旅人マレファの旅日記 作:飯妃旅立
基本的に、というより、ずぅっと根無し草を貫いている私に「手紙が届く」という事態は、それなりの非常事態である。
何故ならそれは、私の所在地が誰かに把握されているという事であり、私の動向が誰かに観測されている可能性があるのだから。
だから私は、この手紙を受け取った時、差出人を必ず見つけ出そうと心に誓った。
旅人とは誰にも縛られない。人にも、国にも、世界にも縛られてはならない。
風の吹くまま気向くまま、一つの場所に留まっていられないのが旅人の”美学”。
……決して、お金の無い私では絶対に在り付けない豪華客船のクルージングに魅力を感じたから、というワケではないのだ。
そう、決して。
●
『親愛なるマレファへ。
十一年ぶりになるだろうか?
もうすぐで、君が背中を押してくれた事業がようやく形になる。
その暁として、サッチモ社のフラッグ・シップである”ロイヤルサッチモ号”を完成させる事も出来た。
ついては、ロイヤルサッチモ号の処女航海に、君を招待しようと思う。
四月最初の金曜日に、ニューヨークを出発する。十二日間のカリブ海クルージングだ。
君が喜びそうな選りすぐりのワインや食事も用意してある。120点をたくさんもらえると思うから、楽しみにしていてくれたまえ。
乗船手続きを兼ねて、ロイヤルサッチモ号の完成セレモニーを前日におこなおうと思っている。同封のIDカードは君専用だ。君にはカメラの類いが頭を下げてしまうからな。
場所はサッチモ・ロイヤルホテル23だ。
サプライズも用意してあるので、ぜひ来てほしい。
サッチモ・ウィルソン』
●
サッチモ・ロイヤルホテル23の三十八階、メインバンケットホール。
未だ人の集まりが薄い、つまるところ少し早い……早すぎる時間に、ボックス席に着いて食事を取っている少女の姿があった。
その少女の姿を見て同じく早くに現れた貴婦人方々がひそひそと何かを話しているが、少女の耳には届いていなかった。
食事に夢中だった。
「
うんうんと頷きながら、慣れているのか慣れていないのかよくわからないナイフ捌きで食事を続ける少女に、大柄な男が近づいていく。
ひそひそ声が止まった。大柄な男のおかげで、少女の身分が下賤なそれではないと判断されたのだ。
「料理は120点を越えて
「あぁ、そこに関しては申し訳ない。だが安心してくれ。君に倣って私も点数制を導入していてね。残念だが、既に
「あら、アラビア語、練習したのね。昔はカタコトだったのに」
「時が経ったという事さ。
……君は全く変わらないようだがな、マレファ」
呆れたように溜息を吐く大柄な男。
マレファと呼ばれた少女は肩を竦める。
少女の対面へと座る男。
「サッチモ・ウィルソン。聞きたい事があるのだけど」
「まぁ、そんなに急かさなくても良いだろう? 君の聴きたい事はわかっているつもりだ。クルージングは十二日間、今日を含めて十三日間もあるんだ。ゆっくりしてほしい」
「……わかったわ。私も、マナーがなってなかったわね。ごめんなさい」
男――サッチモの言葉に、マレファは一瞬顔を顰めて、すぐに二回ほど頷き、納得を返した。
「覚えているかな、十一年前の事――」
グラスに注がれたワインを転がして、夜に見た夢を思い出すように口の端を上げるサッチモ。
「わたしが親から組織を受け継いだ後、すぐに死んでしまった親への悲嘆に暮れているところに君が現れた」
マレファはメインディッシュのトムターキーのローストビーフと格闘している。
そんなマレファに関わらず、サッチモは話を続ける。
「その時わたしの前に現れた時の君は、
そして君は、悲嘆に俯いていたわたしにこう言ってくれたんだ。『貰った物は二倍にして返すものよ。何事もね。だからこれを上げるわ。二十の貴方が、親とはぐれた子供だと勘違いした私にくれたものよ。
