史上最強の弟子ベル・クラネル   作:不思議のダンジョン

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第七話

「はっ! 今、何時……って、うわっ!? もうこんな時間!?」

 

 ベルはベッドから飛び起き、傍らの時計に目を向けると目を見開き驚く。いつもよりも一時間以上遅い起床であった。己の愚かしさにベルは悪態をつく。よりにもよって今日の様な特別な日に寝坊をしてしまうとは。

 

「あわわ……大変だ! はやく上がらないと!」

 

 慌てて、準備を始めたときだった。

 

「ベル君! 目が覚めたのかい!?」

 

「あ! 白浜さん、おはようございます!」

 

 ドアを吹き飛ばさん勢いで入って来たのは自身の兄弟子であるケンイチであった。寝坊してしまった自分を心配してきてくれたのだろう。その表情には焦燥の色が濃ゆい。

 兄弟子を心配させてしまったことに申し訳なさを感じながら頭を下げる。

 

「すいません! 寝坊をしてしまいました! 師匠たち、怒っていますよね!? 今、行きますので!」

 

「い、いやいや、何を言ってるんだい? 昨日、あんなことがあったんだからもう少し寝込んでいたって大丈夫さ。それよりも、体は大丈夫なのかい?」

 

 そう言って、ケンイチはベルの体をあちこち触ったりして異変がないかを確認しだす。寝坊をした自分に怒りを露わにすることもなく、それどころかこうして気遣ってくれるケンイチにベルはありがたさと恥ずかしさが入り混じった様な顔をする。

 

「ああ、もう大丈夫ですよ。全然平気です。それよりも、早く師匠たちの修行を受けたいです!」

 

「そ、そうなのかい? それにしても昨日はあれだけ生死の境を彷徨ったのに、修行を受けたいだなんて、ベル君は肝が太いんだね」

 

「あはは……生死の境を彷徨ったなんて、白浜さんは大げさですね。高越寺師匠も言っていたじゃないですか、ただの過労だって」

 

「………………え?」

 

 昨日と言ったのに、一昨日にダンジョン帰りに倒れたことを持ち出すベルにケンイチは凍り付く。まさか、ベルは……

 ベルの言葉に固まるケンイチの前でベルは朝の支度を終えると、地上にいるであろう師匠たちの下へと地下室から飛び出していく。

 

「それではケンイチさん、僕はお先に失礼します! さあて! 今日は師匠たちの初修行の日です! 張り切っていきましょう!」

 

「やっぱり、昨日の記憶が……! ま、待つんだ! ベル君! 行っては……行っちゃだめだあああっ!!」

 

 頭部への過度の衝撃によるものか、あるいは強すぎる恐怖体験に心の防衛機能が働いたのか。昨日の惨劇を完全に忘却したベルに戦慄するケンイチの声が轟く。

その大きさは近隣住民全員が驚く程であったが、その五分後、アパチャイの姿を捉えた瞬間に記憶がフラッシュバックしたベルの叫び声はそれを上回るものだったという。

 

 

 

 

 

 

 

 早朝のオラリオのメインストリート。いつもの如くダンジョンに向かう冒険者でごった返す代り映えのない光景であったが、今日は一つの変化があった。

 足場の踏み場もない程に込み合っている筈のメインストリートの一角にそこだけ不自然な隙間が出来ていた。

 

「シル、別にあなたが来る必要はなかったのですよ」

 

「そうはいかないわ、リュー。ベルさんを呼んだのは私だもの。なら、最後まで私が責任を持たなくちゃ」

 

 その隙間の中心にいたのはエルフとヒューマンの少女たち。彼女たちが身に着けているのは薄緑と白を基調としたエプロンドレス。知る人ぞ知るオラリオの隠れた名店、豊穣の女主人亭の制服であり、それはそのまま彼女たちがそこの従業員であることを示していた。

 なぜ、飲食店の店員が冒険者が闊歩するメインストリートにいるのか。それは周囲にいる者たち全員の共通した思いであり、見目麗しい少女二人を荒くれ者揃いの冒険者たちの誰もが遠巻きに見ているだけの理由でもあった。

 

「何を言うのです、シル。無銭飲食をしたのはあの少年であって、貴女はただうちの店を紹介しただけです。責任の全ては彼にあり、そしてその落とし前は必ずつけさせるべきです」

 

 周囲の怪訝そうな視線など意に介することなく、リューと呼ばれたエルフの女性がヒューマンの少女に力説する。

 冒険者でもない彼女たちがこんな時間に出歩いている理由。それは三日前の夜、彼女たちが勤める豊穣の女主人亭で食い逃げがあったのだ。犯人は十代半ばの少年。見るからに都会慣れしていないお上りさんで、シルがいつもの手段で巧みに客寄せした哀れな被害者、と見えていたのだがその実、とんでもない食わせ物であったようだ。

 本来であればおそらくはレベル1の駆け出し冒険者であろうその少年の逃走など無駄に戦闘力の高い店員と店長たちによって取り押さえられていた筈であった。

 しかし、生憎とその時は最も混雑する時間帯であり、加えて少年の敏捷はレベル1にしてはなかなかのものであったらしく、店長のミアが気づいた時には少年の姿は夜の闇に隠れてしまっていた。

 結果、不埒な食い逃げ犯を懲らしめてやろうと店の中でも腕こっきのリューに、少年を店に呼んだ自分にも責任があると言って強引についてきたシルの二人は少年が所属しているというヘスティア・ファミリアに向かうことなったのだ。

