久々の大戦話の番外編です。
─1日目─
7.92mmの音は心地よい。
炸薬の音と共に放たれる鉄槌はスコープの中、レンズ越しに映る敵兵の頭に風穴を空けた。
風穴を空けられた敵兵はというと、頭から薄汚い血を流しながらもんどりうって倒れ込む。
そして敵兵が握る物はもはやそれを握る力すら失った彼の手から離れて────
ドカン!!…だ。
奴───つまりは敵兵が握っていたのは集束手榴弾であった。簡単に言えば複数の手榴弾を荒縄や紐でグルグル巻きにした即席武器だ。
奴はそいつを我が軍の装甲車目掛けて投げつけようとしていたので、阻止させて貰ったのだ。
まあその集束手榴弾は既に点火されていたため、点火された手榴弾が手元からこぼれ落ちれば当然ながらそこで爆発だ。
結果として数人の兵士が巻き添えを喰らってミンチと化したが、これといって思う事はない。コミュニストが何人死のうが知った事ではないからだ。
…おや失礼、名乗りを忘れていました。
私はヴィリバルト・ケーニッヒ武装親衛隊曹長と言います。
上官はターニャ・デグレチャフ武装親衛隊中尉で、私は第一SS装甲師団LSSAH所属の狙撃手として目下、スターリングラード戦に従軍している所です。
ちなみに上官たるデグレチャフ中尉ですが、彼女は現在昇進や勲章授与等の所用のため総統閣下の命でベルリンへと戻っています。
ん?何故私が今スターリングラードにて戦っているのか?
ああ…それはデグレチャフ中尉からのご命令によるものです。
『ソ連赤軍狙撃手、ヴァシリ・ザイツェフと戦い、目的を果たせ』
さて、私が受けた命令の詳しい説明だが、目的に関してはこの後ご説明致するので、今は置いておこう。
ああそれと、現在私は偽名と偽装階級・偽装経歴で作戦を遂行しているので、事前にご注意を。
さて、現在私は"エルヴィン・ケーニッヒ少佐"と名乗っている。
このスターリングラードにおいて"ドイツ国防軍所属のベルリン狙撃兵学校教官"としてソ連赤軍の狙撃手、ヴァシリ・ザイツェフなるソ連兵狙撃手を抹殺する命令を受け、目下彼を誘き出すべく赤軍兵共を次々と狙撃している最中だ。
その作戦遂行のために日夜ライフルを手に市街を回り続けているが、残念ながら件のザイツェフが現れる気配は未だにない。
だが相手も我々ドイツ軍が凄腕の狙撃手を送り込んだのは気付いている筈だ。なにせ今日だけで3人の兵士と1人の士官をあの世送りにしている。
ザイツェフを英雄に祭り上げて兵士達にドイツ兵狙撃手恐るるに足らずと喧伝するソ連にとっては、その英雄の網を掻い潜って狙撃をさせる狙撃手の存在は間違いなく頭痛の種でしかない。
「早く来い。ヴァシリ・ザイツェフ…輝かしい未来が待っているぞ」
─任務開始より3日前・ドイツ軍武装親衛隊LSSAH駐屯地─
「ヴァシリ・ザイツェフでありますか?」
「うむ、アカ共が今祭り上げている新進気鋭の狙撃手だ。現時点で既に100人以上の味方が奴に喰われた。未確認も含めれば150人は行くかもしれん」
「では私の任務はそのザイツェフを討ち果たすことですね。早速準備を…」
「ああ、いやいやケーニッヒ。討ち果たす必要は無いのだ。奴は生かしておいて問題無い」
「それはつまり…」
「上の意向でな。ザイツェフは新進気鋭の凄腕だが、それだけ。たかだか多数のドイツ兵を狙撃しただけ───このスターリングラードの戦局の行く末を決める程ではない。むしろ同じ狙撃手ならば、たった1個小隊程の部隊と共にコッラー川を防衛したあのフィンランドの化け物のほうが凄まじい。何せコッラー川という区域の戦局をあの部隊指揮官と狙撃手が変えてしまったのだからな」
「では私が出る理由は…」
「奴に討ち倒されろ。存在しないドイツ兵狙撃手としてな…」
「存在しない…ああ、そういう事ですか」
「お前は結果が決まりきった出来レースで英雄の戦果に加わるんだ。そして世紀の狙撃手対決に興味を持った後世の人間は興奮ない交ぜに資料を漁り、詳細を知ろうとするだろう。そして行き着く…存在しない狙撃手とそれを討ち果たしたと喧伝する英雄に…。しかし、気を付けたまえ…決して簡単に打ち倒されるな。奴等に我々の自演目的の戦いだと悟られては不味いからな。徹底的に…そうだな、数日はザイツェフと取り巻き連中を引っ張って狙撃を続けながら逃げ回れ」
