「だから残った面影を、瞼の裏で大切になぞる。
親愛なる彼を忘れぬように。
鮮烈で眩しく、愛おしく憎く、唯一にして初めての、俺の……。」
無に帰すとも親愛なる君へ
第一章 魔神 と 皇子
皇歴2017年。
神聖ブリタニア帝国第98代皇帝、シャルル・ジ・ブリタニアの治世。
ブリタニアはその国是に則って、傍若無人な姿勢をそのままに、他国への侵攻を続けていた。エリアと呼ばれる植民地は20にまで及び、着実に世界をその手に収めようとしている。
その国の都、ペンドラゴンのブリタニア皇宮の中に、とある離宮が存在した。
名を、アリエス。
星の名を冠するその宮には、もちろん皇族が住んでいた。
第十一皇子ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアと、第十二皇女ナナリー・ヴィ・ブリタニアだ。
黒の皇子と呼ばれるルルーシュ皇子はしっとり濡れた烏の羽のような髪を持ち、皇族の中でもとりわけ目を引く美麗な少年。
ロイヤルパープルと呼ばれる瞳のその色を、誰より色濃くして両目に収めている。彼の纏う空気は常にある種の緊張を帯びていて、それが壁となり他人が軽々しく立ち入ることを良しとしない。彼が現れるだけで、一陣の風が吹いたかのようにさぁっと場の空気が変わるのだ。
支配者の貫禄を16にして十分すぎるほどに纏った少年は、冷徹に言葉を紡ぐ。
ただし、同腹の実妹といる時だけは別だった。理知的で作り物のように精巧な顔を崩れさせ、この世の優しさをかき集めたかのようなとろけた顔に豹変する。
妹――ナナリー皇女はふうわりとしたシルエットに皇帝譲りのミルクティ色の髪を持つ、お姫さまという言葉がぴったりの可憐な少女だ。しかし、それだけで終わるような存在ではありはしない。
少女らしさの奥に、ひっそりと、だが確かに芯を抱いている。少しでも頭のあるものならば、その凛とした佇まいにただ者ではないとすぐに悟るだろう。
彼らはふたりでこの宮に住んでいる。
アリエスは美しく、小ぢんまりとした城だったが、2人だけにはやはり広すぎた。
もちろん皇族の住処、たった二人っきりなわけがない。警備、メイドにコック、執事。全て揃っている、ただ少しその数が少ない。
他の宮に比べ圧倒的だ。理由は簡単で、兄ルルーシュがそう命じているから。末端の掃除をするためだけの使用人ですら、彼は自ら面接し、その目で見てから採用を決める。
少数精鋭。この宮にはその言葉がぴったりだ。
けれどもぴかぴかに磨き上げられた花のある空間には、どうしても拭えないがらんとした空白がある。
かつての華やかさが失われどこかひっそりとしているのは、単純に宮に使用人が少ないことだけが理由ではない。
かつて。
そう、彼らの母が生きていたころのこと。
マリアンヌ・ヴィ・ブリタニア。
皇帝の寵愛を受けた、豪胆で、快活だった皇后だ。
彼女は7年前に鬼籍に入り、帰らぬ人となっている。
それよりこちら、ヴィ兄妹の生活はがらりと変わることになった。
彼女は庶民の出であった。であるから皇帝の寵愛を受けたマリアンヌ皇妃亡き今、彼らを積極的に庇うものなどほとんどおらず。有力であったアッシュフォード家は同時期に没落。幼い兄妹はあっという間に後ろ盾を無くしたのだ。兄のルルーシュは母を失ったテロに巻き込まれ、足を撃たれた。そしてそれから一度も自らの足で地を踏んではいない。車椅子が手放せない体だ。
さらに悪いことに、可愛がっていた彼女を失ってから、皇帝は残された子に一切の興味を失った。謁見を申し出たふたりに冷たい言葉を浴びせかけ突き放すと、たびたび訪れていたアリエスに足を踏み入れることは二度となかったのだ。
なんということだろう。これには皆驚いた。母を亡くしたからこそと二人を可愛がり、その果てにいつか皇位継承権の順位をみごと無視した結果が待ち受けているのではと、恐れていた者も多かったというのに!