 友人の好意を裏切った少年に対し憤りを隠せないリューとは対照的に裏切られた筈のシルに怒りはなくむしろリューを宥める方に回った。

 

「それはそうなんですけど……ベルさん、あの時泣いていたんですよね。多分何か理由があったと思うの。だからリュー、出来ればあまりひどいことをしないであげてほしいの」

 

「シル……」

 

 この期に及んでまだ食い逃げ犯のことを思いやれる親友にリューは驚嘆とも感心ともとれるつぶやきを零す。

 この甘さを愚かと断ずるのは容易い。過去に様々な悪と戦ってきたリューの経験にしてみれば無制限な思いやりなど、騙してくれと言っているようなものだ。

 だが、時にはそれによって救われる者もいるのだ。そう、例えば自分やおそらくは同僚の者たち。

 ならば、自分はその甘さを決して否定すまい。肯定し、その上で何かしらの不都合がシルの身に降りかかったのであれば自分がそれを振り払えばよいのだ。

 そんな風にリューが決意を新たにしていると

 

「だって……」

 

 一転していたずら気に目を輝かしながらシルはリューの顔を覗き込む。

 

「リューがやりすぎてしまって、暴行罪で捕まってしまったら大変ですし」

 

「シル!」

 

 顔を真っ赤にしてリューは叫ぶ。突然叫び出したエルフに周囲の視線が集中する。

 怒りとは違う意味でリューは顔を赤くすると、シルをにらみつける。

 

「シル、今のはひどい侮辱です。早急に撤回と謝罪を求めます」

 

「ごめん、ごめん。でも、リューってばいつもやりすぎてしまうでしょう? だから、私が監視役に行かないと」

 

「くっ……」

 

 レベル4冒険者の剣幕もそよ風の様に受け流す友人の言葉に、思い当たる所があるのかリューは悔し気に呻く。

 実際、いろいろなことをやりすぎてしまうという点は自他共に認めるリューの悪癖の一つであった。しかし、それにしたってシルを守って見せると決意したタイミングで揶揄うことはないのではないか。

 言葉では勝てないと分かるとリューはそのままこの話は終わりだとばかりに顔を背けて早足で歩いていく。その耳は根元から先っぽまで真っ赤に染まっている。

 まるで子供の様に拗ねるリューにシルはくすくすと忍び笑いをしながらついていく。

 そして、歩くこと十数分。ようやく目的地に着いた。

 

「ようやく、着きましたね。ここがあの少年の住処ですか」

 

「うわあ、何というか。ベルさん、本当に苦労してるんですね……」

 

 騙して連れてきたの悪かったかしら、と三日前の己の行動を少し反省するシルとリューの前に建っているのは朽ちかけた教会であった。神の家として敬虔なる信徒が暮らしていたのは今や昔、ここで暮らしているのは野良猫ぐらいのものであろう。

 

「いえ、ここに暮らしているのは猫は猫でも泥棒猫でしたか」

 

「リ、リュー……?」

 

 ボキボキ、と拳を鳴らし始めるリュー。その表情には怒りの色はなかったが、無表情なのがかえって恐ろしい。こうなったリューの頭には自重の二文字はない。

 単に不埒ものに天誅を加えるだけならばここまで不機嫌になることはない。どうやら先ほどの悪ふざけはエルフの中でも特に生真面目な親友の機嫌を思った以上に損なわせていたらしい。

 目が完全に据わっていた。

 

「えっと……本当に後ろ手に回る様な事をしちゃ駄目よ? 私、ベルさんもそうだけど貴方とも会えなくなったら悲しいから」

 

「何ですか、その言い方は? まるで私が捕まることが前提の様な物言いではないですか。安心しなさい、ちょっと脅かすぐらいですから」

 

「本当に? 本当にちょっと脅かすぐらいで済ませるのね? 暴力とか振るわずに」

 

「…………」

 

「ねえ! 何故、無言になるのリュー!? あ、ちょっと!」

 

 必死に語り掛けるシルを黙殺し、リューは足音を荒くし教会の敷地へと入っていき、教会の扉の前に立つ。

 

「頼もう! こちらは豊穣の女主人亭の者だ。先日、そちらの眷属が代金を払わずに逃げた件について話がしたい!」

 

 リューの凛とした声が辺りに生い茂る草花を揺らす。

 首の長い草花が一回、二回と揺れ、やがてその振れ幅も小さくなり、遂に止まった所でリューは短く息を吐く。

 

「成程、あくまで居留守を決め込みますか。それならばこちらも考えというものが……む?」

 

「どうしたの、リュー?」

 

「向こうから、何やら声が……」

 

 すたすたと、中庭の方へと移動する。移動するにしたがって声は大きくなる。おそらくは複数人。少年の声も聞こえる他、少女、男性、女性、老人の声も聞こえてくる。

 居留守を決め込むのであれば、静かにするはずなのにその様な素振りも見せない様子にリューとシルは首をかしげながら歩き、そして角を曲がり中庭へと入った。

 

 

 

 

 

「いいいいいいいやああああああああああっっ!! やああああああめええええええてええええええええっっ!!!」

 

「「……え?」」

 

 そこでは、件の食い逃げ犯の処刑が行われていた。少なくともリューとシルにはそうとしか見えなかった。

 身動き一つできない様、十字架に括りつけられた白髪の少年に、黒髪の女性が次々と斬撃が振るわれるが、何れも薄皮一枚で少年の体を避けていく。いっそ惚れ惚れとする技量だが、実際に行われている少年にとってはたまった物ではないだろう。

 あまりに想定外の事態に言葉を失う二人の前で恐怖のショータイムはいよいよクライマックスを迎える。

 

