「明日から、女の子が来るわ。二人とも行儀良くね」
普段はカチャカチャと食器の擦れる音だけが聞こえる静かな食卓で、珍しくワインに酔った母が陽気に話しかけた。
母は男ばかりの屋敷に息子達と同じ年頃の女の子がくるのがよほど嬉しいのか、一週間ほど前から毎日口癖のように繰り返し、息子二人に覚えこませている。
母が陽気に話しかけるのは何ヶ月ぶりだろうと考えを巡らす。最近は屋敷内でやんちゃをする兄を非難する言葉しか耳にしていなかった。
母はちらりと、すでに話を聞いていないシリウスに冷ややかな視線をやった。
「特にシリウス」
「はいはい」
話を振られた兄は気の無い返事をし、行儀悪くフォークの先でマッシュポテトをつついて遊ぶ。兄は明日失礼が無いよう先手を打った両親に悪戯道具を根こそぎ取り上げられてしまい、ひどく機嫌が悪かった。
「お姫様が来たら家を案内して差し上げる。悪戯はご法度。何事も失礼がないように、だろ?」
「よろしい」
母はシリウスの返事に厳かに頷き、こちらを向いてにこやかな猫なで声を出した。
「レギュラス?」
「レディが困っていたら助けて差し上げます」
お姫様は兄の婚約者。次男の自分はそれを上手く補佐するのが役目だ。それ以上の言葉はない。
「いいわ。レギュラスは何も心配ないわね」母はご機嫌な様子でいった。「クリーチャー。二人の洋服にアイロンは?」
ワインのおかわりを注がせながら、母がとうと、「ばっちりでございます、奥様」とクリーチャーは深々と頭を下げた。この時のクリーチャーの、主人に対する恭しい声がどうやら不機嫌な兄の癇に障ったようで、思いっきり顔を歪ませ、クリーチャーが母の元を去る間際、こっそり足を引っ掛けた。
ビタンとゴムを打ち付けたような音がし、クリーチャーは盛大に顔面から倒れこんだ。慌てて椅子から立ち上がり、転んだクリーチャーを助け起こし、目立った怪我がないか確かめる。
「なんてことをするんだ! ――クリーチャー、平気かい?」
「大丈夫でございますよ、レギュラス坊ちゃん」
そうは言うが鼻血が出ている。
近頃、兄はこうして鬱憤晴らしにクリーチャーを痛めつける。きっと兄を睨み付けると、自分と同じ色の目が得意そうに細くなり、べーっと舌を出した。母も横目で睨みつけたが、兄は椅子を揺らして知らん顔をし視線を受け流した。
気に食わないから、気に入らないからという理由でクリーチャーに暴力を振るい、両親を嘆かせ、そして少しも悪びれていない兄に対して、ふつふつと反抗心が芽生え始めたのもこの頃からだった。
そしてその日はきた。彼女は一人の屋敷しもべ妖精に連れられて、暖炉をくぐってやってきた。
「ベガ・アルタイラ・コローナ=ボレアリスです」
初めて出会ったとき、まるで本当のお姫様のようだと思った。
彼女は細い体に血色の良い肌、青い目をした素晴らしい金髪の持ち主で、年齢に似つかわしくない黒色の堅苦しいドレスさえなければ妖精のようだった。ずっと微笑んでいるような顔で、年の割に落ち着いて全体的におっとりとしていた。
微笑んだとき、下がり気味の目尻がさらに下がって柔和な印象を強くした。とろんとした目が無条件に愛らしい。
「本日はお招きありがとうございます、ブラック夫人」
彼女は、婚約者がこの場にいないことに一瞬困惑した表情を見せたが、すぐに素の表情に戻って母の手を取り、腰をかがめて旧式の礼をとった。その一挙一動が素晴らしかった。家で何度も練習したのだろう。
きっと兄のために。
兄のことを思い出すと意識しなくても顔が険しくなってしまう。
両親を嘆かせる天才。今日になって婚約者に会うことを拒否したそうで、部屋に籠城しているらしい。昨日いじめられたばかりだというのに、可哀想なクリーチャーは兄を部屋から連れ出す役目を両親に申しつけられた。
「今日はゆっくりしていって頂戴。シリウスはちょっと……支度が遅れているの。……先に弟のレギュラスを紹介するわね」
苦しい言い訳を述べた母の目がこちらを向いた。
「レギュラス、ご挨拶を」
穏やかにいう母だが、内心は怒りが煮えたぎって仕方がないに違いない。その証拠にさっきからこめかみに浮いた青筋がピクピクしている。笑顔もぎこちない。
母に促され、彼女の旧式の礼に従って旧式の礼を返すべく、そっとレディの手をすくう。その手は驚くほど細く、壊れそうなほど華奢だった。
母曰く、彼女のこの折れてしまいそうなほど繊細な体には、ヨーロッパのほとんどすべての名だたる純血の名家の血が流れているそうだ。