サッチモの目が、郷愁に細められている。
「わたしはその時に誓った。必ず、組織を大きくして見せようと。そして……」
サッチモが懐から小さな宝石のついた指輪を取り出す。
「あら、懐かしいわね」
「ああ、十年前に起きた最悪の出来事でさえ、これを見る事で乗り越える事が出来た。本当に感謝しているよ」
「そんな大したものじゃない……というと、二十の時の貴方に失礼よね。大事にしてくれていて、うれしいわ」
ローストビーフをぺろりと平らげたマレファは、南瓜の冷製スープをスプーンですくっている。
「さて、そろそろ私は行くよ。今日はサプライズを用意してあるんだ。君も、気に入ると思っているよ」
「サプライズって、言わないからサプライズになるんじゃないかしら……?」
「ハハハ、これは痛い所を突かれたね。まぁなんにせよ、楽しみにしていてくれたまえ」
サッチモが立ち上がる。
口を拭いたマレファは、その後ろ姿を見守っていた。
いつの間にかホールには、沢山の人であふれかえっていた。
●
余興にと用意された、ロシとロクという名のMANZAI師の芸を見た。
どこがおもしろいのかよくわからないが、あれが東洋の
随分と重そうなものを着込んでいるけれど、確かあれも東洋のMANGAにある修行方法だったはず。MANGAとMANZAI師は響きが似ている。恐らく、MANZAI師の教本がMANGAなのだろう。だとすれば、あの二人の格好は納得出し、とても熱心な二人なのだろうことがわかる。
ロシとロクの芸が終わり、招待客の紹介が始まる。
ニューヨーク市長、有名な映画監督と俳優たち、弁護士に医者、数学者や地質学者、マジシャン――彼らもまた十二日間のクルージングを楽しむ事の出来る者達だ。
そうして、銀色のイブニングドレスを着た女性にマイクが向けられたその時だった。
とつぜん、ホールの電気が落ちた。
これがサプライズだろうか? と期待していたのだけれど、あちこちで悲鳴はあがるはサッチモに檄を飛ばす女性が現れるわ、どうにも予定されていた自体とは考えにくい。
シャンデリアの上をライトが照らす。
「サッチモ・コレクションはわたしがいただく!」
そう高らかに叫んだのは、真っ黒なボディスーツとマントを着込み、褐色の肌と赤い唇が眩しい人影。
そしてドサリと足を踏み外し、ライトの範囲から外れる人影。
あたふたと逃げて行く人影。
……何がしたいんだろうか?
暗闇の中でサッチモの顔を見れば、呆然自失と言った様子。
サプライズではないらしい。
ホールの電気が付く。
係員が客を宥める。
近くにいた女性に何かを言われ、慌ててホールを出て行くサッチモ。
先程も檄を飛ばしていた女性だ。何か、サッチモと所以ある存在なのだろうか。
早くに食事を終えていた私は席を立ち、自分に割り当てられた部屋へと向かった。
退屈は、しなそうだ。
●
ニューヨーク港――。
北アメリカの東海岸で、最も大きな港。巨大な自由の女神像がシンボリックで、その双眸は周囲の全てを見渡しているかのようだった。
「
そんなニューヨーク港に浮かぶ、巨大な鋼鉄の船。
その他ある豪華客船よりも一回り大きいこの船こそが、ロイヤルサッチモ号。
これから十二日間のクルージングに出る……私の乗る船である。
と、自分より遥かに大きい客船を見上げていた私の足元に、カラン、と音を立てて何かが転がってきた。
カメラだ。
拾う。
「あぁ、良かった。海に落ちてしまうかと思いました……と、申し訳ありません、えーと」
「これ、あなたの物、です?」
「あ、英語が通じる。ああ、はい、そうです。拾ってくれてありがとうございます」