「いく……ぞ、ベル、これが香坂流短刀術の基本の型……だ」

 

 そう嘯くと、女性の斬撃は勢いを増していく。同時にさらに増していく少年の悲鳴。結局、女性が短刀を納め、少年が解放されたのはそれから五分後の事であった。

 

「ヒュー……ヒュー……」

 

「ほう……この修行方法はなかなかいいね。ただ斬りかかるのではなく、覚えるべき基本の型で斬りかかることで、休憩と精神修行を兼ねるだけでなく、見取り稽古による技と目を鍛える効果も狙うとは、一石二鳥どころか一石三鳥といったところか」

 

「ああ、全くだな。これなら恩恵とやらの効果も合わせれば思った以上に修行が捗りそうじゃねえか」

 

「アパパー、本当か逆鬼! それじゃあ、アパチャイもすぐにベルの修行に参加できる?」

 

「ホッホッホッ! 焦ってはいかんぞ、アパチャイ。今は我慢してそうしてケンちゃんとのスパーで我慢しなさい」

 

「分かったよ、ジジイ! アパチャイ、我慢してケンイチをブッコロスよ! ……あっ、隙だらけよ、ケンイチ! チャイ・キック!」

 

「ヒギャアアアアッ!!」

 

 地獄絵図の様な光景でありながら、半死半生の食い逃げ犯と今しがた上空へと吹き飛ばされた少年の二名を除けばそこにいた者たち全員の表情は自然体であった。まるで、この程度のことなど日常茶飯事であり、ドン引きしているリュー達の方がおかしいのだと錯覚してしまうほどに。

 

「ええっと……よ、良かったわね、リュー。どうやら貴女がしたかったことは既にやってくれたみたいよ」

 

「い、いえ……流石にあそこまでやるつもりはなかったのですが……いや! そんな事よりも早くあの少年を助けなければ!」

 

 自分が今日ここに何をしに来たのか、頭の中から完全に失念したリューは少年を助けようと一歩踏み出す。

 その瞬間——

 

「いえーい! 隙ありね!」

 

「なっ!? ……っ!?!?」

 

「リュー!?」

 

 突如、軽薄な声と共に何者かが後ろからリューのお尻を撫でまわした。ぞわり、と生理的な嫌悪感からリューに悪寒が走る。

 たまらず、その場から飛びすさり、抜刀と共に戦士としての警戒心と女性としての憤怒を込め、下手人をにらみつける。

 未だ二十を過ぎたばかりとはいえ、いや、二十過ぎにしてレベル4にたどり着いた天才剣士の怒気。上級冒険者であったとしても震え上がる筈であった、しかし……

 

「怒らない、怒らないね。かわいい顔が台無しになるね!」

 

 だが、下手人である小柄な中年男性はリューの怒気もまるで意に介した様子もなく軽口を叩く。その様子からは反省の色は一切ない。そのことがますますリューの神経を逆なでしていく。最早、リューの頭からは少年を助けようという考えはどこかに吹き飛んでいる。今、頭を占めるのは一刻も早く目の前の不届き者を叩きのめすことだけだ。

 

「覚悟なさい……! この痴漢魔!!」

 

「ちょっ!? リュー!!」

 

 本気で斬りかかるリューにシルが思わず制止の声を上げるが、頭に血を昇らせたリューの耳には入らない。

 一足で間合いを詰めると力一杯に木刀を振り下ろす。上級冒険者であっても見切れるものはそうはいない、恐るべき速度と威力が込められた一撃が中年男性の目前へと迫る。

 

「甘いね!」

 

「な!?」

 

 だが、男はその一撃をギリギリまで引き付けたところで体を半歩ずらすだけで回避すると同時に、木刀を振り下ろし伸びきってしまった腕をひねり上げることでリューの動きを束縛する。

 自分をたった一動作で封じてしまった男の技量にリューの空色の目が見開かれる。

 思えば、男が自分に破廉恥行為を行うまで自分は男の存在に気づくことも出来なかった。それ一つとってみても男が卓越した技量の持ち主であるということは明白であった。

 それに対し、自分はと言うと怒りに我を忘れ、冒険者にとって一番大事な技と駆け引きを放棄して大ぶりの一撃を放ち、こうして隙をさらしてしまっている。

 己の不甲斐なさに臍を噛む気持ちでリューは距離を取ろうと足に力を籠める。

 だが、それを許す程男は甘くはなかった。

 

「アイヤー、そうはさせないね!」

 

「う、動けない!?」

 

 後退しようと後ろに下がった瞬間、それに合わせるようにして男の足が絡み、捕まえ、そして地面へと縫い付ける。その様子はあたかも水流に足を取られてしまったかのように滑らかで、そして地面へと縫い付ける力は巨人に足首を掴まれたかのように強固であった。

 腕を極められ、足も潰されてしまったリューには身動き一つ許されない。完全な無防備をさらすリューに男が遂に攻撃へと転ずる。

 

「喰らうね! 震脚を利用したおいちゃん自慢の頭突きを!」

 

「くっ!」

 

 まるで爆発したかのような強烈な踏み込み。そして、それによって得られた推進力が足から腰、腰から胸へと移動するにしたがって全身のバネにより増幅し、猛烈な勢いで男の頭が突っ込んでくる。

 

……リューの胸部に向かって

 

「……え?」

 

「お~、生き返るね! うふふ……服越しからでもわかるすべすべした肌の感触、たまらないね~」

 

