アッペニーレはこの後ですよ。
二次創作で未来の話を書いていたら、公式にやられてしまうなんて立場ねぇよ( ゚Д゚)状態でした。
こちら、ハーメルンでも投稿します。
ポチャン……
オールが水に沈む音を聞くと、自分の心がどんどん澄み渡っていくように感じる。
ゴンドラの上に立つ。直立した姿勢でオールを動かすと水をかく音が聞こえる。
そして、オールが水の抵抗で少ししなる。ゴンドラが少しゆれる。これらの感覚はとても心地よい。
自分は水の最も近くにいる人間であるのが実感として感じられる。
夏の低い空に浮かぶ太陽が茜色の西日を放つ。
品がありそれであって派手すぎない彫刻に飾られた、建物の影から出てきたゴンドラに乗ったアイ。
そこから出るとアイの視界に、海に沈もうとする太陽の姿が思いっきり広がった。
「そろそろ帰らないと……」
しっかりもののアイは自分の師であるアカリの顔を思い浮かべた。
アイはいつもアカリが帰る時間に合わせて先に帰り料理をしている。
この、ゆっくりと時間の流れるこの星に愛されているかのように、暖かく、優しい。素敵な事を見つけるのが上手いアカリ。
アイはそのアカリが大好きだった。
最初は嫌いだったネオ・ベネツィアを大好きにしてくれたのがアカリである。素敵な奇跡に触れ、ゆっくりと流れる時間と優しい人々に満ちた素晴らしい街であるのを教えてくれた。
アカリはこの料理をどんな顔をして喜んで食べてくれるか?
鍋をグツグツと煮立てているところにアカリの帰ってくる音が聞こえてきた。
アリシアゆずりの静かで優雅な操舵の技術が、ゴンドラが水をかく音だけで伝わってくる。一発でアカリであると分かるのだ。
ゴンドラから降りてアリアカンパニーのドアを開ける音。それと共にアカリが入ってきた。
「ただいまー。ホエー……いいにおい……」
このゆっくりとした時間の流れるアクアの空気をそのまま表現しているような声である。
「アカリさん。お帰りなさい」
「うん。ただいま」
アカリは締まりの無い顔をしながら桃色の髪を揺らして、花の蜜に誘われた蝶のように、フラフラしながら料理をしているアイのところまでやってきた。
「もうすぐできるね」
ミネストローネが煮詰まっているのを見ながらアカリは言った。
すぐ隣の流しで手を洗いながら言う。
「手伝うよ。お皿を並べればいい?」
「よろしくお願いします」
アイは笑顔で返す。
アカリはニコニコしながら皿を並べ始めた。
「昔と一緒だよね」
アカリが言い出す。
アイはアカリが昔このアリアカンパニーで見習いをしていた時の事を知っている。
アカリの先輩のアリシアとお互いに手伝い合いながら、アリアカンパニーを切り盛りしていたらしいのだ。
「ぷにゅ!」
そこにアリア社長もいたという。白くてまんまるの火星ネコもいまでもアリアカンパニーにいる。
まだアリアカンパニーに来てから日が経っていないアイとは違い、ずっと前からここにいるアカリには昔と重なる部分も多く見えているのだろう。
「私は昔のアカリさんみたいに役に立てるお手伝いができていますか?」
アイは聞いてみた。
昔のアカリはアリシアにとってはなくてはならないほどに重要で大切な支えとなっていたのだという。
自分はそこまでの力になれているのだろうか? 足りない部分があるのではないだろうか? そう考えると、アイはちょっとだけ不安になるのだ。
「足りないところもあるでしょうけど、私はできる限りがんばりますので見ていてくださいね」
アイは握りこぶしを作って言った。アイなりに決意を込めて言った言葉だった。
アカリはニコリと笑って言う。
「昔の私もアイちゃんみたいだったよ」
昔のアカリ。非力な自分がアリシアの力になれているかどうか不安だった。
それで肩に力を入れて『もっとがんばろう。もっとがんばろう』とがむしゃらになっていたのだった。
「アイちゃんには、もうこれでもかってくらい助けてもらっているよ」
かつてアリシアから言われた言葉。
それを思い出しながらアカリは同じ事をアイに向けて言ったのだ。
「それじゃあいってくるねー」