彼女の家は千年以上前から続く純血の名家で、薬売りを生業にしてきた。『薬種問屋コローナ=ボレアリス』の名を知らない魔法使いはいないだろう。それに関する書籍は何冊も刊行されている。純血同士の政略結婚で着々と富を増やしていった一族で、ヨーロッパのほとんどの純血の名家はコローナ=ボレアリス家の縁者だった。しかもそのすべての頂点に立つほど高貴な家柄。〝魔法会の王族〟と呼ばれる所以である。
しかし彼女の父親が家業の薬種問屋のほか、魔法使い向けの宿泊施設など様々な家業に手を伸ばした結果、数年前から赤字が続き、経済状況は必ずしも良好とは言えないようだ。
そこで彼女の両親は、一人娘である彼女を金持ちの純血主義者に嫁がせることで財を取り戻そうと試みた。そこに目をつけ、純血同士の結婚に特にこだわるブラック家は彼女を欲した。
特に母は彼女を我が家に迎え入れることに執着した。ブラック家は地位も名誉も富もあるが、それ故に長らく血族内での婚姻が続いていた。両親も一族内での結婚で、これ以上、一族内での血を濃くするのは将来生まれる子供に影響が出そうだし、かといって他家から妻を得たところで、ブラック家に利益になることはほとんどない。彼女と兄の婚約は、ブラック家が、イギリス国内での政略結婚ではもはや何も得るものはないと考えた両親により決定されたのだった。
良心は有り余る富や名誉を守るより、失われかけた魔法会の純潔を守ることを選んだ。血が近い国内の純血の名家より、外国の様々な名家と縁があるコローナ=ボレアリス家を選んだのはそういう理由からだった。
うまく運べば家族ぐるみで付き合うことになる。"魔法界のお姫様"と呼ばれる彼女に思いを馳せ――やっと目通りが叶った。
優しく微笑み、相手からの口づけを待つ。
そんな彼女に見惚れた。
「あ、の……?」
しかし、彼女が困惑した声を出したことでその時間は終わりを告げた。ハッとなった瞬間、彼女に見惚れていた自分を認めて羞恥心が湧き上がる。
「レギュラス・ブラックです」
なるべく顔をみないようにして指先に口付けた。挨拶のためにやむなしとわかっていても、恥ずかしかったし、顔はきっとわかりやすいほど赤くなっていた。
「よろしく、レディ」
「……よろしくお願い、します」
思ったより高圧的な声が出たせいか、彼女は言葉に詰まった。
気まずい空気が流れ、二人沈黙したのを見て、「あらあら」と母は笑った。
「母上。僕は兄さんを呼んできます。兄さんの婚約者なんだから、兄さんがいなくちゃ」
母の方に向き直り、なるべく無表情でまくし立てた。
ここにいない兄をこの場を離れるための言い訳に使い、ちら、とまた彼女に目をやる。
ドレスの裾を掴んで固まっている彼女は、視線が自分に向いていると理解するなり怯えたように何度も瞬きした。
「……じゃあ、レディ・コローナ=ボレアリス。ゆっくりしていってください」
「あ……は、はい」
か細い声で彼女は頷いた。どうしていいかわからず焦っているのが手に取るようにわかった。
珍しく頬が緩んでいる母はお姫様の背を優しく押し、優しい声を出した。
「さ、ベガ。おかけになって。シリウスが来るまでブラック家の歴史についてお教えするわ」
母は彼女をずいぶん気に入ったようで、窓際の一番日当たりがいい席に自分から座らせるのを見届け、ほっとした気分で部屋を出た。
一度自室に戻って呼ばれるまで寛ごうとしたものの、あの無作法な兄がお姫様の前でも何かやらかしているのではと気が気ではなく、一時間もしないうちに腰を上げて部屋を出ていた。未来、ブラック家の当主となる男がレディをエスコートできなかったというのも後世に残る恥だ。それよりももっと最悪なのはいまだレディを待たせているのではないかということだった。これでレディに機嫌を損ねられて縁談が不意になれば両親はかなり嘆くだろう。両親が嘆くのを見るのは嫌だった。
一応、部屋にはいないようで、静かなものだった。一度一階に降りて一つ一つ扉を空けて中を確認したが、兄の姿は屋敷内のどこにも見当たらず、かわりに思いつめた表情で、新聞を片手にトボトボと廊下を歩くクリーチャーを見かけた。
どうやら入れ違いになったらしい、という結論に行き着き、クリーチャーに声をかける。
「クリーチャー」
「レギュラスさま!」
クリーチャーはハッとしたように顔をあげ、恭しく腰を折る。その後頭部には赤く腫れ上がった瘤があり、何が何でもお見合いを受けまいとする兄との乱闘の結果を物語っていた。
クリーチャーは両手で新聞を差し出した。
「今日の朝刊でございますよ」