 リューは目の前の現実を理解できなかった。というか理解したくなかった。

 すりすりと男がほおずりする度に自分の胸部が形を変えていく。その様子を他人事のように呆然と眺めることしかできない。その状態が続いたのは僅か数瞬、されど男がリューの柔肌を堪能するには十分な時間が経過して、ようやくリューは適切な行動をとった。

 

「……!!? ————っ!?!?!?!?」

 

声にならない叫びを上げると、リューにセクハラするのに夢中となっている男の無防備な頭を張り倒すと今度こそ離脱に成功する。

 

「オチチ……おいちゃんとしたことがついうっかりしたね」

 

「はあっ……! はあっ……!」

 

 呼吸を荒げながら、もんどりうつ男から守る様に体を掻き抱く様子はまるで年頃の少女の様だが、その殺意に満ち溢れた眼はどう見ても堅気の人間ではなかった。かつて闇勢力と戦っていた時でもこれほどの怒りを覚えたことなどなかったのではないだろうか。

 吹雪もかくやという冷たさを讃えながら、リューは桜色の唇を開く。

 

「今は遠き森の空。無窮の……」

 

「リュー! ダメ! それはダメ!!」

 

「放しなさい、シル! この男にはこれぐらいしなければ!」

 

「そうじゃなくて、周り! 周りを見て!」

 

 その言葉に、ようやくリューは周囲の状況に気づくことができた。

 

「あー、我々の身内が随分失礼をしてしまったようだね」

 

「剣星がすまな……い。責任をとって、ボクが斬ってお……く」

 

「オイ、しぐれ。お前たちが本気でやりあったらそれこそ大惨事だろうが」

 

「アパパ! お客さん、お客さんよー! お客さんが来たからお菓子出してよ! アパチャイの分は多めにお願いよー!」

 

 いつの間にかリューとシルの二人の周囲は四人の男女に囲まれていた。

 男性三人に女性一人。背格好も違えば服装にも統一感はない。共通点は全員、ヒューマンであることだろうか。いや、もう一つ共通点があったか。リューの唇が焦燥に歪む。

 

「シル、急いで逃げなさい。彼らは私よりもいや、おそらくだが第一級冒険者よりも、強い!」

 

「え? 第一級冒険者よりも強いって……嘘でしょう?」

 

 リューの言葉をシルは流石に冗談としか受け取れない様であったが、残念だがリューは本気だった。

 長年、冒険者として戦い続けたリューの長い戦歴の中には第一級冒険者との戦闘もあった。レベル4であるリューにとって当然格上の存在である。しかし、リューはその優れた技と駆け引きはこれを打倒することは叶わずとも一定の拮抗状態に持ち込むことをかろうじて可能としていた。

 しかし今、リューは目の前の人間たち一人一人に対して、それを成せるビジョンすら思い浮かばなかった。

 一合。いや、そもそも自分は打ち倒されるその瞬間まで敗れたことに気づくことすらできないのではないか。そんな弱気にも似た疑問が思い浮かぶほどに彼我の戦力は隔絶している。しかもそれが五人。

 ふざけるな、と怒鳴り散らしたくなる。なぜ、無銭飲食なんてことをやっている人間の近くにこんな規格外な存在がいるのだ。

 いら立ちと怒りを叩きつける様にねめつけながらリューはシルを背で庇いながらじりじりと後退していく。

 そんなリューの様子に先頭にいた着物姿の男が口を開いた。

 

「ふむ……まあ、警戒されるのは仕方がないが、少しは我々のことを信じてもらえないものだろうか。これでは、お詫びを言うことも出来ないではないかね」

 

「ぬかせ。無銭飲食や破廉恥行為に及ぶ連中に心を許すものがいるものか」

 

「無銭飲食? 何のことだね?……はっ! もしや!?」

 

 吐き捨てられたリューの言葉に男の瞳がわずかに揺れる。と同時に、まさか、といった表情で傍らにいる二人の大男たちを振り返る。

 

「アパ? どうしたよ、秋雨? アパチャイの顔、何かついている?」

 

「……おい、秋雨。なんでそこでアパチャイだけでなく俺まで見やがるんだ?」

 

「む……すまないね。いや、君のことだからてっきり無理やりツケで飲んだのではないかと……」

 

 着物姿の男と同じ人種の大男は恨みがまし気な表情でにらみ、浅黒い肌をした大男は何故自分が見られたのかすら分かっていない様子である。

 ばつが悪そうに咳払いをすると着物姿の男はリュー達に向き直る。

 

「どうやら、我々の中には心当たりのあるものはいないようだが、何かの間違いではないだろうか?」

 

「ええっと……お金を払わずに帰ってしまったのはあなた方ではなく、そちらのベルさんですよ?」

 

「何……ベル君が、かね……?」

 

 シルの言葉に着物姿の男が驚きの声を上げる。他の者たちもシルたちと見比べる様にしてベルに困惑の視線を往復させていた。

 未だ、出会って数日しか経っていないのだがベルがその様な犯罪に手を染める様な人間ではないとその場にいる者たち全員が理解していた。

 当の本人はズタボロにされ気を失っており、自身に食い逃げの容疑がかかっていることにすら気が付いていない。これでは、詳しい話を聞くことも出来ないだろう。さて、どうしたものかと着物姿の男が悩み始めたとき

 

「あ、あの……! まずはその時の話を聞かせていただけませんか!?」

 

「む、ケンイチ君……」

 

 男たちの後ろから新たに少年が姿を現す。少年はにらみつけてくるリューの前に立つと深々と頭を下げる。

 

「お願いします! お金は勿論お支払いします! 僕はクラネル君と会ってまだ三日しか経っていないけど、彼がそんなことをする人間だとは思えません! 何か、理由があったんだと思います!」

