史上最強の弟子ベル・クラネル   作:不思議のダンジョン

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第九話

 

 

 太陽が天頂に位置する頃、正午。最も明るく、そしてランチタイムであるこの時間は街が最も活気づく時間帯であり、それは世界の中心であるオラリオであっても例外ではない。

 日夜、世界中から集まって来た商人たちが魔石産業で潤うこの街の繁栄におこぼれを預かろうと、服や宝石、業物の武具に未知なる美味など世界中から集めてきた品々を飾る店が鎬を削る。この街の地下にあるダンジョンが冒険者たちの戦場ならば地上は商人たちの戦場なのだ。

 そして、その戦場に今日、一人の兵がいた。

 

「いらっしゃい! ドワーフ名物、若鳥の焼き鳥はいかがですか!」

 

 猥雑な人込みに若い男の声が響く。

 昼時のオラリオの中でも特に人通りの多いメインストリートの一画、通行人の多さに比例して多くの出店がひしめき合う中にドワーフ流の味付けを持ち味とした焼き鳥屋があった。

 そこの店主は炭火の上で鶏肉が突き刺さった木串をくるくると素早く、それでいて十分に火が通る様にじっくりと焙っていく。

 年の頃は成人を迎えて数年といったばかりか。ヒューマンであるがその体格はエルフかと見紛う線の細く、荒くれ者の多いこのオラリオで店を開くことは無謀に思えた。

 案の定、与しやすいとみた不心得者が現れる。

 

「おいおい、兄さん。誰に断ってここで商売してるんだ?」

 

 肩を怒らせ、やって来たのは店主と同じヒューマンの男であった。身の丈は2mよりもやや低めであろうか。ヒューマンの成人男性の平均を大きく上回る長身と盛り上がった筋肉、そして体のあちこちに付いた傷が否応なしに威圧感を与える。同じヒューマン、と言ってもここまで来るともはや店主とは別の人種だ。

 大男は大股で店主の前に立つと胸元にかけたメダルをこれ見よがしに見せびらかす。

 そこにはファミリアのエンブレムが描かれており、すなわち大男が神と契約し、恩恵を得た冒険者であることを示していた。

 

「ここは俺たち、ソーマ・ファミリアの縄張りだぜ? ここで商売するんならショバ代を払ってもらわなきゃなぁ……」

 

「……なるほど……」

 

 横柄に金をよこせと言う男の言葉に店主は苦虫を噛み潰したように、しかしながら首肯する。

 考えるまでもなく大男の言葉は嘘である。街を管理しているのはギルドであり、申請して承認が得られれば誰でも店を開くことができるのだ。

 一ファミリア、それも中堅所の一つでしかないソーマ・ファミリアがメインストリートを支配するなどあり得ない話だ。

 だが、それを言った所でどうにもならないだろう。断ったが最後、目の前の大男は恩恵の力で店主を殴り飛ばし、売り上げの全てを持ち逃げしていくだろう。それがいやならば大人しく幾ばくかの金銭を渡すか、最初から目の前の大男よりも強い用心棒でも雇うべきであったのだ。

 ここは冒険者達の街、オラリオだ。腕力であれ、財力であれ、より強い力を持つ者の意見がまかり通る場所である。

 これもまた勉強代の一つであろう。そう自嘲気味に売り上げが仕舞っている袋に手を伸ばしたところで。

 

「おいおい……ここは金を支払って食い物を買う場所だぜ? お小遣いが欲しけりゃ、家に帰って母ちゃんにでも泣きつい来いよ」

 

「ああっ!? 誰に物を言っ……て……」

 

 馬鹿にしたような物言いに大男がいきり立ち、声の主に振り返った所で怒声が尻しぼみになる、ばかりか無意識であろうが声の主の姿を見た瞬間に腰が引けていた。

 先ほどまでの威勢のよさから一転、あまりに情けない姿であったがそれを笑う者はいない、というよりも話しかけられていない店主もまた完全に気おくれしていた。

 身の丈は大男よりもわずかに高い2mの大柄な肉体。しかしながら、大男の何倍も発達した筋肉が一回りも二回りも大きく見せる。だが、それ以上に圧倒的なのは身に纏う格の違いだ。

