記憶を失う前のハク――『ヒルコ』は聖人のような人物だった。
優しくて強くて誰からも頼られて、そして助けることのできる力を持っている特別な人だった。
そんな人だったのだ。
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黒い髪に灰色の瞳。
性格は温厚で常に冷静沈着……というより、のんびりとしているだけだったような気もする。
運動能力はとある理由により皆無に等しかったが、月人の持つ力の扱いは一級品だった。
これだけならば、それなりに優秀ではあるが珍しいというわけではない人物、といった評価になるだろう。
だが彼は良くも悪くも『珍しい人物』だった。
まずヒルコの持つ能力である『変化を操る程度の能力』。
その影響力は凄まじく、当時地上に住んでいた人たち――すなわち今の月の民の寿命を固定し、穢れが発生し始めた地上にいながら不老にすることさえできるほどだった。
また、力の総量もかなり多く、大出力の術式を難なく発動することができた。加えて頭の回転も速く、勘も鋭い。
まさに完璧とも言えるような能力を持つ人間だった。
だが彼は能力面では優秀でも、肉体面ではお世辞にも恵まれているとは言えなかった。
彼には両手・両足・左目が生まれつき無かったそうだ。
そしてその欠損した四肢と左目の辺りをいつも黒い靄が覆っていた。
一度、彼の持つ能力で四肢を元に戻せないのかと聞いたことがある。
だが彼の能力は自分以外に使うのは簡単だが、自分自身に使うのは勝手が違うらしく、おまけに少しのことで大量の生命力を持っていかれるためかなり難しいらしかった。
まとめるなら。
すべての色を混ぜ合わせたような漆黒の髪。
白目と虹彩の境界があいまいなほど薄い灰色の瞳。
両手・両足・左目が無く、黒い靄のようなものがその手足と左目部分を覆っている。
ほとんどいつも車いすに座り、穏やかな笑みを浮かべていた青年。
はっきり言って、いろんな意味で目立つ青年だったわけだ。
◇◇◇◇◇
私たち月の民が持つ力や能力は、地上の人間からしてみればとてつもなく強力なものだろう。
だがそんな私たちからしても、ヒルコの持つ力と能力は別次元のものだった。
ヒルコの扱いについては上層部も意見が割れるのが常だった。
計画や問題が起こったとき。ヒルコの能力を頼って解決するか、それとも頼らずに解決するか。
もっとも、ヒルコ自身は月に移住してからはあまり能力を使わなくなったわけだが。
だからこそ『ヒルコの持つ能力を奪い、上層部が自在に使えるようにする計画』なんてものが考えられてしまったのだ。
あれは個人が持つには大きすぎる力だと。
組織で活用すべき力だと。
我々のほうがもっと有益に使うことができるのだと。
そんな勝手な思想を大義名分に計画は実行された。
結果的に言えば、計画は失敗。
ヒルコから能力を奪い取ることはできなかった。
だが何の影響も無しともいかず、ヒルコは自身の能力の制御が不安定になった。
その制御を取り戻すべく、彼は全生命力を使って自分自身を『変化』させ、月の都の結界を破り地上へと向かって行った。
恐らく、私たちを巻き込まないためだろう。何が起こるのかは自分でも予想できなかったのだと思う。
その場にいた私や豊姫たちは彼を追おうとしたけど、地上へ向かっていた彼の反応が完全に消失したため、追跡することはできなかった。
彼は死んだ。
そう思ったのだ。
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「――だから、貴方が生きていたことに、本当に驚いたのよ」
そう言いながら目の前の彼を見つめる。すると彼は肩をすくめて苦笑した。
「俺は『ヒルコ』じゃないけどな」
ハクはそう言ってお茶を一口飲んだ。
そう。目の前にいるのは『ハク』だ。
他の色が混じる余地のないような純白の髪に、すべての色を混ぜ合わせたような漆黒の瞳。
まるでヒルコとは真逆だ。
彼はヒルコではない。それでも生きていてくれて嬉しいのは変わらない。
「それにしても、自分自身に能力を使うのは難しいんじゃなかったのか?」
「実際難しかったはずよ。ヒルコが最後に自分を変化させたとき、彼は持っている力を全部使い切っていたわ。私たちから見ても規格外の量の力を全部、ね」
「永琳から見ても規格外って……どんだけなのか、想像できないな」
まぁ、それはそうだろうと思う。
ハクが今使える力の量は、月の民から見てみればまだまだ足元にも及ばない。ハクに施されている封印がすべて解ければわからないけれど。