 

 だから、その時のことを詳しく教えてくださいと再度ケンイチは頭を上げることなく頼み込む。

 誰もが一言も発しない中、じっとリューは冷たい視線でケンイチを見下ろす。そんな状態が数秒続いた後。

 

「はあ……分かりました」

 

 根負けした様にため息をつくとリューは友人の方へと向く。

 

「シル、あの時彼の傍にいたのは貴女だ。その時のことを彼らに話して欲しい」

 

「ええ、それは勿論構わないけど……」

 

 突然自分に話が回って来たことにうろたえるがすぐにシルはあの日のことを自分の記憶にある限り、鮮明に話し始める。

 朝に来店の約束をして、夜に約束通りベルが来店し、注文した料理を楽しんでいたが、突然表情を一変させると、涙を流しながら店から飛び出した。何かが起こったとは思えるが、飛び出した経緯が唐突過ぎてまるで要領を得ない。

 

「あの……クラネル君が表情を変えたとき、何か変なことありませんでした?」

 

「変な所ですか? うーん……あ、そういえば、その時ロキ・ファミリアの方が冒険の打ち上げをされていましたね」

 

「ロキ・ファミリア?」

 

 思わぬ名前にケンイチが驚きの声を出す。その名前は昨日ベルの口から聞いたばかりだ。このオラリオで一二を争う最大手のファミリアで、ベルの命の恩人であり、憧れのアイズ・ヴァレンシュタインが参加しているファミリアだったはずだ。

 そこまで考えた所でケンイチの脳裏に雷光が走った。

 

「あの……もしかして、その時アイズ・ヴァレンシュタインさんという方がおられませんでしたか?」

 

「『剣姫』ですか? ええ、確かにおられましたよ」

 

「ケンイチ君? どうかしたのかね?」

 

 ドクンと、胸が高鳴る。

 突如、険しい顔をしたケンイチに秋雨が疑問の声をかけるがそれがケンイチの耳に入ることはない。

 ケンイチは知っている。ベルがどれほどアイズという女性に思慕の念を抱いているのか。彼とそのことについて話した時間はわずかであった。それでも、理解できてしまうほどにベルの気持ちは強く、純粋だった。

 そんな思い人の前で、泣きながら走り去った。

 ケンイチの頭の中で何かが一つの糸で繋がった気がした。

 

「あの……! ロキ・ファミリアの人が来ていたとおっしゃってましたけど、ベル君が飛び出した時、どんな話をしていたんですか!?」

 

「え!? そ、それは……その……あまり、気持ちのいい話題ではなかったのですが……」

 

 シルの顔がみるみる曇る。数秒間、言うべきかどうか悩む様子を見せたがすぐに隠しても仕方がないと悟ったのか若干声のトーンを落としながら話し始めた。

 

「何でも、ロキ・ファミリアの方々がダンジョンから帰還の最中、ミノタウロスの集団と遭遇してしまったらしいんです。勿論、ロキ・ファミリア程の力があるファミリアならば苦も無く蹴散らすことができたらしいのですが、敵わないと悟った生き残りのミノタウロス達が一斉に逃亡したらしいんです」

 

「逃亡? それがどうしたんですか、野生の動物なら勝てないと分かったら逃げるのが普通じゃないですか?」

 

「まさか! モンスターが逃げ出すなんて聞いたこともありませんよ。それに、逃げ出した場所がまずかったんです」

 

「まずい場所?」

 

「ふむ……察するに上層に向かったのではないかね?」

 

 秋雨の言葉にシルは頷く。

 

「ロキ・ファミリアは帰還の最中だった。つまり、下層域に続く道に陣取っていたわけだから、彼らから逃げ出そうとすれば自然、上層へと向かうだろうね」

 

「なるほどね。だとしたら、それは大変な事ね。聞けば上層に行くほどモンスターの強さは弱くなっていくと聞いたね。当然、それを狩る冒険者もそれに応じた強さになる。つまり、上層にいる冒険者は決して強いわけではない。そんな所に中層域のモンスターが集団で突っ込めば、どうなるか火を見るよりも明らかね」

 

「ええ、そして実際そうなりかけたらしいんです。まあ、追いかけていったロキ・ファミリアの方々の頑張りで何とか犠牲者は出なかったらしいんですが」

 

「良かったじゃない……か。なんで気持ちのいい話じゃない、なんて言ったん……だ?」

 

「その……その時助けられた新人冒険者の方の様子を狼人の方が笑い話として話し始めまして……」

 

 自分には関係のない話であるというのにシルは悲しそうに眼を伏せた。

 酒の席とはいえ、他人の失敗談を嬉々として話すという光景はシルにとって愉快なことではない。

 

「ケッ! 手前のヘマを酒の肴にするたあ、良い趣味してんじゃねえか……ん? どうした、ケンイチ? 顔、真っ青じゃねえか」

 

 ロキ・ファミリアに助けられた。新人冒険者。本来いる筈のないミノタウロス。全ての事実が符合し、ケンイチにその日何が起こったかを伝えていた。

 

「僕……分かりました。クラネル君が逃げ出した理由」

 

「何と!? 本当かね、ケンイチ君?」

 

「ええ、実は昨日クラネル君と話しまして……」

 

 そして、ケンイチは地下室でのベルとの会話と今の話を照らし合わせ、浮かび上がった真実を話し始めた。

 ベルの憧れの人間はその時その場にいたアイズだったこと。そして、その笑い話にされた新人冒険者とはベルの事であったということ。恐らくはベルが飛び出したのは憧れの人の前で貶されたことにショックを受けたからであろうということ。