 あまりに強すぎる。圧倒的な力は何かをするまでもなくただそこにいるだけで大男のそれを遥かに上回る圧力を叩きつける。これを前にすれば先ほどの大男の何とか威圧感をだそうともったいぶった振る舞いが滑稽に思えてくる。

 新たに現れた絶対強者は顔面に走った横一文字の傷を歪ませ、鋭い犬歯を光らせながら凶笑を浮かべる。

 

「なんだぁ……? よく聞こえなかったのかぁ……? 俺は金が欲しけりゃ家に帰んなと言ったんだぜ? なんか、文句があるのか?」

 

「くっ……! お、覚えていやがれ!」

 

 馬鹿にされていると分かりながらも、彼我の実力差は分かるのだろう。捨て台詞を吐きながら大男は逃げ去り、やがて人込みへと消えていく。

 

「チッ……根性なしがっ! 負けるのが怖けりゃ最初からやるなって話だろうが!」

 

 弱いものにはとことん強く、強いものにはどこまでも卑屈な大男の背中に絶対強者は不機嫌そうに吐き捨てた。

 その姿は、先ほどの大男など目ではない程に暴力性を感じさせる。正直、一般人でしかない店主としては怖くて仕方がないのだが人としての礼儀的にも、そして何よりも身の安全の為に勇気を振り絞って話しかける。

 

「ええっと……助けて、頂いたんですよ、ね? あ、ありがとうございました! あの……お礼の方ですが、これで一つ……」

 

 そう言って、店主は大男に渡すはずだったお金から幾分か抜いた量の貨幣を渡す。

 触らぬ神に祟りなし。この男も血と暴力が支配する世界の住人なのだ。少しでも気に食わなければ途端に暴力を振るうに決まっている。ここは、歓心を買うためにも、金銭を握らせるのが一番だ。口では礼を言いつつも脳裏では冷めた考えの元で自己保身に走る。

 長年、とまでは言わないけれどもそれなりの期間、オラリオの住人として冒険者という生き物を身近に見てきた店主はその性質を熟知していた。

 こう言った場合、冒険者は大きく分けて二つの行動に移る。一つは笑顔で金を受け取ると同時についでとばかりに商品にまで手を出した後、まるで自分が物語の英雄であるかのように高笑いをしながら去っていくか、そしてもう一つは……

 

「ああ……? なんだ、これは……?」

 

 そら来たぞ。

 怪訝そうな声に店主は声に出さず、内心で舌打ちすると大仰に悲嘆の声を上げる。

 

「ああ……! 私としたことが! これは、申し訳ありませんでしたな! あのような荒くれ者から助けていただいたというのにこれでは感謝の気持ちが足りませんでしたな!」

 

 店主はそう言うと、売り上げの入った袋に手を伸ばし、中に入った金を数えながら頭の中で算盤を弾く。

 店主の想定したもう一つの行動。それは、報酬の上乗せである。

 自分は縁も所縁もない人間を助けたのだから報われて当然だろう。用心棒代だと思え。方便は色々あるけれども、更に金をせびるのは同じである。そうして、初めに渡した以上の金を……ほとんどの場合は最初に絡んできた者以上に金を脅し取っていくのだ。

 そのことに、怒ることは最早ない。そういうものだ、という達観しかない。

 程なく先ほどよりも大量の、それでいて大きな痛手とはならないギリギリの額の金銭が男の前に差し出される。

 

「さあ! どうぞ、冒険者様! 遠慮はいりません!」

 

「いや、だから。俺は、これが一体何なんだ、と聞いているんだが……?」

 

 これでも、まだ足りないというのか!? この業突く張りめ!!