近づいてきたのは少女だった。
私より幾分か年齢の上(に見える)少女だ。東洋人のような見た目をしている。
「貴女もこの船に?」
「はい、呼ぶ、言われた……サッチモ・ウィルソン氏に」
「呼ばれた、という事でしょうか。おっと、申し訳ありません。仕事が」
「いえ、大丈夫、です」
仕事が、と言った少女は足早に近くの初老の男性の方へ駆けて行って――その足を、思いっきり踏んづけた。
事故ではない。狙いを定めて、渾身の力を込めて、思いっきりだ。
その痛みでだらしのない顔をしていた初老の男性が我に帰る。なるほど、そういう仕事か。
「
男性と少女と、そしてサッチモの隣で見た女性に背を向け、船に乗り込む。
送られてきたIDカードはしっかり機能してくれた。
さぁ、これからの十二日間は自分の足ではなく、船によるクルージング。
しばしの間、休暇としよう――。
●
「こんにちは」
突然そう声を掛けられて、マレファは少しだけ驚いた。
突然声を掛けられた事に、ではない。
この人物が声をかけてきた事に驚いたのだ。
「こんにちは。でも、私に話しかけて来るとは思ってもみなかったわ。怪我は大丈夫なの?」
「怪我? ……ああ、十年前の話。それも、指先を少し切っただけじゃない。そんなことより、私からしてみれば貴女がこの船にいる事の方が驚きよ……マレファ」
その人物は、バラ色のドレスを着た女性。
「ええ、久しぶりね、ズユ。とっても、綺麗になったわね」
「貴女は変わらないわ。ずっとね」
彼女の名はズユ。
伝説の暗殺者集団
カリブの海賊展に設置されたベンチに座る二人。
人の来ないこの場所だというのに、二人は良く目立っていた。
「そう……相も変わらず、不思議な幻術ね。十年前とは比べ物にならない程強くなった私でさえ、カメラやセンサーを欺く幻術は出来ないのに……貴女は軽々とやってしまう。まだその技術は教えてくれないのかしら?」
「十年前も言ったけれど、教えられるものではないもの。ズユ、貴女が私と同じ旅人になったのなら、出来るかもしれないけれどね」
「もう……意地悪なのも相変わらずね。
……ね、マレファ。
ベンチで足をぷらぷらとさせていたマレファが動きを止める。
ズユが彼女を見るその目は、どこか懐かしさに細まっていた。
「所属した覚えはないのだけど? 一緒にいたのは、緋仔に義理があっただけよ」
「……ごめんなさい、旅人を縛り付ける気はなかったのよ。いいえ、これは未練かしらね。貴女といた時、少しだけ……楽しかったから」
「でも、もっと楽しい事がこの船にあるのでしょう?」
その問いかけに、ズユの瞳が炎を宿す。
バラ色のドレスが血色に見えてくる。
「知っていたの?」
「私もサッチモの招待客だもの。写真は貰っているわ」
「そう。……そうよ、私は……もっと楽しい事をするわ。幻術師ズユが最強になる日を、楽しみにしていてね」
「ええ。そして、いつか私に楽しい幻術を見せてね」
「約束するわ」
ズユもマレファも立ち上がる。
そして、互いに背を向け二人は歩き出す。
道中にあった宝箱やカリブの海賊展を見ながら、マレファはわずかに微笑んだ。
●
プエルトリコの首都、サンファン――。
北海岸の大西洋に面する小さな町だが、城壁に囲まれた古都オールドサンファンと、高層ビルの立ち並ぶニューサンファンに分けられる見どころの多い町だ。
中でもオールドサンファンにあるエル・モロ要塞を見なければ、サンファンに来たとは言えないと言われるほどの名所。
当然、マレファもそこの観光に向かった。
かなり距離があるとのことで、馬車を使ったのだが、丁度全く同じ時間に乗る人間がもう1人しかいなかったために相席という形になった。
「こんにちは」
「ああ……ええと、こんにちは」