「はっ!了解致しました」
ヴァシリ・ザイツェフは必ず来る。
そして私、エルヴィン・ケーニッヒを狙撃対決にて制したザイツェフは、間違いなくソ連英雄となる。
しかし後世の人間はこう述べるだろう。
『世紀の狙撃手対決として英雄と対を為す存在しない狙撃手をでっち上げた、ソ連の自作自演』
哀れなザイツェフは理性ある者からはプロパガンダの被害者として、口さがの無い者からは偽りを誇る英雄として伝えられる。
スターリングラードの戦局は残念ながら我々ドイツの敗北だ。足りない準備と総統閣下のスターリンの名を冠した都市への執着は、戦争の短期決着を逃す結果になった。
どうせ敗北して下がるなら、少しくらい意趣返しはしておきたい。
愛国者である少佐は、祖国の同胞を次々と仕留める敵を許しはしない。上からの意向と言いつつも、彼女の瞳はその内心を雄弁に物語っていた。
奴は偽りの英雄として伝わり、それを喧伝するソ連は周りから虚飾の権化として呆れられる…。
これを歪んだと評する輩もいるだろうが、私や他の部下は上官たるデグレチャフ中尉を尊敬し、愛国者たる彼女の力になりたいと思う。
ならば上の意向であり、彼女の本心でもあるその任務を、是が非でも成功に導こう。
─任務開始前日、スターリングラード行き軍用列車─
「ジーク・ハイル!お待ちしておりました、ケーニッヒ少佐」
「ハイル・ヒ…ジーク・ハイル。では早速客室に案内してくれ」
「はい、こちらになります。手荷物をお持ちしましょう」
任務開始の前日、私はヴィリバルト・ケーニッヒ武装親衛隊曹長ではなく、ドイツ国防軍所属の狙撃兵エルヴィン・ケーニッヒ少佐として、スターリングラードへと向かう我が軍が徴用したという豪華な列車へと乗り込んだ。
通路では従兵としてつけられた兵士が待っており、彼に手荷物を預けると、後に続いて客室へと歩いていく。
私に割り当てられたのは客車の中でも一際豪華な1等客室である。私は肩に背負うライフルを下ろして壁に立て掛けると、懐から銀の煙草ケースとマッチ箱を取り出した。
そして中に仕舞われていた上質の紙巻を1本取り出すと、マッチを擦って紙巻に火を点ける。
「では私は隣の客室にて待機しますので、御用の際は壁についているベルでお呼び下さい」
従兵がそう言って部屋を後にすると、私は紙巻を燻らせながら念入りに偽装された今の身分に若干の窮屈さを覚えていたためか、だらしなく椅子にもたれ掛かってしまった。
当然ながら今の私はデグレチャフ中尉の下で戦う武装親衛隊のケーニッヒ曹長ではなく、武装親衛隊を含めた親衛隊組織を苦々しく考えている国防軍の所属佐官であり中尉の上官に当たるケーニッヒ少佐だ。
理由は目的を果たすまでの完全な偽装のためだ。いつ何時ソ連の息が掛かった人間と相対するか分からない以上、野戦服を国防軍の物に着替え、SSの刺繍を外した時から私はケーニッヒ曹長ではなくケーニッヒ少佐となった。
佐官故に割り当てられたのは豪華な客室。慣れ親しんだローマ式敬礼も台詞も言えないのは中々に堪える。もっとも一番堪えるのは、デグレチャフ中尉のお姿を当分は見れない事だが…彼女の雄々しくも美しい戦女神のごとき勇姿に惚れ込んだ連中は枚挙にいとまが無い。
というかこの間、抜け駆けで愛の文を送って断られはしたが「貴官の心は嬉しく思う」と返事を返された軍曹が、同僚や部下、果ては上官からリンチされていた光景を見たばかりだ。
鼻血を流して痣を作りながらもしてやったりな顔(残念ながらこの時代にはドヤ顔という言葉が無い)で笑みを浮かべる軍曹にカチンときて、ふと気付けば自身もいつの間にかその輪に加わっていたのは記憶に新しい。
だが今はとにかく任務を果たすことに集中しなければならない。彼女の求めに応えられなければ、我々に彼女に仕える資格など無いのだから…。
そうして慣れない豪華な客室での束の間の休息の後、私はライフルを片手にこの地獄へと足を踏み入れたのである。
もっとも初日は空振りであったため、翌日に期待を掛けて、その日は駐屯地へと踵を返したのだった。
─翌日・2日目─
