11D話 Mt.Yōkai
何故人は――最悪命を落とす危険性を孕んでいるにも関わらず山を登るのだろう?
――そこに山があるから、とはあまりにも有名な言葉である。イギリスの登山家、ジョージ・マロリーの放った台詞だ。
困難にありながらも、立ち向かう勇気を奮い立たせてくれる素晴らしい言葉である。――と散々持ち上げておいて実はこれ、誤訳が元という台無しの逸話がある。
だが、それがどうしたと云うのだ? 言った言わないの真実の是非あれど、その言葉が持つ力には微塵の翳りもない。……いや、微塵もないは過分であるかもしれない。
兎角、そんな気持ちを抱きつつ、アナタは妖怪の山への一歩を踏み出した。
人里で意外な出会いを経た後に、アナタは一路、妖怪の山を目指す。
文が云うには幻想郷で最も高い山だという話だが。
となると――。アナタは視線を晴れ渡る空へとやる。そうして少し下げてぐるりと展望を見回すと、幻想郷の一端に波々とした山脈を見つける事が出来た。中でも一際抜きん出て高い、雲を傘にした山があるではないか。
あれこそが妖怪の山に間違いない。
あれ程の威容であるならば、幻想郷のどこからでも見えるだろう。お山ソレ自身を目印に、アナタは意気揚々と歩を進めた。
――それが大体、半刻ほど前の出来事だろうか。
里を出、人々の脚に依って踏み固められた大地を踏み締め、悠々歩いていた時はまだ良かった。近付くにつれ道幅は狭まり、ぽつりぽつりと生えていた雑草はその背丈を高くしてゆく。乱立していた木々は段々と密になり、周囲は既に、獣道と呼ぶのに相応しい様相と化していた。
歩き難くはあったが、尚マシであった。人の通った形跡が残っていたのだから。
気付けば足元は緩やかな傾斜を帯び始め、辺りの景色は森と云うよりも樹海といった風情である。
自分の胴回りよりも太い幹。地を這う節くれだった根っこは不規則に地面を隆起させ、時折天然のトラップとなって、アナタの歩みを一層困難にさせていた。
幻想郷での数々の非常識な体験が、アナタから正常な感覚を奪っていたのか。はたまた霊夢の呑気に当てられたか。
兎角、アナタは己の迂闊さを認め、過去の己を呪うのだった。
だが――振り向きアナタは嘆息する。道らしい道などとうに消え失せ、どころか自分の足跡すら見つける事も出来やしない。
アナタは一つの決断を迫られる事になった。つまりは、進むか退くかである。
アナタは――。
――【山頂を目指す】
――【麓へ引き返す】
――【山頂を目指す】
無謀と知りつつも、初志を貫く事にした。
そうすることで、もしかすると奇跡でも起きるんじゃないかと、オカルトじみた思考に囚われたのかもしれない。非常識が常識の幻想郷である。神様頼りが実る可能性は、あるんじゃないだろうか?
或いは意固地になっていたのかもしれない。そんな意地に一体どれ程の価値があると云うのだろうか。アナタは未だ、心の隅に潜む楽観的な思考に引っ張られていた。
――どうにかなるだろう、と。
道、と呼んで果たして良いものか。
アナタは出来る限り緩やかな斜面、登り易い足場を選択し、蛇行しながらも少しずつ山を登ってゆく。
顔面を這い、不快感を募らせる汗を拭う労力する惜しんで、えっちらおっちら孤独な戦いに臨む。
そんな時であった。
「止まりなさい人間――!」
静寂を切り裂く叫声が響く。
その声量たるや、ビリビリとアナタの肌を打ち、思わず立ち竦んでしまう。結果として、言葉の通り足を止めるに相成った。
間髪を入れずに頭上から降り立つ白い影。その数五つ。ぐるりと、アナタを取り囲むように現れた。
影なのに白とは、これ如何に。なんて矛盾は、彼ら彼女らの姿格好を見れば、下らぬ疑問だと切って捨てるものだと解るだろう。
山伏を連想させる形状の白装束。その手には青龍刀の如き幅広の刀と、小型のラウンドシールドが握られていた。
平和ボケしているアナタの視線は、見慣れぬ凶器に張り付き離れなかった。
「ここから先は天狗の領域です。卑しい人間風情が、軽々に立ち入って良い場所ではありません。即刻立ち退きなさい」
先頭の少女が声高に宣言すると同時、凶刃が喉元に突き付けられる。その僅かに触れた切っ先が肌を切り裂き、アナタの喉にぷくりと血の珠を作った。
勿論、恐怖はある。噛み合わぬ歯の根、震えの止まらない身体が何よりの証拠だろう。
