旅人マレファの旅日記 作:飯妃旅立
なので、ちょっとだけ親密度に差があります。
サーカスが来た!
楽しそうに、嬉しそうにはしゃぎながら、子供達が口々にそう叫んでいる。
サーカスが来た!
サーカスが来た!
子供達の目には、普段はいつも浮かべている不安や怯えの一切が消え去っていた。
スピーカーからはもはや
「……サーカス? それは……面白そうね」
町外れに止めてあった戦車。建物の壁に残る銃創。草むらに埋められた地雷に、常に散見する銃。世界を嘆く事さえ出来ない大人達。痩せ細った子供達。
おおよそ”戦争”というものを強く感じさせるその町にとって、この訪れは全てを忘れさせてくれるものだった。
「チケット代は、いくらなのかしら――」
そして、ここにも。
露出の多い踊り子のような衣装に浅黒い肌。そしてその格好には似つかわしくない大きなキャリーケースを引き摺るその少女もまた、旅の目的を一時的に忘れて惹かれるようにサーカスの方へ足取りを進めて行く。
全ての人を笑顔にする、最高のショウが始まった。
●
「
人混み。
喧騒の中で呟かれたその異国のことばは、しかし気に止められる事無く雑踏の中に消えて行った。
日本では、というか往来ではまず見る事の無いその衣装も、誰も気にする事無く通り過ぎて行く。まるでそこに少女なんていないかのように。
だが、流石にここは”そう”行かなかった。
「あっ? ……っと、お嬢ちゃん、この先にどんな用か教えてもらえ……って、参ったな。言葉通じるのか、これ?」
検問――それも、大規模な。
徒歩でしか通れないこんな道に、1人とはいえ警察官が立っている。少女の見てきた限り、他の大通りなんかも厳重体勢で警察官が敷き詰めていた。
「あの……ニホンゴ、わかる。よむ、きく、できる。……話す、まだ、なってない」
「なって? ……あぁ、習って、か。でも、日本語がわかるなら良かった。えっとね、ここは今検問を敷いているんだ。あ、検問なんて難しい言葉わからないか。あー……検問、ってなんて言い替えたらいいんだ……?」
一応自国の言葉が通じるとわかって安心した警察官だったが、自分達が基本的に難しい日本語ばかりを扱う職業だった事を思い出し、再度頭を悩ませる。
日本に来たばかりの小さな女の子に難しい言葉を使わずに「検問」の説明をする方法。
それは、いっぱしの警察官……それも英語さえ全くできない彼には、余りにもな難題だった。
そこへ。
「やぁ、お困りのようだね、お巡りさん。その子、明らかに日本人じゃないけれど……迷子かい?」
「えっ? あ、えぇ……今ね、この辺り一帯を検問にかけてまして……どうやって説明したものかと、ね」
「ふむ。良ければお巡りさん、私が彼女に説明してあげようか? 他国の言葉はそれなりに嗜んでいてね、どうだろうか」
「あぁ、是非ともお願いしたいです。申し訳ありません、我々のするべきことなのに……」
「気にしなさんな、困ったときはお互い様だからね」
そうウィンクをするのは、とても綺麗な顔をした女性だ。
一瞬で心の距離を詰められた彼は女性にすぐ気を許し、一切警戒する事無く少女を任せる。それほど困窮していたということもあるし、女性が”良い人そう”であると判断したからだ。
女性は小首をかしげている少女に近づき、二、三、異国の言葉で会話をする。
警察官の彼にはその会話の内容がわからなかったが、少女がうんうんと頷いて警察官の方へ笑いかけ、どうぞ、と言わんばかりに両手を上げたのを見て、「検問」という概念が伝わった事を理解した。
ただ、
「あぁいや、お嬢ちゃんを調べても流石に変装しようがないだろうし……ええと、申し訳ない。協力してもらっておいてあれなのですが……」
「勿論、私も調べないと、検問の意味がないからね。初めまして、私は――」
綺麗な人と、可愛い子だったな。
そんなことを考えながら警察官の彼は検問を続ける。
その人の名前も顔も、身分証の内容も身体検査の結果も、少女の持っていたキャリーケースの中身も、何も覚えてはいなかった。
ただただ、その後も彼は職務を全うし続けたのだった。
●
舗装されているとはいえあまりよろしくない道路。カラカラと音を立てるキャリーケースを引きながら、少女は自身の隣を歩く女性を見上げた。
先程、
彼女が、何者であるのか。
