。四国と九州でも武功を立て、関ヶ原では可児才蔵の寄騎となり活躍した。その功績により遠州掛川城を与えられていたのである。

「分かった。しかし禄は今までの額面とはいかないが直隆を通して与える。今までただの一度も俺に資金の心配をさせなかったそなた。商才に長けた多くの人材を育てたそなた、このぐらい報いさせてほしい」

「殿…」

「隠居に際し、今までの慰労金も渡す」

「ありがたき幸せに」

「覚えているか備中、初めて会った時、そなたと俺は殴りあったな」

「そうでしたな。効きましたぞ、殿の鉄拳は…。何とも、つい昨日のようにございます」

 直賢は明家三傑の次に水沢隆広の直臣になった人物。しかも隆広が自ら出向いて家臣にと要望した人物だけあり、柴田家は無論、諸大名にも一目置かれていたが当人はけして驕らず、巨万の金銀を生み出す才覚を持ちながら生活は質素で、側室も持たず正室の絹を大事にした。そんな性格が明家やその父の勝家にも信頼された。

 しかし彼の言う通り、左腕がなく、左足の自由は利かない。もう彼は肉体的に限界であった。だが満足だった。天下人柴田明家を支え続けてきた自負がある。しばらく明家と思い出話を語る直賢。それが落ち着き出した頃、

「おっとそうだ殿、ご報告しようと思っていた事がございましてな」

「ん?」

 一つ咳払いして直賢は明家に言った。

「殿は本多忠勝殿のご息女を殺さぬように命じていたそうな」

「その通りだ」

「その意図は?」

「厚遇して徳川遺臣たちの怨嗟を少しでも緩和したいと思っていた。家康殿のご息女はみな嫁いでいるし、正信殿に娘はいない。ならば忠勝殿のご息女をと思ったのだが、それが?」

「なるほど、それを皮切りに徳川遺臣や三河武士団を味方につけようと」

「それと旧徳川領の領民たちもだ。家康殿の仁政行き届き、まだ民は柴田に非協力的と聞く。忠勝殿のご息女を厚遇するのは些細な事かもしれないけれど、柴田が暴虐な侵略者ではなく新たな統治者と云う事を分かってもらえる第一歩となるかもしれないと思ったのだ」

「側室になさるつもりだったので?」

「いや、そんな気はない」

「いやいや、殿が思わずとて、そう判断されましょう」

「側室にしたら元も子もない。俺の色狂いと見られてしまう」

「で、真田殿に忠勝殿ご息女を見つけて大坂に召すように下命したのでしたな」

「そうだ、だけど信幸から見つからなかったと報告が届いたばかりだ」

 直賢は笑い出した。

「どうした?」

「ははは、智慧美濃もいっぱい食わされましたな」

「なに?」

「本多忠勝殿のご息女である稲姫、先日めでたく信幸殿の正室となりました」

 あっけにとられた明家。しかし手を打って大笑いした。

「おいおい、それじゃ鳥居元忠殿と馬場美濃殿が娘の緑姫と同じじゃないか!俺も家康殿と同じくいっぱい食わされたのか。こりゃいい!あっはははは!!」

 一緒になって大笑いする明家と直賢。信幸は先年に正室を病で失い、側室だけで正室空席だった。それでめでたく東軍最強の武将である本多忠勝の娘を妻にした。

 稲姫は弓の名手で、ひっそりと住んでいるなんて生易しい娘ではなく徳川領に進攻する西軍に立ち向かった。本多忠勝の旧領に攻め入るのが真田であったため信幸に稲姫を大坂に召すよう下命されたわけであるが、稲姫は父の家臣たちを率い必死に抵抗してきた。その正確無比な弓の腕に寄せていた真田勢は『那須与一の生まれ変わり』と評した。

 しかし多勢に無勢で稲姫は敗走し、やがて捕らえられ真田信幸の前に膝を屈する事になる。これで柴田からの主命が果たせると胸をなでおろしていた信幸の前で悔しさに泣く稲姫。この世で一番重い液体は『女の涙』と云うが、悔し涙を浮かべて己を睨む稲姫に心奪われ、明家からの主命など空の彼方に飛んでしまった。