「それで、前の俺が自分を変化させた結果が今の俺ってことか」
「そういうことだと思うわ。どういう人間になるのかはヒルコにもわからなかったと思うけど。とりあえず、悪人にならなくてヒルコも安心でしょうね」
そういえば、ハクの封印はヒルコによるものかしら。結果がわからなかったから、保険として力の大部分を封印したのでしょうね。
ああ、そういうところにも力を使っていたか。そりゃ全部なくなっちゃうわよね。
そんなことを考えているとハクが大きく息を吐いた。流石にいろいろ情報が多すぎて疲れたのかしら。
「二人とも、前の俺とは仲が良かったんだよな?」
「まぁね。千年や二千年なんて短い付き合いじゃなかったからね」
「それは短いのか……?」
「私もそうですね。それに彼は夢の世界に来たときはよく仕事の手伝いをしてくれましたし」
「それは仲がいいのか……?」
私たちの、というかドレミ―の返答を聞いたハクがジト目でこちらを見てくる。
待って待って、ドレミ―は知らないけど私はヒルコに仕事を押し付けたりはしてないわよ。
……そんなには。
心の中でそんな言い訳をしていると、ハクが少し苦笑気味に小さく笑んだ。
穏やかな笑みだ。だけど私にはどこか寂しそうにも見えた。
「これだけいろいろ話を聞いても、全然思い出せないなぁ」
寂しそうな笑みのまま、ハクが言う。
いや、ただ寂しそうなだけじゃない。様々な感情が混ざり混ざった表情だ。ハク自身にも今自分がどんな顔をしているのかわからないだろう。
だけど、その理由は恐らくわかる。
「思い出さなくていいのよ」
「え……?」
私がそういうと、ハクは心底呆けたような声を出した。
こんな顔、初めて見る。
「ハクは記憶を取り戻そうとしているのよね?」
「ああ、そうだが……?」
「ならそれを取り戻したとき、どうなるかはわかってる?」
「どうなるって……いろいろ思い出して、それで終わりじゃないのか?」
「ハク。本当にそう思ってる?」
何を言っているのかわからないといった表情のハクに問いかける。
いや、違う。
本当は、『そういうふり』をしているだけなのだ。
「私も貴方のことをすべて知っているわけじゃないけど、どういう人かは知っているつもりよ。貴方が気づかないわけがない。
記憶を取り戻したら、
「…………」
ハクが口をつぐみ、私をじっと見つめる。
その瞳からは感情がうまく読み取れなかった。彼は隠し事が上手いのだ。
しばらく沈黙が続いたが、不意にハクがふっと短く息を吐いた。
「……まぁ、やっぱりお前は気づくよな」
観念したようにそう呟くハク。
やっぱり彼はわかっていた。
「……えーと? 一体どういうことでしょうか?」
「簡単な話よ。ハクがヒルコの記憶を思い出したとき、そこにいるのは『ハク』? それとも『ヒルコ』? はたまた『どちらでもない』?」
「……なるほど、そういうことですか」
ピンと来ていないドレミ―に簡潔に説明する。意味を理解した彼女は気まずそうに少し顔を俯けた。
ハクはヒルコではないし、ヒルコはハクではない。
そんなことは当然だ。
人格は記憶に影響される。
今のハクは『ハクとしての記憶』のみを持っているため、間違いなくハクだと言い切れる。
だがハクが記憶を取り戻し、『ハクの記憶』と『ヒルコの記憶』の二つを内包したとき。
少なくとも『今のハク』ではなくなるだろう。
ヒルコの膨大な記憶に押しつぶされ、消滅する可能性も大いにある。
ハクが気づかないわけがない。気づかないふりをしていただけだ。
「ハクさんは気づいていたんですか?」
「そりゃずっと前からな。俺自身のことだもん」
「それなのに変わらず記憶を取り戻そうと?」
「…………いや、正直言うと怖くてな。そのことに気づいてからは積極的には動かなくなった」
情けないよな、と言いながらハクが気まずそうに頬をかく。
「わかってはいるんだ、記憶を取り戻すことが正解だってことは。本来ここにいるべきなのは『ヒルコ』であって『俺』じゃない」
目を伏せながらハクは語る。
だが言っていることは、見当外れもいいところだ。
「ハク。思い出さなくていいのよ」
「……そういうわけにはいかんだろう。逃げ続けてきた俺が言うのもなんだが」
「いいえ、それでいいのよ。そもそも、貴方が記憶を取り戻すことを誰も望んではいないもの」
「何……?」
ゆっくりと首を横に振りながらそう言った私にハクは怪訝な顔をした。
何故そんな顔をするの? そんなの当たり前なのに。
「貴方がいなくなることを望んでいる人がいると思う? 貴方が輝夜に話して聞かせた今まで会ってきた人や妖怪が、そんなことを考えていると思う?