いつ見てもアカリがゴンドラをこぐ姿は優雅である。
仕事に向かったアカリの後姿がどんどと小さくなっていくのをアイは姿が見えなくなるまで見送っていた。
これからアイは店番や自主訓練などをやっていくことになる。
「さっ! 今日もがんばらないと」
アイは自分で自分にかつを入れた。
気合を入れて頭に三角巾を巻いて今日の汚れを落とし始める。
番台に立ちながら、アイは一つ気になるものを見つけた。
番台から先は輝く海原になっている。
春の日差しを受けて綺麗に揺れる海の上で一台のゴンドラが浮かんでいた。
そのゴンドラの上に乗っている人影は、赤いラインの入ったウンディーネの制服を着ていた。
昔から続く老舗である姫屋の制服だ。
ゴンドラの上に立ちずっとこちらの方を眺めていた。
「なんだろう?」
不思議に思ったアイはベランダに立った。
身を乗り出すと夏の風を感じる。
このアクアの海は真水である。海風が髪にベタつく事なんてない。今日は湿度も低く、カラリとしているためすがすがしい風だ。
「けっこう風が強いのに」
風でアイの髪が揺れアリアカンパニーの制服がはためく。
だが、あのゴンドラはまったく揺れることなく、流されることもなく水面に浮かんでいるのだ。
「上手いなあ。誰なんだろう」
ゴンドラに乗る操者が上手いからできる事だ。
「すいません! アリアカンパニーに何か用ですか!」
アイは大声でその人に声をかけた。
彼女は何者なのか? これは新しい出会いなのかもしれない。
アリアカンパニーにやってきてまだ一ヶ月しか経っていないアイには、この町の人間との新しい触れ合いは何者にも変えがたい喜びであるはずだ。
だが、その人影はアイの声を聞くと驚いたようにして飛び上がった。
慌ててオールを握った彼女は、ゴンドラを漕いで町の水路の方まで行ってしまったのだった。
「お茶でもどうかと思ったのに……」
アイは新しい出会いの匂いが逃げてしまったのを残念に思いながら、自分の仕事に戻っていった。
その日の夕食。
「へえ。そんな事があったんだ」
アイは昼間に起こった事をアカリに話した。
それを楽しそうにして聞いているアカリは何か違和感のある聞き方で返した。
「その子の事はどう思った?」
アリシアさんのような雰囲気を持って、笑って聞いてきたアカリ。
「遠目に見ただけだったんでよく分からなかったです」
「ふーん」
ニンマリと笑ったアカリ。
何か嬉しそうであり何かを隠しているようである。いつもの子供のように無邪気であるが、水のように澄んでいる様子とは違った感じだ。
「何か知っているんですか?」
アイは聞いた。
それに面食らったようにして驚いたアカリ。
「私には隠し事なんて向かないんだね」
そういった感じで、自分の不甲斐なさに苦い笑みを見せたアカリ。
「教えない」
ニコリと笑ってアカリが言った。
「えー。教えてくださいよ」
アイがむくれて聞いたがアカリはおしえてくれなかった。
「明日になれば分かるよ」
そう言い、アカリは自分の皿を片付けていった。
「いちばんのりー!」
アカリは丘に立つと透き通る声で言った。
ここは花が一面に咲き乱れている丘である。
岬になっているここは潮の流れが複雑で、まだアイが一人でくる事はできない。
ここは、アカリが見習いの時代に練習コースとして使っていた場所だ。
アカリは小妖精と呼ばれている仲間達と時間をすごしてきたのだという。
水の三大妖精と呼ばれた三人が育てた申し子達は、それから立派なトップウンディーネになり師匠達と同じ『妖精』の名を受け取っているのだ。
「だーれが一番ですってー?」
その丘の影から小妖精と呼ばれるウンディーネの一人アイカが声をかけてきた。
アカリの背後から、頬をフニフニとつかんでアカリの顔をこねくり回している。
「あんたらより後に来るわたしだと思ったか!」
ビシリ! とアカリの頭をつつきながら言ったアイカは得意げな表情をした。
「へえー。アイカちゃんはやいー」
顔をグニャグニャとこなくりまわされながらもアカリは言った。
アイは似たような光景を昔見たことがある。