「信幸殿はその場で我が妻となってほしいと頼み込んだとか。稲姫も驚いたでしょうが、その場にいたご舎弟の幸村殿も唖然としたそうです」

「そりゃそうだろうな、あっははは。で、稲姫がそれを受けたのか」

「最初は『冗談じゃない』と拒否したそうですが、信幸殿はあまり女子に器用でござらぬゆえ、そのあまりの真剣で猛烈な求愛振りについついほだされたのではないかと。やがて了承したそうな」

「ほう」

 狭量な君主ならば、信幸と稲姫も罰せられる事になったろうが明家はむしろ喜び

「ならば仕方ない。稲姫に代わる人物を探そう。別に女子でなくても良いのだし」

 と、笑って許したのだった。そんな主君の清々しい態度に微笑む直賢だった。

 

 さて、北条攻めの準備は完了した。柴田明家は北条家に降伏を勧告。柴田が築く統一政権に加わり、当家に恭順の意を示せと申し出た。当主氏直は受諾する気であったが、先代の氏政は拒否。これが今までの北条との経緯である。もう説得は無理と思った明家は旧徳川領で内政を行っている石田三成に密計を授けて実行させた。

 それは北条との国境近くにある城のいくつかを手薄にして、北条の前線拠点の城主たちに柴田の来襲近しと噂を流させる事だった。これに北条氏邦の配下である猪俣邦憲がまんまと引っかかってしまう。真田の名胡桃城を奪ってしまうのである。城に攻めたはいいが、名胡桃城は無人だった。猪俣邦憲はこの時に柴田家の仕組んだ罠と悟っただろう。しかし後の祭りである。

 北条氏政と氏直親子に城を返したうえ猪俣邦憲の首、その上将の北条氏邦を上坂させ侘びを入れさせろと要求。そうすれば水に流すと明家は通達。言うまでもなく、これは本心ではない。北条氏政が了承するはずがない事を知ったうえで通達しているのだ。氏直はこれに同意したが先代の氏政が

『一度取ったうえは北条の城、それに家臣の命が大事なのは北条も同じ。城と首が欲しくば弓矢で来られよ』

 と返書を送ってしまった。現当主の北条氏直は開戦に煮え切らない態度であるが、先代の氏政、いまだ北条の実権を握る北条氏政は柴田明家に従う気はなかった。たとえ妹の相模姫を丁重に弔った男であろうと関係ない。断じて頭は下げぬと文面から伝わってくるようである。

 ついに柴田明家の術中に陥った北条。攻め寄せる大義名分をこれで得たのである。できれば戦う事なく降伏して欲しい明家だが、相手も関八州を領有し、五代続いた名家である北条家。そうもいかない。

 過去に上杉謙信と武田信玄による攻めを退けた自信と、五代に渡って関東を支配してきた自負、これが柴田明家にも従わないと云う姿勢となったのではないか。後北条氏には関東独立国の王としての意地があった。また後北条氏の権力を『公儀』と称していた。つまり関東独立国は私的な国家ではなく公的なものと後北条氏は自負していた。それなりの意地があるのは当然である。

 明家も分からない話ではないが、それをいちいち認めていてはいつになっても統一政権は作れず、合戦の無い世は到来しない。四国や九州を攻めたのも『日本は一つ』の統一政権樹立のためによるものである。関東の後北条氏の独立王国を認めるわけにはいかない。柴田明家はついに北条攻めを決定した。

 

◆  ◆  ◆

 