 笑顔の裏で店主は悪態をつく。

 とは言え、身の安全には変えられない。諦めて再び袋に手を伸ばそうとする。

 

「おい、コラ。いい加減俺の話を聞け。俺は謝礼なんていらねえって言ってんだ」

 

「は?」

 

 あまりに意外な言葉に思わず、店主は素面で聞き返す。

 それほどまでに男の言葉は意表を突いたものだったのだ。

 

「あ、あの……本当ですか? 本当にいらないのですか?」

 

「ああ。いらねえよ。別に金が欲しくてやったわけじゃねえしな」

 

「は、はあ……」

 

 何処か、納得しかねるように曖昧なため息をつき、店主は金を手元に戻す。

 金など要らないと言われてしまえばこちらにとやかく言う権利はない。

 

「それよりも、だその焼き鳥を二本くれねえか。連れが待ってるんだが……どうにもご機嫌が斜めの様子でな。美味い物でも持って行かねえといけねえんだ」

 

「は、はい! かしこまりました! 二本で50……いや、30ヴァリスです!」

 

 嘘である。焼き鳥は一本25ヴァリスである。

 半額に近い値段で、それもわざわざ悟られない様に誤魔化してまで売ってしまったことに店主自身が驚いた。

 自分はもっと打算的な男であり、謝礼を渡そうとしたのも感謝してのことではなく、いらぬリスクを避けるためであった。であるならば相手側からいらないと言われた以上、決して自分に損になる様な事をしない筈なのだ。

 理解できぬ己の行動に首をかしげながら、手慣れた手つきでタレと滴る脂で照る焼き鳥を男に手渡す。

 

「おっ! こいつは随分と美味そうじゃねえか! こうなって来ると冷えたビールが欲しくなってくるな! お前、なかなかいい腕してんじゃねえか!?」

 

「は、はあ……それは、どうも……?」

 

 店主の心中の葛藤など微塵も気づいた様子を見せず、男はやや乱暴にバシバシと背中を叩くと意気揚々と背を向け歩き出す。

 と、数歩歩いたところで

 

「ああ、それとな」

 

 突如、首をこちらに向ける。

 店主の体が蛇ににらまれたカエルの如く、緊張で金縛りになる。

 なんだ、まだ何か言いたいことがあるのか? まさか、急に気が変わって金を受け取ることにしたのか。

 緊張に顔を青くする店主の顔に男は破顔して言う。

 

「お前はもう少し他人の善意ってモンを素直に信じてみたらどうだ? お前が思う程世の中捨てたものじゃあないぜ? 次、礼を言うなら、裏でこそこそと考えるんじゃなくて、素直な気持ちで言いな。そんなお面みたいな笑顔で礼を言われてもちっとも嬉しくねえよ。まあ、それはそれとしてありがとな、値引きしてくれてよ! 値引きされた分、また食いに来るからよ!」

 

 自分の内心が全てバレていた。男への不信感やその他諸々の感情が他ならぬその男自身に。

 恥ずかしさやら恐怖やらで顔を赤くしたり青くさせたりする店主を愉快そうに一瞥すると、今度こそ男は——逆鬼至緒は、その巨体を人込みに紛れ込ませていくのであった。

 

 

 

 

 

「まったく……なんつーか、この街は色々と荒んでいやがるなあ」

 

 先ほどの一件を至緒は一言でそう纏めた。ぼやく様な至緒の言葉であったがしかし、その声音に嘆きの色は少ない。

 野獣の如き外観から想像しにくいが、実は梁山泊の中でも彼は一番の国際派である。

 というのも、かつて武者修行の一環で世界を飛び回っていた経験があり、その過程で様々な国に訪れていた。その中には政情不安定な国もあり、暴力が法律なんてのは珍しくない、むしろそうでない国の方が珍しいぐらいだ。

 自然、そういった国の、力を持たない者が自分をどういった目で見るのか、よく理解できていた。理解はできているのだが、ついつい愚痴の一つでも出したくなるのも当然であった。

 

「にしても……だ」

 