皇帝用に作られた棟には、もう何年も掃除と管理以外の目的で立ち入られていない。
皇帝から見捨てられた兄妹。
気の毒に、可哀想に。誰もがそう思いながら、ある者は同情し、ある者は喜んだ。
そしてそのどちらも、彼らに手を差し伸べることはなかった。
マリアンヌの死後、ただ一度に終わった皇帝への謁見。
そこで兄ルルーシュは父に盾突き、暴言を吐いた。
その罰とするかのように彼は留学という名目で国外へ放り出された。一触即発、いつ戦争が起きてもおかしくない国へだ。
人質だった。
誰がどう見てもわかりやすく、明白な形での出国。
そしてこのまま帰って来ないのではと噂が立ち始めた頃、思い出したようにブリタニアへと返された。皇位継承権もそのままに。
すわ廃嫡かと思われたこの事件は、名実ともにただの留学となった。廃嫡などそこまでするつもりはなく、父に楯突いた皇子にお灸を据えるつもりだったかと、周囲は納得。
しかし皇帝が彼らを突き放した、というのは依然変わりない事実だった。
思えば、皇帝がルルーシュに対し良いと言える扱いをしたのはこれが最後であるだろう。
そして残る妹のナナリーも、政治の道具として他所の国へやられるのは時間の問題であった。ナナリーとルルーシュなど初めからいなかったもののように扱われ、実の子として扱われていないのはもはや明確であったから。
しかし幸いなことに、彼らには力があった。
才があった。
兄のルルーシュは現在、その頭脳の類まれなさを如何なく発揮し、稀代の指揮官として頭角を現している。
妹のナナリーは13歳という幼さながらもKMFへ騎乗し、「閃光のマリアンヌ」と呼ばれた母の面影をはっきりと感じさせる戦いを見せる。
彼女の戦いと、彼の頭脳がなければ切り抜けられなかった死線。
それがこの2、3年ほどで、じわりじわりと増え始めていた。
実力だけでいうなれば、ナナリーは最高位の軍人「ナイトオブラウンズ」に所属してもおかしくないほど。皇帝の冷遇によりそれは叶わなかったが、ふたりは逆風にも負けず、力こそ正義、そのブリタニアにとって失うのが痛い価値を持つものへと成長したのだ。
「御苦労、下がれ」
ルルーシュは労いの色を滲ませ執事兼世話係の篠崎咲世子に告げ、彼女が礼をしてから退室し足音が小さくなっていくのを聞き届けると、はぁっと深いため息を吐いた。
車椅子の背もたれに深く体を預け、両肘をひじ掛けに置き、腹の上で手を組み目を瞑る。
ナナリーが戦場にいる。
目下、彼の不安はこれであった。
今頃戦闘中だろうか。今回の指揮はコーネリアだ、あまりにも無茶な注文をつけられることはないと思うが、そうは言えども命のやりとりをする場。危険なことに何ら変わりはない。
もともと軍属でないナナリーは、軍から配属された少ない人間でゼロ部隊と呼ばれる小さなチームを作っている。ルルーシュ皇子の親衛隊という見方も出来るだろう。
自分たちは、要請があればそこへ一時的に所属するのだ。手助けとか便利屋とか悪い時には捨て駒とか、つまりはそういうポジション。日陰ののけ者皇女のチームに入りたい人間などそういない。しかし多くはなくとも、信頼できる人間で固めた彼女の部隊は、年々その力を強くしている。ルルーシュは、彼女のチームの司令官、もしくは軍師であった。
「何としてでもナナリーを守れ」
ルルーシュとしてはそう言いたいところだが、それに首を振るのが当のナナリーだ。一応トップは皇族であるナナリーもしくはルルーシュであるものの、戦闘となれば序列はない。
皆ナナリーを守ることを念頭に置いてはいても、ナナリーの指示はいつも「勝利すること」である。いざとなれば自分など捨て置け、確実な勝利を得ろと可憐な少女は言うのだ。そんなことだからもし何かあったらと思うと、兄としてはいてもたってもいられない。今回だって本当は同行したかった。自分の指示でナナリーを動かすほうが、こんな離れた場所で執務をこなすことの何倍も気が安らぐ。
妹の実力は確かだ。
そう簡単に負けるようであれば、コーネリアから声がかかるはずもない。ちょっとやそっとの相手では、傷ひとつなくその戦場を去る。ラウンズにだって負けやしないだろう。
昨年スリーとして入ったヴァインベルグの子息などは確かに強いと思うが、兄の欲目でなくナナリーの方が上手だ。彼女は、ゼロ部隊は強い。
しかしやはり、心臓が何かに掴まれているような苦しさを除けることはできなかった。
本当なら、自分が彼女を守る立場なのに。妹は足の悪い兄をなんとか守ろうと、一足も二足もはやく大人になろうとしている。無邪気なままでいさせてやれなかったことが、悔いても悔やみきれない。
仲が良く年の近い皇女であるユーフェミアの、戦場を知らぬがゆえの天真爛漫さ、瞳の無邪気さを思うと、感じないはずの足がひどく痛むような気がした。
胃が重く、今朝から何も喉を通らない。咲世子に叱られてなんとかサラダと紅茶は口にしたが、それが限界であった。早く終われ。無事に終われ。早ければ、日付の変わる前にナナリーからの通信があるはずなのだ。
「お兄様、皆無事に作戦を終了いたしました!」その一言が早く聞きたい。一分が信じられないほど長く感じた。仕事をしている間は別のことを考えていられるのに、こうなるともうだめだ。整理整頓を心がけ、常に綺麗な机の上は雑多に物が乗ったままだ。片付ける気にすらならなかった。