「現れたか…ザイツェフ」
とうとうザイツェフが2人の人間を伴って、私の目の前に現れた。瓦礫にカモフラージュ出来るよう灰色のケープを纏いスコープ付モシン・ナガンを持つのが写真で確認したザイツェフである。もう1人は擬装をしていない普通のソ連軍歩兵で、スパイク型銃剣を着けたモシン・ナガンを所持して、辺りを警戒している。そしてザイツェフの隣でドラムマグのPPsh41を片手に彼と話している男は、星付きの階級章を着けた制帽の眼鏡を掛けた軍人───恐らくは政治将校だろう。
その3人が地面から飛び出している水道パイプの瓦礫側で、慎重な足取りで進んでいた。
間違いなく頭痛の種である私───ケーニッヒ少佐を仕留めるべく駆り出されたのだろう。でなければ、わざわざ後方で拳銃か機関銃を手に撤退する味方を狩るのが仕事の政治将校が随伴する筈がない。
とりあえずは挨拶がてらに一発、狼煙を上げるとしよう…エルヴィン・ケーニッヒ少佐とヴァシリ・ザイツェフの狙撃対決の始まりを告げる狼煙を…。
手にしていた双眼鏡を傍らに置くと、腕に挟んでいた愛用するスコープ付Kar98kを構え直し、スコープレンズに目を当ててザイツェフの後ろを守る歩兵を狙う。
照準を歩兵の頭に合わせると、歩兵が一瞬足を止める時をじっくりと待った。そして歩兵が足元の瓦礫を跨ごうと一度歩みを止めた瞬間だった。
背筋に寒気が走ったとでも言おうか…その場で発揮出来るだけの反射神経でもって引き金に掛けた指を即座に外し、銃を手放して真横の遮蔽物へと転がり込んだ。
そしてほぼ同時に先ほどまで私がいた───私の頭があった場所を空を切る音と共に銃弾が通過して近くのタンスにめり込んだ。
噂に偽り無し…か…。
ソ連軍狙撃手ヴァシリ・ザイツェフ───奴は殺気や違和感には獣の如く鋭いようだ。
とりあえず、今のは狙撃という命を掛けた騙し合いに"狼煙を"とおふざけを持ち込んだ私のミスだ。
どうにか生き長らえたが、1つ間違えればこの時点で私の死体が転がる羽目になった筈だ。
ザイツェフがただ狙撃が上手いだけの男ならば問題は無かったのだが、どうやら相手は生粋の狩人らしい。ならばふざけた挨拶は無しだ。こちらも全身全霊でもって、目的達成のために戦おう。
とにかくまずは位置がバレた以上ここにもう用は無い。頭を出さないようゆっくりとライフルを手繰り寄せると、匍匐でその場から離れていった。
それから数時間、未だにザイツェフは私を追跡してきている。そして私は、なかなかザイツェフの追跡を振りきれずにいた。
だがそれは当たり前だ。今の目的はドイツ国防軍の熟達のスナイパーとして、ザイツェフを引っ張り回してソ連軍に威圧を与え続けるのが目的だからだ。
"簡単に見失われては困る"。そう心中で呟きながら、崩れた民家の支柱の隙間から突き出したライフルの引き金を引いて、スコープの照準に映っていたソ連の女スナイパーの頭を撃ち抜いた。
そして間を置かずボルトを操作し、今度は女スナイパーの安否を確かめようと隠れていた場所から身体を出した歩兵の心臓を貫いた。歩兵はうつ伏せに倒れると、目の前の崩れた瓦礫の下へと落ちていく。
そして下からはドイツ軍のスナイパーを罵るロシア語が聞こえてきた。とりあえずはこの辺りで良いだろう。
支柱の隙間から突き出していたライフルを外して肩に背負い直すと、瓦礫を足場に別の民家の中へと入り込む。
すると民家の2階、床が抜け落ちた場所に出た。道は無い。背後からはソ連兵の足音が幾つも響いてくる。だが慌てず冷静に、何処かに道は無いかと辺りを見回す。
と、ある部分を見つけてその場に目を止めた。視界に入ったのは、歪んだガスのパイプである。細いながらも未だにしっかりと原型を保ったパイプが天井を突き破っていたのだ。
それを見て、迷わず私は後ろへ下がると、助走を着けて走り出した。そして床が抜け落ちた場所で勢いよくジャンプすると、天井から突き破って出ているガスパイプに飛び付いた。
少しばかりパイプが軋んだが、私は落ちることなくパイプを掴んでいた。そこからパイプを伝って天井を目指して登っていき、民家の屋根上へと到着した。