 ぐるり、と至緒は辺りを見回す。

 場所は未だ人でごった返すメインストリート。世界の中心という名前に偽りはなく、様々な人種、様々な職業の人間が同じ場所を歩き、同じ空気を吸い、同じ光景を目の当たりにしている。彼等の顔には暗い影の様な物はなく、極々、平凡な真昼の繁華街といった光景である。

 その所々で先ほどのならず者と店主の焼き増しの様な諍いが起こっているのに、だ。

 

「オラッ! 店をぶっ壊されたくなけりゃ……グヒャッ!?」

 

「あ、兄貴!? テメエッ! 一体、何しやが……ヒギャアッ!?」

 

「チッ……! つい手が出ちまった……! 悪いが、こいつらの片づけはそっちでやっといてくれ!」

 

 気がついたら、武器をチラつかせ店から金を脅し取ろうとしていた二人組を速攻で片付けてしまっていた。

 突然絡んできていたならず者が瞬く間にのされてしまった事に目を白黒させる店主に至緒はそう頼むと、逃げる様にその場から走り出す。

 しかし、恐喝と暴行の現行現場だというのに相変わらず、通行人たちは店主にも、至緒にも目を向けない。まるで、その様なこと気にする程ではないと言わんばかりに。

 

「なんつーか……この街の奴等、肝が据わりすぎじゃねえか?」

 

 呆れ半分に呟く至緒の顔には複雑な表情が浮かぶ。

 誰もが注目しないというのは余計な騒ぎが起きない分、日本にいた頃よりもやりやすいのだが、それを喜ぶ気にはなれなかった。暴力沙汰が騒ぎにならないということは、つまりはそれだけ暴力という物が一般人にとって身近な物となっている証左なのだから。

 まあ、冒険者という荒事専門の人間が中心となって作り上げられた街なのだから暴力がある程度身近になることは避けられないだろうが。それでも、堅気の人間に迷惑をかけないようにするぐらいの分別はつけてもらいたいものである。

 そんな、至緒にしては珍しく武人と一般人との関係について思いを馳せていると、目的の人物を見つけた。

 

「おっ、待たせちまったな、ベル! おーい、土産の焼き鳥だ! どうだ、美味そうだろ!」

 

「…………」

 

 相好を崩し話しかける至緒を、ベルは黙殺する。

 その姿をよく知るものが見たら驚くであろう。

 話しかけられた人間を無視するなどという無礼を生真面目な彼がしたことに、ではなく、ベルのあまりに変わり果てた姿に。

 まず目につくのは、装備の惨状だろうか。初心者向けの胸当ては傷だらけのへこみだらけで防具としての機能を放棄し、その下にある服も擦り切れきっている上に泥だらけで元の色がどのようなものであったか判別できる者は皆無であろう。初雪の様に真っ白な髪は泥埃に塗れくすんでしまっている上に汗と脂でぎらついた光沢を放ちながら膠の如く固まっている。そして何よりも変わり果てているのは、瞳であろう。紅玉の如く輝いていた瞳が今や、生命無き深海の様に淀み、その瞳には何も映していない。屍の様に眠っている、もしくは眠っている様な屍か。

 暴力沙汰に慣れたオラリオの住人といえどこれをよくあることと捉えることはできず、遠巻きに怪訝な視線を送るだけであった。

 非好意的な衆目を集める中、至緒だけは我関せずとばかりにずかずかと座り込むベルに近づく。

 

「おい、いつまで寝ていやがるつもりだ? いい加減、起きろっての!」

 

 そう言って軽くデコピンする。

 鋭い音ともにベルの首が軽く傾げる。その衝撃により気が付いたのかゆっくりと死んだ魚の様であった瞳に弱々しい光が灯る。

 すると——

 

「あああああっっ!!? ミノタウロスが! ミノタウロスがああああぁぁっっ!!」

 

「うるせええええっっ!!」

 

 フラッシュバックした悪夢に絶叫しながら飛び起きたベルに拳骨を落とし、強制的に落ち着かせる。

 頭を抱えてうずくまりながらもベルは恨めし気に自分を見下ろす至緒に抗議の声を上げる。

 