数年前と何も変わらなかった。何年経ってもアカリとアイカの関係には変化がない。
「アイカさん。おひさしぶりです」
アイがアイカに挨拶をすると、アイカは振り向いた。
「うん。久しぶりだねアイちゃん」
昔から活発なアイカは今でも変わりない。大人びて背が伸びても雰囲気はまるで変わっていなかった。
「アリスさんもくるんですか?」
「ああ。後輩ちゃんは遅れてくるんじゃない? オレンジプラネットの奴らはマイペースっていうか、ヌケているっていうか……」
まったくあいつらはしょうがない。
そういった感じで首を振っていたアイカの背中に声がかけられた。
「アテナ先輩と一緒にしないでください。でっかい不本意です」
その声はゴンドラが水をかく音とともに現れた。緑色の髪を風になびかせながらゴンドラを漕いでいるのがアリスである。
アリスも小妖精と呼ばれるウンディーネの一人だった。
昔はアカリとアイカの後輩として一回り背が低かったアリスだが、今ではアカリ達に並ぶ背の高さになっている。
アイは丘の上からアリスに声をかけようとした。
だが、アリスの操縦するゴンドラに乗っていた小さな影がそれの邪魔をした。
「あんたがアイって奴かい?」
じっと獲物を狙うようにして見上げてきた女の子だ。
「こら。何をしているんですか」
「ライバルにちょっとした挨拶をして何が悪いってんですか」
「アイちゃんは私のお友達ですよ」
その女の子とアリスの間で何やら小さなモメ事が起こっている。
その小さな女の子は髪を短くしていて、どちらかというとアイカに似ているかもしれない。
その、オレンジプラネットのウンディーネの制服を着ている女の子は、大声をあげて自己紹介をし始めた。
「あたしはアサミ。将来のトップウンディーネになる女さ!」
ビシリと空の方を指差して言うアサミ。それに対してアイカは言い出す。
「ほーう。このローゼン・クイーンのアイカ様の前でトップを名乗るとはいい度胸じゃないの!」
アサミは胸を張り鼻を鳴らしながら言う。
「ローゼン・クイーンなんかに興味はないわい! あたしが目指してんのは」
今度はビシリとアカリの事を指差しながら言う。
「アクアマリン! 水無灯里!」
いきなり話が自分の方に向かってきたアカリ。
「ほえ?」
話についていけずにいつもの身の入っていない声を漏らした。
「私は感服したわぁ。ゴンドラを漕いでいるだけでも圧倒的な存在感を持っているんやもん」
アサミはアカリに惚れ込んでいるようだ。
「あたしの師匠も言ってたでぇ。『アイカ先輩なんかより、アカリ先輩の方が何倍も上です。アイカ先輩なんてでっかいゴミクズです』ってなぁ!」
「なぁ! あんたそんな事を言っていたの!」
アリスは、ツンとした態度をしてアイカから顔をそらした。
「オレンジプラネットの後輩は生意気な奴じゃなきゃならないっていう決まりでもあるのかしらねぇ」
アイカはうんざりしたようにして言った。
「一緒にしないでください。でっかい迷惑です」
アリスは言う。
「自分が選んだ子なんでしょう? 指導員だってしているわけだし」
アカリがそう言うとアリスは物言いたげにしてアカリの方を見た。
「それなのですが、そもそも私が指導員になったきっかけがですね」
アリスはその事を話し始めた。
いまアリスは船着場にいる。
オレンジプラネットのウンディーネ達が使う、いくつもの仕事用のゴンドラが並んでいるところであった。
アリスは仕事の時間になり、自分のゴンドラを操縦するためにオールを取った。
自分のゴンドラに乗り移り水の上に立とうとしているところ、背中から耳をつんざくような大声で声がかかったのだ。
「よろしくおねがいしまぁぁぁあす!」
大きな声に振り向くとそこには腰を九十度曲げて礼をしているアサミがいたのだ。
「オレンジプリンセス。どうか私の指導員になってください!」
唐突にそう言いだした。
アリスにとっては迷惑な話だ。自分の仕事だって忙しいのに人の指導などやっている暇があるわけがない。
「でっかい迷惑です」