腹這いで這いずるように屋根上を進みつつ、どこか隠れられそうな場所が無いかと見回してみると、丁度狭い道路を挟んで民家の反対側に別の半壊した民家があった。
助走をつければ飛び越えられる距離ではある。しかしザイツェフが追跡してきている今、屋根上という見つかりやすい場所で身体を起こすのはリスクが高い。
だが真下から聞こえてくる怒声の持ち主達は待ってはくれないようである。ここに留まるリスクと向かい側の民家へと飛びうつるリスクを天秤に掛ければ、答えは明らかだ。
私は直ぐ様立ち上がると、助走をつけて走り出した。さて…私の判断が正しいか間違いか…それはやってみなければ分からない。
『戦場で運を当てにするな』
そんな教えを説いたアメリカ軍特殊部隊の隊長が居るなんて話を聞いた事がある。私の好きな類いだ。デグレチャフ中尉然り、戦場では運を当てにしても幸運は舞い込んではこない。
自らの行動が幸運に繋がるのだ。
私は勢いよく屋根の端を蹴って飛び出した。その時、小さいながらも1発の銃声が聞こえ─────
腹部に激痛が走った。
思わず身体をよじってしまい、バランスを崩して民家の屋根上ではなく半壊した瓦礫の場所───未だに壊れずにはめ込まれた窓を突き破った。
割れたガラスで顔や腕に傷を作りながら、半壊した民家の中の廊下をゴロゴロと転がって、突き当たりの壁にぶつかることで漸く止まれたが、全身冷や汗が凄い上に腹部の激痛は未だに健在だ。
勝ったというべきか負けたというべきか…ザイツェフは私が屋根上から反対側の民家の屋根に飛びうつる瞬間を狙い、狙撃を行ったらしい…。
なぜザイツェフの仕業だと分かるのか?
あの時、耳に僅かに響いたのは1発の銃声だけだったからだ。少なくとも私を追っていたソ連兵共に屋根から屋根に飛びうつる人間をたった1発で撃てるだけの技量を持った奴は居なかった。
ならば誰が私を狙い撃ったのかは、分かりきった事である。だが残念ながらザイツェフは仕留め損ねたと言って良いだろう。
確かに撃たれはしたが、少しばかり身体を確認してみたところ、動けない程では無かった。といっても激痛は止まらないが…。
とりあえず勝負は明日に持ち越しとしよう。まずは最低限でも手当てをしなければ決着の前に失血死だ。そんな結末では、間違いなく中尉に失望されてしまう。それだけは勘弁願いたいものだ。
ザイツェフも私を追ってこないところを見ると、追うのを止めたか追えなくなったかだろう…。
痛む腹部に手を当てながら立ち上がると、どうにか崩れてロクに足の踏み場も無い民家内を抜け出し、進み続けて味方の野営地を目指すのであった。
─3日目─
軍医の手当てかモルヒネの薬効か、銃創は残るだろうが腹部の痛みは鈍い。そしてその打たれたモルヒネのお陰か、感覚が鋭敏になっているのを感じる。
辺りの音が今日はいやに静かだ。いつもより砲弾の音も銃の響きも少ない。
もしかしたら、今日が決着の日になるかもしれない。私が目的を果たすか、ザイツェフが私を仕留めるか…そのどちらかだ。
私は近場のトタン板をずらして、射界を広める。
さて、奴は今どこにいるのか…。
見つけた。あの日と同じく歩兵と政治将校を引き連れた3人体制である。
私は素早くライフルを構えると、政治将校に狙いをつけた。殺す必要はない───ただ私の位置を知らせるためだ…
これといって正確な狙いではなく、風速や敵の行動予測もしない射撃は、政治将校の肩を射抜いた。だが同時に射撃の反動で傷が開いたらしい。また激痛が襲ってきた。
政治将校が肩を押さえて倒れ込むと、ザイツェフは歩兵と共に政治将校を引っ張って側の瓦礫に身を隠した。
そして数秒後、瓦礫の上に僅かだがヘルメットが出てきた。しかし人間が被っていないのはバレバレだ。どう見てもカタカタと左右に揺れている。
だがそれは問題ない。奴はわざとヘルメットを囮に"ケーニッヒ少佐"の居場所を知ろうとしている。
ならば乗らない手はない。痛みを堪えながら即座に照準をヘルメットへと合わせて、綺麗に吹き飛ばしてやった。
そしてザイツェフの行動を確認はせずにトタン板と瓦礫の間を抜けて、別の瓦礫に隠れた。先ほど自分がいた場所の直ぐ隣───そこには自分の代わりに帽子を被せたマネキンが、瓦礫に固定されたライフルを持つような体勢で設置されていた。