「いいのかしら? もう、予告した時間まで四十分もないけれど……」
日本語とは打って変わって流暢なその喋りは、彼女の得意なアラビア語のものだ。
通じると知っているから、最初からこの言語を選んでいる。
「困っている旧知の存在がいたのだから、助けるのは当然と言うものじゃないかい? もっとも、わたしとてトルバドゥールのカメラに君特有のノイズが映らなかったら、そのまま星菱邸にワイヤー降下をしていただろうけれどね」
「高度二万八千フィートからのワイヤー降下……お腹の中身がぐちゃぐちゃになりそうね」
「君なら、ワイヤー無しでも降りられるだろう?」
さてね、と肩を竦める少女。
女性は歩いている最中にどんどん姿を変えて行き、いつの間にかここの警備を行っている警官の姿になっていた。
彼女たちの向かっている場所は星菱邸――宝石「ネフェルティティの微笑み」、今は名を騙って「リンデンの薔薇」と呼ばれるようになったその宝石が保管されている場所だ。
「それで、今回の旅の目的は何か、教えてくれるのかな?」
「特にないわ。ただ、とっても懐かしいサーカスがいたから、見に来ただけ」
「サーカス?」
クイーンが首をかしげる。
これから向かう星菱邸に犇めくのは、無数の警察官と星菱大造だけ。確かにその周囲にマスコミたちもいるのだが、間違ってもサーカスなんて言葉は入っていない。
「彼らも’美学’を持つ者よ……私達と違って、赤い夢の住人ではないけれど」
まだ早いでしょうし、と独り言ちる少女。
「……それじゃ、今回はわたしと目的が被っていないと、そういう認識でいいのかな?」
「ええ、そうね。私、宝石にはあまり興味が無いし……持っている人を不幸にする宝石なんて、
「そうだね、その点に関してはわたしも同じ意見だ。だから、盗んだ『ネフェルティティの宝石』はすぐにエジプトに返すつもりだよ」
「それがいいと思うわ」
道路を逸れ、山の中に入って行く二人。
不思議な事に、キャリーケースに苦労する様子が少女にはなかった。
「さて、じゃあこの辺でお別れかな。予定時刻まであと三十分……サーカスとは言わないが、わたしの華麗な怪盗っぷりを見ていてくれたまえ」
「そうね……じゃあ、はいこれ」
「……?」
そう言ってキャリーケースから少女がとり出したのは――軟膏。
ア○エ軟膏っぽい見た目だが、書かれている言葉は日本語ではなくアラビア語のものだった。
「切り傷には、それが一番効くわ。それじゃ、頑張って。次はサーカスで会いましょう」
「よくわからないけれど、旅人の君が言うならそこで会えるんだろう。ボンソワール、マレファ」
「マァッ・サラーマ、クイーン」
ヒラヒラと手を振って答えるマレファに見送られて、クイーンは恐るべき速度で駆けだした。そのまま誰にも気づかれずに星菱邸に入り込むと、一切乱れぬ息で一瞬溜息を吐いて、顔を上げる。
自身の苦手とする、一応尊敬もしている……とは絶対に口に出さないが、そんな存在であるお師匠こと
自身が
会話を再開する度に思い出さなくてはいけないなど、できればあちらさんで対策を取ってほしいものだ、とクイーンは笑う。
だが、次の瞬間にそこにいたのは疲れたクイーンではなく、やる気満々の一人の警官だった。
「……異状なし!」
そうして、クイーンは星菱邸に乗りこんでいく。
●
三十分後。
「……おかえりなさい、クイーン」
クイーンは巨大飛行船トルバドゥールの船内にて、ボロボロの制服姿をジョーカーに晒していた。
ナイトキャップをつけ、今まさに寝ようとしていました、といった様相のジョーカーによる苦言を聞き流しつつ、懐からある物を取り出す。
「……軟膏、ですか? アラビアにも軟膏があるのですね」
「ジョーカー君、切り傷はこの軟膏での処置を頼むよ。多分、これが一番効くはずだから」
「? はい、わかりました」
自分の持ってきた救急箱を横に置き、その軟膏を受け取って蓋を開けるジョーカー。
無臭。そして無色。
「ちなみに、成分は?」
「知らない」
……知らないものを自身の傷口に塗り込むのか、という戦慄と共に、まぁクイーンなら大丈夫かと思い直し、それを塗って行く。
見る見るうちに、とは行かなかったが、すぐに固まったそれが効果の高い物である事をうかがわせた。瞬間接着剤とかでなければ。
「で、『リンデンの薔薇』は盗めたんですか?」