「うううぅぅ……痛いですよ、逆鬼師匠……」

 

「お前が、いきなり大声を上げるからだろうが! こんな街中で大声出しやがって……見ろ、周りの奴らが見ているぞ」

 

「え……街中……?」

 

 キョロキョロと辺りを見回す。確かに、多くの人が行きかう大通り、肌を温める日光。どれも地下のダンジョンではあり得ないものであった。

 しかし、ベルの最後の記憶はダンジョンの中で途切れており、そこから地上に出るまでの記憶がごっそり抜け落ちていた。

 

「え……あれ……? 何でだろう? 僕はさっきまでダンジョンにいた筈なのに……? あれ、ひょっとして逆鬼師匠が運んで下さったんですか?」

 

「まさか。俺がそんな事するわけないだろうが。ダンジョンからここまでしっかりとお前の足で歩いてきたぜ。まあ、その間、半分意識が飛んでいやがったが」

 

「意識が……飛んでいた……? 僕が……?」

 

 至緒の言葉にベルは目を丸くする。ベルの好きな英雄譚に出てくる英雄の中にはあまりに苛烈な戦いに、戦いの最中に意識を失いながらも戦い続けた者がいた。まさか、自分に同じことが起きるとは夢にも思わなかった。

 じわり、と喜びが胸に広がる。

 

「えへへ……意識を失いながらも動き続けるなんて、まるで英雄みたいですね、僕……」

 

「ん? 意識飛ばされて喜ぶなんて変な奴だな? 意識飛ぶなんてこれから毎日起こるだろうに……」

 

 それは、つまりこれから毎日意識を飛ばされるような修行が続くということなのだろうか?

 胸に広がっていた喜びが一瞬で拭い去られた。

 暗くなるベルの顔を勘違いしたのか、至緒はニヤリと笑うと手に持った焼き鳥を押し付ける。

 

「なんだ、腹が減ったのか? お前、なかなか肝が太いじゃねえか! よしよし、修行も無事にクリアしたわけだし、褒美にこの焼き鳥はおごってやろう!」

 

「いえ、別にお腹が減っているわけでは……って、待ってください。今、何と言いましたか?」

 

「ん? だから、この焼き鳥食っていいと……」

 

「そうじゃなくて、その前です!」

 

 驚きと興奮に唾を飲みこみながらベルは至緒に食って掛かる。

 

「僕、修行を……ミノタウロスに一撃を与えたんですか!?」

 

「ん? そうだが……なんだ? お前、あの時から既に意識飛んでいやがったのか?」

 

 あっさりと首肯する至緒にベルは信じられないという風に首を振った。

 

「嘘……でしょう……そんな、だって僕……ついこの間まで逃げ回ることしかできなかったのに……」

 

「実際、一発喰らわしてたんだがなあ……本当に覚えてねえのか? 最後に残った記憶はどこまでだ?」

 

「ええっと……ですね……」

 

 聞かれ、必死に頭を捻って記憶を絞り出す。

 そう、確か自分は始め、トラウマの象徴であるミノタウロスに恐怖で頭が一杯になり、何も考えずにただただその場から離れることしか考えられなかった。

 そうして始まる以前の焼き増しの様な逃走劇。その果てにあったのはやはり焼き増しの様に袋小路に追い詰められるという結末だったのだ。

 訳も分からず半狂乱に壁を叩き続ける自分。背中越しに聞こえる足音と漂ってくる血なまぐさい獣の匂い。全てがトラウマとなったあの瞬間を思い出させ、現実と恐怖の思い出の境目があやふやとなり、ぐちゃぐちゃにねじ曲がっていく視界にミノタウロスの姿が一杯に広がって……

 

「ううっ……! あ、頭がっ!! 頭が……! 頭が、痛い……!!」

 