嫌な顔を隠しもせずアリスは言い捨てるように言ってから、ゴンドラに乗って仕事に向かっていった。
だがその件はそれで終わりではなかった。
何度もアサミはアリスの前に顔を出してきた。
食堂で食事をしている時、自分の正面に座ったアサミは、何も前置きもなしに言い出す。
「おねがいします。弟子にしてください」
はっきりと嫌な顔をしてみせたアリスは無言で別のテーブルまで向かった。
続いて、アリスが風呂でくつろいでいる時すぐ隣に座ってきた。
また言い出す。
「弟子にしてください」
アリスは無言で風呂からあがっていった。
アリスが日課の散歩をしているとき嫌な予感を感じてあたりを見回した。
アリスは狭い小道を歩いている。両隣は木を植えて作った垣根になっており、前にも後ろにも人影は見えない。
「考えすぎですか」
何もないのを確認してほっっとしたところ、となりの垣根の間からアサミがニュっと顔を出してきて言ったのだ。
「弟子にしろ!」
「ひぃ!」
思わず驚いてしりもちをついたアリス。だがすぐに落ち着きなおす。
アリスは体についた砂を払いアサミの事を無視して先へと歩いていった。
背中にアサミの声を聞く。
『あれっ……抜けない……』『お願い引っ張って!』『助けてくださいししょ~!』
後ろから助けを求める声をきいてしまったアリスは足を止めた。
「誰が師匠ですかまったく」
そう言いながらきびすを返す。
「今回だけですよ」
アリスは泣いて懇願をするアサミの手をつかみ思いっきり引っ張った。
思いっきり引っ張ると、ズッポリとアサミの体が抜けアリスはしりもちをつく。
「ありがとうございます~。ししょ~!」
しりもちをついて倒れたアリスにそう言いながら泣きつくアサミ。
「ひっつかないでください!」
アリスは、アサミを引き剥がした後散歩のコースに戻っていった。
その後、アリスは仕事をするために自分のオールをとった。そこに声をかけられる。
ウンディーネの仕事を取り仕切る管理部長だった。
「あなた、アサミさんと仲がいいようですね」
「仲がいいといいますか」
アリスは困惑して答える。管理部長は続けて言った。
「あなた、アサミさんの指導員をやりなさい」
あまりの事にアリスは動きが固まった。
「ししょ~! がんばります~」
どこからか出てきたアサミがアリスに飛びついていった。
「それじゃあ頼みますよ」
その瞬間それは決定事項になったようで、管理部長はそのままきびすを返していった。
「そういった事情がありまして」
アリスはアカリに説明をした後、ズーンと落ち込んだようにして暗い雲をまとった。
その話をしている間にもアイカとアサミは『ムキー』と言い合って相手をポカポカと叩きあっていた。
「アイカちゃん。アサミちゃんもストップ」
二人の事をアカリが止めに入った。
「そういえばアイカちゃんのところはどんな子なの?」
アカリが聞くとアイカは奥の方に視線を向けた。
「アキ。そろそろ出てきなさい」
よく見ると姫屋の帽子がちょこんと草の上から顔を出していた。アキと呼ばれた女の子は、草の上に目元まで顔を上げ皆の様子を確認した後立ち上がった。
「はじめまして。アキです」
うつむきかげんで言った彼女はまた草の陰の方に歩いていった。
「まてぃ。なぜにまた隠れる」
アイカがアキの服を引っ張ってそれを止めた。
「ここに座る」
そう言いアイカは自分のすぐ隣をポンポンとたたいた。おとなしくアキはそこに座りそこから上目使いでアイの事を見上げた。
「アキちゃんって、もしかして今朝の?」
「はい、そうです。すいません」
「謝ることじゃないよ」
うつむき加減で言ったアキ。
どう声をかけていいのか? と困ったアイ。
そこでアイカは大声を張り上げて言い出した。
「それじゃー! 三社合同のレース大会を始めるわよー!」
アカリ、アイカ、アリス。
三人がさっきまで使っていたゴンドラに乗り、三人がさっきまで使っていたオールを持っているアイとアキとアサミ。
自分の師が長く使い込んでいるだけあり、それは自分のオールよりも自分の手にしっくりと馴染むように三人の弟子達には感じられた。
「よーいドン!」