 皆が黙ってケンイチの話に耳を傾ける。師匠たちも、シルも、リューも皆が一言も漏らさずに聞いていた。

 

「……そういう訳で、クラネル君が出会ったとき、彼が防具すらつけてなかったのはそういう理由だと思います」

 

 時間にすれば数分の事であった。しかし、ケンイチの話が終わった時、辺りには重くのしかかった様な空気が流れていた。

 

「アパ~、ベルが可哀そうよ~」

 

 涙ぐみながら言うアパチャイの言葉はその場にいる全ての人間の代弁であった。皆が、その時のベルの気持ちを思い、やりきれない気持ちとなる。

 

「う、うーん……あれ? 皆さん、どうされたんですか?」

 

 そして、ベルが目を覚ましたのはそんな瞬間であった。

 目を覚ましたベルはキョロキョロと状況が分からないのか、見回す。そして、その視線がシルとリューに止まった瞬間、顔を真っ青にして勢いよく立ち上がると土下座せんばかりに頭を下げた。

 

「す、すすすすいませんでした! 代金の事ですよね!? 今、お支払いしますので!」

 

「え、ええ……まあ、払って頂ければこちらとしても文句はないのですが……」

 

 ベルから代金を受け取るリューは何ともばつが悪そうであった。

 確かに、どのような理由があろうともお金を払わずに飛び出したベルに非がある。

 しかし、エルフらしい生真面目なリューにしてみれば、本来くつろいでもらうはずの店内で逆に不愉快な思いをさせてしまっておきながら、一方的に謝罪を受けるというのは不公平ではないかと考えてしまう。

 いつも笑顔を絶やさないシルも一応は笑顔であるが、そういった機微に疎いリューですら愛想笑いであると見て取れてしまった。

 そして、それはベルにとっても同じであった。

 

「あの……どうかしたんですか、皆さん? なんか、へんな空気ですけど……」

 

「んんっ……!? あー、そうだなあ……なんつーか……」

 

 不思議そうなベルの視線に至緒は必死に誤魔化そうと頭をひねる。だが、何も思い浮かばず、ただ視線を明後日の方向に向けるだけである。基本的に梁山泊の人間に嘘をつけ、というのは下級冒険者にミノタウロスを狩ってこいというぐらいに無茶な話である。

 子供でももっと上手く誤魔化せるのでは、というほどに下手くそな腹芸にベルが何があったのだろうかと不安になり始めたときだった。

 

「いや、スマンのう、ベル君。実は先ほど君が眠っている間に三日前、女主人亭であったこと、それから君がどうしてそんなことをしてしまったかの背景を全て聞いてしまったんじゃよ」

 

「え……」

 

 サッとベルの顔が青くなると同時に恥ずかしさで瞬時に真っ赤に染めあがる。思わずうつむく。とてもではないが誰とも目を合わせることが出来なかった。

 知られてしまった。あの日の自分の愚行の数々を。

 自分の弱さを直視して、そこから泣きながら逃げ出した挙句自殺まがいの無茶をして見ず知らずの人に助けられる。あまりにもみっともなさ過ぎる。それを、師匠や兄弟子、他人同然の人間に知られるなど消えてなくなりたかった。

 そんなベルに、隼人は慎重に言葉を選んでいく。

 

「のう……ベル君。何故、君はそんなに恥ずかしがっておるのかのう? 確かに、先日の君の行動はあまり賢い物とは言えぬが、それでも生き残れたわけじゃし、こうして許してもらえたんじゃ。そんなに思い詰める必要はないんじゃないかのう?」

 

「で、でも……僕は、全然弱くて……師匠や他の皆さんの好意に甘えることしかできない自分が情けなくて……」

 

 涙がこぼれそうになる。劣等感と羞恥で頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる感覚がした。泣くのを我慢したのが最後の意地であった。

 

「弱い、か……のう、ベル君。君は武術において一番大事なものは何か知っとるかのう?」

 

「へ……?」

 

 選ばれた言葉は唐突なものであった。

 脈絡などまるでない言葉に思わずベルは顔を上げる。

 そこにはようやく自分と目を合わせてくれたことに喜ぶ隼人の顔があった。

 

「力じゃろうか……? それとも技じゃろうか……? いいや、違う! それは、勇気じゃ! 勇気がなくば、相手の隙を冷静に見抜けぬ! 勇気がなくば力はすくみ、勇気がなくば技は決してかからないじゃろう! そして、ベル君。君にはその勇気がある!」

 

「勇気……? 僕に、ですか……?」

 

 力も技も自分にはないが、勇気などもっと自分には縁遠いものと考えるベルにとって隼人の言葉には首をかしげる。

 普通に考えれば隼人の言葉は自分を元気づけるための虚言としか思えなかった。しかし、隼人の真っすぐな瞳が、力強い口調がそれは違うのだと雄弁に語っていた。

 

「ワシらが君を助けたあの日、君は今にもとどめを刺されそうな窮地に立たされておったのう。だが、君は決してあきらめていなかった! それはあの場にいた者全員が見ておる!  死を目前にしながらも決して心を折らず、目の前の敵をにらみつける生気に満ちた君の目を!!」

 

 あの光景を隼人たちが忘れることは決してないだろう。

 七体のウォーシャドウに囲まれながらも決してあきらめることなく、ルビーよりも光輝く瞳を。

 現時点においてベル以上に強い人間はそれこそ数えきれないほどにいるであろう。だが、果たしてベルの様に避けようのない死を前にして、尚も絶望しない人間が果たしてどれほどいるのであろうか。

