邸内の一番日当たりのいい場所に案内して、レギュラスは椅子を引いた。
「どうぞ、レディ」とまるで使用人みたいに傅くものだから、拍子抜けしてしまい、短いお礼の言葉さえも喉をつっかえた。
レギュラスは向かい側に腰掛け、そっぽを向いた。沈黙が走り、なにか会話をしなければと私は口を開いた。
「あの」
レギュラスの灰色の目がこちらを向いてどきりとして、しどろもどろになる。すぐに視線を横にそらした。
「私のことはレディじゃなくて、ベガでいいの……そんな大層な生まれでもないから」
そう言うと、レギュラスはまじまじと私の顔を見つめた。
「君が? 大層な生まれじゃあないだって? 冗談だろう」
レギュラスはじっとわたしを見つめたまま語る。
「その体にはヨーロッパのあらゆる純血の血が流れていると、そうお母様に聞いているよ。魔法界のお姫様だって」
「お姫様?」
私はポカンとして口を開けた。ゆっくりと言葉を飲み込み、顔が真っ赤になった。全力で首を横に振る。
「ち、違うわ」
「違う?」
「うちは……コローナ=ボレアリス家は、ブラック家と違ってその……貧しいの。お姫様はもっと豊かなものでしょう?」
世間知らずな私でも、貧乏なお姫様が存在しないことくらいは知っている。
申し訳なくて正直に言ってしまいたい。私があなたのお兄様とーーつまり“ブラック家"と結婚するのだって、ブラック家からお金をもらうためなのよ、と。
己を恥じて俯いた。
生家の財産が半分以下に減ったのは、そんなに昔の話ではない。
表向きは実家の事業の不振ということになっているけれど、実際は母の浪費癖が原因だった。母の浪費癖のせいで、食うに困らない程度はあった財産が今ではそれまでの生活を運営するのに精一杯となっていた。
加えて育ち盛りの男の子三人を育て上げなければいけないこともあり、両親は五十年ぶりに生まれた女の子ーー私を、どこか裕福な名のある名家に嫁がせることにした。
まず候補に上がったのはマルフォイ家だった。しかしマルフォイ家の跡取り息子とは年が離れすぎていると母が泣いて固辞したため、この縁談はなくなった。変わって転がり込んだ縁談はその親戚筋のブラック家で、この家には同じ年頃の男の子が二人いた。
二人のお見合い写真を見て、母は将来有望でハンサムなシリウスを気に入り、娘をあてがうことに決めたのだった。
前金としてかなりの金額を受け取ったと、小耳に挟んでいた。
「あなたは……ええと、レギュラス」
「待ってーーああ、ここだよ、クリーチャー」
レギュラスは半開きの扉越しに声をかける。間も無くしてお茶道具一式を持った屋敷しもべ妖精ーークリーチャーが入ってきた。
今すぐ折れそうな棒切れのように細い腕を胸に当て、深々とお辞儀をする。
「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました、レギュラス様、お嬢様」
「ありがとう。僕はストレートで……レディ……じゃなくて、ええと」
「ベガよ。ベガ・アルタイラ・コローナ=ボレアリス」
クスリと笑って再度自己紹介する。
そういえば、まだきちんとした自己紹介はしていなかったと思い出す。きちんとした自己紹介をしたのはまだブラック夫人とシリウスだけだった。レギュラスにはまだ簡単な挨拶しかしていない。
「ああ……えっと、ベガはなににする? 他に何かあるかい、クリーチャー」
女の子の名前を呼びなれていないのか、早口でまくしたてる。
ワゴンでお茶の用意をしながら、クリーチャーは穏やかに答えた。
「オレンジジュースとリンゴジュースならすぐにご用意できます」
胸を張って答えるクリーチャーに、ベガは見るからに慌てた。
「私もお紅茶で結構よ。その……えーと、我儘を聞いてもらえるならミルクティーがいいわ。あるかしら?」
「かしこまりました」
立派なレディは紅茶はストレートで飲むものだと母がいっていたのでミルクティーは子供が飲むものだと馬鹿にされるかと冷や冷やしたが、クリーチャーは要望に答え、いそいそと用意を始めた。
まずはレギュラスにストレートの紅茶を。次に私に暖かいミルクティーを差し出した。
ゴールデンドロップまで淹れ切ったお茶は美味しそうな茶色をしている。理想のミルクティー色だ。
「お砂糖をどうぞ、お嬢様」
「あの、私のことはベガでいいの……お嬢様なんて……そんな大層な生まれじゃないんだから……」
いうと、クリーチャーは目をまん丸にして、聞くものが思わず肩をすくめるほどの音を立ててシュガーポットを落とした。
角砂糖が床一面に広がる。