一方で、自分以外の人間に出会えた、という安堵もあった。いや、彼女の言葉を信じるなら天狗、という訳か。恐怖と安堵という二律背反からアナタから冷静な思考を奪い、少女の天辺から生える獣耳も、立派な白い尾も、気付くまでに随分と掛かった。
アナタは元来争いとは縁遠い外の世界の住人である。己の生殺与奪が他人に握られるという状況で、平静さを保つことは難しかった。いや、よくぞ取り乱さずにいられたと評価しておこう。
もし、恐怖に駆られたアナタが、指示に従わず背を向けでもしたら、彼女らの刃は容赦なく振り下ろされていた事だろう。
彼女らは決して友好的とは言えない。むしろ敵意を隠そうともせず、口元に薄く浮かんだ笑みは色濃く侮蔑を含んでいた。
いや、唯一人、眼前で刃を突き付けている少女だけは、敵意だけを向けてきている。
「答えなさい人間。如何なる用で、我らが山を侵そうというのです」
心無い嘲笑が浴びせられる中、むすりと不機嫌そうに眉を吊り上げている少女は一切の遊びを入れずに尋ねる。
アナタは本能的にソレこそが唯一の活路だと察した。下手な応答は命を落とす羽目になるだろう。だが一方で、上手く答える事が出来れば、現状の全てを打破する事が出来るかもしれない。
故にアナタは、必死で弁明をした。それこそ、命懸けで。と言っても説明する事など、一言二言で終わる。
ただ好奇心に駆られて、山頂を目指していただけだ――と。
いよいよ以て、天狗らは腹を抱えて笑い始めた。強い自責の念と羞恥がアナタを襲う。
ただ、目の前の少女だけはほとほと呆れ返って深く溜め息を吐いた。
天狗の一人が云う、「こんなの、放っておこう」と。最早彼女らの目に映るのは、無力で哀れな虫ケラの如き存在だ。銘々口にはせぬものの、ほとんど同じように思っているのだろう。無言で頷いている。
だが、未だ刃を納めぬ生真面目な――頭にバカが付くほど――天狗、犬走椛だけは違った。
「……それは我々の裁量で決める事ではありません。規則通り捕縛後、大天狗様の裁定を仰ぎます」
その言葉に椛を除く天狗の面々が、面倒臭そうに顔を顰めた。
「縛ります。動かないで下さい」
椛は縄を取り出し、アナタを手早に縛り上げる。
こうしてアナタはお縄につく事になった。
一先ずのところ、遭難の危機は脱したのだろうか。或いはより深い虎口に飛び込む事になったのか、今はまだ解らない。
アナタはすっかりやる気の失せた四人の天狗と、一切気を抜く気配の無い椛に連行され、妖怪の山の更なる奥地を踏む事になった。
――【麓へ引き返す】
アナタは思い出す。山頂部を分厚い雲で隠していた妖怪の山の威容を。
それだけの高山を、そも何の準備もせず、着の身着のままで登ろうというのが無謀だったのだ。
己の浅薄さを呪いつつ、アナタは来た道を引き返した。引き返そうとしたのだ。
しかし、人の手の入っていない野山は、人間一人の足跡などすっかり喰らい、影も形も見当たらなかい。
アナタに解るのは勾配と大雑把な方角。そして「この風景は見たような……」という曖昧な記憶だけだった。
まぁ、あてずっぽうだからといって真逆、山を一周して侵入した反対に出るような事はあるまい。
アナタは登る時よりも慎重に道を選びながら山を下り始める。
木の根に足をとられる事五回。苔むした岩に滑る事二回。蜘蛛の巣を頭に引っ被ったのは、数え切れない。
さて。アナタには一つ、全く失念していたことがある。即ち、体力の配分である。
登山とは、上りよりも下りの方が体力を用いるという事だ。しかも山頂までの道のりがどれ位か解らないのだから、ペース配分を考えられる筈もなく。要するに、アナタの体力は底をつきそうになっていた。
思い返せば思い返す程、何と無謀な行為だったのだろう。むしろ自殺に赴いたと考える方がよっぽど自然である。
残念な事に、アナタは妖怪の山へ自殺しに来た訳ではない。故にアナタは泥のように重くなった身体を引きずりながらも、必死に山を下りようとする。
しかし無情にもタイムリミットが迫っていた。
陽はいよいよ稜線に隠れ、その姿を隠してしまう。周囲の影が一気に濃度を増す。疲労は最早無視できる範囲を悠に越えている。足は鉛のように重く、中でも特別アナタを苦しめたのは喉の渇きだった。
更には現実味を帯びてゆく遭難の二文字が、身体どころか精神まで追い詰めてゆく。
――いっそ夜を過ごすか?