初めて出会った話の通じる幼い妖怪が?
とある山で共に過ごした鬼や天狗が?
花畑を愛した頑張り屋な妖怪が?
敵対から共存関係に変わった二柱の神が?
人の器に収まらない能力を持った聖人君子が?
理想を求め、そのために努力を惜しまなかった貴方の弟子が?
そして、貴方が命と心を救ってくれた輝夜が。
望んでいると思う? そう思うのなら、貴方は彼らを侮辱しているわよ」
私は少し睨みつけるようにハクを見る。
彼は困惑したような顔をしていた。
「だが……」
「言っておくけど、私ももちろん望んでないわよ。確かに貴方が記憶を取り戻せばまたヒルコに会えるかもしれない。けれどそれは貴方を犠牲にしてまで取り戻したい未来じゃないの。貴方もヒルコと同じくらい大切故に」
ハクは察しはいいはずなのに、相手の気持ちに対しては鈍感なように感じる。あるいは自己評価が低いとでもいうのか。まぁ普段からこんなことを考えていたのならそれも納得なのだが。
これくらい真っすぐに正直に言わないと受け止めてもらえないのだ。
「そして、ヒルコも望んでいないはずよ」
「……どうしてそう思う?」
「そういう人だったからよ。具体的に説明しろって言われると難しいけど。あえて言うのなら最後に言われたのよ、『あとは任せた』って。そのときは月の都のことを言っているのかと思ってたけど、きっと貴方のことも言っていたのよ」
「記憶を失ったあとの自分のことをか?」
「そうよ。記憶を失ったあとの、もう自分ではない自分の幸せを願っていたの。彼はそういう人だったのよ」
そう言うと、ハクはハッとしたような顔をして黙り込んでしまった。こんな表情も初めて見るわね。
俯いて何か考えている様子だったのでしばらく見守っていると、ハクが小さく口を開いた。
「……そうか。優しい奴だったんだな」
「ふふっ。ええ、とってもね」
「……そうか」
「だから、思い出さなくていいの」
そういうと、彼はまた俯いて黙り込んでしまった。だが彼の纏う雰囲気は先ほどまでの刺々しいものではなくなっている。
伝わっただろうか。私たちと、彼の想いを。
「……そっか。まだこのままでいいのか」
そう言いながら顔を上げたハクの表情はとても穏やかなものだった。
思わずこちらも顔が緩んでしまうほどに。
「ありがとう、永琳。いろいろと教えてくれて、気づかせてくれて」
「ええ」
「ドレミ―も。一緒に聞いてくれてありがとう」
「私も彼には大いに助けられましたので。それが貴方と彼の助けになるというのなら、一緒に話を聞くぐらい、いくらでも」
彼はいつも隠していたのだろう。周りにいる誰も心配させないように。
全部全部自分ひとりで抱え込んだ。
ほんと、ヒルコとよく似ているわ。
あの日。
ヒルコが消えた最後の日。
結局私たちは何もできなかった。
月の都全体を巻き込んだあの騒動はすべて彼が一人で抱え込んで、そして解決させてしまった。
誰に頼ることもなく。
たった一人で。
ヒルコは聖人のような人物だった。
優しくて強くて誰からも頼られて、そして助けることのできる力を持っている特別な人だった。
それ故に。
優しいから放っておけず。
強いから逃げられなくて。
頼られるから頼れなくて。
助けることのできる力を持っているから、誰も必要とせず自分一人で解決できる。
そんな人だった。
そして私たちはそんな彼に甘えてしまっていたのだ。
最後の最後まで。
だからハクには、知っていて欲しかった。
貴方を慕う人は貴方が思っている以上に多いのだと。
『彼』に伝えることはできなかった。
だから『貴方』には伝えたかった。
もう二度と大切な友人を失いたくないから。
「……さて、そろそろ時間です」
ぽん、と一つ手を叩いてドレミ―がそう言った。
時間、というのは目を覚ます時間ということだろう。なんだか見計らったようなタイミングだけど、伝えたいことは伝えられたので良しとしよう。
