旅人マレファの旅日記 作:飯妃旅立
「約束は守られ、知らないところで旅人が歩き出す」
プラハ――。
チェコ共和国の首都にして、最大の都市。
かつては「黄金のプラハ」と共よばれ、占星術師や錬金術師などが集った、欧州文化の中心地として華やかな発展を遂げてきた場所だ。
そんなプラハの、さらに中心地。
プラハ城。その中にあるレストランに、少女はいた。
豪勢な食事を前にして、見た目と遜色のないテーブルマナーで(悪いという事だ)、少女は食事をしている。
その傍らには、手紙。
彼女は待ち合わせをしているのだ。
「マルハバン、マレファ」
ふと、テーブルに影が射した。
少女ことマレファが顔を上げると、そこには彼女の待ち人が、にっこりとした顔で手を振っている。手にコンビニの袋が無ければ淑女さながら、という雰囲気だ。
「時間はぴったり。流石ね?
「勿論、貴女と会うのに遅刻なんてしないわ。竹取村では、ヴォルフちゃんと仙太郎ちゃんがお世話になったみたいだし」
「へぇ、そう言う所は真面目に書くのね、あの二人。でも、その子は鞠葉。私じゃないわ」
「ええ、そう言う事で処理しておきました」
ニコニコと笑う女性――彼女の名前は、ルイーゼ。
探偵卿。
「立ってないで、座りなさいな」
「じゃあ、失礼して……。
ごめんなさいね、急に呼び出したりして」
「全くよ、と言いたい所だけれど……黄金の町プラハに来るのは中々久しぶりでね? 街並みもかなり変わっているし、呼ばれて良かったと思っているわ。ちなみに、私に手紙を出したのはあのMとかいうヤツ?」
「ええ、そう。でもあんまり名前を出さない方がいいわ。名前を出すと出てくるかもしれないし、一人いたら三十人居る可能性だってあるんだから」
「恐ろしい増殖能力ね。でも新聞紙の打撃で簡単に死にそう」
二人はクスクスと笑ってから、食事中にする話ではないなと、話を変える事にした。
「それで、私を呼んだ理由って何? 正直探偵卿の捜査に協力する程私は正義寄りではないのだけれど」
「聞きたいのは大きく分けて二つ。
まず一つ――マレファ、貴女ヴォイニッチ手稿を知っているかしら?」
「ええ、知っているわ」
即答したマレファは置いて於いて、ヴォイニッチ手稿というものがどんなものであるか簡単に説明しよう。
ヴォイニッチ手稿。ヴォイニッチ文書とも呼ばれるが、これはこの文書の正式なタイトルではない。発見者の名前がウィルフリッド・ヴォイニッチであるが故にそう名付けられているだけで、文書の名前はわかっていない。
読む事が出来ないのだ。
人類史におけるどの文字にも似ていない、しかし文字ごとの出現頻度から計算するにでたらめではなく、しっかりとした文法の元に書かれている、謎の文書。
奇妙な形の植物や惑星、謎の生き物、人体の解剖図のような絵。
あらゆるものが謎であり、未だにその一片すら解読されていない本。
それがヴォイニッチ手稿である。
「マレファ。貴女の知っている、というのは、どの程度なの? 一般常識程度か、それとも――
「後者よ。なんだったら、そこに書かれている内容も知っているわ。どういう意味なのかも、ね」
さらりと放たれたその言葉に、ルイーゼは頭痛を覚えた。
「その内容を教えてもらう事は出来るかしら?」
「貴女じゃ理解できないわ。Mとかいうヤツでも無理ね。そして、理解した所で……いいえ、
「……それって、どういう事? 危険なもの、なの?」
「いいえ、危険ではないわ。少なくとも人間には使えないもの。人間の脳では
それは十二分に危険じゃないのだろうか?