RDがアームでカップにカフェオレを注ぐ所をみつつ、ジョーカーは尋ねた。
クイーンは黙って懐からカードを差し出す。それは、クイーンが良く使うカードだった。
「にせものだよ。とてもよくできているけれどね」
溜息を吐きながら、クイーンは星菱邸で起こった事を話し始める。
大量の犬と猫を操る少女の話。星菱邸に入る前と出た後この犬と猫に襲われ、クイーンはこうも怪我を負ったのだ。
警察や所有者の星菱大造まで操っていた催眠術師の話。身体検査をされる僅かな時間に更なる催眠を施し、クイーンを窮地に追いやった。
盗んだ宝石を大胆に隠す魔術師に、強固で複数人の人が見ている前でバレずに金庫を開けてしまうかぎ師。
そして、それらの存在を示唆し、この軟膏を渡してきた旅人の話。
「旅人ですか? 先程までに聞いていた面々とは毛色が違いますね」
「あぁ、そうか。ジョーカー君は
――獲物が重ならない内は、ね」
「その方も怪盗なんですか?」
「何を言ってるんだい、ジョーカー君。旅人と言っただろう? 彼女は行きたい場所に行き、見たいものを見る旅人だ。だから、彼女が『リンデンの薔薇』……『ネフェルティティの微笑み』を見たいと思っていた場合、それがわたしの手の中にあったら、乗り込んでくる可能性がある」
「乗り込んでこられると、何か不味いんですか?」
いまいち要領を得ないジョーカー。
わたしたちは問題ないけどね、と前置きをするクイーン。
「ただ、RDが困ってしまうだろうから。彼女は電子機器での観測が出来ないし、記録する事も出来ない。招いた場合ならともかく、無理矢理侵入されるとなればどんなエラーやバグが起きるかわからないんだ」
【それは本当に困るので、もし獲物が重なっていた場合はその旅人の方に『ネフェルティティの微笑み』を見せてから来てくれませんか?】
今までカフェオレを淹れるに徹していたRDが言葉を発する。
世界最高の人工知能とて、自身のエラーやバグは面倒くさいものなのだ。
「あぁ、わかったよ。それよりRD」
【なんですか?】
「この近くにあるサーカス団をリストアップしてくれ。中でも、超一流の技を持っている芸人が集まっているのをね」
サーカス団。
猛獣使いやかぎ師、催眠術師、魔術師とバラエティ豊かな面々を抱えるのはサーカス団だろうと、クイーンはそう踏んでいたのだ。
そしてそれは、案の定だった。
【一件該当しました。
「団員は……あぁ、やっぱり。どの顔も、星菱邸で見た面々だね」
【一週間後の土曜日、公演の予定があるようですね】
「気が利くねRD。聞いただろう、ジョーカー君? これで、しばらく退屈せずにすみそうだ」
「楽しそうにワイングラスを向けてきている所申し訳ありませんが、用が済んだのなら僕は自室に戻って寝ます」
返事も待たずに部屋を出て行くジョーカー。
ティーセットや救急箱はRDが格納した。
「……すてきな敵に、
口を尖らせつつも、クイーンは中空に向かってグラスを掲げるのだった。
●
広場に組まれた巨大なテント。
いくつものアドバルーンが、微かな風に揺れている。
夕焼けの橙がトレーラーや出店を照らし、黄金色に染め上げていた。
そんな中を、一人キャリーケースを引き摺りながら行く少女。
勿論マレファである。
彼女は辟易していた。
そして疲弊していた。
何故かと言えば――、
「あの、サーカスの方ですか?」
「え、いえ、違う、です。私、サーカス、違う」
「そう、ですか……」
残念そうな顔をして去っていく親子連れ。
先程から、ずっとこの調子なのだ。
確かにマレファの格好は露出度が高く踊り子のようで、知識の無い者が見ればサーカス団といっしょくたにされてもおかしくは無い。
おかしくはないが、される側はたまったものではない。
上手く操れない日本語で否定するのも疲れるし、何より期待の、キラキラしたその目で近づいてきた親子、とりわけ子供の目が失望に染まって行くのは中々心に来るものがあった。
……適当な金属パイプでも切断して見せて上げればよかったかな。
そんな、自分の出来そうな曲芸をリストアップしながらマレファは歩く。
と、トテトテ歩くマレファの隣に、ゆったりとした足取りの老夫婦が一瞬並んだ。
二人はそのままサーカスのテントの方へ歩いて行ったが、対照的にマレファは立ち止まっていた。
「……別に、返さなくても良いのに」