ハクもお別れの時間だと察したのか、残っていたお茶を飲み干して立ち上がった。
「二人とも、話せてよかった。ああ、ドレミ―お茶もありがとな」
「いえいえ、またいつでもどうぞ」
「ああ。まぁどうやってここに来るのかはわからないけど」
「私のことを考えながら眠れば私が気付きますので」
「あ、そうなの?」
ドレミ―とハクの掛け合いを聞きながら私も残ったお茶を飲んで立ち上がった。
そんな私を見て何か思い出したのか、ハクがああ、と声を漏らした。
「そうだ、永琳。今どこにいるのか教えてもらっていいか? あ、現実のほうな」
「いいけれど、こっちに来るの?」
「いや、俺じゃないんだが、輝夜に用がありそうなやつがいてな」
「輝夜に?」
「蓬莱の薬を飲んだ地上人だ。多分だけど、帝とはあんまり関係ないと思う」
「蓬莱の薬を……」
「どういう経緯でそれを口にしたのはわからないが、少なくとも悪いやつじゃない」
ハクの話を聞きながら顎に手を添えて考える。
帝に送った蓬莱の薬を彼が服用しなかったのは知っていたが、その後の薬の行方は知らなかった。ハクの話ではその薬は帝と関係のない人物が服用したということらしい。
ただ永遠の命を求めて、ということなら納得できるが、輝夜に用があるという理由はわからない。薬に関する文句やらなにやらなら私に言うべきことだと思うけど。
でもハクが悪い人じゃないというのならそうなのだろう。
もしかしたら輝夜にとって、永遠という長すぎる時を共に生きる友人になるかもしれない。
そう考えて一つ頷き、ハクに今の居場所を教えることにした。
「わかったわ。今私たちがいる場所は――」
「……オーケー、わかった。あ、ついでにこっちにある面白い国の話をしておくよ。いつか役に立つかもしれん」
「?」
私が今いる場所の説明を終えると、ハクが小さく笑いをこぼしながら気になることを言った。面白いと言いながらハクの笑みは穏やかで優しいものだったのが印象的だった。
ハクの言う面白い国とは、どうやら幻想郷という人と妖怪の共存を目指している国なのだそうだ。
なるほど、面白いことを考える人――いや、妖怪か――もいたものだ。
「よし。じゃあそろそろお別れかな」
「ええ、また会いましょう」
「またね、ハク」
私とドレミ―がハクに手を振る。それを見た彼は目を細めて薄く笑い、手を振りかえしてくれた。
その姿がほんの少しだけヒルコと――あの最後の日のヒルコと重なった。
一気に膨れ上がる焦燥感。
だけど私が何か言う前にハクが口を開いた。
「またな」
たった一言。
だけどその一言で自分の中を埋め尽くしていた焦燥感が霞のように消えてなくなるのを感じた。
変な顔でもしていたのだろうか。ハクは私を見て少し眉をひそめたが、すぐに小さく笑んで先ほどの私の不安と同じようにふっと消えた。
「…………」
「永琳さん? どうかしましたか?」
「……いえ、何でもないわ」
またな。
そう言ってくれるのなら、大丈夫だろう。
私は彼の言葉をかみしめるようにゆっくりと瞳を閉じた。
「……彼は気づいているんでしょうかね?」
「? 何のこと?」
しばらくそうしていると横にいたドレミ―がぽつりとそう零した。
疑問に思った私が横を見ると、ドレミ―が肩をすくめながら話し始めた。
「永琳さんの言った、もう自分ではない自分の幸せを願った優しい人のこと。ハクさん自身も当てはまるんですよね」
「どういうこと?」
「彼は記憶を取り戻せば今の自分が消えてしまうことに気づき、過去を知ることに恐怖を感じるようになった。でも探すことを止めはしなかったんです。それはつまり……」
ドレミ―の話を聞いてなるほどと思った。
それはつまり。彼もまた、名も知らぬかつての自分の幸せを願っていたということ。
とはいえ、彼は自覚していないだろう。
本来そうあるべきだから、そうしようとしただけ――なんてことを言うに決まっている。
いやそれとも、結局は逃げようとした臆病者だ――って言うかしら?
