天地燃ゆ   作:越路遼介

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関ヶ原の戦い-弐-

 ここで関ヶ原の戦いに参加した東西主要の武将たちを列記しよう。

【西軍】

(柴田本隊)

柴田明家 柴田勝家 奥村助右衛門 石田三成 前田利家 佐々成政 可児才蔵 毛受勝照 山崎俊永 黒田官兵衛 大谷吉継 不破光重 松浪庄三 藤林銅蔵 雑賀孫市 小山田投石部隊

 

(従属大名)

直江兼続(上杉景勝名代) 真田信幸(真田昌幸名代) 滝川一益 森長可 稲葉貞通 蒲生氏郷 筒井順慶 九鬼嘉隆 細川忠興 丹羽長重 毛利輝元 宇喜多秀家 長宗我部元親 鍋島直茂(竜造寺政家名代) 大友義統 立花統虎 秋月種実 島津義弘(島津義久名代)

 

 

【東軍】

(徳川本隊)

徳川家康 徳川秀康 本多正信 鳥居元忠 本多忠勝 井伊直政 酒井忠次 榊原康政 石川数正 奥平貞昌 安藤直次 本多重次 大久保忠世 大久保忠佐 平岩親吉 高力清長 大須賀康高 天野康景 渡辺守綱 服部半蔵

 

(東軍大名)

伊達政宗 最上義光 相馬義胤 南部信直 秋田実季 津軽為信 大崎義隆 佐竹義重 里見義康 結城晴朝 宇都宮国綱 北条氏政

 

 

 勢力図を見てみると、西軍に組した上杉と真田を除けば、ほぼ日本が東西に真っ二つに分かれての大合戦と分かる。柴田明家が遠眼鏡で徳川陣を見る。

「ふむ…」

 隣にいた白に遠眼鏡を渡した。白は影武者として明家の横にいる。体格もほぼ同じで、明家に比肩する美男の優男風体の彼は影武者に適任であり、安土城の篭城戦以降の戦は常に明家の傍らにいる。同じ兜、甲冑、陣羽織を身に付けていると傍目にはどっちがどっちだが分からない。

「魚鱗の陣でございますね」

「そうだ。こちらの鶴翼の陣を見てそう構えたと見えるな」

「長引きそうな様相…。また睨み合いに相成りそうで」

「いや白殿、そうはなりますまい」

「軍師殿」

 黒田官兵衛が明家と白のところへ歩んできた。

「軍師殿、そうはならぬとは?」

「徳川殿は関東と奥州の諸大名に書状と共に金銀を贈り、時には養女を嫁がせ味方を集めましてございます。軍勢はまず見せなければならぬものにございますからな。ゆえに東軍は結束が西軍に比べてもろい。徳川殿もそれを知っていましょう。長対陣は結束の瓦解を招く。犬山の合戦のように先に動けば負けると云うような膠着状態に陥る前に攻めてまいりましょう」

「なるほど…」

 そこへ一人の少年が来た。この関ヶ原が初陣の若者である。

「申し上げます」

「なんだ」

「父の矩久、一昨日早朝に亡くなりましてございます」

「…!」

 明家は悲痛に目を閉じた。

「そうか…。手当てのかいもなかったか…」

「はい…」

「阿波(矩久)は俺の最初の家臣…。半身が持っていかれた思いだ…」

 隆広三百騎の筆頭、松山矩久は九州攻めから体調を崩し、居城の丹波柏原城に送り返された。源蔵館の医師が往診に赴き、つきっきりで治療したが及ばず没した。矩久嫡子の矩孝、幼名は貞吉、当年十四、彼が父に代わって松山勢を率いて関ヶ原に参戦した。

 柴田明家、当時十五歳の水沢隆広の初陣である加賀大聖寺城の戦いのおり、隆広の兵となった三百名の筆頭である松山矩久。最初は反発してきた彼であるが、隆広の実力を認めて軍事内政共に隆広には欠かせない部下となった。四つ年下の隆広を立て数多の戦いで隆広を守り、そして母衣衆として活躍してきた。

 北ノ庄の問題児軍団、札付き、ぐれん隊と呼ばれた三百名は今日に隆広三百騎と呼ばれ、現在は各々が部隊長や将校となっている。その筆頭の矩久の死は明家には堪えた。

「父は関ヶ原に行けぬは無念と述べたそうです…」

「矩孝」

「はい」

「亡き父上に褒められる戦いをせよ、良いな」

「はっ!」

「ただし」

「は?」

「父上は若い頃こそ危険を顧みずに敵勢に突っ込む事をした。そしてそれを反省し、良き大将となった。ゆえに松山の軍旗には呉子の『可なるを見て進み、難きを知りて退く』とある。これは柴田全軍が見習うべき兵法。その軍旗を継承する事を誇りに思うのだぞ」