アラビア語で呟かれたマレファの手の中には、ア○エ軟膏っぽい見た目のケースが。
ちなみに中身はしっかりとした重さを持っていて、使用分が足されている事に気が付けた。どうやら彼らのパートナーたるRDが調合、補充したらしい。つくづく驚かされる科学力だ。
「……被らないといい、って思っていたのは私の方なのだけれどね」
稀代の大怪盗、怪盗クイーン。そしてそのパートナーであるジョーカー。
倉木研究所が発明した、日本政府の推し進めていた世界最高の人工知能を引き連れた神出鬼没な赤い夢の住人。
恐らく敵に回すのなら、この上なく嫌な相手と言えるだろう。
でも、私にも私の美学がある。
盗人の手に渡った盗品を採点するなど、美学に反するのだ。
時代が、歴史のつまった品は、在るべき場所にあるべきなのだから。
今の時代、「ネフェルティティの微笑み」は、どこにあるべきか――。
●
「楽しみじゃな、ばあさん。サーカスなんて、何年ぶりじゃろか」
決して響く事の無い、しかし美しくしわがれた声は、観客の一切に届く事は無かった。
「わしはサーカスを見たことが無い。小さいときから、そういう生活をしてこなかったからな。……でも、不思議な事に、サーカスが好きなんじゃ」
そう言って笑う老人。
その言葉を聞いて少女が思い出すのは、ゐつという名を持っていた彼女だ。
軽業師……なるほど、と独り言ちる。
「お嬢ちゃんは、どうかね? 小さい頃に、サーカスを見た事はあるかな」
それは、余りにも不自然な問いだった。
まず日本語が通じそうな見た目ではないこともそうだが、年端もいかないだろう少女に向かって「小さい頃」など、奇妙でしかない。
だが、少女は――マレファは唇に人差し指をあてて少しだけ悩むと、こう言った。
「小さい頃は……サーカス自体が、無かったわ」
その答えを聞くと、僅かに目を見開いてからにっこりとほほ笑む老人。
「では、わしらと同じだ」
「そうね……ええ、そうね」
今度はマレファが‘同じ’という言葉に目を見張って、それからにっこりと微笑んだ。
お婆さん……ジョーカーはその二人の間に入り込めない。
原因不明の酩酊が彼を襲っているからだ。
「さぁ、もうすぐ始まるわ。セブン・リング・サーカス……その芸は本物よ。可哀想だから、私は席を移してあげましょう」
酩酊に悩まされるジョーカーをみて、マレファが席を立つ。
カラカラと回るキャリーケースの車輪の音が遠ざかって行くに伴って、ジョーカーを襲っていた原因不明の眩暈は消えてなくなった。
「おはよう、ばあさん。もうすぐサーカスが始まるよ」
「ク……おじいさん。今そこに誰かいませんでしたか?」
「いいや、誰もいなかったよ。それよりサーカスに集中しようじゃないか」
ステージにピエロが出てきた。
『今宵はわがセブン・リング・サーカスへようこそ――!』
●
すでに公演が終わってから二時間が経過している。
サーカスは大歓声のうちに幕を閉じ、今テントの中に残っているのはセブン・リング・サーカスのメンバーと老夫婦、そしてアラブ系の少女だけだ。
サーカスのメンバーは観客席に座ったり、
「よく来てくれたね、怪盗クイーン。今日の公演は、楽しんでいただけたかね?」
「ええ、十分楽しませていただきましたよ。ただ、今度からは招待券をくれると嬉しいんですがね」
そんな老夫婦に扮したクイーンとジョーカとピエロのホワイトフェイスのやり取りを、マレファはぼーっと眺めていた。
彼女の目的は「ネフェルティティの微笑み」、ひいては「リンデンの薔薇」であって、彼らの因縁にはさほど興味が無いのだ。むろん宝石自体に興味があると言うわけでもない。その宝石が在るべき場所に在る様を見るのが目的だ。あわよくば、採点したいと思っていた。
そんな、暇そうにしている彼女に、一人の男が近づいてきた。
黄色いサングラスをかけた、とても怪しい見た目をした男だ。
「やぁ、お嬢さん。日本語はわかるかな?」
「ええ、催眠術師さん。そちらこそアラビア語はわかるかしら?」
「あぁ、これでも語学には堪能でね。多言語を知っておいた方が術の幅も広がる」
「
「そりゃどうも。じゃあ改めて自己紹介だ。俺はシャモン斎藤。お嬢さんの言う通り、催眠術師だよ」
「私はマレファよ。ただのマレファ。旅人をしているわ」