「初めまして、私、マレファって言います。お姉さん、は?」
これも何かの縁だと話しかけてみるも、相席の1人はどこか上の空。
「ああ、ええと……イルマと、申しますわ」
「イルマさん。良ければ、私、しませんか? 一緒に観光」
曖昧に頷くイルマ。
それを了承と受け取って、マレファは手を差し出した。
握手はしっかり、帰ってきた。
馬車はエル・モロ要塞へと辿り着く。
●
日本人か中国人の団体客の流れに逆らって要塞の中を進む二人。
オールドサンファンが見渡せる広場に出ると、心地の良い海風が二人を凪いだ。
「
「……」
美しい光景にいつもの採点をするマレファ。
その隣で、イルマはふらりと城壁に上った。軽い身のこなしで、そこまでは確かに危なげは無かった。
だが、登ってはいけない場所は危険だから登ってはいけないのであって。
両手を広げ、風を強く受けたイルマはバランスを崩す。
まずい、と思って駆け出したマレファが尋常ではない速度でイルマの手を掴み取るが、残念ながら体重が足りない。イルマより小柄なマレファでは、城壁という不安定な足場では踏ん張る事も出来ない。
万事休すか。マレファは問題ないが、この高さから落ちればイルマはただでは済まないだろうと、マレファが奥の手を切ろう――としたところで、イルマの腕をつかむ存在があった。
「Mr.ジョーカー……」
「馬車に乗らないでいてくれれば、楽だったんですけどね……」
汗だくの青年……ジョーカーは、少し疲れていた。
●
開店まぎわのバー。
客はまばらで、カウンター席に座っているのは三人。
二人はイルマとジョーカー。もう一人は、離れた所にいるマレファだ。
知り合いらしい二人を固めて、マレファはマレファで旧交をあたためていた。
「久しぶりね、クラサ。老けたわね?」
「わたしは普通に時を過ごしたんだよ、マレファ。君が変わらな過ぎているんだ。何十年、子供のままなんだい?」
「貴方に美味しいカクテルを飲ませてもらっているのに、子供だなんて。失礼しちゃうわね」
「その仕草も、懐かしいのに変わっていない。不思議な感覚だよ。君と
「今、私とあのジジイを一緒にしたわね? 言っておくけれど、私は全身の関節を伸ばして身長を高くする、なんて化け物みたいな技は出来ないから。やろうとも思わないわ」
「ああ……気を悪くしたなら謝るよ。十年前のわたしにとって、君は孫みたいな存在だったんだ。どうも、からかいたくなる欲求が抑えられなくてね。お詫びに、お代は無しでいいよ」
他の客に話す口調とは違う、祖父が孫に接するような口調でマレファと話すマスターは、クラサという名だ。
彼は穏やかな顔持ちでマレファと話している。
「……マレファ。お願いがあるんだ」
「何かしら、クラサ。初楼に戻ってきてほしい、なんていう
「それを言ったのは、ズユだね。大丈夫、わたしはむしろ、こんな世界へ君が足を踏み入れる事を良しとはしないよ。君は気ままに旅をしていればいい。
……その上で頼みがある。君も知っているだろう――私の如意珠を、止めてはくれないだろうか」
グラスを磨いていたクラサの手の内から、氷の礫が現れる。
「……いいの?」
「止められる自信があるんだね。ああ、いいとも。
今からわたしは、クイーンのパートナーである彼に刺激を与えようと思う。それを、止めて欲しい。十年前とは比べ物にならない程に速くなっている私の如意珠を」
「……わかったわ」
次の瞬間、マレファの指……小指と薬指の間に、氷の弾丸が収められていた。
合図も無く、前置きも無く放たれた氷の弾丸を、マレファが掴み取ったのだ。
「……ああ、うん。これで心置きなく、私は引退できる。ありがとうマレファ」
「