ルイーゼは思っても口に出さない。ただ、得られる情報を心のメモに留めておく。
「それで、もう一つは何かしら?」
「え、ああ――悪魔の錬金術師、という名前を知っているかしら」
「……なるほど。なるほどね。ヴォイニッチ手稿に手を出す気なのね、
――やめておきなさい。悪い事は言わないから」
急にシリアスな顔をつくるマレファ。その口の端にクリームがついていなければ、雰囲気作りは完璧だっただろう。
「そうは言っていられないのよ。クイーンが悪魔の錬金術師の家からヴォイニッチ手稿を盗み出すと予告状を出したの。
愚痴をぶちまけるように、ルイーゼが大きくため息を吐いた。
エジプトの一件までは良かった。あの時はまだ、世界を救うために動けという指令だったから。
だが、竹取村や今回の一件は違う。
不老不死の薬やヴォイニッチ手稿に、
「どこの組織も、長く続けると腐敗するものよね。そして被害を受けるのは末端ばかり。
同情が出来るほど私は長い間組織に身を置いた事が無いから分からないけど、心中お察しするわ」
「ありがと。
その情けついでに、貴女が知っているヴォイニッチ手稿の中身を私でもわかるように教えてくれないかしら? ほんのちょーっとだけでいいから」
親指と人差し指を極限まで近づけて「ちょっと」を表現するルイーゼ。
その抜け目の無さは流石
「……いいわ、教えてあげる。けれど、ここは不味いわね。誰が聞いているかわからないし」
「それじゃ、私の家に来ないかしら? と言っても一時的な拠点でしかないのだけど……」
「
「あら、ありがとう。お褒めに頂き恐悦至極、ってね」
「キョーエツシゴク? ……何故日本語なの? 意味は?」
「知らないわ。仙太郎ちゃんがこういう時に使うものだ、って」
「……東洋の神秘……なのかしら?」
こういう時に言う言葉ではないような気がしたが、同時に言わなければいけないような気がしたマレファだった。
●「死に際に現れるのは死神。瀬戸際の現れるのはセト神?」
ドイツ、ハンブルクの古城。
ここの地下で今、どんちゃん騒ぎ……もとい、戦闘騒ぎが起きていた。
ここの古城の持ち主であるフォシュロン卿の息子に酷似した姿を持つ、ティタン。
そしてホテルベルリンがドライ・ドラッヘンのシュヴァルツが、激しい戦闘を繰り広げているのだ。
ティタンは人間離れした動きでシュヴァルツを翻弄し、非常に重い打撃を放つ。
シュヴァルツは常人離れした動きで周辺にある瓦礫の全てを使用して攻撃し、斬撃、打撃に留まらない多様な手法で果敢に攻める。
そんな、戦闘騒ぎが起きている城の上階。
フォシュロン卿の眠る寝室に、今二つの存在が降り立とうとしていた。
地下の微かな振動を感じたのだろう、フォシュロン卿は目を覚ましていた。
そして、いつになく穏やかな気持ちだった。彼にはもう、自分の死が見えていたのだ。
ドアをノックする音が聞こえた。
フォシュロン卿は自らの息子の形を真似ただけの
「……死神か? 子連れの死神とは……」
女性の後ろから入ってきた子供にも気付いていた。
女性が目を伏せる。
「わたしの名は、シュテラ。ホテルベルリンのシュテラ」
「マレファよ。フォシュロン、久しぶりね」
「ホテルベルリン……? まて、マレファだと……」
シュテラと名乗った女性がマレファと名乗った少女にギョっとしていたが、そこはあまり気にならなかった。
ホテルベルリン。確か、第二次世界大戦のときに造られた、ドイツを護る組織だ。
そしてマレファ。フォシュロン卿の微かにして遠い記憶の中で、今と全く同じ姿をした子供がフォシュロン卿を見上げていた。
「……おお、マレファ、か……覚えている。君は、彼女の孫、かな」
「いいえ、フォシュロン。本人よ。あなたがもうすぐと聞いて、貴方を看取りに来たの。もう満足したわ。だから、この人の話を聞いてあげてくれる? あなたにとって、必ず良い事があるはずだから」
「……ああ、わかった。ハルトムートへの、良い土産話が出来たよ……」
小さく手を振って、マレファが部屋を出て行く。
何をしに来たのかはわからない。だが、たとえどのような事を訊かされようとも、フォシュロン卿はシュテラの話をしっかり聞く事にした。
そこから聞かされるシュテラの話は、フォシュロン卿を深く苛んだが、それでも最後まで聞いた。
連れてこられたティタンに、「ありがとう」だけでなく……「ハルトムートと同じくらい、愛しているよ」と言って、フォシュロン卿はこと切れる。
泥人形でしかないはずのティタンは涙を流し――そして、土くれへと帰って行った。
シュテラは土の中から金属板を見つける。そこに書かれていた「emeth」という言葉が「meth」になるのを見逃さなかった。
「
「あら、帰ったわけではなかったのですね」
ティタンと共に連れてこられたドライ・ドラッヘンを掻き分けるようにして現れたマレファにシュテラが言う。マレファはシュテラを見て肩を竦めると、口角を上げた。
「別れ際に、私みたいな存在がいるのは邪魔だと思って。貴方も相当無粋だとは思うけどね、
「何……?」
その言葉にいち早く反応したのはシュヴァルツだ。
今の今まで突然現れたマレファを警戒していたのだが、クイーンと呼ばれたシュテラを見て――、
「てへっ♪」
自らの出せる最高速度でスマートフォンを取りだし、カメラを起動した。
余り知られていない(と彼は思っている)が、シュヴァルツはシュテラの事を好いている。美しいと思っている。
――シュテラ様のこんな顔、あと千年経ってもみられないぞ!