実に魅力的な考えに思える。判断の鈍った頭はその案を採用仕掛けるも、ぎりぎりの所で理性が却下する。
今自分は何処にいる? そう、妖怪の山だ。
何故だか、今の今まで奇跡的に妖怪に出会っていないが、そんな場所で野宿など、無茶無理無謀を通り過ぎて自殺行為だ。
そも身体を休められそうな場所が無いではないか。気付けば足元ばかり見ていた頭を上げて、確認するべく周囲に視線を這わせ――乾いた笑みが零れた。
終に錯覚まで見え始めたらしい。
茜色から紫色へと染まりつつある空を、一本の白煙がゆるゆると立ち昇っているのが見えた。
もしかしてという淡い希望と、そんな馬鹿なという猜疑心を抱きつつもアナタは煙の元を目指す。
その歩みは牛歩どころか亀。ノロノロと重い体に鞭打ち一歩一歩を踏み締める。
いよいよ日が暮れると、煙も見えなくなってしまった。宵の闇が絶望となりアナタの心を覆い尽くそうとした瞬間、視界の先に明かりが灯った。
人間とは現金なもので、指の一本動かすことすら億劫だった身体が、希望があると分かった途端に駆け出すぐらいの元気が湧き上がってくるではないか。
足場の悪さも何のその。
ぐんぐんと目的の明かりまで近付いてゆく。ようやく小屋の形がハッキリと視認出来ると、更にその速度を上げた。
扉の前に辿り着き、肩で呼吸をするアナタは息を整えんと深呼吸をした。そうして落ち着きを取り戻すと、あらん限りの声を張り上げる。
――ごめんください! どなたか、いらっしゃいませんか!?
山彦はまだ起きているらしい。アナタの叫びは山間を木霊した。
小屋の中の光が、慌てたように揺らいだのが見て取れた。
しばし中から喧騒が続き、それが絶えると再び耳が痛くなるほどの静寂が辺りを覆った。
聞こえ、無かったのだろうか? ……いや、そんな筈は――。
今一度声を張りあげんとアナタが大きく息を吸ったのと、扉が開いたのはほとんど同時だった。
開いた、と言っても開け放たれた訳ではない。。ギギィと低い音を立て引き戸た僅かに開かれたに過ぎない。
その隙間から中の様子は伺えず、ただ眩さだけが目に映った。その眩さが、少し陰る。
「――どちら様かしら?」
程なくして家主と思しき人物が声を掛けて来た。
意外にも若い女性の声だった。こんな人里離れた山奥である。きっと岩の如き大男が住んでいるに違いないと、アナタの想像を大きく裏切ってきた。
逆光から表情は全く読み取れない、しかし声色からこちらを怪しんでいるのがありありと解る。
アナタはまず、己が怪しい者ではないのだと簡単な自己紹介から入り、事情を説明した。
相手は女性である。一泊の宿を借りたい事いやさ何なら軒下でも構わないと、念入りに害意がない事を表明する。
アナタの必死な――情けなさすら感じさせる――説明が功を奏し、扉越し、女性の警戒が解ける気配を感じた。
と同時に呆れたような、やけに大きな溜め息が聞こえた。
「……ダメじゃないの。人間が、こんな時間に山に入っちゃ」
扉から現れたのは、とても山奥には似つかわしくない美女だった。
萌える若葉を想わせる翠色の髪。作り物めいてさえいる美貌。そして何より目を惹くのが、これでもか、という程に大量のフリルがあしらわれた真っ赤なゴシックロリータであろう。
あまりの場違いさ――美しさとも言えよう――にアナタは言葉を失ってしまう。
「ちょっと……?」
呆けるアナタを前にして、女は訝しく思いながらも心配そうな声を上げる。
正気を取り戻したアナタは慌てて会釈をし、事情を説明する。
女はクスリと笑った。
「もうっ、聞いたわよソレ」
口元に手を添えてクスクスと笑う仕草は気品が漂っていた。
「私は鍵山雛。厄神よ。アナタは――そう、外の世界の人なのね。道理で」
雛と名乗った女性は自らを厄神と称し、どこか翳のある笑みを浮かべた。そうして泥と汗に塗れたアナタの服装を見て、何某か納得したように頷いた。
――ヤクジン?