「申し上げます!」

 ここは小田原城。北条氏政と氏直親子に知らせが入った。

「柴田大納言の軍勢、およそ二十四万!関東に進軍を開始しました!」

「二十四万…?」

 あぜんとする北条氏直。

「何と云う数だ…」

「うろたえるな氏直、我らの篭る小田原城は金城鉄壁、かの上杉謙信十二万も退けた天下無双の城じゃ」

「父上…」

「あの時の上杉勢は兵糧がすぐになくなり、一ヶ月で撤退したわ。あの篭城戦の経験を生かせば良い」

 そして家臣に命じた。

「領内の兵糧すべてを城内に入れよ。篭城戦に備える」

「「はっ!」」

「加えて小田原周辺の田畑をすべて焼き払え」

「父上それは!」

「北条の食糧を労せずくれてやるほど儂はお人よしではないわ。焼き払え!」

 この知らせは進軍中の柴田明家の耳に届いた。

「氏政殿はいつぞや、農民が稲刈りをするのを見て『あの取れたての新鮮な稲で昼飯が食べたい』と申し、それを伝え聞いた武田信玄公から失笑を買った事があるらしい。『苦労知らずの北条の若殿は稲がその場で米になるとお思いか。稲刈りした後は数日かかりに天日で乾燥させ脱穀し、その後に籾すりして、ようやく飯を炊ける段階に入る事ができる。そんな事も知らぬのか』と」

「確かにそれでは嘲笑を受けましょうな」

「弾正、北条氏政殿は信玄公、謙信公、信長公、家康殿と渡り合いながら、領国を拡大している。島津義久殿と同様に弟(氏照、氏邦、氏規)たちを巧妙に使いこなしている事から将器は立派にある方と思っていた。だから稲の件を聞いてもそれは単なる知識不足にすぎないと考えた。しかし見込み違いだったらしい。自国の、しかも居城周囲の田畑を焼くなど自分の足を食う蛸と同じだ。民百姓が稲を育てるまでどれだけの苦労をしているのか知らないのであろうか?一年の間の過半数を鳥、虫、雑草と格闘し、やっと収穫できる稲を焼くとは君主の資格などない」

 明家は焦土戦術をもっとも嫌い、柴田の軍法では絶対に行ってはならない事と定められている。氏政の立場ではせざるを得なかった戦術とも言えるが民百姓を大事に思う明家には、たとえ敵が篭城戦のために行った行動とはいえ腹立たしい事だった。

「家祖、早雲殿は民百姓を大事にした方、曾孫は違うらしい」

 

 一方、再び小田原城。北条氏政は自室で一つの位牌に手を合わせていた。そこへ息子の氏直が訪れた。

「父上」

「なんだ?」

「兵糧の運搬が終わりましたゆえ、その確認を願いたいと家臣が…」

「かようなものはそなたが済ませておけ。儂のこの時間を邪魔するでない」

「は、はっ!」

 氏直は去った。氏政が祈りを捧げている者、それは彼の妹の相模である。武田勝頼に嫁ぎ、そして十九歳と云う若い命を散らした妹。天目山で夫の勝頼と共に死んだ。死に追いやったのは織田信長、徳川家康、勝頼を裏切った武田家臣たち、そして北条だ。氏政は妹婿の勝頼を攻め滅ぼす一翼を担ったのだ。武田から送り返されてくる事を願っていた氏政。しかし戻ってはこなかった。小田原に届いたのは相模が地面に書いた辞世を書きとめた水沢隆広からの書と相模の遺髪だけだった。

『黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき 思いに消ゆる露の玉の緒』

 二十歳以上年下の妹を娘のように愛しんだ。相模もまた兄の氏政を慕い、氏政は目の中に入れても痛くないほどの溺愛ぶりだった。だが結果、自分がその最愛の妹を死に追いやった。今でも勝頼に嫁がせた事を悔いる。今でも死に追いやった事を悔いる。位牌に手を合わせ、そして遺髪に語る。

「相模よ…。人の世の縁とは分からぬものよ…。お前を丁重に弔ってくれた男と戦う事になろうとはな…」

 幼き日の妹の姿を思い出す氏政。

『相模はどんな男の嫁になりたい?』

『兄上のお嫁さんになります!』

『あっははは、兄と妹は結婚できんぞ』

『じゃあ、兄上のように強い方のお嫁さんになりたい』

『ようし、きっと兄が俺以上に強い婿殿を見つけてやるからな!』

『約束だよ!』

 そんな無邪気な妹を死に追いやった我が身を呪い自嘲の笑みを浮かべる。

「そなたを勝頼ではなく…水沢隆広へ嫁がせられたら…そなたも死なず、柴田と北条が戦う事もなかったであろうな…」

 