そしてほぼ同時であった。自分が隠れるのとザイツェフがマネキンの頭を吹き飛ばすのは、正確に計れば0.何秒という僅差の行動であった。
そして声が響いた。
『仕留めた!』
ザイツェフではない。恐らくは歩兵か政治将校のどちらかだ。確かに彼の銃弾は正確なまでにマネキンの頭を吹き飛ばした。人間であれば文句無しに即死である。
私の勝ちである。ザイツェフはマネキンをケーニッヒ少佐と考え、正確な狙撃で仕留め、味方はそれを"仕留めた"と叫んだ。
ならば後始末だ。私は一度腹部の包帯をきつく縛ってその場しのぎの止血を行うと、頭を出さないようマネキンの背後に回り込むと、真横にずらして奥に押しやった。
代わりに事前に見繕っておいた適当なドイツ国防軍の制服を着た、頭を撃たれた死体をゆっくりとマネキンが居た場所に移す。
さて、これで任務は達成だ。私はにやけそうな顔を引き締めると、愛用のライフルを背負って痛みが走る腹部を押さえながらも撤退を急ぐ。
『ついに仕留めたな。君は英雄だザイツェフ』
『…はい』
『しんみりしてんなって!これは最高の逸話になるぜ!』
おっと、連中が戦果確認のために近づいてきたな。ではさらばだザイツェフ。偽りなき技量を持った、偽りの英雄……。
そしてその辺りで、狙ったように曇天広がる空から雨が霧のように降りだし、私の姿を覆い隠す。
これならば気づかれずに戻れる。私は声こそ出さなかったが、任務の成功と中尉の称賛を浴びる自分の姿を妄想し、その時ばかりは盛大に顔をにやけさせていた。
─ヴァシリ・ザイツェフ─
スターリングラードにおいて226人のドイツ兵を仕留めたソ連軍スナイパーであり、ソ連英雄。
スターリングラードでのドイツ軍狙撃手、エルヴィン・ケーニッヒ少佐(又はハインツ・トールヴァルト大佐)との狙撃対決を制した逸話を持つ。
現在、ヴァシリ・ザイツェフはまごうことなき熟達スナイパーの1人として名を残している。しかしスターリングラードでの世紀の狙撃対決は、資料にあるケーニッヒ少佐もしくはトールヴァルト大佐なるドイツ狙撃兵が実際の存在を確認出来ず、ドイツ軍の資料にその名を持つ狙撃兵も存在しない。
他にもソ連軍やNKVDの資料でも曖昧であったり、記述そのものが無かったりという実態がある。
また彼の肩書きであるベルリン狙撃兵学校教官に関しても、ドイツ軍には狙撃専門の兵科は存在せず、またベルリンに狙撃兵養成の学校が存在した事実も無い。以上の事からソ連によるザイツェフを英雄として祭り上げるためのプロパガンダという説が有力である。
上記の事から、現在ロシアで博物館に展示されているケーニッヒ少佐のライフルに付いていたというスコープも、プロパガンダとしてでっち上げるために、そこらの戦場から漁ってきた物だと思われる。
ターニャ『脅威である敵狙撃手を仕留めずにおくなど納得は行かないが、一介の親衛隊尉官が上に逆らうのは反骨心有りと評価されて厄介払いに前線送りにされかねないからな。とりあえず上の意向に従えば従順さはアピール出来るか…。しかしケーニッヒの奴、随分と感動と決意を固めたような目で私を見ていたな…何かあったのか…?』
【ヴァシリ・ザイツェフ】
ソ連軍狙撃手として1・2を争う有名な方ですが、多数のドイツ兵を狙撃したという話以外なかなか逸話を聞かない方でもあります。肝心の逸話に関しても「ケーニッヒ少佐もしくはトールヴァルト大佐との狙撃対決」はあまりに流れがあやふやかつドラマチック過ぎて、ソ連政府のプロパガンダ説がほぼ確実という見方をされてしまっています。実際にはどうだったのでしょうかね?
ちなみに本作品では対決そのものがナチス・ドイツ政府による偽装工作であり、ソ連の英雄を後世に「プロパガンダで祭り上げられた狙撃手」として残すための作戦として描きました。
【フィンランドの化け物】
皆さんご存知シモ・ヘイヘ(ハユハ)さんです。マジもんの化け物狙撃手。
最強狙撃手TOP1から3を決める大会とか開かれたら絶対ホワイト・フェザーことカルロス・ハスコックと共に食い込めるくらいの最強フィンランド人です。コッラー川のソ連兵達の悪夢の元凶でもあります。