 決して手放さぬ生への渇望、そしてそうさせるほどに大切な何か。

 それは、間違いなく隼人たち活人拳に属する者たちの力の源だ。

 

「才能のある者など、世の中にはいくらでもおる! 才能のある者がみな大成するかといえば、答えは否じゃ! だが……技を極めた達人に、共通するものが一つだけある! それは……強い意志!! 君にもそれがある……まあ、今はそれでよしとするかのう」

 

「……はい!」

 

 隼人の言葉にベルは満面の笑みで答える。心の中に残っていた黒い影が消え去っていくような感じがした。

 あの日の思い出は今でも苦い思い出だ。だが、それに捕らわれることはない。純粋に夢へと走らせる燃料となっている。

 

「クラネル君、大丈夫ですよ。僕だって昔は君よりも弱かったですけど、今ではこうしてそれなりに強くなりましたし、君ならずっと強くなれますよ!」

 

「隼人さん……白浜さん……」

 

 それだけでなく、こうして励ましてくれる人たちがいる。ついこの間までずっと独りぼっちだった自分に、だ。

 それを思うと、ベルの胸の中に熱いものが灯る。

 そんなベルの姿にシルはほっと胸を撫でおろした。

 

「良かったですね、ベルさん。一時はどうなるかと思いましたけどこれなら大丈夫そうですね」

 

「そうですね。どうやら丸く収まった……いえ、結果だけを見ればむしろ彼は望外の幸運に恵まれたと言えるかもしれません」

 

 恐らくは六人全員がヒューマンの集団。その中の誰一人としても経歴上、冒険者の情報に耳聡いリューですら寡聞にして聞かない。しかしながらその実力は第一級冒険者をもしのぐ、どころか凌駕しているだろう。

 余りに怪しい集団である。しかしながらその腕前は本物である。これほどの使い手に師事できるなど冒険者ならば誰もが羨む幸運であろう。

 リューも既に現役を退いて久しいが、長年染みついた冒険者としての本能が鎌首をもたげ始めている。

 もし良ければ自分も弟子入りを頼み込んでみるべきだろうか。

 そんな下心を持ちながらリューはベルとケンイチ、隼人の三人から、彼等を見つめる達人たちへと視線を移す。

 

 

 

 

 

 

「それはそうと、秋雨どん。気づいていたかね? 修行中もベルちゃん、ずっと何かに怯えていたね。あれはきっと……」

 

「うむ、おそらくはミノタウロスとの遭遇によるトラウマであろうね。武術家にとって恐怖とはコントロールするもの。その為にもベル君は一度トラウマを克服せねばならないだろう」

 

「トラウマを克服するなら、その原因となったものに打ち勝つのが一番早い……ぞ」

 

「ああ、トラウマって奴は時間が経てば経つほどに厄介なことになるからな。明日の予定はミノタウロス相手の組み手に決まりだな」

 

「アパパー! いつ殺るよ! 今でしょ! ってやつだね!」

 

 なんか、とんでもない話が聞こえてきた。

 

「ねえ、リュー。あの人たち、ベルさんをミノタウロスと戦わせるとか言っているけどあれって冗談、よね……?」

 

「ええ、流石にそうだとは思いますが……」

 

 レベル1、それもつい最近冒険者になったばかりの人間を修行と称してミノタウロスと戦わせる。

 ミノタウロスという怪物がどういうものか知っている人間が聞けば、冗談としか取れない話を当たり前の感性で嘘と断じる二人の口調はしかし歯切れが悪かった。

 思い起こされるのは先ほどまでの修行風景。あのような荒業をやってのける様な人間たちならばやりかねないのでは、という疑惑が頭から離れない。

 とはいえ、それを差し引いてもやはりミノタウロスとの組手など現実味が薄く、二人がそれを真実とも嘘とも判断がつけられず、煩悶としていると後ろからカサリと草を踏み荒らす音が聞こえた。

 

「只今帰りましたわ、皆さん……あら?」

 

 姿を現したのは一人の少女であった。年の方はシルと同じぐらい。同性のシルですら見惚れてしまうほどに美しい顔立ちと女性らしい豊満な肉体は一見すると全員例外なく美形である女神かと見紛うほどだ。

 こんな寂びれた教会に来るぐらいなのだからケンイチ達の知り合いだろうか、と辺りを付けるとシルは頭を下げる。

 

「あっ、これは失礼しました。私、シル・フローヴァと申します。あちらのエルフは同僚のリュー・リオンです。本日はベルさんにお話させていただきたいことがあってこちらに伺わせていただきました」

 

「あら、そうでしたの。私は風林寺美羽と申しますわ。折角いらっしゃったのですからお茶の一つでも召し上がって欲しいですわ。今、荷物を片付けますので」

 

「荷物?」

 

 礼儀正しく頭を下げる美羽の言葉にシルは美羽の傍らに抱え込まれた小箱に視線を移す。と同時に目を見開く。

 

「あら……!? それって、ひょっとしてエリクサーですか!? それも、そんなにたくさん!?」

 

 少女が抱えている小箱。わずかにズレた蓋からは特徴的な七色の光を放つ液体が納められた7つの小瓶が覗かせていた。

 実際に目にするのは初めてだが、その特徴的な見た目からすぐに思い当たる。

 その希少性からシル同様に手に入れるどころか見たことのある者も極僅か、という有様でありながらその絶大な効果から万人に知られている魔法薬の最高峰、エリクサーだ。

 思わぬ高級品との邂逅にシルはやや興奮気味になり、冷静なリューもこの時ばかりは目を見張る。そして、それはその場にいる全ての人間も同様であった。

 