「そうさ。この歳だからね、全てを磨き上げて……この時に、君に勝てないのなら……あとはもう、老いて衰えて行くだけだ。ただの老いぼれになる前に君と勝負が出来て、よかったよ」
「ただの老い耄れ……? そんなことを言うなら、私は
「あぁ、それでいいさ。それとも、君の目にはまだわたしに何か残っているように見えるのかい?」
「何を言っているのよ、世界一のバーテンダーさん。このカクテルは
マレファが少しだけ怒ったように言うと、クラサはきょとんとした顔になる。
そして顔を手で覆い、口角を上げ、そして笑いながら……一筋だけ、涙を流す。
「ああ……ああ、そうだった。そうだったね。
そうだった。ああ、では……素敵な、今宵の勝負に――」
「ええ、
カチン、とグラスが鳴る。
二人とも穏やかな笑顔だった。
●
久しぶりに何もない一日だった。
クイーンは本当の意味での休暇を楽しんでいた。
サッチモとか、イルマ姫とか、初楼とか、あとジョーカーとかRDとか。
自身の休暇をなんだかんだと邪魔してくる存在がいない一日は珍しく、丸一日をベッドでだらけた後、夜にはロイヤルサッチモ号のプールへと向かった。
人の居ないプールは静かで、クイーンは早速用意していた水着になって、泳いでみる。
勿論彼女の変装している貴婦人……アンジェリク・フォン・ペリゴール伯爵夫人の変装の上での水着だ。
一頻り泳いでからプールサイドへと上がるクイーン。すっきりとした頭を振ると、その視界に一人の少女が映り込んだ。
一瞬、初楼が来たのかと顔を顰めるも、すぐにそれを解く。
「こんばんは、クイーン」
「こんばんは、マレファ。君もこの船に乗っていたのかい?」
「ええ。サッチモに招待されてね。ちなみにコレ、私も貰ったわ」
そう言って指にはさんだ写真を見せるマレファ。
そこには、アンジェリク・フォン・ペリゴール伯爵夫人の姿が映っていた。
頬の端をヒクつかせるクイーン。
「安心して、私はあなたに勝負を挑んだり、ましてや命を狙ったりはしないから」
「……その口ぶりだと、
「仲が良いからね。昔、行動を共にしていた事があったのよ」
さらに顔を引きつらせるクイーン。
やはりこのクルージング、呪われているのではないかとも思い始めた。
全然休暇出来てない!
「で、そんな初楼のクラサから伝言。『クイーン、わたしはあなたとの勝負を辞退いたします。無論、お客様として来る場合は、世界一のバーテンダーとしての誇りと共にあなたをお迎えいたしますよ』だそうよ。よかったわね」
「君が彼を諦めさせてくれたのかい?」
「ええ。そう、頼まれたから」
少し気を抜くクイーン。
クラサの如意珠に負けるほど軟ではないクイーンだが、勝負なんて堅苦しい事は休暇中にしたくない。ロシとロクは出発直後に退場させ、ズユはカリブの海賊展で眠らせ、今聞いたクラサが諦めた。
残る初楼は、ズキア、茶魔、緋仔だけ。そして未だ姿の見えないグーコの竜。
目の前の少女が障害にならないのなら、まだ気楽に過ごせる日はあるな……。
「……ねぇ、クイーン。私前から気になっていたのだけど」
「うん?」
クイーンの身体を一通り見渡したマレファが、不満げに口をとがらせて言う。
「あなたって、変装する時……どうして爪を塗らないの?」
●
航海七日め。
十二日間のクルージングも、半分の行程が終わった。
ロイヤルサッチモ号は、ヴァージン諸島の中心であるセント・トーマスについた。セント・トーマス島はカリブ海でもっとも美しいといわれている。
乗客はこぞって島に上陸して行った。
そんな中の、クイーンの船室。
「珍しいですね。クイーン。その爪、どうしたんですか?」
自分の爪を不思議な物を見るかのような目で眺めるクイーンに、ジョーカーが尋ねる。
クイーンの爪には、色鮮やかなネイルアートが描かれていたのだ。