アイカの掛け声と共に三人は一斉にゴンドラを漕ぎ出した。
その中で一番にかけだしていったのはアサミだった。
「うぅぅりゃりゃりゃりゃりゃりゃぁ!」
思いっきり掛け声をあげてゴンドラを漕いでいく。
アイとアキを追い抜いてずっと先にまで行ってしまった。
それを見て得意げな顔をして言ったのがアリスだった。
「ほうら、うちの子が一番早いですよ」
「姿勢が悪けりゃオールの振りだって無駄に大きい。無駄な力が入りすぎ」
「何を言ってるんですか? これはレースですよ。勝てばいいんです」
「私達がウンディーネだって事は忘れないでよね。あんな漕ぎ方をするウンディーネがいるかい!」
お互いに顔を突き合わせながら言い合った。
アリスはアキの事を指差しながら言う。
「ならあの子はどうなんですか?」
アイカがアキの様子を見る。
ガチガチに震えながら壊れた人形のような様子であった。錆付いた人形のような様子でゴンドラを漕いでいる。
動きを見ているだけでギギギギという音が聞こえてきそうであった。
「あの子、すぐにガチガチに緊張しちゃっていつもの力が出せなくなるのよ」
アイカは言う。
「指導員がダメなんじゃないんですかねー?」
アリスはこれでもかと冷たい目をしながら言った。
「アイちゃーん。がんばれー」
その二人の耳にアカリの声が聞こえてきた。
二人が見ると丘の上からアイの事を追いかけながら声援を送っているアカリの姿があったのだ。
「やりにくいなぁ」
アイが言う。
アイは少し困った様子になりながらゴンドラを漕いでいた。
「アカリ。あれはやりすぎよ」
「アイちゃんがなんか迷惑そうです」
二人はそう言うがアカリは木が邪魔をして、先に進めなくなるところになるまでアイの事を追っていく。
「アイちゃん! そこは流れが激しいから気をつけて!」
アイの事が見えなくなるまで声援をかけ続けていた。
花の咲く丘に座り三人が戻ってくるのを待ちながら、アイカとアリスは春の風に吹かれていた。
「アイカ先輩はいったい何であの子の指導員をやろうと思ったんですか?」
アリスは聞く。
それに反応をしたアイカ。得意げな顔をしてアリスの方を向く。
「よくぞ聞いてくれました。後輩ちゃん」
さらに身振り手振りも加わってきたアイカ。
「これには聞くも涙語るも涙の壮大なドラマがあるのよ」
姫屋の入社式の日。姫屋の跡取りであるアイカは新人のウンディーネ達と対面をした。
赤い絨毯が新人ウンディーネ達の座る椅子の郡の中から伸び、舞台の形になっているアイカの立つ壇上に伸びている。
今年に入ったウンディーネは十数名。その一人一人に社員章などの書類を渡していくときの事だ。
一人一人が椅子を立って壇上にいるアイカのところまで歩いていく。そして、書類を受け取って自分の席に戻っていく。形式的な式典である。
その中で一人ガチガチになってぎくしゃくした動きをした女の子がいた。
アイカはこの様子を見てこの後の新人のお披露目を兼ねたレースでは、この子はどうなってしまうのだろうか? と不安になったものであった。
レースになるとその子はガチガチに震えながらゴンドラを操縦していた。
晴天の空海に十台以上のゴンドラが並んでゴールに向かって進んでいる。
姫屋の社員の乗るゴンドラがそのレースの様子を囲んで観戦をしている。
速さを競い合っているところ群を抜いて遅いゴンドラが、フラフラしながらやっとの事で進んでいた。
立っているのもやっとで見ているだけでも不安になる様子であった。
案の定、そのゴンドラの操縦者はバランスを崩して海に落ちてしまった。
その時までは、アキの事はただの『しょうがない新人』くらいに思っていた。
その日の夜。寝巻きに着替えたアイカはヒメ社長にご飯をあげる。
ヒメ社長がそれを食べ始めるのを見ると寝る準備のために髪をとかした。
これから、眠くなるまで本を読んだりなどして時間をつぶすのである。
夜といってもまだ宵の口。建物からはいくつも光がこぼれアイカの部屋である姫屋の建物からこの町の夜景を眺める事ができる。