日本語とアラビア語で会話をする、見るからに怪しい黄色いサングラスと年端もいかない外国の少女。
「旅人? 君は、怪盗クイーンの仲間じゃないのかい?」
「他人の物を盗んだりしないわ。それに、今回はむしろ敵ね」
「……へぇ」
見た目とは裏腹に強い言葉を使う少女に、シャモン斎藤は警戒をさらに強めた。
クイーンとジョーカー。その二人の存在は有名なれど、年端もいかない少女を仲間に迎え入れたと言う話は聞いた事が無い。だから、この少女は自分達を相手にするにあたって用意した隠し玉なのではないかと考えての接触だったのだが、どうやら見当はずれだったらしい。
ならば、と……シャモン斎藤はもう一つの考えを少女に提示する。
「君、次の公演に出てみる気はないか? クイーンを敵だというなら、俺達の仲間も同然だ」
「……私は旅人と言ったはずなのだけれど?」
「旅人だって、路銀を稼ぐために芸を披露することはあるだろう? そもそも
「ふむ」
唇に人差し指を当てて、少しだけ悩むマレファ。
そしてにっこり笑って、シャモン斎藤にこう言った。
「いいわ、一回だけ出てあげる。ちょっと興味があったのよね」
舞台の上で怪力男・ジャン・ポールがジョーカー扮する老婆に指一本で倒される所を背景に、そんな約束が結ばれたのだった。
●
「マレファ!」
「大丈夫。高さ、大丈夫」
ヒュッと高くに張られたロープから落ちた少女が、音も無くステージに着地する。
そして何事も無かったかのように立ち上がった。
「着地はお見事以外の言葉が出ないけど……軽業師は無理そうね」
「速く走る、出来る。ゆっくり踊る。出来ない」
「普通は逆だと思うんだけど……うーん、やっぱり無理なんじゃない?」
集まってきたメンバーたち……特にシャモン斎藤に向かって、シルバーキャット瞳が心配そうに言う。
シャモン斎藤の独断によって決められたマレファの一時的加入。だが、どの芸に彼女を配置するかがまだ決まらないのだ。
少女という見た目から、猛獣使いのビースト嬢のアシスタントが最初にあがったが、猛獣がマレファを襲わないとも限らないくらい興奮してしまう事で却下。次に上がったのが竹馬男の竹馬芸だったが、竹馬自体が特注品なので無理。
そして今、シルバーキャット瞳の軽業芸の稽古の最中だったのだが、ロープの上を目にもとまらぬ速さで駆ける事は出来ても、途中で止まったり、ましてや止まった状態で踊ったりすることはシルバーキャット瞳しか出来ず、マレファもその例に及ぶことは無かった。
「あれだけ自信あり気に言ったんだ。何か、得意な事があるんじゃないか?」
「ええ、あるわ。適当な、壊れても問題のない鉄パイプとかって、あるかしら?」
アラビア語がわかるのはシャモン斎藤とホワイトフェイスだけらしく、彼らがいなければ十分な意思疎通が行えないマレファは、ようやく聞いてくれた、とばかりに笑う。
イマイチ要領を得ないシャモン斎藤も、その自信のある笑みに適当な廃材を持ってきてくれた。正確に言えば持ってきたのは怪力男のジャン・ポールで、シャモン斎藤は廃材の旨をジャン・ポールに伝えただけなのだが。
ジャン・ポールが鉄の廃材を置いた時、それなりに重い音がした。
それほど硬い鉄材である。何をする気なのか。
「危ないから、離れていて、って伝えてくれる?」
「あぁ、わかった」
シャモン斎藤が皆を下がらせる。
中心をぽっかりと開けた空間で、メンバーが見守る中マレファは廃材の前に立った。
そして、閃ッ! と回し蹴りを廃材に向かって放つ。
その蹴りの速度は囲んでみていたにも拘らず誰の目にもとまる事の無い程で。
「こんな感じかしら」
コン、とマレファが地面に足をつくと、シューという金属を擦る音が鳴り響き、ドシンと音を立てて廃材が滑り落ちた。
四つに割断された、廃材が。
誰かがゴクりと唾を飲む。
「あの一瞬で、少なくとも二回鉄材を薙いだ、ということか……」
「うん……うん、決定ね。この芸を既にこれほどの熟練度で扱えるなら、他の芸を練習する必要なんて無かったわ」
団員たちが口々にマレファを褒める。
そんな中で、団長であるホワイトフェイスだけは心中穏やかではなかった。
彼は幾多もの紛争地帯を渡り歩いてきたし、七輪曲芸団の裏の顔として見てきた連中の中に、彼女と同じような雰囲気を持つ者達がいたからだ。
即ち、暗殺者。
まさか自分達を用済みとして……か?