 柴田明家は山中城に到着、柴田軍来襲に備えて改修を急いでいたが、間に合わず未完の状態で柴田勢を迎え撃つ事になった。明家は城主の松田康長に数度の降伏勧告するが康長は受け付けなかった。明家は最近築城の知識が並々ならぬ奥村助右衛門配下、藤堂高虎を召して山中城をつぶさに内偵させた。

「どうだ高虎、突破口はあったか?」

 城兵は四千、たとえ未完の城でも激しい抵抗をされれば犠牲甚大。力攻めはするが、まずは蟻の一穴を高虎に探させたのだ。

「ございました。城の南東の防備が手薄です。その分城兵がその場に置かれておりますが真東と真南を少し突付けば南東にいる部隊は散りましょう。そこを一気に落とします」

 ニッと笑う明家。明家自身も城作りの名人、その場に同席していた奥村助右衛門は高虎の意見と明家自身の考えが一致したのだなと明家の笑みから読んだ。

「助右衛門」

「ハッ、高虎、その攻めそなたに任せる。落としてまいれ」

「承知しました」

 藤堂高虎の采配によって城が落ちたのは、それから半日後の事だった。松田以下城兵はほとんど討死した。明家は城の破却を下命、山中城は炎上した。しみじみとその炎を見つめる藤堂高虎。

「人の世は運だ。仕えるべき者を間違えるとこうなる…」

 同時に明家は小田原に偽情報を流した。

“柴田軍は兵糧に困り芋を掘っている。陣では薄い雑炊が高値で売られ、遠からず撤退するであろう”

 山中城城主の松田康長の名前で出した書状、小田原の北条家臣たちは思惑通りと喜ぶ。その柴田軍は進軍を続け、ついに小田原城に到着。二十四万の軍勢で小田原城を取り囲んだ。

 支城はことごとく落とされ、城ごと寝返る者も続出。包囲中にはまたまた例によって陣の後に裏町が作られ、兵の慰撫も抜かりなく、また士気の衰え著しい北条兵にわざとこちらの宴会を見せつけ、さらに士気を萎えさせた。海上にある船の上には支城を落として捕らえた北条将兵の妻や娘を乗せ、小田原城内の将兵に見せつけた。

「妻じゃ!」

「あれは儂の娘じゃ!」

 と北条将兵は敵の手に自分の妻子がいると知り気が気でない。脱走も続出し、柴田陣へと逃げ込んだ。明家の策であり、この一連の心理作戦は北条家に堪えた。それ以前に北条親子が驚いたのは柴田の豊富な兵糧である。なぜ二十四万も擁しながら兵糧が尽きないと不思議でならない。

 柴田には大軍の兵糧を確保できる吉村直賢がいる。彼自身が最後の仕事と決めていた合戦準備ゆえ針の先ほども手抜かりはない。それを前線に送り届ける石田三成などの兵站達者がいる。そして強力な水軍の力もある。まさに天下人の合戦、桁違いの大軍と資金力にものを言わせての城攻めである。

 

 事は何事も一石二鳥にせよ。明家は関ヶ原では敵に回った関東勢と奥州勢にもこの合戦に参戦するように命じた。二十四万の軍勢。未曾有の大軍勢である。大納言明家が小田原を二十四万で包囲したと知るだけでよいのだ。この合戦を関東勢と奥州勢を降伏させる判断材料にも使ったのである。関ヶ原で戦った奥州の雄である最上義光、秋田実季、南部信直も降伏を表明し参戦し、関東の佐竹義重も降伏した。それはそうであろう。降伏しなければ蹴散らされるだけなのであるから。

 明家は関ヶ原で勇猛果敢に戦っていた最上、南部、秋田、佐竹には一目置き、免罪符として領地の石高に沿った金銀と兵糧を要求し領地を取ろうとしなかった。金や米で済むのなら安いものである。四家は応じ小田原でそれを明家に献上した。

 しかし明家は東軍の誰にでも寛大だったわけではない。関ヶ原で戦わずにさっさと退散した宇都宮、結城、里見、津軽、相馬などは改易処分となり、前述の南部家も後にある事情で同様となる。