「はい!」

 ニコリと笑う明家、良き少年を育てたとあの世の家臣を褒めた。

 

 桃配山から柴田の布陣を見る家康。

「ふふ、ついに化け猫を野戦に引きずり込んでやったわ」

「まさに未曾有の大合戦にございますな殿」

「そうよ数正、まさに乗るか反るかじゃ」

「敵に一切の調略が出来なかったのは残念でございましたが…」

「調略など出来ても出来なくとも、戦局により調略相手がどうなるかも分からん」

「確かに…」

「それよりも我が東軍の結束こそが大事じゃ。数正、戦勝のあかつきには手厚い恩賞を与えると再度諸将に申し渡せ。まずこの戦いに勝たねばどうにもならんからな」

「はっ」

「弥八郎(本多正信)」

「ははっ」

「手はずはどうなっている?」

「御意、榊原康政、大須賀康高に命じて、すでに整い終えてございます」

「ふむ」

 

「東西なんちゅう大軍だ…。まさに天下分け目だな」

 声の主は前田慶次である。彼は九州の岩屋城の戦い以後、再び流浪の日々を送っていた。この美濃の地に至るまで合戦など、どこにも起こってはいなかった。平和になったものだと思う。そんなある日、いよいよ柴田明家と徳川家康が対決をすると聞いた。

 どちらに加勢しようか迷った。いささか分の悪い徳川に加勢するのは武人として面白い。しかし徳川に付くのは明家に叛旗を翻すと同じ。出奔はしても彼は明家を主君としていたのである。面白いを取るか、主君への忠を取るか、悩みどころではあるが、やはり明家への忠に決まっている。しかし出番は西軍劣勢の時と決めていた。西軍が押し捲っているところに加勢など恥。劣勢になるまでは高みの見物としゃれ込もうと合戦を見物するため見晴らしの良い場所を愛馬松風に乗って探していた。

「やはり殿の陣取る、笹尾山の北の伊吹山がよう見えそうだ」

 新しい朱槍は手にある。主君明家が危険にさらされたら駆けつけて思う存分に振り回すつもりだ。だが歩いていた松風が急に止まった。

「どうした松…!」

 それは前田慶次が笹尾山の北西、およそ一里(三キロ)に差し掛かった時だ。山中に軍勢が伏せていたのである。旗指物もなく、東西の軍どちらか判別できない。しかし慶次は直感で東軍と悟った。戦場を関ヶ原と見ていたのは明家だけではない。東軍の本多正信もそう見ていた。話は少し遡る。東軍、岡山の陣場。本多正信が家康に進言した。

「啄木鳥戦法?」

「御意」

「あの川中島の合戦で山本勘助が立案したと云うあれか?」

「いかにも」

「しかし、あれは謙信に看破されてしまったではないか」

「然り、ですがそれは妻女山奇襲部隊の兵糧を作るため、海津城に上がった炊煙を謙信が見たがゆえ。もし炊煙がなければ、さしもの麒麟の謙信も武田の夜襲を読めなかったはず」

「確かに…」

 関ヶ原の地形図を扇子で指す本多正信。

「殿、このあたりで大軍が陣取れる場所は関ヶ原のみ。大納言が陣取るのは笹尾山か松尾山、そのいずれかにございましょうが、全軍の指揮を取るのであれば関ヶ原に山肌が突出している笹尾山が適しております。その北西一里にございます、この九段山」

 地形図から外れた机上に茶碗を置く正信。

「ここにあらかじめ兵を今のうちに伏せておくのです。五千でようございましょう。そして後方の伊吹山を経て笹尾山に夜襲をかけ、関ヶ原の平野に降りてきた柴田本隊を東軍全軍で叩く。化け猫が樹の幹からポンと顔を出したところを我らが食らいまする」

「よし、その策で行こう。犬山の戦と違い、時をかけては駄目じゃ。これで一気に短気決戦に持ち込める!」

「今の関ヶ原の朝方は濃霧。天候も味方しましょう」

「ふむ、まさに川中島の様相じゃな。しかし武田の役となる我らが勝つ」

 