 その先を思い出そうとした瞬間、ベルの頭を締め付ける様な痛みが走る。どうやらここから先には心の防衛機能が働く程に恐ろしい記憶が眠っている様である。

 この数日の間に命の危険を味わい、研ぎ澄まされた危険察知能力が言っている。

 これ以上先のことを思い出そうとするな心が壊れるぞ、と。

 

「全く……だらしねえなあ。折角、トラウマを乗り越えたのにその時の記憶を覚えていなけりゃ苦労した甲斐がねえじゃねえか。うーむ……そうだな……」

 

 やや考え込むと、至緒は頭を抱えて転がるベルの懐から得物の短刀を取り出すと鞘から刃を抜き出し、翳すようにしてベルに見せる。

 

「ほれ、よく見てみろ。刃の所を」

 

「あっ!? これは……」

 

 至緒の分厚く、大きい手とはアンバランスに小さい短刀。その刀身はうっすらとだがミノタウロスの血と脂の、ぬめり気を帯びた光を放っていた。

 伝聞ではない、確かな証拠にベルは震えと共に事実を受け入れた。

 あのミノタウロスに一矢報いた。その事実にベルの体が震える。

 

「ぼ、僕……やったんだ……」

 

「おうよ! まあ、ちょっとばかしへっぴり腰だったけどな! ……ところで、だ」

 

 打ち震えるベルを微笑まし気に見ていた至緒だったが、突然思い出したように口調を改めて尋ねる。

 

「なあ、ベル。ひょっとして、お前ケンイチから何か教えられたのか?」

 

「へ? どうして、それを……?」

 

 ベルは至緒の質問に首肯しつつ、驚きを隠せなかった。

 昨日、ベルは休憩時間の際、ケンイチに呼ばれ、そこである技を一手教わったのだ。師匠たちには内緒という話だったのだし、ケンイチが話したとは思えないのだが。

 それを聞き、至緒は納得した、とばかりに頷いた。

 

「まあ、覚えていないのは仕方ねえんだが……お前がミノタウロスに一発くらわした時、その技を使ったんだよ。まだお前に技を教えるのは早い、ってことで誰も教えていない筈だから、もし教えたやつがいるとするならケンイチぐらいなものだろうと思ったのさ」

 

「へえ……そうなんですか……って、僕に技を教えちゃダメなのに、教えちゃったということは、まさか、ケンイチさん、何か罰を受けるんじゃ……!」

 

 己の迂闊な発言でケンイチの行為がバレてしまった事に遅まきながらベルは顔を青くさせる。

 目の前の人間たちの非常識っぷりはこの数日で嫌という程知らされている。ただの修行ですら死ぬと思ったのに、懲罰となれば如何ほどであろうか。

 顔面蒼白となるベルであったが、至緒は心配するな、と笑って見せる。

 

「ガッハッハッハッ! 安心しな。その程度で目くじらなんざ立てねえよ! まあ、口うるさい秋雨辺りの耳に入れば予定が狂ったと愚痴るかもしれねえが、俺様は寛大だからな! それに、兄弟弟子同士お互い教え合うのは両方にとっていいことだからな、大いに結構!」

 

「あ、ありがとうございます! 逆鬼師匠!」

 

 そう言って笑う至緒にベルは頭を下げると同時にその評価を大いに改めていた。

 初めは顔が怖い上に、ミノタウロスの前に放り込むような人だから粗暴で適当な人なのだと思っていたが、こうして話してみれば決してそれだけの人ではないのだ。

 こうして、弟子のやんちゃを見ても大目に見ることもあるし、やり遂げた弟子を労うことも惜しまない。実の所面倒見の良い人間の様である。

 と、ベルは思っているが一般常識で言えばミノタウロスの前に素人を放り込むのは断じて優しい人の所業ではない。出会って数日だがベルの常識も徐々に梁山泊に侵食されてきている様であった。

 

「……あっ!! いたぞ! ザニスさん、あいつです! あいつが突然因縁をつけてきやがったんです……!」

 