朝一番にアイロンがけされた新聞をめくるのは父だ。その次に母が読み、自分の元へやってくるには大抵昼前か、午後が過ぎてからだった。兄はクィディッチ欄以外、新聞にほとんど目を通さないので、母が読み終わるとすぐに自分の元へやってくる。
クリーチャーから朝刊を受け取り、今朝の仕事を労う。
「今日はご苦労だったね。平気かい?」
「ええ……ええ、レギュラスさま。そんなめっそうもない」
クリーチャーは拳大の眼をうるうるさせ、啜り泣いた。
屋敷しもべ妖精がこんな風に主人に優しく話しかけられることはあまりないのだという。たしかに、大人たちが考える屋敷しもべ妖精たちの扱い方と、自分の考えはたしかにずれているようで、屋敷しもべ妖精と親しげに話しをすると母は「主人らしくもっと堂々として良いのに」とちょっとがっかりする。屋敷しもべ妖精に対する扱い、それは両親の期待通りに育った自分が珍しく両親を嘆かせる事柄であった。
でもそれを両親好みに改めようとは思わなかった。滅多に両親を嘆かせないし、屋敷しもべ妖精に傅いている訳ではなく主人と使用人の境界をしっかり分けているのだから、これくらいは許されるだろう。
クリーチャーは自分を敬ってくれて、とてもよく仕えてくれる。だから自分もクリーチャーによくしてやりたいと思うのだ。クリーチャーの仕事に対する姿勢にも敬意を抱く。
が……兄のシリウス・ブラックにはそれが備わっていないようで、小言を言いつつも兄にも仕えてくれるクリーチャーには申し訳がなかった。
「兄さんたちはどうかな。仲良く話せていた?」
緊張してほとんどずっと下を向いていたお姫様を思い出す。だが能天気な性格の兄ならお姫様も多少は心を開いて話せたかもしれない。
そう期待したが、クリーチャーはボロボロの服で目をこすると、ポツリとつぶやいた。
「酷いものです」
クリーチャーは鼻をすすって、顔を歪めた。
「クリーチャーはもう見ていられません。シリウス坊っちゃんは奥様の言いつけを守らず、レディの手も握らず面倒臭そうにお屋敷内を歩き回っていらっしゃるのです。レディの仕立ての良いドレスの裾は泥だらけ。坊っちゃんに合わせて小走りで駆けているせいでせっかくの素晴らしいお髪もぐしゃぐしゃになって台無しです」
「おいたわしや」とクリーチャーは自分の力が及ばない情けなさとレディに対する申し訳なさで再び半泣きになった。そして将来の主人の悪口を言ったので、「クリーチャーに罰を!」と床に崩れ落ちた。
やっぱりそうなったのか。悪い予想と期待を全く裏切らない兄にはもはや敬意を抱く。
ぐすぐす泣くクリーチャーを落ち着かせるためには、何かいい方法はないかと考えあぐねて、一つ命令をすることにした。
「罰はいいから、クリーチャー。あとで庭でお茶を振る舞うから、いつでも出せるように用意してくれるかい。三人分だよ。お菓子もね。レディはきっと甘い味がお好きだよ」
罰を問われなかったことにクリーチャーは少し後ろめたそうな顔をしたが、最後は「仰せのままに、レギュラスさま」と鼻声で返した。
クリーチャーが去ったあとで、自分もめっきり静かになった廊下を後にしようと階段を上がろうとしたとき、不機嫌な兄の声が聞こえた。
「ここが父の書斎。隣の部屋に繋がってる。ここがお優しいお母様の部屋……で、ここが……」
「あ、の」
上等な革靴がしきりにドレスの長い裾を蹴るボスボスという音がお姫様の足並みを鈍くする。
どうやら年相応ではない黒ドレスを、彼女は着慣れていないらしく、慣れない裾さばきに難儀していた。
兄はバカなのか。あんなに歩きにくそうにしているのに歩調を緩めるということがない。
さらにはこれ見よがしにため息をついてみせたので、お姫様が焦った。
「ご、ごめんなさ」
「もうちょっとゆっくり歩いてあげなよ、兄さん」
見るに見かねて声をかけると、背後から声がかけられてびっくりしたのか、細い肩が跳ね上がった。
驚いて後ろにたたらを踏んだ細い腕を支えて姿勢を正す。
「ドレスの裾が泥だらけだ。さっきから何度もつまづいてるんだ」
そんなこともわからないのか、という風に咎めると、兄は憎々しげに睨みつけてきた。
「お前は黙ってろ、レギュラス」
「僕に兄さんの婚約者に口出しする権利はないもの。一応、助言してあげただけ」
ムッとして言い返すと、灰色の目がより一層きつくつり上がった。
険悪な雰囲気を敏感に察したお姫様が戸惑ったように瞬きの回数を多くし、これ以上いてはますます兄の機嫌を損ねてお姫様が怯えてしまうので、さっさと新聞を抱え直して再び自室に戻ることとした。
添削、修正、加筆しました。