 その九段山、家康の誇る精強の三河勢が伏せていた。慶次がそれを発見した。

「なるほど…東西両軍の大軍勢が布陣できるのはこの近隣では関ヶ原だけだ…。おそらくは殿も徳川も早いうちから関ヶ原が主戦場になる事は読んでいただろう…」

 夜襲部隊の将らしき者が兵に告げた。

「良いか、今のうちに英気を養うておけ!今宵に決行ぞ!」

「ふむ…。西軍より先に戦場近くの岡山に布陣していた東軍、一石を投ずる時間的余裕があったと見える。海津城の炊煙と云う看破の材料を置かぬ啄木鳥戦法と云うわけだな…」

 その時…!一本の棒手裏剣が慶次目掛けて飛んできた。とっさに慶次はそれを掴む。

「ちっ!」

 慶次は急ぎ松風に乗り、九段山から離れようとした。しかし黒装束の忍びたちが執拗に追いかけた。

(逃がすな…)

((ハハッ))

 まるで松風、そう呼ばれた松風の速さに人が追いつく。慶次の朱槍が黒装束の男に振り下ろされる!黒装束の男は朱槍をかわし、その柄に乗った。

「なんだと…!」

「服部半蔵推参…」

 朱槍が何かに縛られたように動かない。半蔵は慶次に飛び掛った。さしもの慶次も落馬。倒れる慶次の顎を掴み、苦無を振り下ろす。

「死ね」

「断る!」

 慶次の鉄拳が半蔵の顔面を捕らえた。しかし殴ったのは木偶人形。

「変わり身か…!」

 半蔵は刺殺のため歯の一本くらいくれてやるつもりだったが、慶次の鉄拳は組み敷かれていても忍びを一撃で殴り殺せるほどの威力を秘めていた。それを読んだ半蔵はすぐに変わり身で避けた。

 すぐに立ち上がった慶次、朱槍を拾おうとしたが槍に近づいたその瞬間に半蔵が槍の石突(基底部)を勢い良く踏むと、朱槍の矛先が慶次に向いた。

「おっと!」

 冷静に慶次は槍の柄を握った。

「囲まれたか…」

 服部半蔵率いる忍軍が慶次を囲んだ。フッと笑う慶次。久しぶりに血がたぎる。

「その巨躯、巨馬、朱槍、貴様…前田慶次だな」

「いかにも」

「柴田を出奔したと聞いている。なぜこんなところにいる?」

「ただの戦見物だ」

「場所を間違えたばかりに高い見物料になったな。見てはいかんものを見れば、その代価は貴様の命そのものとなる」

「そっくりその言葉をお返しする」

「ふん、『前田慶次は負け戦を好む』か。ならば我らで馳走して差し上げよう」

「できるかな?」

「我らは敵を殺すためなら手段を選ばん」

「なに?」

「貴様のような怪物に正面から戦うと思うか」

 そういうと半蔵は言葉と逆に慶次へ正面から突っ込んでいった。慶次の槍の一閃をかわした半蔵はすぐに慶次の背後に回った。そして後から組み付いた。そして慶次が首を半蔵に向けたその時、慶次の口内に丸薬を突っ込んだ。