「殿、あとは伊達でございますな」

 と、奥村助右衛門。

「そうだな」

「しかし、あの伊達政宗、若いながら中々の傑物、関ヶ原ではせっせと鉄砲を集めていたとか」

「聞いている」

「また当家の鉄砲車輪を関ヶ原で破っていますゆえ大納言恐れるに足らずと見ているかもしれませんな。今に至るまで参陣しないのは当家と戦うつもりなのでございましょうか」

「鉄砲が伊達に何千何万あろうとも、あの騎射突撃も、ここに至ってはあまり関係ない。政宗には片倉小十郎がついている。片倉小十郎はそれが分かるはずだ。何とか伊達の知恵袋が暴れ者の君主を説き伏せて欲しいものだ」

「もし北条が落ちるまで伊達が来なければ?」

「討つしかあるまいな」

 

◆  ◆  ◆

 

 会津黒川城、その伊達政宗が片倉小十郎をはじめ重臣たちと話し合っていた。小田原に行くか、それとも柴田明家と戦うか。伊達成実は抗戦を主張し片倉小十郎は恭順を主張した。

「もはや小田原に参戦する時期は逸した!このうえは戦うしかない!」

「戦い我らが戦場の屍になるのはいい。しかし我が領民たちはどうなるのでございますか。女は略奪され、家や田畑も焼かれます」

「なら何で、先の退き口に賛同したのか!そんなに恭順と抜かすなら、退き口をやる前に言うべきではなかったのか!柴田に鉄砲をぶっ放した我らはもはや戦うしかないであろう!」

「あの退き口、あれで柴田は伊達を侮れないと見ました。伊達の気概を大納言に見せるにはあれ以上の退却戦はございません。だから賛同しました。我らはあの鉄砲車輪を撃破した事で柴田に一泡吹かせましてございます。恭順しても伊達は侮られますまい。成実殿の言うように戦場で恭順を示していたら、伊達に人なきと大納言は見ます。いずれ取り潰されるは必定」

「臆したか小十郎!」

「臆病、おおいに結構にございます。勇敢と無謀は違うと言っているのです。戦って伊達が滅ぶよりは」

「言わせておけば!我らには関ヶ原で大量に仕入れた鉄砲がある!」

「大納言はその何十倍も保有していましょう」

「女々しいぞ小十郎!」

「やめい!両名評定を何と心得る!」

 成実と小十郎を一喝する政宗。

「殿、鉄砲など何千何万あっても、もはや大納言には敵いませぬ。騎射突撃とてほんの一瞬大納言を驚かせたに過ぎません。ご自身が大納言なら伊達をどう攻めるか、一度でも考えたのでございますか」

「……」

「僭越ながら、それがしが柴田明家ならこう攻めます。我ら伊達はこの会津では侵略者、芦名や畠山の残党を調略し一揆を乱発させ兵力分散を余儀なくさせ、そのうえで最上や南部と云った近隣大名たちに伊達を攻めさせまする。みちのく大名同士で潰し合いをさせ、柴田に何ら痛手もなく独眼竜を討てます」

「…評定は終わりだ」

「殿、まだ終わっておりません!」

「もうよい!」

 部屋から出て行く政宗。肩を落とす片倉小十郎。

(もう腹を切ってお諌めするしかない…!)

「殿…」

「愛か…」

 廊下に出ると妻の愛(めご)姫がいた。

「少しおやつれに…」

 政宗はフッと笑って部屋に戻った。入った瞬間、政宗は伏して急に泣き出した。

「と、殿?」

「愛…」

「は、はい」

「俺は生まれるのが遅すぎた…!あと二十年、いや十年早く生まれておれば…!化け猫ごときに好きなようにさせなかった…!ちきしょう…!ちきしょう!」

「殿…」

 片倉小十郎は帰宅して、かげ腹の決意をしていた。腹を切って諌めるしかない。その小十郎の屋敷に政宗が訪ねてきた。泣いた事が小十郎にはすぐに分かった。

「殿…」

「夜分すまんな、話がある」

 居間に通され、小十郎と話す政宗。

「率直に聞く。政宗は小田原に行くべきか、それとも柴田明家と戦うべきか」

「…柴田の先発隊くらいならば伊達の力で倒せましょう。しかし大納言の軍勢は未曾有の数、さながら夏のハエの如く、振り払っても振り払っても追いつかないのが自明の理」

「夏のハエか…」

 政宗は笑った。

「あっははははは!そうかそうか、柴田明家は夏のハエか!あっはははははは!」

「殿…」

「あい分かった。俺は小田原に行く!」

 政宗は小田原に出陣した。かなり遅れての参陣である。そして小田原に到着した翌日、明家との目通りが許された。その時の伊達政宗、何と死に装束であった。

(ほう…)