「違うわ。私はこの国とは何の関係もないもの。それと、私は旅人。他人の
そこには誇りが傷付けられたという色が含まれているのをホワイトフェイスは察知した。
「……その読心術、催眠術も扱えるのではないかね?」
「無理よ。五円玉、持っていないもの」
その返答にすっとんきょうな顔をするホワイトフェイス。
背後では催眠術に対する偏見というか陳腐なイメージにシャモン斎藤が頭を抱えていた。
最後となる夜の公演まで、あと二時間――。
●
ざわざわと沢山の人がざわめきの様相を呈している。
セブン・リング・サーカスに怪盗クイーンが現れる。
その噂を聞いて駆け付けたマスコミと、その噂を実証するかのように配備されている警察。
セブン・リング・サーカスを身に来た者半分、怪盗クイーンを身に来た者半分である一般人は、今日は絶対に楽しい日になると今からわくわくしていた。
テント奥――。
「いや、格好の悪い所を見せてしまったな」
「いいえ。知っていたから。あなた達
「……そうか。……なぁ、変な事を聞いてもいいか?」
「ええ、いいわよ」
薄いカーテンを挟んで、二人は会話をする。
どちらも、とても穏やかな顔で笑っていた。
「もう、何年も前のこと……マレファ、君が生まれてもいないだろう頃に……君は、おれたちのサーカスを見に来てくれた事があったと、そう思うんだ。どうかな?」
「
「……そうか。……そうか」
ようやく得心が行ったと、ホワイトフェイスは何度も頷く。
旅人。旅をする者。
飛行機や船といった長距離移動を簡単に行える乗り物が増えた事で、旅人は白い夢の住人となった。それは赤い夢の住人である怪盗や探偵、名海賊と同じように。
そして道化師も――。
「あなたは、まだ違うでしょう? 子供を笑顔に出来る存在は、赤い夢には相応しくないわ」
カーテンを挟んで背を合わせていたマレファが去っていくのを感じるホワイトフェイス。
あぁ、そろそろ開演時間だな、とホワイトフェイスも歩き出した。
赤い
●
大テントの裏――。
獣のおりがならんでいるところに、複数の警官が集まっている。
「さがって、さがって!」
「あぶないですから、さがってください!」
大声を上げている警官が集まってきた一般人を押し返す。
だが、外の一般人よりも輪の中心にいる少女にこそ、警官は叫ぶべきだ。
外国人らしき見た目だから、日本語が通ないと思っているのだろうか?
「……あなた達が興奮しているのは、私が恐ろしいから、じゃないのよね」
静かに語りかける少女。ライオンはグルルルと低く唸りながら、いつでも飛びかかれる姿勢を保っている。
「過去か、未来か――。私はどこへでも行けるし、私は何処へでも現れるから、私は現在しか存在しない。でも、だからこそ……」
「撃ち方、用意!」
「撃つな!」
その制止は、コンマ一秒遅かった。
恐怖に駆られた若い警官が、恐怖に打ち勝てなかったのだ。
銃弾が、ライオンの頭を目がけて螺旋を描きながら進む――。
「――本能に近しい
ふっ、とそよ風がライオンと警官の間を薙いだ。
銃弾も、抉られるはずの傷も、噴き上がるはずの血飛沫もない。
「……ごめんね、私は、貴方達のお母さんでも、娘でもないの。無理やり連れてこられたあなた達には酷かもしれないけれど……」
「拳銃をしまうように言ってください。手負いの獣は誰も止められない。今は
先程制止の言葉を発した岩清水刑事と呼ばれる男が指示を出す。
その言葉に一人の男が手を上げ、警官たちはいっせいに銃を下ろした。
「あなた達の生まれた場所を教えてくれる? いつかそこへ行って、あなた達とあなた達の家族に会いに行くわ。そして、あなた達の事を伝えてあげる。子供を笑顔にする仕事をしている、って」
「……」
石清水がライオンを睨みつける。
だが、ライオンは怯えた様子を見せるわけでもなく……むしろ、まるで人間の泣き顔のように一瞬だけ顔を歪めて、ゆったり自分のおりへと帰って行った。
一つ、何かを伝えるように鳴いてから。
ビースト嬢が急いでライオンのおりへと新しい鍵をかける。
緊張が解け、ビースト嬢と彼女に守られていた少女、そして警官たちの方から力が抜けた。
少女は一人、今聞いた場所を反芻する。
キャリーケースから日記帳を取り出して、その場所を記していた。
●
「あら? ……見ない顔だけれど」
「あ、えっとぼくはこういうものでして……」