「な…!」

 とっさのことでさしもの慶次も飲み込んでしまった。

「ふっふふふ…。伊賀の忍びに伝わり秘伝の毒だ…」

「なんだと?」

「筋骨隆々の貴様でも体の中は鍛えられまい。信長に飲ませてやりたかったが、まあお前で良いわ」

 すぐに喉に激しい痛みと、焼け付くような胸の痛みが襲ってきた。

「ぐっ…ッ!」

 念を押す半蔵、一瞬の隙を逃さず慶次の足の腱(アキレス腱)を斬った。

「ちい…ッ!」

 その時、松風が怒れる馬魔のように襲い掛かってきた。半蔵めがけて突進する。

「ふん…。漆黒の魔獣と呼ばれし松風…。だが老いたな、遅いわ」

 半蔵は口内に溜めた唾液を松風の両眼に吹き放った。視界が奪われ突進がゆるむ。そして慶次の朱槍を拾い、

「主人より先に逝き、あの世の案内をするがいいわ」

 松風の胸に朱槍を突き刺す半蔵。急所を一突き、さしもの魔獣松風も倒れた。

「松風…!」

「すぐに貴様も愛馬の元に送ってやる」

「ふ…」

「やれ!」

 忍軍は慶次に一斉に弓矢を向けた。足の腱を切られた慶次にはもうなすすべがない。非情にも万箭の矢に全身を貫かれた。

「ぐああッッ!」

 大木が倒れるように慶次は崩れ落ちた。

「首を取れ。開戦前に武神に差し出す血首としてくれる」

「「ははっ」」

 そして倒れる慶次の首を切ろうとした時、慶次の鉄拳が半蔵の部下を殴り飛ばした。

「…ふ、ちょっと待ってくれんかね。あいにくと俺はまだ死んでおらん…」

「しぶとい奴め!全員でかかれ!」

「「ははっ!」」

「ふはははッッ!!」

 慶次は倒れる松風から朱槍を抜き、立ち上がった。

「馬鹿な!毒を飲んだうえ両足の腱を切ったのにどうして立てる!」

「悪いな、俺の体はなかなか死んでくれんのだ!」

「ほざけ、柴田の家老のままでいれば畳の上で死ねたものをな!ここで貴様は犬死だ!」

「ふははは!“生きるまで生きたら死ぬるであろうと思う”これが我が辞世の句よ!もしここで死んだとてそれはもう生きるまで生きたと云う事!ここが俺の死ぬべき場所、今が死ぬべきと云うだけの事よ!」

 両足の腱を切られ、万箭の矢に貫かれ、毒薬も飲まされた慶次、だが立ち上がり朱槍を構えた。

「うおおおおおッッ!!」

 鬼神の咆哮をあげて服部忍軍にかかる慶次。戦人・前田慶次、晴れ姿である!

 

 ここは柴田明家本陣、柴田軍幹部と軍議を合わせた食事をしていた明家。

「ん…?」

「どうした明家」

「いや父上、今…慶次の声が聞こえたような…」

 そしてしばらくして…。

「殿―ッ!」

 前田利長が来た。

「どうした?」

「お、義叔父御が当陣に参りましてございます!」

「慶次が!?」

 本来なら喜ばしい事なのに利長は血相を変えている。急ぎ明家、助右衛門、三成が慶次の元へと駆けた。そして見た慶次は松風に倒れこむように乗っていた。おびただしい出血。慶次は重傷だった。血の気が失せる明家。

「慶次!」

「おお…。と、殿…」

 明家の顔を見て、慶次は松風から崩れるように落ちた。

「何をしている医者だ!軍医を大至急で呼べ!」

「殿、すでに先に本陣に来た利長殿が軍医を連れてくる手はずとなっております!」

 と、三成。

「早く来てくれ…!慶次が慶次が…!」

「と、殿…お伝えしたき事が…」

「話をしてはならぬ!熱湯と包帯、消毒の酒を!」

 自分を抱きかかえる明家の胸倉を掴んだ慶次。

「聞かれい!仮にも西軍総大将がかように狼狽えて何とする!」

「慶次…!」

「ゴホッ 殿、ここより北西に一里の九段山、東軍がおよそ五千で伏せておりまする…!」

「なんだと!?」

「東軍が狙いは川中島の合戦にて武田が用いし『啄木鳥戦法』!夜陰に乗じて九段山を抜け、伊吹山を経て、殿の本陣である笹尾山を衝くつもりにございまする!」

 軍医が到着した。治療しようとするが、

「必要なし」

 と拒否。

「慶次!」

「け、決行は今夜!夜襲により殿が笹尾山を降りると同時に、東軍が一斉にかかる仕組みとなっております…!あとはお分かりですな!謙信公と同じく夜襲の前に山を降り、西軍全軍で虚を衝かれた東軍に突撃あるのみ!」

「分かった!」

「ふ…。これだけお伝えしたかった…」

「け、慶次!」

「では…お先に失礼いたしまする」

「慶次…!」

「またお会いしましょう」

「また会おう!」

 微笑を浮かべ、最期に慶次が言った。

「加奈…」

 前田慶次は柴田明家の腕の中で静かに息を引き取った。そして松風も立ったまま絶命していた。慶次の最期の言葉は離縁した妻の加奈の名であった。それを聞いた加奈の兄助右衛門。

「伝えようぞ慶次、そなたの最期を加奈に…。見事な最期であったと…!」

 共にいた前田利家も頷いた。

「ああ、前田家の誇りだ…!」

「義叔父上…」

 賤ヶ岳の合戦の時、前田利長は華々しい手柄を立てた。羽柴の侍大将の首三つを討ち取った屈指の大手柄。しかしそれは義叔父の慶次の隠れた手助けゆえだった。慶次は前田利家の敵前逃亡を払拭させるには嫡子利長に華々しい手柄を立てさせるしかないと考え、主君隆広を守りながらも、利長に手柄を立てさせた。慶次は利長に一言の恩も着せなかった。合戦後、利長が慶次に礼を述べた時『何の話だ、俺は知らん』と笑い飛ばした。前田の柴田家帰参も叶えてくれた慶次。利長は慶次の亡骸に伏して泣いた。