 静かに微笑む柴田明家。陣の奥の床几に座り政宗を見る。そして同じく明家を見つめる政宗。

(俺より小男なのにやたらデカく見える…)

 腰を落としてゆっくり歩み寄る政宗。明家の傍らにいた奥村助右衛門が扇子を脇差にトントンと叩く。その意図に気付いた政宗。三歩下がり、脇差を地に置き、再び明家に歩み眼前で平伏した。

「伊達藤次郎政宗にございます。遅参の段、ひらに御容赦のほどを」

「会うのは三度目か」

「はっ…!」

「関ヶ原での退き口、見事であった。あの騎射突撃、一瞬肝をつぶしたぞ。何より、その一撃だけで未練残さず退却した判断、大納言感じ入った」

「ありがたき仰せに」

「そなたの父、輝宗殿はそなたの隻眼を神仏から与えられた心眼と申したらしいな」

「御意」

(そんな事まで知っているのか…)

「その心眼で俺がこの国の天下人に足らずと見たら、いつでも討て。我が子竜之介も同様にな」

「お戯れを」

「本心だ」

「……」

「ただし、そなたがこの国一番の権力者になり、威張りちらしたいだけであるのなら、俺も遠慮なくそなたを討たせてもらう」

「大納言殿…」

 静かに床几から立ち、政宗に歩む明家。平伏する政宗の肩に手を置く。

「その姿を見て覚悟のほどが知れた」

「はっ」

「これで奥州に無駄な血が流さずに済む、よく恭順を決意してくれた」

「は…!」

「顔をあげよ」

「は?」

「いいから顔を上げてみろ」

「はっ…!?」

「アッカンベーだ」

 明家は左眼の目じりを押さえてペロと舌を出していた。

「あっははは!二度もやられたからな!一度お返ししたかった。あっはははは!」

 

 北条方に、すでに同盟者の伊達も柴田に恭順し、奥州勢ことごとく柴田に降伏の知らせが入った。次々に城内に裏切りが発生、もはや戦うどころではない。柴田勢の数々の心理作戦により北条氏は戦わずして内部崩壊。

「もはやこれまでか…」

「父上…」

「家祖…早雲より五代の北条が…こんなにあっけなく…」

 悔し涙にくれる北条の家臣団。

「卑怯千万なやり口ばかり用いよって一度も攻めてこぬではないか!こんな負け方をするくらいなら討ち死にした方がマシじゃったわ!」

「まったくじゃ!何が智慧美濃じゃ!」

 北条氏忠、北条氏照、垪和康忠は悔し涙を落とす。

「戦に…きれいも汚いもない…」

「「氏直様…!」」

「我らは…城ではなく人を作るべきだったのだ…!」

 ついに小田原城は降伏開城したのである。北条氏政と氏直親子は明家本陣へとやってきた。開戦前に氏政に柴田恭順を薦めていた氏直は高野山へと流罪とし、徹底抗戦の意思を示した氏政は切腹と決まった。切腹の場に向かう氏政を明家は呼び止めた。

「妹の相模殿から伝言を預かっております」

「……」

「『相模は幸せでした』にござる」

「左様にござるか…」

 柴田明家は天目山で自決した武田勝頼の妻、そして北条氏政の妹でもある北条夫人相模の方を丁重に弔った男である。相模と最期の酒をかわし、そして死後はその辞世を書きとめ、遺髪を北条家に届けさせた。氏直はそれを父の氏政に説き、叔母上の恩人と戦うべきではないと訴えたが、武人の氏政はたとえそういう経緯があっても戦わず降伏は北条武士の名折れと認めなかったのだ。