「……どうだろう、ジョーカー君。昨日少し教えてもらってやってみたんだけど」
「どうだろう、と言われても、僕には良くわかりませんが……まぁ、変ではないんじゃないですか?」
「……そうかい?」
少しだけ気をよくしたクイーン。
ゴロゴロしようと思っていたようだが、気が変わったらしい。
「~♪」
鼻歌なんて歌いながら船室を出て行くクイーンを見て、ジョーカーは首をかしげた。
あんなに機嫌のいいクイーンをみたのは久しぶりだったからだ。
クイーンの機嫌の理由が、ジョーカーに褒められたからだという事を、ジョーカーは知る由も無かった。
●
「いい天気ね。あなたもそう思わないかしら?」
「ええ、思うわ。再会するにはとってもいい天気」
ロイヤルサッチモ号のサンデッキ。
余計な光の無い海の上では、瞬く星々が綺麗に見える。
そんなデッキにて、2人の人間が向かい合っていた。
片方は老婦人。もう片方は、マレファだ。
「……貴女がここにいるって事は……」
「ええ――死んだわ。八年前に、交通事故でね」
「……そう。少し、悲しいわね」
何の共通点も無さそうな二人には、とある一人の人物を通じてのみ関わりがあった。
「わたしの最高の芸術品……最高傑作の緋仔。暗殺術の全てを生まれた時から仕込み続けていたあの子が、初めて人助けをした。その時に助けられたのが、貴女。それは、覚えているわよね」
「勿論。何も困ってはいなかったけれど、とても不器用な態度とカタコトのアラビア語で、彼は私を助けてくれたわ。そう、でも、八年も前に死んでしまったのね。……今日再会したら、お礼をしようと思っていたのだけれど」
「……わたしが言いたい事は、伝わっていないのかしら?」
老婦人のにこやかな目の奥に、炎が在った。
怒り、憎しみ……色々な感情が綯い交ぜになったそれを、マレファに向けている。
「彼を壊したのはクイーンでしょう? 何故私が恨まれるのか、わからないわね」
「貴女が緋仔に罅を入れたからよ。最高傑作の暗殺者として、至高の芸術品だった緋仔に、あなたを助けたせいで罅が入った。
――だからあの子は、クイーンに負けたのよ」
ぶわっ! と、老婦人の持っていた編み棒から毛糸が伸びる。
それはマレファの身体に絡み付き、縛り付け、締め上げて行く。
「……緋仔はクイーンに壊されてなお……それこそ、あの交通事故の前に言っていたわ。『もう一度マレファに会えないだろうか』とね。貴女があの子に余計な感情を与えた。だからあの子は、壊れてしまった! 壊されてしまった!」
小柄なマレファの身体は既に毛糸で覆い尽くされていて、ギシギシという人体から鳴るべきではない音が響き始めている。骨が潰されて軋む音だ。
「……だから、あなたには死んでもらうわ。旅人マレファ。
わたしの大切な子どもを奪うきっかけになったあなたを」
デッキテーブルの足に絡み付いた毛糸がその足を救われ、宙に浮かぶ。
その落下地点は、毛糸でぐるぐる巻きになっているマレファの居る場所だ。
周囲に人影は無い。マレファは、脱出する気配すらない。がんじがらめで動けないのだろう。
そうして、大きな音を立てて、テーブルは毛糸の塊をぐちゃぐちゃに潰してしまった――。
「――
「っ、どこから……」
死んだはずのマレファの声が響く。
辺りを見回す老婦人の視界にはしかし、マレファは映らない。
「暗殺者は、殺す者。怪盗は、盗む者。名探偵は、解決する者。じゃあ、旅人は?」
「そこ!」
老婦人は視界外……つまり、先程自分が落としたデッキテーブルを、デッキテーブルごと切り裂いた。
だが、マレファはいない。
「不正解よ。旅人は旅をする者。何物にも縛られないわ。勿論、毛糸にもね」
「――っ!」
自分の背後から聞こえたマレファの声に振り返ると、船の縁に彼女はいた。