「泣くな利長、見ろ、笑って死んでいる」

「殿…」

「俺もこんな顔で死にたいな…」

 泣くなと利長に言った明家自身が泣いている。

「前田慶次郎利益…。まぎれもなく、この世で一番の漢!そなたは俺の…柴田の守護神である!」

 

 一方、九段山。服部半蔵は息も絶え絶えに夜襲部隊本陣へと歩いていた。

「ハア…ハア…」

 服部忍軍は五十名以上いたが手負いの慶次に全部討たれた。慶次もさらに重傷を負うが、まだ息絶えていなかった松風が慶次を拾い、そしてその場を立ち去った。行く方向は笹尾山だった。松風は少年時代の明家をその背に許し駆った事がある。明家がいる方向が本能的に分かったのだろう。

 半蔵は止められなかった。半蔵も重傷を負い、立つのもやっとの状態だった。伏兵が西軍に露見する。その報告をするために九段山本陣に向かうが力尽き倒れた。

「なんと恐ろしい男よ…。前田慶次…俺の負けだ…」

 服部半蔵は夜襲が露見すると云う事を報告できないまま死んだ。

 

 そして、夜を迎え、明け方となった。関ヶ原は濃霧に包まれていた。東軍はすでに平野部に魚鱗の陣で布陣し、柴田本隊が夜襲部隊に突付かれて山からで下山してくるのを待った。徳川本陣、床几に座り西方を見つめる家康。

「予想以上に霧が濃いな…」

 と、徳川家康。

「盆地平野ですからな…。昨日の夜半に降った小雨の影響にございましょう」

 返す本多忠勝。

「ふむ…」

 家康は首にぶら下げているお守り袋を握った。亡き長男信康の遺骨と遺髪が入っている。

(信康…。そなたとこの戦を戦いたかったわ…)

 静かに息子の御霊に願う家康。

(そなたがおれば…)

 三方ヶ原の戦いで家康の戦場離脱の好機を作ったのは息子信康だった。武田勢に対して一歩も引けを取らない采配を執り、徳川家臣団にも期待の若君であった。しかしその器量が裏目に出て信長に警戒され、あらぬ嫌疑をかけられ家康は信康を自害に追いやるしかなかった。いっそ自分が身代わりになれたらと断腸の思いだった。

(見ておるか、この天下分け目の戦を…!信康よ、父を勝たせてくれ…!)

 

 武田信玄が川中島の合戦で用いた啄木鳥戦法、相手が上杉謙信だからこそ通用しなかった作戦である。謙信以外なら、まず討たれていただろう。

 柴田明家と徳川家康、後年に上杉謙信と武田信玄に比肩するほどの宿敵と評される。上杉謙信を退けた柴田明家、武田信玄から逃げなかった徳川家康。西の化け猫と東の古狸がいよいよ雌雄を決する。

「遅い…」

 焦れる正信。

「もうとっくに突付き出されている頃であるのに遅すぎる!」

「焦れるな弥八郎」

「は…」

(どうしたと云うのだ榊原に大須賀!乾坤一擲の大勝負であるのに間違いは許されんぞ!)

 

 徐々に霧が晴れだした。山間からの強い風が一つ吹いた。石のような沈黙が続く関ヶ原。そして家康の眼前に関ヶ原西の連山のふもとを埋める黒い軍団が姿を見せだした。目を開き、一つ唾を飲む家康。さらに霧が晴れる。家康は床几から立ち上がった。唖然とする。

「な…!?」

 東軍のすぐ目の前に、西軍が整然と布陣していた!

「なんだと!?」

 目を疑う本多忠勝。

「馬鹿な…!」

 呆然とする本多正信。

「なぜ…!なぜ徳川の啄木鳥を看破したのじゃ!」

 ガクリと膝を付く本多正信。

「大納言は…神か魔か!」

 拳を握る家康。

「裏をかかれたと云うのか…!ぬぐぐ…化け猫!」

 

 西軍本陣、柴田明家。床几に腰掛け、静かに東軍を見つめる。陣太鼓が轟き、法螺貝が響く。そして柴田明家が軍配を上げ、東軍に向けた。

「蹴散らせええッッ!」

「「オオオオオオッ!!」」

 後年、『天下分け目の関ヶ原』と呼ばれる日本史史上最大の合戦が幕を開けた!


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