「天目山では妹を見捨てたばかりか妹婿の勝頼殿を攻め、そしてこの小田原の戦ではその妹を丁重に弔って下された御仁と戦う。さぞ冷酷で愚かな男に思えたでしょう。しかしそれがしにはそういう生き方しかできませなんだ。家祖早雲、祖父氏綱、父の氏康は優秀で四代は豚児と家臣や領民に思われるのが悔しくてならず懸命にやってきた。しかし結果はこんな有様にござる…」

「勝負は時の運、たまたま我らに武運があっただけの事」

「かたじけない…」

「氏直殿には悪いようにはいたさぬゆえ、安心して腹を召されよ」

 そして北条氏政は切腹して果てた。氏直はその後に許され、僧として生きていく事になる。これにより戦国大名としての北条氏は滅亡した。

 

◆  ◆  ◆

 

 柴田明家は領内統治のためここで大坂に引き返したが柴田の進軍は続く。前田利家が総大将となり奥州平定に進軍を開始した。会津黒川城に入城し、ここで前田利家は柴田明家の名代として関ヶ原と小田原にも参陣しなかった奥州諸大名に改易処分を通達した。なぜその対象となった奥州大小名はこれを受け入れたか、これはすでに柴田軍が帝に認められていた王師(天皇の軍隊)とも云える武家であり、戦っても勝ち目はない。もはや戦意を喪失していた。

 

 これで柴田明家の天下統一かと思えばそうはいかなかった。一人、それに否とし兵をあげた男がいた。南部家の家老である九戸政実である。関ヶ原で主君信直に退陣せずに戦えと主張した気骨の武将。柴田の奥州平定に納得できず挙兵したのだ。

『金子と兵糧の献上で許されたのに、どうして主家を追い込むような真似をするか!』

 と当主信直は政実を説得するが政実は耳を貸さない。それどころか

『あんな腰抜けを主君としたのは我が不明。ああも柴田にこの奥州の地を蹂躙されて黙っていたらみちのく武士の、いやみちのく男児の恥じゃ!南部の殿は羞恥心を関ヶ原に置いてきたようじゃ』

 とまで言ってのけた。激怒した信直は鎮圧に向かったが、九戸勢は南部の精鋭、信直は鎮圧どころか敗退。信直は奥州平定の柴田軍に九戸勢の討伐を要請。前田利家はすぐに九戸城に出陣。

 いかに九戸政実が戦上手でも柴田の物量と大軍の前にはどうしようもなく、野戦を挑もうとしたが諦めて城へ後退。九戸城は包囲された。しかもその柴田勢の前線を務めるのは主家の南部家を始めとする奥州勢。政実は城から見下ろした敵勢の旗を見てどう思っただろうか。奥州武士の意地を柴田に見せてくれると思えば、その敵は奥州勢なのだ。特に南部勢は自家の混乱も収拾できないのかと評価された手前、何とかして城を落としたいと必死である。

 

 兵糧が乏しくなっていると云う報告も届いている。士気が下がっている。降伏勧告はした。政実は首を縦におろさない。南部信直は総攻めを幾度も利家に進言したが、それは退けた。高橋紹雲が篭る岩屋城を攻めた島津と同じ結果になる。政実にどれだけの将兵が道連れとされるか。前田利家は力攻めはせず兵糧攻めとしたのだ。政実は雪を待つ。極寒である九戸城の地(岩手県二戸市)、雪さえ降れば中央や西国将兵は凍える。それが好機。

しかし現実、城内に米はない。もはや根比べである。雪の到来に怯える柴田と空腹の九戸。しかし政実に不運だった。雪は降らず、餓死者が出た。ついに政実は降伏を受け入れた。政実が腹を斬れば妻子と郎党は助けると云う条件で九戸城は開城した。