そう言って渡されたのは、名刺。「東亜新聞社会部記者 西遠寺 孝太郎」と書かれている。
へぇ。
「あの、あなたは……?」
「私はブリーズ・マレファ。癪だけど、今回だけは
「……?」
何が癪なのかわかっていなそうな記者に苦笑する。いや、そもそもアラビア語がわかっていないのだろう。
だってそよ風だ。まるで、風に劣っているかのようじゃないか。あの
「――
「え?」
「アラビア語、わかる、ますか? ムドゥヒク……調べた、出る、ます」
日本語で言い直して、立ち去る。
そう、今の彼はわからないのだから、仕方がない。
さて、初舞台。頑張るとしよう。
●
「それでは、今宵限りの新メンバー、ブリーズ・マレファによるなんでも切断ショウをご覧ください!」
数々の絶技に熱冷めやらぬ観客が歓声を上げる。
新メンバー、なんでも切断ショウ。しかも今宵限りなどと特別な公演に出会えたとあっては、興奮も高まるというものだ。
そうして舞台に出てきたのは、露出の激しい踊り子のような衣装を身に纏った、浅黒い肌のアラブ系の少女。先に出てきた猛獣使い・ビースト嬢のさらに下を行くだろうその少女に、しかし観客はどよめきではなく応援で返す。
そんな少女の前にドシンと音を立てて置かれたのは、大きな大きな鉄の塊。運んできた怪力男ジャン・ポールが顔を真っ赤にしていた事で、その重さが観客に手に取るようにわかった。
さらに、マイクを持ったホワイトフェイスが観客の幾人かを呼んで、ハンマーを持たせる。硬度を確かめる為に鉄の塊を叩いてみて欲しい、と言ったのだ。
そして、ハンマー如きの威力ではビクともしなかった鉄の塊が、タネも仕掛けも無い事を観客に知らしめた所で、ホワイトフェイスが再度マイクを取る。
「それではご覧いただきましょう!」
少女がサンダルを脱ぎ、裸足になる。
そして一閃、足を薙いだ。
ギャンッ! という、おおよそ人体では起こし得ない音がテントに鳴り響く。
ホワイトフェイスが「あれ? 何も起きませんね……」ととぼけながら鉄の塊に近づき、中指で鉄の塊をノックすると――ごとん、ごとん、ずしん! と音を立てて、鉄片が舞台に落ちる。一つや二つではない。両手の指を使っても足りない程の鉄片が、ある形だけを残して崩れ落ちた。
「これは……もしかして、私ですか?」
「はい、です」
ある形――流石に彫刻並みとは言わないが、それが逆に少女らしさ、幼さを感じさせるホワイトフェイスを象った鉄像が、そこに鎮座していたのだ。
ワー! と、その瞬間まで何が起こったのかわかっていなかった観客も、あの一瞬で少女が鉄を切り抜いたという事実に大歓声を上げる。
一部、ごく一部の存在、特に黒田という男だけがその絶技に戦慄を覚えていたが、そんなことは大衆に関係ない。
“なんでも”切断ショウと言っているのだから、次もあるはずだと期待を膨らませる。
そして想像通り、次々と運ばれてくる様々な物体。
大岩、コンクリートの塊、特殊合金、防弾ガラス……。
警備にあたっている警官たちさえも目を見開くその様相に、その材質が本物であることを観客たちは知って、その絶技を褒め称えた。
黒田とその周辺にいた者達は冗談じゃないと頭を抱えていたが。
何かトリックでもない限り、素足で特殊合金を割断できる存在など放っておけるはずがない。
先程の友好的なホワイトフェイスに騙されたのではないか? という疑念さえ湧いてくる。
「それでは、プリズムプリズムとブリーズ・マレファによる最後の魔術! 人体切断ショウをごらんください!」
ホワイトフェイスが声を張り上げて言う。
切断、と聞いて、今の今まで見ていたショウを思い出す観客。
「どなた観客のおひとりにご協力いただきたいのですが、希望されるかたはいませんか?」
静けさが会場を包む。
誰も、手を上げない。
ぽん、と……マレファが、ホワイトフェイスの腕を叩いた。身長の関係上、肩は叩けないのだ。
アシスタントの女性たちもホワイトフェイスの腕を取って前に連れて行く。
「え、わたし?」
驚いているホワイトフェイスが木製のベンチに寝かされる。
その上に箱を被せるプリズムプリズム。
そして、箱の前にマレファが立った。
固唾をのみ込む観客。マレファの蹴りが数々の物質を切り裂いて来たのは会場の誰もが知っている事だ。それよりも遥かに柔らかい人体など……。
斬ッ!