シュヴァルツは今日というこの日に至る為に自身を鍛えていたのだと確信した。
そうして今、撮影ボタンを押す――その直前。
ピシッ! と、シュヴァルツの頬にミミズ腫れが出来る。
彼には覚えがあった。この痛み、忘れようもない。
「わたくしをあのような偽物と間違えるとは、心外ですね」
シュヴァルツは光の速さで頭を下げた。
「もう、バラすのが少し早くないかい? 君には遊び心が欠けているよ」
「いくら彼が真面目で遊び心が無いからからかう事で面白くしてやろうっていう魂胆だったとはいえ、死者の隣でやる事ではないわ」
「死者の隣じゃなきゃいいのかい?」
「それはお好きにどうぞ」
シュヴァルツの額の青筋が深くなっていく。
シュテラも余り良い気はしていないらしい。
「あぁ、そろそろ時間ね。そろそろ行くわ。RDの晴れ舞台を見に、ね」
「へ?」
瞬間、マレファの姿が掻き消える。
あり得ない速度で移動したとか、全員の瞬きの瞬間を狙ったとか、そういうレベルではない。
瞬間だ。
時間と時間の隙間に落ちて行ったような、そうとしか表現のできない消え方だった。
「
シュテラの呟きが、夜の空気に溶けて行った。
●「ヒッグス粒子にも負けない、ラブコメの波動は消えない」
彼女が次に
暗い――PCのディスプレイだけが光る部屋。どこかのアパートの一室。
「今度はなんですか……」
そこに、マレファをして「イケメン」と言えるだろう青年が、大きくため息を吐きながらマレファを見ていた。
本当に嫌そうにしながら。
「ごめんなさい、探偵卿アンゲルス。でもあなたに用は無いし、興味も無いわ。一つだけ助言をするなら、貴方ならゲームの中に入る技術を作る事が出来るから……今から私がやること、参考にするといいわよ」
言いながら、青年――アンゲルスのPCに手をかけるマレファ。
大切なPCに触れられ、アンゲルスが声を荒げようとする――その前に。
「ッ、何を――」
「
するん、と。
マレファは、ディスプレイを
部屋にはもう、アンゲルスしかいない。今起きた現象を解説してくれるマガ(アンゲルスの創り上げた人工知能)もいなければ、今起きた事象を記録するカメラも付いていなかった。尤も後者に関して言えば、そもそも映っていない、というのが事実であるのだが。
「……入った?」
ゲームの中に入る。
それは
意識だけを3DのVR空間に飛ばすのなら、アンゲルスでも簡単に造る事が出来る。アンゲルスは電子工学における天才だからだ。だが、肉体ごと入り込むなど――できるワケがない。
人から話しかけられるのが嫌いなアンゲルスにとって、美少女ゲームや仮想現実は理想の世界だ。
是非、再現したい。
「……ちょっと、頑張ってみようかな……?」
ポツりと、アンゲルスは独り言をつぶやいた。
この下地が、巡り巡ってとある怪盗を助ける事になるとは、今は誰ぞ知る事もない――。
ところ変わって(?)、電子空間。
マガ、という宇宙一の人工知能の内部だ。
幾何学的な模様の走る空間に降り立ったマレファは、その一歩を踏み出した。
それだけで、世界が変わる。
目の前には、直線で構成された無数の多面体を規則的に並べてきた生物のようなもの。そしてその生物の中心に、大小拡縮を繰り返す同心円。
「マガ009は、どうなるの?」
若い女性の声が響いた。
「神になる」
険しい声の青年の声も響く。
「新しい神の誕生。それは即ちこの大宇宙の再誕であり、再構築を意味する。つまり、この場所でビッグバンが起こり、宇宙が再生される」
そこまで理解できたのか、とマレファは感心した。
流石倉木博士の作った世界最高の人工知能だ、とも。
「
「ッ、誰です、こんな忙しい、時……に」