こうして離れて仕事を行うことで、ふたりのどちらかが優れているのではなく、どちらも優秀であるのだと内外に知らしめることができる。
ナナリー。
その可憐で穏やかな見た目からは、激しい大立ち回りを見せる様子は想像できない。軍人でもない口だけが大きな貴族たちを黙らせるだけの戦果を、彼女が自らの手だけで勝ち取る必要があるのだ。
幾度も死線を潜り抜け、ひとつひとつ積み上げた彼女の戦歴には、今やはっきりとした利があった。もちろんルルーシュも同じだ。
あんな見捨てられた、まだ子どもの皇子に頼るなど軍人として名折れ。そう嘲られていたのはもう昔のこと。今やそれなりの頻度であちこちからお呼びがかかり――つまり便利屋扱いだが――ルルーシュが出て行って、相手に痛い思いをさせられなかったことなど一度もない。こちらが苦々しい思いをしたことももちろんあるが、何の成果もあげられずに戻って来たことだけはないのだ。
そう、負けさえしなければいい。ルルーシュは負けるわけにはいかなかった。そして勝利が期待された場なら、何としてでも勝たねばならなかった。どれだけ不利な状況でも、脳を煮崩してでも抜け道を考える。考えなければならない。その頭脳を価値あるものと認識させることが、この帝国でルルーシュを生かす唯一の術だった。
一刻も早く国の外へ出て行ってしまいたいくらいには大嫌いであろうとも、嗤われても罵られても、這いつくばって文字通り、死にもの狂いで居場所を守らねばならないことは皮肉だ。皇帝に頭を下げることがどれほど屈辱であったとしても、他人の助けなしで生きられない自分では、大事な妹を守ってやることはできない。どころかもしもの時に、自力で逃げることすらできないのだ。愛する存在のお荷物になることだけは嫌だった。
ナナリーに画面越しでなく会えるのは最速でも5日後だ。それまでに干からびやしないだろうか、自分は。毎度のことだというのに、凝りもせずその心配をした。眠らなければ明日に支障が出るが、この状態で安眠できるとはとても思えない。
それになにより、ここが住み慣れたアリエスではないことが、ストレスを煽っていた。
ブリタニア宮。母マリアンヌが生きていたころから、この辺りの部屋はヴィ家専用の場であった。普段はアリエスで過ごし、時折、例えばパーティが長引いた夜なんかにはここに泊まる。幼いころはその頻度も高く、アリエスであれば距離のあるせいでなかなか顔を出せぬ皇帝も、自ら足を運んだものだ。
それだけならまだ良い。
けれども、母が殺されたのはここだ。ここから5分と経たないところにあるホールの階段上で、母は自分の上で、その美しい体を穴だらけに、朱を散らせて息絶えた。そんなところに泊まらせるなど正気の沙汰ではないと言いたくとも、ルルーシュたちにそんな配慮をしてくれる人間はここにはいない。
「ナナリー……」
小さく呟く。
手を握ってくれる彼女が要れば、この心も安らぐのに。
今まさに激しい銃撃戦の中にいるかもしれないと思うと、よけいに気分が悪くなった。頭はぐるりと回るし、胃はむかむかと不快さを主張している。
そして、口元に手をやった時だ。
この部屋から繋がる奥の部屋で、小さな物音がした。
(なんだ……?)
首を傾げた。
自分は何時間もここにいるし、入ってきたときだって、隣には誰もいなかった。当然だ。
気のせいだろうか?
誰もいるはずがないのだ。
なのに不思議と胸騒ぎがして、ルルーシュは車椅子のポケットから銃を取り出した。手に握り、じっと豪華な装飾の施された扉を見つめる。向こうは寝室だ。ベッドくらいしか置いていない部屋。なぜだかそこから気配を感じた。
先ほどまで――ほんの2、3分前までなかったものだ。
気味が悪い。
(ホラー映画のようだな)
見たこともないくせにそう思った。だいたいこういう場合は、ドアを開けて、ほっとした時に後ろに化け物が現れる。
ルルーシュはそっと後ろを振り返った。もちろん、何もない。
――バカバカしい。
さっさと何もないことを確かめて、日付が変わるまでナナリーを待とう。車椅子のハンドルを握り走らせ始めた、その時だった。
何の躊躇いもなく、勢いをつけて扉が開いた。
……あまりのことに、思考が停止する。
男だった。
ぞっとしたまま、あらゆる可能性に考えを飛ばす。単純に考えれば、何をどうやってか潜んでいた暗殺者というのが筋だろう。反射的に仕舞いかけていた銃の安全装置を外して向けた。
かしゃり、無機質な音が響く。
黒い髪を持つ、細く華奢な男。白いシャツに細身のパンツというあまりにもラフな格好で、銃もナイフも持っていない。
それどころか、殺気すら感じない。素手でルルーシュを殴り殺すことができるようには到底見えない頼りない体だ。いや、こちらも軟弱な男だから関係ないか。
けれども問題はそこではなかった。
そう、そんなことはもはや些事だった。
男は、自分が良く知る姿をしていたのだ。
おそらくナナリーの次に、人生で顔を見ている人間。
知っている、どころではない。知り過ぎている。
だが、それはあってはならないこと。
その人間と顔を合わせるのは、鏡の中でだけなのだから。
男は、ルルーシュとまったく同じ顔をしていた。