目にもとまらぬ一閃。
身体を傾けての逆袈裟……つまり真上に向かって鋭い蹴りが振り抜かれる。
ギャッ! と短い、しかし悲痛な悲鳴をあげるホワイトフェイス。リングにポタポタと滴る血の赤。ゴト、と左右に落ちる箱、合わせて倒れるベンチ。
誰もが言葉を失う中、プリズムプリズムとマレファは箱をベンチから降ろし、それを元の形に繋げる。
プリズムプリズムがその箱に黒い布をかけ、マレファがもう一度箱を一薙ぎすると――、
「あー、びっくりした!」
バラバラどころか砂粒のようになって崩れた箱と布の中から、何事も無かったかのようにすくっと立ち上がったホワイトフェイスがとぼけたように言った。
観客から大きな拍手が上がる。
「どうやら、わたしのからだは無事に繋げられたようです。では続きまして、シャモン斎藤の催眠術ショウ!」
一礼して下がって行くプリズムプリズムとマレファ。
粉々になった箱と布は、アシスタントの女性が丁寧に箒と塵取りで片づけをした。
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「今の子、すごかったですね。ほんとに足だけでなんでも切断出来ちゃうなんて……」
「……」
「伊藤さん?」
西園寺孝太郎と名乗っていた男が、隣にいる女性……伊藤真里に話しかけるも、伊藤は難しい顔をしたままサーカスから眼を離さない。
彼女には覚えがあったのだ。
あの技術……どこかで。
「探しましたよ、東亜新聞社会部記者の西遠寺孝太郎さん」
その考えは、少しだけ焦燥した黒田の”特ダネ”によって、遮られたが。
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西遠寺孝太郎はクイーンの変装……ではなく、クイーンの催眠術によって「自分は西遠寺孝太郎である」と思いこまされたシャモン斎藤だった。
そして舞台で催眠術を披露していたシャモン斎藤こそが、クイーンの変装だったのだ。
だが、それを見破った黒田が良い気になるのも束の間、シルバーキャット瞳が大変危険な状況に陥ってしまい、彼女を助けられる存在であるクイーンとジョーカーをみすみす取り逃がす事を許さざるを得なかった。
見事シルバーキャット瞳は無事助けられたが、クイーンとジョーカーはワイヤーを使って逃げてしまう。
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「さて……ブリーズ・マレファ。わたしはこのまま帰ってもいいのかな?」
既に盗んでいた「リンデンの薔薇」をホワイトフェイスへ見せつけ、ゲーム――「今日の公演終了までに『リンデンの薔薇』を盗む」というもの――に勝ったクイーンは、ホワイトフェイス専用のトレーラーを出た瞬間に呟いた。
トレーラーの上には、いつものキャリーケースを持ったマレファが何をするでもなく佇んでいる。
「……ブリーズ・マレファはもうおしまいよ。私は旅人のマレファ。『リンデンの薔薇』は?」
「もちろん、わたしが持っているよ」
「そう……」
大きな満月がマレファの表情を隠す。シルエットのようになっていく少女の影が、しかし瞳だけが鈍く輝いているように見えた。
たらりと冷や汗を流すクイーン。今度はジョーカーも臨戦態勢だ。一度目は酩酊、二度目は完全に姿を隠されたが、その二回でジョーカーはその
「ねぇ、『リンデンの薔薇』……いいえ、『ネフェルティティの微笑み』。あなたはどんな景色を見てきたのかしら。流血に彩られた戦地? 欲望に苛まれた人々?
――それとも、笑って過ごす、子供達?」
ふと、クイーンは懐に収めた「リンデンの薔薇」が熱を持ったかのような錯覚を覚えた。
「……そう。それなら、あなたはもう”帰る”事に不満はないのね。
「……まさか、リンデンの薔薇と会話をしたのかい?」
「それこそ、まさかね。宝石が言葉を話すはずがないじゃない。そして、特に敵対する理由も無くなったわ。RDが可哀そうだし、あなた達の船に乗り込むのは止めてあげる。その代り、このサーカス団、ちゃんと盗み出してね?」
「あぁ、もちろん」
トン、という音と共にトレーラーから降りるマレファ。
そのまま通り過ぎようとしたが、ふと何かに思い至って、クイーンに向かってソレを放った。受け取るクイーン。
それは封筒。中には硬貨が入っているようだった。
「これは?」
「バイト代。この国のお金なんかもらってもいらないし、何より芸でお金を貰うのは旅人の美学に反するわ。旅人なら、恵んでもらわないと」
「そこは分かり合えない美学だね……」
苦笑するクイーン。
ジョーカーは未だ戦闘体勢を解かない。
「――
「無茶を言わないでやってほしいな。ジョーカーくんの冷たい部分を逆なでしてるのはそっちじゃないか」
「そうね……そうだったわ。それじゃあね、怪盗クイーン。次もまた、赤い夢の中で会いましょう」
「あぁ、それじゃあ――」
『Good Night, And Have A Nice Dream.』
二人の声が重なる。
次の瞬間、ジョーカーは自分が何に警戒していたのかを忘れてしまっていた。
もう、旅人の姿は無い。
「帰ろうか、ジョーカーくん」
「……はい」
何か釈然としないまま、ジョーカーは従った。
彼が彼女に出会うのは、もう少し後の事だ。
それまでは、良い夢を。
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まだネイルアートを教えてもらってない頃。