どこまでも優しいくせに、自分だけがそれを知らない。
思わずため息が出る。
「ほんと、
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「……見知った天井だ」
今度は気が付いたら知らないところにいる、なんてことはなく。
目を覚ました俺がいたのは天魔の屋敷の借りている部屋の中、つまり元の場所だった。
自分が今布団に横になっていることから、今まで見ていたものは夢だったことがわかる。
「だけど、夢だけど夢じゃなかったんだな……」
障子の隙間からは暖かな光がこぼれている。もう完全に日は昇っているようだ。
本当にぐっすり眠っていたんだな。精神はずっと起きていたようなものだから実感はあまりないが、肉体的な疲れはだいぶとれているので良しとしよう。
仰向けのまま、ゆっくりと右手を上に持ち上げる。人差し指の爪にほんの少し力を纏わせ刃に変え、親指の腹を小さく切りつけた。
切り傷から血が流れ、一滴右目の下に落ちてきた。だがすぐに出血は止まり、指についた血も顔についた血も少しの煙を上げて消えてしまった。
「変化を操る程度の能力、か」
もはや慣れ切ってしまったこの現象の理由が、そういう能力によるものだったなんて。
俺は本当に自分のことを何も知らない――いや、知ろうとしなかったんだな。
今まではそれを情けない、恥知らず、恩知らずだと心の中で思っていたわけだが。
どうやらそんな生き方でも、ヒルコは許してくれているらしい。
優しいやつだ、本当に。
感謝するよ、ヒルコ。
上げていた手を布団に下すと、ぼふんという音と干した布団のいい匂いが広がった。
ふぅ……と大きく息を吐き、ゆっくりと目を閉じた。
気分がいい。このまま二度寝してしまいそうだ。きっと気持ちいいだろうな。
だが、そういうわけにもいかんだろう。
俺は昨日事後処理をすべて紫たちに任せて早々に寝てしまったのだ。感謝と謝罪は早めにした方がいい。
さて、と小さくこぼしながらゆっくりと布団から起き上がろうとする。
だがそこで左手が思うように持ち上がらないことに気づいた。意識を左手に向けると、何かが絡みついているようだ。
「なんだ……?」
その何かは大雑把にはすぐにわかった。何かというか誰かだな。誰かが俺に左手にくっついているのだ。
感じる感触から身長は小さいことがわかる。となると萃香か、と思いつつ少し布団をめくると目に入ったのは黒髪だった。
「あれ、黒髪? となると萃香じゃない……そういえば角の感触はしなかったな」
予想が外れたことに少し驚く。ではこれは誰だろう。
黒髪というと天魔や文だが、二人ともこんなに小さくない。烏天狗の子供とかなら黒髪で小さいという条件は満たされているが、寝ている布団に潜り込んでくるほど懐いているやつはいないと思う。
「……んん……」
この子供が誰なのかと思案していると、当人がどうやらお目覚めのようだ。
眠そうに少し目をこすりながらゆっくりと起き上がるこの子は、どうやら少女のようだ。だが、その顔を見ても俺には彼女が誰かわからなかった。
この妖怪の山ではもちろん、今まで出会ってきた人や妖怪の中の誰でもない。端的に言って初対面だと思う。
そんな風に頭に疑問符を浮かべていると、その少女がゆっくりと瞼を持ち上げた。
薄く開いたそこからのぞいたのは深い緑色の瞳。吸い込まれそうな不思議な魅力のそれだが、やはり見覚えはない。
「あー……おはよう」
「んぅ……?」
誰かはわからないけどとりあえず挨拶をと思い彼女におはようというと、その深緑の瞳をこちらに向けた。
俺と目が合った少女はその半目を少し大きく見開いた、と思う。自信なさげなのは誤差の範囲で変化が小さかったからだ。
「あ……ご主人様。おはよう……」
「……『ご主人様』?」
少女が言った単語に余計に頭が混乱する。やはり俺をこんな風に呼ぶ人物に心当たりは――。
あった。
この子のことではないが、俺は以前に初対面だと思った少女に『ご主人様』と呼ばれたことがあった。
その少女というのは、俺の愛刀が一本『白孔雀』ことシロだ。
最初に話したときにそう呼ばれ、むず痒いからと呼び方を変えてもらったのだ。
シロは白孔雀の付喪神。白孔雀の所有者である俺を主人と呼ぶのは間違いではない。
そして俺はもう一本、刀を持っている。それはある意味で白孔雀よりも付き合いが長い短刀だ。
だとすると、シロと同じように俺を呼ぶ目の前の少女はまさか……。
「……もしかして、『黒竜』か……?」
「……すごい。大当たり」
どうやら大当たりらしい。
寝起きのふわふわとした声色でそう言って小さな手をぱちぱちと叩いている少女――黒竜。
何というか……。
付喪神が増えました。