 男の怒声が二人に浴びせかけられ、複数の荒々しい足音が近づいてきた。

 振り向けば、そこにはこちらを指さす大男、その横にいる細面のヒューマンの男性を先頭とした十人近くの男たちがいた。

 見知らぬ男たちと彼らが放つ剣呑な雰囲気にベルは怪訝そうに眉根を寄せた。

 

「あの……なんか、あの人たち僕たちのことを指さしているような気がしますけど、知り合いってわけじゃないですよね」

 

「ん? 知り合いじゃねえよ」

 

「ですよね! はあ……良かった。それじゃあ、僕の気のせいか、もしくは人違いなんですね!」

 

 人の悪意に対し、慣れていないベルは何かの間違いだと分かり胸を撫でおろす。

 しかし……

 

「知り合い、ではねえよ。ただ、あの野郎がさっき恐喝していやがったから脅かしてやったが……」

 

「何やってるんですか、あなたはあああぁぁっっ!!?」

 

 明らかに殺気立っている男たちの目的が自分たちだと分かり、ベルは絶叫する。最早、男たちとの距離は目と鼻の先であり、逃げ出すことは不可能である。

 あっという間にベル達を取り囲む男達。周りにいた通行人はとばっちりはごめんだとばかりに蜘蛛の子を散らかすようにして離れていく。

 やがて、男たちの中から細面のヒューマンの男性が現れる。

 

「いやはや、探しましたよ。貴方が我々の同胞に一方的に絡んできたというならず者ですかな?」

 

「あ? 誰だ、テメエ?」

 

 至緒の凄みを効かせた誰何に細面の男はおお、怖い怖いと小馬鹿にするように身震いをして見せると厭味ったらしい笑みを浮かべながら慇懃無礼に一礼をして見せる。

 

「私の名はザニス・ルストラ。ソーマ・ファミリアの団長を務めさせている者で、レベル2、つまりは上級冒険者の末席を汚させて頂いております。実は先ほど我がファミリアの者が知り合いの店主と冗談を言い合っていたら横から貴方がしゃしゃり出て来て乱暴を働いたと聞きまして。少し『お話』をさせていただきたいと思いましてね?」

 

 丁寧であったが、負の感情を隠そうともしない口調であった。『お話』とやらが言葉通りの物ではないとベルでも分かった。

 慌てて、周囲を見回す。隙間のない包囲網は突破することは不可能に近く、あれほどいた通行人は今や人っ子一人おらず、これでは助けを呼ぶことも出来ない。

 視界が真っ暗になる様な感覚に頭を揺さぶられながら、ベルはこの場で唯一頼りとなる自身の師匠に目を向ける。

 

 

 

 

 

 

 

「コイツ今、自分の事をソーマ・ファミリアの人間だと言いやがったな……確か、ソーマ・ファミリアは美味い酒を造ってるということで有名だったよなあ……」

 

「ヒイッ……!」

 

 ニヤリ、という至緒の禍々しい笑みにベルは悲鳴を上げた。

 そうだった。目の前にいる人間はミノタウロスを視線だけで倒す恐ろしい生き物であったのだ。高々レベル2冒険者が集まった所でその結果は高が知れている。

 ガクガクと震えるベルに勘違いしたザニスは愉快そうに嘲笑を浮かべた。

 

「フッ……! どうやら、そこの少年は上級冒険者の恐ろしさが分かっているようだ。安心しなさい、私は温厚だ。何の関係もない人間に危害は加えません。まあ、そこの男は別、ですがね?」

 

「へー、そうかい。そいつは悪いな……というわけだ、ベル。お前は先にファミリアに帰ってろ」

 

「フフフ……覚悟は決まった、ということですか。いいでしょう、着いてきなさい。我がソーマ・ファミリアにて団員全員でおもてなしをさせてもらいますよ」

 

 そう言ってソーマ・ファミリアの本拠地へと連れだって歩く至緒とザニス、そして二人を取り囲む男達。

 男たちは全員、何もできないベルに嘲りの視線をくれた後その場から去っていく。

 その様は本人たちは勝利の行進だと思っているのだろうがベルからしてみれば絞首台に向かう死刑囚に思えた。

 