沈みゆく月を背後に、彼女は立っていた。
「暗殺者が正面切って戦うなんて、おかしなことだと思わない?」
毛糸が殺到する。
だが、今度は全て切り裂かれてしまった。
老婦人や緋仔と同じように、クイーンと同じように、彼女もまた刃物を使わずに物を切断できるのだ。
「貰った物は二倍で返すものよ。何事もね。緋仔に貰ったものは、八年前に返しに行くわ。そして今あなたに貰った物は、ここであなたに返すわ」
ふ、とマレファが消えた。
違う。
「な……」
老婦人が辺りを見渡すと、そこはもうロイヤルサッチモ号のサンデッキではなかった。
どこかの道路。どこか、都会とは言い切れない、しかし田舎ではない街中の交差点。
見覚えのある車が、歩道に乗り上げる。
「あ、あ、」
その瞬間を老婦人は覚えていた。
壊れてしまった緋仔をなんとか立ち上がらせようと、外に出していたあの日。
なんど呪ったか、あの日のあの光景。
自分が直接見た訳ではないはずの、あの光景。
「ああ、ああ!」
自動車が何かを跳ね上げる。
とんだソレと、老婦人は目があった。
緋仔だった。
「あああ、あああ!」
彼を抱きとめようとするも、老婦人の身体は動かなかった。
何も出来ずに、死んでいく彼を見る事しか出来なかった。
そして、そのシーンは再度再生される……。
老婦人が気をやってしまうまで、何度も、何度も、何度も……。
それでも老婦人は、助けてとは言わなかった。
ずっと、自らの息子を想い続けて、発狂した。
●
「恐ろしい事が出来るんだな。あれはズユの幻術に似ているように思ったんだが……」
「ええ、そうよ。昔教えてもらったの。といっても、ズユのそれとは違って香水や光を使った紛い物だけれどね」
突然意識を失った老婦人が医務室に運ばれる最中、マレファはサッチモと共にサッチモの部屋で食事を共にしていた。
夕食はあっさりとしたものだ。
「……いや、そんな目で見ないでくれ。想定外だったんだ。初楼は皆クイーンに恨みがあると思っていたものだから、君に被害が及ぶなんて思ってなかった」
「……まぁ、いいわ。サプライズ、楽しみにしているから」
お礼がしたいと呼ばれた船で、まさか暗殺者に襲われる羽目になるとは。
マレファは口では許したようだが、心中穏やかでない事はサッチモにも丸わかりだった。
クイーンに当てた皮肉たっぷりの招待状と違って、マレファには本当に感謝するつもりで招待したのだから、サッチモは申し訳なさでいっぱいなのだ。
「それより、そろそろ教えてくれないかしら。私の元に、どうやって手紙を出したの?」
「ああ、それは――」
コンコンコン、とノックが在った。
サッチモはマレファに失礼、と言って、ドアの方へ行く。
そして、すぐに帰ってきた。
「何かあったのかしら?」
「いや……
「へぇ、ドラゴン。現代で見られるなんて思わなかったわ。是非行きましょう?」
「……そう、だな。うん、そうだな。一緒に行こうか」
食器を係員に任せ、船室を出る二人。
現代で、という部分にサッチモが気付く事は無かった。
●
みんな熱に浮かされたように「ドラゴン、ドラゴン」と連呼しており、空恐ろしささえ感じる。
「どう思う?」
「どうも思わないでいるわ。期待し過ぎて下回ったら残念だし、期待しなさすぎるのは悪いから」
「いいスタンスだ。わたしも採用しよう」
そんな乗客からは少し離れた所で、サッチモとマレファは魔法博士たちを眺めていた。
ゴゴゴゴゴゴ……と大気を震わせる音が聞こえる。
カウントダウンが始まった。
夜闇に浮かぶ雲が段々と下降してきている。
魔法博士が夜空に指を向けた。
「1!」
カウントダウンが終わると同時に、ロイヤルサッチモ号の上空に巨大な