「エリクサーですか!? すごい! 一本50万ヴァリスは下りませんよ!」

 

「美羽さん。お買い物、ありがとうございます」

 

「ほお……これがエリクサーか。まるで宝石みたいじゃのう」

 

「アパパ! きれいだよ! ピカピカ光ってるよ!」

 

「ふむ……確かに美しいが……これを飲むのは中々勇気がいるではないかね?」

 

「いや、説明書を読んだけど……飲むなくても、患部にかけても効果があるらし……い」

 

「流石、魔法のお薬ね。おいちゃん、薬には詳しいけど飲んでも掛けても効果を発揮するお薬なんて初めてね」

 

「ケッ、薬なんて効けばいいんだよ、効けば」

 

 静かであった裏庭が一転、喧騒に包まれる。リュー達の後ろからケンイチ達が近づき、皆が初めて見るエリクサーに思い思いの感想を零し始めた。

 そして、その中の一人、秋雨がぽつりと言葉をつぶやく。

 

「ふむ。これだけあれば後顧の憂いはないね。おかげでようやく明日からは万全の態勢で臨めそうだ」

 

「ほう……」

 

 秋雨の言葉にリューは目を細めた。

 エリクサーを大量に用意してのこの言葉、その意味が分からない程愚かではない。

 

「それって……いよいよ明日からは師匠たちもダンジョン探索、それも数日間にわたるほどの大規模遠征を行うんですか!?」

 

 ベルの声には隠しようもない程に興奮の色があった。

 レベル7を超える力量を持つ六人によるダンジョン・アタック。

最大手の両雄ロキ・ファミリアやフレイヤ・ファミリアですら不可能な前代未聞の布陣である。

 それが成されれば、その戦果は疑いようもなくオラリオを震撼せしめることとなるだろう。いや、それどころかかのゼウス、ヘラ・ファミリアが打ち立てた最深到達階層の記録すら塗り替えることも夢ではないだろう。

 歴史的な瞬間を目にしているかもしれないとベルは勿論、捨て去った筈の未知に対する期待と興奮がリューの中でも膨れるのが分かる。

 しかし、期待に満ちたベルとリューの視線を受けながら秋雨は不思議そうに首をかしげる。

 

「ん……? ダンジョン探索かね? いや、我々は生活費を稼ぐために日帰りでダンジョンに入ることはあっても、当面は数日間にわたる本格的なダンジョン探索はしない予定だよ?」

 

「そうなのですか? では、何のためにそんな大量のエリクサーを用意したのです?」

 

「何の為って……決まっているじゃないか」

 

 リューの質問に、秋雨は今度こそ驚いた様子で答えた。

 

「ベル君とケンイチ君の修行に使うために決まっているじゃないか」

 

「……は?」

 

 この人は今、何と言った? エリクサーを、修行に使う?

 言葉の意味を理解できないリューとベル。しかし、その横ではその言葉の指し示す意味に気づいたケンイチの目から光が消えた。

 

「いやあ、昨日は流石に肝が冷えたよなあ……ベルの奴、心臓が止まっちまった上に瞳孔まで開きっぱなしになっちまったからなあ」

 

「アパパ! アパチャイ、沢山テッカメンしたよ! いつものケンイチならすぐに起き上がれるぐらいの力でぶっ飛ばしたのに、どうしてベル死にかけたよ?」

 

「はっはっはっ、アパチャイ君。いくらケンイチ君が才能がないとはいえ、我々の下で一年以上も修行をしていたのだよ? そんな彼ならばギリギリで生き残れる力で殴り飛ばせば素人同然のベル君が耐えられるわけないじゃないか!」

 

「全くね。ギリギリの所でおいちゃんと秋雨どんの処置が間に合ったから良かったものの、あと少しでアウトだったね」

 

「ホッホッホッ、なあに、誰でも初めては上手くいかぬものじゃ。アパチャイ君もこれからはケンちゃんだけでなく、複数の人間それぞれに見合った手加減ができる様に頑張れば良いのじゃ」

 

「がんば……れ。エリクサーがあれば、即死しない限り大丈夫……だ」

 

「「「…………」」」

 

 お通夜の如く、凍り付くベル、リュー、シル。

 そう、秋雨たちは死んでさえいなければどんな怪我も治す霊薬をあろうことかケンイチとベルの修行中での負傷した際の保険に使おうとしているのだ。

 実戦ではなく、ただの訓練に霊薬を用意する。一見すれば過保護に見える話だが、これを言っているのが梁山泊の面々となるとその意味合いは180°反転する。

 ベルはギリギリとネジの切れた玩具の如くケンイチを振り向く。その目が語り掛けていた。

 昨日のよりも厳しくなるって……冗談ですよね?

 いや、間違いなく本気だよ。

 目で語り合う兄弟弟子。出会って数日でありながら以心伝心の様を見せる二人はその頭の中を支配する考えも一緒であった。

 これから自分たちにはエリクサーを必要とする程の……つまりは昨日までの修行をはるかに超える過酷な修行の日々が待っているのだ、と。

 そして、その予想が外れることは決して、ない。

 

 

 






 第七話完成しました。
 遂にエリクサーの解禁となりました。ここからさらに修行の過酷さは加速していくことになります。有料地獄めぐりと評された梁山泊の修行風景を的確に描写出来るよう頑張っていきたいと思います。
 それでは皆様のちょっとした楽しみになれたことを祈って筆を置かせてもらいます。



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