入学式《前編》
アルバムをめくりながら二年前のあの日を思い出す。
あのあと、シリウスがお仕置きを受けないようにブラック氏とともに夫人を諌めるのが大変だった。
「何を見ているの?」
ホグワーツに向かう列車内。同じコンパートメントで隣に座ったレギュラスがアルバムに挟まれた写真を覗き込む。
今年、ホグワーツから手紙が来たので、通例通り一年生としてホグワーツに通うことになった。レギュラスも一緒だ。同い年で、家族ぐるみで付き合いのあるレギュラスがそばにいると、学校生活に対する不安も少し和らいだ。
写真は動いており、舌を出したシリウスを叱りとばすブラック夫人、それを諌める私とブラックさん、冷ややかな目で見つめるレギュラスがいた。
「みんなで撮った写真。覚えてる?」
指をさすと、ああ、とレギュラスは嫌そうにうなずいた。
「その日は寝る前まで母上がずっとシリウスを怒鳴りつけっぱなしだったな」
あれから二年。レギュラスは兄のことを"兄さん"とは呼ばなくなり、"シリウス"と呼び捨てることが多くなった。
「あの時は楽しかったわ。とても」
「そりゃ君はね。あのあとのことを知らないんだもの」
レギュラスはうんざりした顔をした。と、その時車内販売のおばさんが注文を聞きに通りかかったので、レギュラスはブラック夫人からもらっていたお小遣いでキャンディーを一掴み買い、私に半分くれた。
ありがたくいただき、中でも一番小さなキャンディーを一つ口にした時、レギュラスは口を開いた。
「君は何処の寮に入りたい?」
唐突な質問だった。
私はこの二年で相当上達した曖昧な笑みを顔に貼り付けた。
何処の寮に入りたいという希望は特になかった。知る限り、うちの家族でスリザリンだったのは母と、ブラック家傍流の出身だという祖母だけだった。しかし、ブラック家は違った。
「レギュラスは断然、スリザリンよね」
「そうだよ。ブラック家は代々スリザリンの家系だからね」
家風に忠実なレギュラスは予想通りそう答えた。ブラック家の人々の多くはスリザリン以外の寮はくそくらえと思っているようで、レギュラスも例外ではない。
「君はグリフィンドールにでも入る気かい?」
レギュラスは嫌味っぽくいった。
顔では平静を保ちつつも、できるだけレギュラスを怒らせないよう曖昧にぼかす言葉を選ぶ。これが結構難しい。正直シリウス相手の方がマシだ。シリウスは私が答えに窮すると話題を変えることが多い。でもレギュラスはじっと相手を見てどう出るか見定めようとするーーまるでスリザリンの象徴である蛇のように。
時間稼ぎにキャンディーの包み紙を捻ったり引っ張ったりする時間が妙に長く感じた。
お互いに物心がつき始めたせいか、初めて出会った時からいびつだった兄弟関係は、二年の時を経て"確執"に変化した。特にここ一年、兄弟は事務的な話しかしないようになった。
悪戯好きで裏表のない大胆な性格のシリウスと、真面目で品行方正なレギュラスは両親だけでなく周囲からもなにかと比べられた。
二年前に出会ってからしばらく、試用期間も兼ね、シリウスがホグワーツに行くまでの数ヶ月をブラック家で過ごしたが、そのときもブラック夫妻はレギュラスは弟だが、ブラック家の家風な彼を見習うように、シリウスと私に言うくらいだ。
ブラック夫人は私にはたしなめることはあっても怒ることはなかったが、シリウスには悪戯でなにか問題を起こすたびに、怒り狂ったキンキン声で「レギュラスを見習いなさい」「ちゃんとしなさい」「レギュラスはあんなにいい子なのに」「どうして言うことを聞かないの」とシリウスを叱るのを聞くのが苦だった。
そしてその様子を遠目に、「ほらみろ」というようにレギュラスが態度で兄を嘲るので、腹を立てたシリウスがレギュラスに突っかかろうとしたところを何度か身を呈して止めたこともある。
二人とも私には親切だったが、もはや兄弟仲は私を介してしか交流がないほどで、レギュラスは口を聞くのも嫌だと言わんばかりにシリウスの前ではむっつり黙り込む。