大きい。いや、大きすぎる。
胴だけでロイヤルサッチモ号の四倍。広げた翼は、十倍はあるだろうか。
「……現代人の
「これは、凄いな……」
マレファの脳裏に浮かぶ
観客たちはたっぷり余韻を取ってそれを見送り――、
「アンコール! アンコール!」
と、魔法博士に歓声を送った。
魔法博士は嬉しそうにシルクハットを掲げ、
「はい!」
そこからハトを出した。
「はい!」
魔法博士は拍手をもらうために、両手を広げた。
拍手をする人は、誰一人としていなかったが。
●
この船に今残っているのは、マレファとサッチモと、起きていた事を知らない乗客や係員たちだけだ。
「さて――」
サッチモが、どこかの名探偵の様に切り出す。
「まずは、マレファ。君に感謝を」
彼の手元、そして彼の目の前には、きらびやかな宝石が並べられていた。
サッチモ・コレクションと呼ばれる……探偵卿ジオットが偽物とすり替え、怪盗クイーンによって本物を盗まれたはずの宝石たちだ。
「十一年。君の言葉がわたしの背中を押してきた。そしてこのクルージングにおいても、君に助けられた。だというのに、恩を返すどころか仇を返すと言う失態を犯してしまった。これを正式に謝罪したい」
「ええ、許すわ。あなたも本意ではないのだろうし」
「ありがとう」
にこやかに笑うサッチモ。
そして彼は宝石たちの中からひときわ大きなサファイアを掴むと、それをマレファの前に持ってきた。
「君は宝石などいらないと、そう言うのだろうな。
だから、これはわたしの気持ちだ。どうか受け取って欲しい。
わたしがこのサッチモ社としてとある王国から買い取った、今まで見てきた中でも最高級のサファイアだ。
名を、セント・オルロフ・サファイアという」
気持ちと言われてしまっては、受け取らないわけには行かない。
マレファは、自分が
「これで、君と対等の友人になれただろうか?」
「何をいまさら。あなたと初めて会った時から、あなたとは友人のつもりなのだけど?」
「……それは、良いな。わたしも採用しよう。では、友人との再会に――」
「
●
【しかし、何故セント・オルロフ・サファイアだけが本物だったのでしょうね?】
ジョーカーとイルマのいなくなったトルバドゥールにて、帰ってきたクイーンはRDと雑談を交わしていた。
昨日URRS――赤外線周期システムを交わして宝石を盗んできた時、そしてカリブの海賊展で宝石を見つけた時、そのどちらもで、入れられていた宝石は偽物だった。
ただ、セント・オルロフ・サファイアのみを除いて。
イルマ――イルマ・クレメ・デ・オルロフ姫の取り返さなければいけない、怪盗クイーンに盗んでほしいと言われていた宝石だけが本物。他は偽物のガラス細工だったのだ。
「さぁ……偽物も良くできた偽物と造りの悪い偽物があったからね。大方、良くできた偽物を本物だと勘違いしたんじゃないかな」
【製作者がそんなミスをするとは思えないのですが……。それと、カリブの海賊展に入れられていた偽物の宝石類を解析してみた所、凡そ紀元前4000年前のガラスであるという結果が出ました。むしろこっちの方が骨董的価値のある品ですよ】
「……」
その情報を聞いて、クイーンの動きが止まる。
そして、顔を覆った。
「やられた……」
【どうしましたか? クイーン】
「勝負する気はないって言ったじゃないか……」
つまるところ、クイーンは物品の鑑定眼において負けたのである。
単なる偽物としてRDに任せてしまった時点で、採点勝負は彼女の勝ち。
「
●
「ああ、ちなみにだが、君の所在はとある鳩に聞いたんだ。わたしも半信半疑ではあったがね、確かポッポという名前だったか……」
「……着実に顧客を増やしてるのね、彼。流石頭がいいだけのことはあるわ……」
●