拝啓友人へ 作:Kl
番外編
ある春の晴れた日、彼女は何時ものようにある場所へと向かっていた。空は青く澄み渡り、どこまでも高く感じる見事な晴天だった。画に描いた様な春空とはきっと今日のような日の事をいうのだろうと、彼女は人知れず思った。
マイペースにゆっくりと青空の下を歩く。
――やっぱり東京は人が多いな。
大通りを歩きながら彼女はそんな事を思った。足早に多くの人とすれ違い、多くの人が彼女を追い抜いていく。すれ違う人に目をやりながら、彼女は考える。
――この人、一人一人に物語があるんだろうなぁ。例えば、あの人の場合はどんな物語があるんだろう。
一人の人の一生は一冊の本だ、とはとある青年が言っていた言葉だが、彼女もそう思っていた。一冊の本と同じように人の人生とは物語なのだ。
そして、彼女は考える。先ほどすれ違った女子大生くらいの歳の女性の物語を……。
――きっと、そこでそうなって、次は――。
小説のプロットのように断片的に物語を想像していく。そして、ある程度作ると満足したのか、よし、と小さく頷くと足の歩みを速めたのだった。彼女の足は目的地に向かうために大通りから裏路地へと入った。
――ん? あれは?
裏路地に入ってしばらくすると目の前に見慣れた後ろ姿が目に入った。日本人の平均身長より拳一つ分ほど高い黒髪の学生服の青年だった。どこにでも居そうな雰囲気が後ろ姿からだけでも分かるような青年だ。しかし、彼女が見間違える筈はない。なぜならば、彼女が今向かっている場所こそ彼の家であり、そして彼こそが彼女の――。
「おーい、今帰り?」
彼女は先ほどよりも何倍も軽い足取りでトテトテと後ろから彼に近づくと背中越しに声を掛ける。
「ん? その声は愛支か」
振り向いた青年は右手に水の入ったペットボトルを持っていた。どうやら飲みながら歩いていたようだ。
「そう、キミの愛支だよ」
彼女がそう言うと、
「何言ってんだ」
彼は笑いながらそう返した。
「むぅ……」
あしらう様な青年の態度に彼女は頬を膨らませる。
「何ふくれっ面してるんだよ」
無邪気に笑う青年に思わず釣られて彼女も笑顔になる。どうしても青年の笑顔を見ていると彼女は顔のゆるみが抑えられない。
「なーんでもない。それよりも水ちょうだい!」
「ちょっ、おい――」
返事を聞く前にペットボトルを奪い去る。彼女にとってはたやすいことだった。
そして、それを一飲み。何だか普段飲んでいる水と違う味がした。
「ぷはっ。ありがとう!」
「ったく、お前は本当に……」
彼はそう言うと彼女から返されたペットボトルをそのまま口に運ぶ。
「あー、間接キスってやつだね」
彼女がそうからかうと彼は、
「何言ってんだよ」
とあしらうようにそう言った。全く意識していない物言いだ。
――むぅ結構勇気出したのに……やっぱりこの反応か。
芳しくない反応に彼女は内心で少しだけ肩を落とす。
――分かっていた……分かっていたよ。
青年が彼女のことをどう思っているのかなんて分かっていた。青年が彼女を見る眼差し、言動、行動、その全てが物語っていた。普通の人から見れば何気ないしぐさでも彼女からすればそれが何かを示しているのか分かってしまう。何故なら彼女は――
――こんなことなら作家になるべきじゃなかったかな……。
そう彼女は作家だから。分りたくなくても、分かってしまう。
彼女はふと、ある小説の一節を思い出した。青年が好きな作家の代表作の一節だった。
――『あなたもご承知でしょう、兄妹の間に恋の成立した例のないことを』か……。
なるほど良く言ったものだと感心すると同時に続く言葉を思い出す。
――『香を嗅ぎ得るのは、香を焚きだした瞬間に限る如く、酒を味わうのは酒を飲み始めた刹那になるが如く、恋の衝動にもこういうきわどい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです』それを過ぎれば慣れれば慣れるほど、恋の神経はマヒしていく一方か……。
本当に良く言ったものだと、彼女は乾いた笑みを浮かべる。
その笑みに前を歩く青年は気付かない。
――もしも、私が彼にこの思いを伝えたらどうなるだろうか。
彼女はその後の事を考えて、首を横に振った。
――そうだ、この関係でいいんだ。離れずにすむ理由になるのならそれでいい。
作家だからこそ分かってしまう。自らの思いを伝えた時の彼の反応が。であるのなら、これでいい。今のままでいい。まるで自分自身に刷り込むようにそう呟いた。
「おーい愛支、そんな所に立ちどまって何しているんだ?」
青年の声が聞こえた。ハッと気づけば結構な距離が空いていた。
「いいや、別に何でもない。それよりも早く行くよ!」
彼女はそう言って、駆けだす。様々な思いをかき消すように、彼女は足を進めた。
――あぁ、これでいいんだ。
「――ん……」
目を覚ますと見慣れた風景が目に入った。少し変色した壁紙に木製のちゃぶ台。何時も行っている彼の家だ。どうやら机に突っ伏して寝ていたらしい。
「起きたか」
声の方角に目をやればマグカップを手に持っている彼が目に入った。
「ん、私寝てたの?」
「あぁ、どうやらお疲れの様だな」
「上着ありがとう。キミが掛けてくれたんだよね?」
いつの間にか彼女の方には男物上着が掛けられていた。こんなことをするのは彼しかいない。
「気にするな」
彼女の問いかけに彼はそう返すと「コーヒーでも入れてくるか待ってろ」そう言って立ち上がろうとする。
「いい。これ飲むから」
しかし、彼女はこれを制し、彼の目の前に置かれていたマグカップを手に取り口に運んだ。予想通り、中身はブラックコーヒーだった。ほろ苦さが口の中に広がる。
――あぁ美味しい。
彼女は一口で満足したのかマグカップを青年の下に返す。
「お前……人のものを勝手に飲むなよ」
彼は呆れ半分でそう言うとマグカップを手に取りコーヒーを啜った。
「あっ、間接キス」
「何言ってんだよ」
彼はそう言って笑った後に、
「そう言えばぐっすり寝てたけど何か夢でも見たのか?」
そう続けた。
「覚えてないけど、何か昔の夢を見ていたような気がするよ」
その問いかけに彼女はそう返すのだった。
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