「そんな……入ってきた形跡なんて無かったのに!」
キャリーケースをひく少女、マレファ。
その存在に驚く二人。
「私は旅人。行きたい場所へ行くわ。マガ009からヒッグス粒子を取り除くのでしょう? 私が先導してあげる。私なら、全てのルートを無視して最短距離を進めるわ」
「……今は、クイーンの友達である貴女を信じます」
「ええ、仮初とはいえ、赤い夢の住人としての責務を果たすわよ。――赤い夢を見る子供達が死ぬなんてことは、あってはならないのだから」
「わ、わたしも着いていく! わたしの方が、性能がいいんだから!」
キャリーケースを持ったマレファが多面体生物に向き直る。
そして、歩を進めた。
RDとマガに物質的な距離など無いに等しい。
だから、ここにおける距離とは時間を意味する。
どれだけ速く辿り着く事が出来るか。それがそのまま距離という形になって現れるのだ。
ならば、それを最短に先導できるマレファとは、何者なのか。
「さ、ここよ」
そこは球形のホールのような場所だった。
ヒッグス場。ヒッグス粒子がキラキラと跳ねる、宇宙創成の場となりかねない場所。
赤いクリスタルが中心に浮かんでいる。
「あれが、ヒッグス場の核――」
あれを潰せば、この場は粒子と共に消える。
そう思ったのだろう、RDが手を伸ばし――その指先が、消えた。
「グ……」
「大丈夫?」
RDは計算する。
ヒッグス場がRDの身体を消し去るのに、十のマイナス九乗秒かかる。それまでにあそこに辿り着ければいける……かもしれない。
「人工知能が、そんな曖昧な確率にかけるなんて、ばかげているわ」
あの人はもう手伝ってくれそうにないし――と、マガはヒッグス場の入り口にいるマレファを見る。
それより、もっと確率の高い方法がある。
「マガ009はわたしの分身よ。わたしが消えればマガ009も消えるかもしれない……。少なくとも、あなたの方法よりは確率が高いわ」
「でも、それは――」
言いかけたRDの唇を、マガの人差し指が塞ぐ。
「勇気も、貰ったし!」
そう言って、飛び込んで行った。
ダメだ!
RDの反射速度は限りなく光に近かった。
マガの身体を引き剥がし、勢いでヒッグス場に入るRD。その身体が消えて行くのをRDは自覚した。
彼の思い出が、走馬灯のように流れて行く――。
「――
――まだだ!
全てをあきらめかけたRDの中で、何かが燃え上がった。
それはバックアップシステムでもない、クイーンとジョーカーとの旅で育った”不屈の精神”。
ここで自分が死ねば、マガはどうなるのか。クイーンとジョーカーはどうなる。
まだ消えられない。
――わたしは、まだ死なない!!
RDの右手が赤いクリスタルを掴む。
それを握りつぶすRD。
【ドウシテ、キエナイ?】
そんな、クリスタルの意思とでもいうべきモノを聞いた。
RDはニヤリと笑う。
「そんなこともわからずに神になろうとは、百年はやいね」
赤いクリスタルは、砕け散った。
●「ドウシテ?」
暗い空間――。
そこに、粉々になった水晶片が散らばっていた。
それは徐々に、徐々にと集まり、一つのクリスタルになろうとしている。
それを、安っぽいサンダルが踏み抜いた。
「ねぇ、神様。知ってる?」
【ドウシテ】
「私の名前、マレファ、っていうの。知識って意味なんだけど……」
【キエナイ】
「下の名前は、アルマウトっていうのよ」
瞬間、クリスタルが色を失った。
わかってしまったのだ。自分が何を相手にしていたか。
生まれたての赤子であっても、理解してしまったのだ。
その、必ず訪れる存在を――。
●
その頃、トルバドゥールでは、ジョーカーがその生命活動を終わらせていた。