「あの人……オラリオに来て数日しか経っていないのに、僕よりも馴染んでいるような気がします……」

 

 ため息を一つ、つく。

 出会って数日だが今更あの人たちの無軌道っぷりに驚いていたら身が持たない。

 さて、予期せぬとは言え自由時間を手に入れたわけだが、どうしたものか、と首を捻っていると。

 

「ベール君! 見つけたよ!!」

 

「わっ、神様!? どうしてここに!?」

 

 ぼふんと、背中に軽い衝撃と親愛に満ちた、慣れ親しんだ声が包み込む。

 振り向けば、案の定そこには敬愛している神、ヘスティアがしがみついていた。

 

「うふふ……偶然君を見つけてね! 折角だから、このままデートとしゃれこもうと思ったのさ!」

 

「そうでしたか……あ、そう言えばお知り合いの神様への用事はどうなったんですか? あれからずっと家に帰ってこないから皆さん心配していましたよ?」

 

 そう言った瞬間、ヘスティアは笑っていた顔を更に破顔して、そのまま躍り出しかねない程に上機嫌となる。

 

「よくぞ聞いてくれた! うふふ、もうばっちりさ! しっかり、お願いを聞いてくれてその成果もほら、この通りさ!」

 

 そう言って懐から風呂敷に包まれた小物らしきものを誇らしげに掲げてみせる。

 中身の知らないベルにはその成果とやらがどういうものか見当もつかなかったが、ヘスティアがこんなに嬉しそうにしているというだけで自身もまた嬉しくて嬉しくてたまらなくなる。

 

「そうですか! それじゃあ、みんなでお祝いしないといけませんね! 今ならケンイチさん達も教会にいるでしょうし。早速、帰りましょう!」

 

「あっ! それは、ちょっと待って欲しいんだ!」

 

 手を引っ張って教会に行こうとするベルにヘスティアは待ったをかける。

 思わぬ言葉に振り返ったベルにヘスティアはもじもじと身じろぎをしながら、傍らの店先に張られた壁紙を指さす。

 そこには巨大なドラゴンの前に立つ調教師の絵が描かれている。この街の者ならば当然知っているオラリオの祭り、怪物祭のポスターだ。

 

「その……今日は、怪物祭だろう? だからその……二人で一緒に見に行かない、かい?」

 

「えっ!? それは、構いませんけど……? どうせなら皆さんで行った方が楽しいと思いますよ?」

 

「くっ……! 分かっちゃいたけど、全く意識されていないと改めて思い知らされるのはキツイものだねえ……!」

 

 この唐変木めえぇ、と悔し気に歯ぎしりするヘスティアにベルは目を白黒させる。

 その様が益々ヘスティアを苛立たせ、怒髪天をつく。

 だが、その怒りもベルに手を差し出された瞬間、雲散霧消する。

 

「ええっと……よく分かりませんけど、僕と怪物祭に行きたいんですよね。それじゃあ、はぐれない様に手をつないで行きましょうか?」

 

「手をつなぐだって!? 勿論さ! ……ああ、この感触。ボクは今まで生きていた中でこれ程の感動に包まれたことがあっただろうか……!」

 

「あはは……オーバーですよ、神様」

 

 どうして怒っていたかは分からないまでもこうして簡単に機嫌を直すヘスティアにベルは苦笑する。

 そうして、見かけは朴訥な少年とおしゃまな少女のカップル、その実は十四歳と数十億歳という超年の差カップルは怪物祭に賑わう雑踏へと紛れていくのであった。

 

 

 

 






 第九話、完成いたしました。
 恐らくはこれが今年最後の更新になるでしょう。来年はもっと更新速度を上げられるよう頑張りたいと思います。
 さて、おそらくは次回か次々回あたりで一巻の内容は終わると思われます。梁山泊の介入でどれほどの変化が現れるのか、楽しんでいただけたら幸いです。
 それでは皆様のちょっとした楽しみになれたことを祈って筆を置かせてもらいます。



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