レギュラスの前でシリウスの話はご法度。だから彼の名前は出さないように、当たり障りなく答えるのが吉だ。
「……そうね。それも悪くないかも」
一年前、シリウスが代々スリザリンが続いたブラック家に稀なグリフィンドール生となったことは記憶に新しい。
夏休み中、ブラック夫人はいい顔をしなかったし、レギュラスは終始不機嫌だった。でも対象的にシリウスがご機嫌だったのが、妙に笑いを誘ったが、しかしブラック家には終始、笑ってはいけないギスギスした空気が張り詰めていた。クリーチャーに聞くところによると、ブラック夫人は大層嘆き、吼えメールを送ったほどだったという。
また、兄弟間に決定的な亀裂が走ったのもこの頃だった。以降、またもや家族を悲しませた兄を、レギュラスは軽蔑していた。
その時のことを思い出してか、レギュラスは窓際に肘をついて忌々しそうに呟いた。
「死ねばいいんだ、あんなやつ」
「そんな言い方はいけないわ」
ブラックさんに嫌われないように、ブラック家の人々のいうことに対する答えは何があっても『イエス』だと母に教えられてきたが、流石にこれには賛同できない。
だって私にはシリウスに死んでほしいという思いも、それほど彼を憎む理由もなかったので。
少し咎めるように言うと、レギュラスは横目で見据えた。
「そうやって、君はいつもシリウスの肩ばかりもつんだ。だからあいつがつけあがるんだ」
「そんなことないわ」
「そんなことない? 君、あいつが影で自分のことをなんて呼んでいるかわかっているのかい?」
レギュラスは怒りを込めて唸った。
「"世間知らずのお姫様(Naive Princess)“と、家では君をそう呼んでいるんだ」
シリウスは世間知らずな私を『お姫様』と呼び、時折、『純血の王女様』と呼んでからかった。
意味は何となくわかっていたが、別に気にしていなかった。婚約者とはいえよそ者の私には彼に意見する権利はなかったし、シリウスの言動、そして一挙一頭足をいちいち気にしていてはきりがないということをこの二年間で学んでいた。なぜレギュラスが私のことを自分のことのようにシリウスに憤るのか、常々理解に苦しんだ。
伝統を重んじるレギュラスは礼儀正しい。特に女性に対しては。だからこれもその延長なのだろう。シリウスが女性に対して無礼な振る舞いをすることが許せないのだ。
私は今日も今日とて、兄弟仲をこれ以上悪くしないようにとりなす。
「私は気にしてないわ」
「そうだろうとも。君はいつもシリウスに対して従順だからね」レギュラスは不愉快そうに目を背けた。「はい、シリウス。ええ、そうね、シリウスって、そればかり……」
先ほどまでシリウスへの悪態をついていたはずのレギュラスの、怒りの矛先が自分に向いたことに、どうしようもなく困惑した。
自分はシリウスとレギュラスに喧嘩して欲しくないからそういっているだけだ。レギュラスが怒っているのはわかったが、どう言い返したらいいのかわからない。
「私は、その、二人に喧嘩して欲しくないだけなの。別にシリウスの肩をもっているわけじゃないわ。でも、レギュラスがそれを不快に思っていたなんて思わなくて…知らなくて……ごめんなさい……」
うまく言えない自分が情けない。
なんだか暗い感情が喉を押し上げてきて、目玉が熱くなって視界がぼやけた。私は喧嘩をして欲しくないだけだ。二人だけの兄弟なのだから、出来るだけ仲良くしてほしいだけなのだ。
泣きそうになったことに気づいたレギュラスが気まずそうな顔をした。
「……君を責めているわけじゃないんだ」
レギュラスが、クリーチャーがしっかりとアイロンを当てたまっさらな絹のハンカチを差し出した。それがレギュラスの敗北宣言だった。
わざとではないといえーーレギュラスが女の涙に逆らえないことをわかっていて泣く私は、きっと卑怯者なのだろう。
口の中で転がした小さなレモンキャンディーの味は、いつしか鼻の奥で海の味に変化していた。