聞き慣れない単語に
「厄神っていうのは、そうね。厄を招く疫病神の対極の存在だと思ってくれればいいわ」
彼女のちょっと回りくどい言い回しに、アナタは言葉を反芻する。
疫病神の反対、という事は、厄を祓う神様という事か……?
アナタは素直に驚き、「凄い」と賞賛を口にする。
するとどうしたことか、雛はアナタ以上に驚いた表情を浮かべ、くしゃりと、はにかんだ。
「……ありがとう」
鍵山雛はそう応えるのが精一杯だった。込み上げる感情を零さぬよう必死だった。だから、桜色に染まった頬も、震える唇も、目元に僅かに浮かんだ涙も、誤魔化す余裕なんて、無かった。
一方アナタは彼女の豹変ぶりに狼狽えるしかない。
何か失礼なことを言ってしまったのだろうか!? いや彼女の反応を見るにそれは違いそうだが……。
兎角女性が泣いているのだ。どうにかせねば、という気持ちが逸るばかりで、何とか言葉を紡ごうとするも口から溢れるのは意味のない単音だけで、やっぱり言葉が見つからずにオロオロと戸惑うだけだった。
そんなアナタの無様さも、全くの無駄では無かった。
アナタの様子があんまりにもおかしかったのだろう。雛は先程のように口元を押さえ、クスクスと笑った。
「ごめんなさい、もう大丈夫よ」
そうして彼女は目元を拭う。笑いすぎて浮かんだ涙を払う為に。
……矢張り、先程の涙も見間違いでは無かったようだ。
その原因がアナタの迂闊な一言であるのは察せられる。だが、彼女の心境に如何なる影響を与えてしまったのかは、出会って間もないアナタには到底考えつけず。
彼女自身、大丈夫と云うのなら、それ以上の詮索は失礼以外の何物でもないだろう。
アナタは気付かぬフリをした。
「疲れたでしょう? 上がって頂戴」
雛は半身をずらし、アナタを家の中へと誘う。
だがアナタは躊躇した。今更、彼女の親切心を疑うのだろうか? アナタはそのような人でなしだったのだろうか?
いんや、アナタが気に掛けたのは別の事。これだけの騒ぎに、他の家族が一度も姿を見せなかったことだ。十中八九、彼女は独りで暮らしているのだろう、という懸念であった。
そんなアナタの葛藤を見透かしたように、雛はこれ以上なく優しく微笑んだ。
「こんなところで独りで暮らしていると、時々人が恋しくなるものよ。丁度夕餉を作っていたところなの。遠慮なんてしないで頂戴」
雛の言葉を皮切りに、アナタのお腹が自らの存在を主張し始めた。早く食事を寄越せと。
耳まで赤面するアナタを、雛は可笑しそうにクスクスと笑うのだった。
結局、アナタは欲望に白旗を振った。
――お世話になります。
恥を忍びつつ、深々頭を下げるアナタの姿を、雛は嬉しそうに、本当に嬉しそうに見詰めるのだった。
――【山頂を目指す】
○好感度変化無し
――【麓に引き返す】
鍵山雛好感度+1
分岐し過ぎて全部を把握出来ないんで、好感度が変化したところだけ載せますん!