私は焦ってクリーチャーに駆け寄った。
「大変……! クリーチャー、大丈夫? 怪我はない?」
「怪我……え、ええ。ありませんとも」
呆然としてシュガーポットを片付けようと素手で破片に触れようとする手を、慌てて払いのける。
「だめよ! 素手では怪我をしてしまうわ」
「クリーチャーめは奥様からくれぐれも失礼のないようにと命じられております。ですからいま、罰を……」
「やめろ、クリーチャー!」
破片を拾い上げ、小枝のような腕の内側に破片を押し当てた瞬間、レギュラスが怒鳴った。
「レディの前でなんてことをするんだ」
「し、しかし、レギュラスさま」
「お前の体はお前一人のものではないことを忘れたか? それともお前は主人の命令に背くのか?」
レギュラスがいい含めると、クリーチャーははっとしたように目を見開いた。
「わかったら地面にそれを置くんだ。いますぐ。クリーチャー。お前はもうお下がり」
「しょ、承知いたしましたっ、レギュラス様……」
憤りを抑えて言い聞かせるレギュラスにすっかり萎縮したクリーチャーは、腕に当てていた破片を放り捨てて、足早にその場を去った。
私は正直ホッとした。同時に、レギュラスがこのクリーチャーに向ける愛情に気付いてしまった。
それが少し羨ましかった。
子供心に、レギュラスは立派な人なんだと、感心し、尊敬した。
だって私は今まで生家で屋敷しもべ妖精をぞんざいに扱ってきた人しか見たことがなかったので。
「あっ! お前そんなところでなにやってんだよ!」
シリウスの不満そうな声が割って入り、レギュラスは眉間に皺を寄せた。
「なんだい、兄さん」
「お前なんでこいつと一緒にいるんだよ?」
レギュラスを無視して、くるりとシリウスの首がこちらを向く。
レギュラスがますます眉間に皺を寄せる。このとき、私はようやく二人の兄弟仲が芳しくないことを認めた。
話してみればわかるが、自由奔放でマイペース、元気いっぱいのシリウスと、誰の手も煩わせない物静かで品行方正、優等生のレギュラスは本当に兄弟なのかと疑うほど性質が真逆だ。それ故に相容れないこともまた、多いのだろう。
「レディをあんな中庭に置き去りにするから、ここに連れてきたんじゃないか。感謝の言葉もレディに対する謝罪の言葉もないのかい」
「お前には聞いてない。レギュラス」
途端、レギュラスの頬に赤みがさした。やや充血した同じ灰色の目で、兄をきつく睨みつける。
「この無作法者」
「そりゃどうも。礼儀正しくママに従順なレギュラス腐れ坊ちゃんと違って問題児な俺は、言いつけ通りレディをエスコートしきれなかったようで」
「貴様……!」
「あ、あの、喧嘩はやめて」
シリウスの幼稚な挑発に完全に頭に血が上ったレギュラス。今すぐ殴り合いそうな二人の間に割って入った。
「喧嘩は良くないと思うの」
いくら世間知らずな私でも、喧嘩がいけないことはよく知っている。
父はよく浪費する母を叱り、母は泣きながら父に言い返し口輪を繰り返した。ーー見ていて気持ちのいいものではない。
「それより、一体何の用事だったの?」
話を変えるためにシリウスの方をむく。
「ああ、そうだった」言いながら、シリウスはクリーチャーの用意したお茶請けのビスケットを一つ摘んで口に入れた。
私は大胆なその姿に軽く目を瞠っただけだったが、レギュラスとクリーチャーは顔をしかめている。
「お優しいお母様から伝言。みんなで写真を撮るから庭に来いってさ」
口をもぐもぐさせながらシリウスがいう。
そしてすべて飲み込んでしまうと、シリウスは私の手首を掴んで強引に立ち上がらせた。
「ほら、行くぞ、お姫様!」
手を引いて、シリウスが駆け出す。
「ま、待って」
私は長いスカートの裾をあげて、大慌てでシリウスの後に続いた。
「兄さん!」後ろから、レギュラスが追いかけてくる音が聞こえた。
「はーい、坊ちゃーん、お嬢さーん。笑って笑ってー」
写真屋のおじさんがニコニコ笑顔でこちらにカメラを向ける。
「坊ちゃん方ー、笑ってー笑ってー」
写真屋さんが困った顔になったのは、シリウスとレギュラスはお互い目も合わせず、険悪な雰囲気がその場に立ち込めていたからだ。
痺れを切らしたブラック夫人が首を横に向けるシリウスのほおを抓って無理矢理顔を正面に向けさせた。
「笑いなさい!」
いって強引にシリウスと私の肩を寄せる。
レギュラスはその中に入れなかった。
「はい、撮りますよー」
シャッター音が響く直前、シリウスが指名手配犯を思わせる凶悪な人相であっかんべをするように舌を出したので、ブラック夫人は怒り狂った。