奥州武士の最後の意地を見せた政実。前田利家は丁重な切腹の儀式を設け、そして自ら政実の切腹に立ち会った。

「柴田家家老、前田中務卿利家にござる」

「九戸政実にございます」

「見事な戦いぶりにござった。できれば生きて我が主にお仕えしてほしいが、それも叶いますまい。妻子と郎党は丁重に遇するゆえ、安心して腹を召されよ」

「かたじけのうござる。前田殿、大納言殿にお伝え願いたい事がござる」

「何でござろう」

「この戦が終われば、柴田に敵対する者はいなくなり申す。戦のない世が到来いたします。柴田は源氏と聞きまするゆえ帝から源頼朝や足利尊氏が賜れた『征夷大将軍』の官職が贈られ、大坂に幕府を開く事となりましょう」(柴田は源氏、福井県西光寺にある柴田勝家資料館にて勝家直筆の書に『源勝家』の文字を筆者が確認)

「左様、そのために我らは戦ってまいりました」

「その『征夷』は東北の蝦夷を討つと云う意味。叶うならば、その『征夷』を官職名からお外し『大将軍』とのみ名乗られよと。さすれば、みちのくの者は柴田の統治を喜んで受けるであろうと」

「九戸殿…」

「みちのくは緑豊かな山々と海の恵みがある素晴しい国でございます。見目麗しき女子もたくさんおります。一度来て、美しい奥州をご覧あれと何とぞ大納言殿にお伝えあれ」

「前田中務卿利家、必ずやお伝えいたす」

 九戸政実は腹を切った。取り乱さず、介錯も断り腹を切った政実の姿に柴田勢からも『敵ながら見事』と賞賛の声が上がった。利家の報告により明家は南部家に処分を下した。喧嘩両成敗、鎌倉幕府からの武家の定法にのっとり南部家も厳しく処断。改易としたのだ。

 

 前田利家からの報告書には九戸政実との戦いの様子も記されており、政実からの言葉も書き込まれていた。それを読んだ明家は政実と直接会えなかった事をたいそう残念がったと云う。明家は政実の言葉に深く感謝した。

 明家は政実が切腹の際に使った太刀を大坂に届けるよう利家に通達。しばらくして利家からその太刀が送られてきた。明家はその太刀を持ち嫡子竜之介を伴い、京の清水寺に向かった。

「父上、清水寺に何かあるのですか」

「竜之介、坂上田村麻呂は敵将のアテルイを悼む石碑を清水寺に建立されたのだ」

「アテルイ…。宗闇和尚からお話された事があります。あの東北の猛将と云う?」

「そうだ、坂上田村麻呂は降伏したアテルイを助けようと朝廷に助命を願った。しかしそれは叶わずアテルイは処刑された。坂上田村麻呂は敵ながら見事であったアテルイの死を悼み…」

 その碑の前にやってきた明家と竜之介。

「この碑を建てたのだ」

 合掌する明家と竜之介。

「そしてな、今の世にアテルイに比肩する男が東北にいた。九戸政実殿と云う」

「くのへまさざね殿…」

「政実殿はな…」

 竜之介に政実の死に様と言葉を伝える明家。

「すごい大将です」

「父もそう思う。そして今日はここに政実殿と約束に来た」

「約束に?」

 明家はアテルイの碑に向かって折り膝で座り、政実切腹の太刀を垂直に持ち、鍔を鳴らした。約束をたがえぬ事を証明するため武士が刀の鍔を鳴らす金打である。竜之介も同じ太刀で金打を行った。アテルイの御霊を通し、明家親子は九戸政実に『征夷』を名乗らぬ事を誓ったのである。そして息子に言った。

「今後、柴田家当主はこの太刀を腰に帯びるものとする」

「はい父上!」

 九戸政実は最後の最後に柴田と戦をした武将であるが、それゆえに尊敬され、政実の子孫は重く用いられた。まさに奥州武士の意地を貫いた政実に柴田は報い続けたと云う事になる。政実、もって瞑すべし。

 

 そして九戸政実の乱から一ヶ月後、柴田明家は時の帝である後陽成天皇から『征夷大将軍』の官職を与えられた。しかし明家はその場で帝に願い出て受けた官職名の『征夷大将軍』から『征夷』を外す事を許してもらった。この日より『大将軍明家』と呼ばれ、大坂の地に柴田幕府を開いた。ついに柴田明家は天下を統一したのである。




次回、最終回です。

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