アイカは窓から外の様子を眺める。煌々と光が灯る夜のネオベネツィアの姿は、いくら見ても飽きない最高の風景であった。
そこにゴンドラに乗る一人のウンディーネの影を見つけた。
水路を進む姿は暗くて顔が見えない。
誰であるか? 何でこんな時間にゴンドラを漕いでいるのか? その理由がアイカには一瞬で脳裏をよぎりたまらなくなって部屋からかけだしていった。
「こんな時間に練習をしても上手くならないわよ。夜はちゃんと休まなきゃ」
アイカが最初にそう声をかけた。
そのゴンドラを操縦していたのはアキである。
アイカの姿に気づいたアキは驚いて体を硬くした。
「アイカ様! こんなところになぜいらっしゃっているのですか?」
『アイカ様……いらっしゃる……』
姫屋のあととりである自分にある程度敬語を使ってくる相手はいるが、ここまで露骨なのはそうそういない。
この子はまじめな子なのだろう。
アイカは立て続けに聞いた。
「昼間の事まだ気にしてるの?」
顔を伏せたアキは震えた声で言い出す。
「すいません。私はまだまだダメで。でも、いまより練習をしてもっと上手くなります」
不安げな様子で言う。
アイカには彼女の気持ちが痛いくらいに理解ができた。
すぐ隣の仲間に先を越される時にはどうしようもなく孤独な気持ちになる。
昔、アリスが自分よりも先にプリマになった。その時は本当に悔しかった。
いままで一緒にいた仲間達に置いていかれているような気がした。自分が取り残されているように感じた。
胸にどうしようもない不安が生まれた。
真面目なこの子はそれを練習する事によって払拭しようとしているのだろう。
周りの一緒に入った新人の中で一人だけ海に落ちた自分。情けない自分を変えるため、がむしゃらになってがんばっているのだ。
アイカは思う。この子に分かってもらいたい。がむしゃらにがんばるだけではいけない。
不安なとき、苦しいとき、がむしゃらになる以外の選択肢もあるのだという事を。
「うじうじ禁止ぃぃ!」
アイカは大声で叫んだ。アキは驚いて身を縮ませる。
「あなた。私が指導してあげるわ」
「私がアイカ様ですか?」
アキはいきなり言われて信じられないといった様子であった。
「それ。私の事をアイカ様と呼ぶのはやめなさい」
「それでアイカ先輩って呼んでもらってるの」
アイカはそれらを話した後弟子達が帰ってくるだろうと思われる方を見た。
「さーて、あいつらはまだ帰ってこないのかしらねー?」
昔話をしてバツが悪くなったらしいアイカが、言い訳がましくそう言いながらアカリ達から目をはずす。
「放っておけなくなったんだ。アイカちゃんらしいね」
ニコリと笑いかけるアカリに恥ずかしそうにして顔を背けるアイカ。
「うるさいわね! トップがご到着したようよ」
アイカが指差す先には一台のゴンドラがいた。
それに乗るアサミは真っ青な顔をしていたのだ。
無理やり体を動かしているのが分かる感じで、ヘロヘロになりながらゴンドラを漕いでいた。
岬にたどりついたアサミは体をフラフラさせながら地面に立った。
「トップなのはいいですがフラフラではないですかい」
アイカがアサミに言う。アサミは背筋を伸ばしまっすぐ立ってから言う。
「どこがフラフラやっていうねん! こんなんよゆーやで」
だが、そんな虚勢では隠せるわけもなく膝がガクガクと笑っていた。
「ほー。それは大したもんですな」
クスクス笑いながら答えるアイカ。
「アイカちゃん意地悪だよ」
アカリはアイカを見てそう言う。
「残りの二人も帰ってきましたよ」
二人を待って海を眺めていたアリスが言う。
二つのゴンドラは並走をしながらこちらに向かってきていた。
『アイカさんも昔はねー』
『アイカ先輩がそんな事をしてたんですか?』
うっすらだがそうやって話し合っているのが聞こえる。
楽しそうにして談笑をしながら二人はやってきた。
昔のアカリを思い出す姿だ。
アカリは何度かレースなどに参加をした事があるが一度だって最後まで本気になってレースをした事なんてなかったのだ。
「おかえりー。アイちゃん楽しかった?」
戻ってきたアイにアカリは声をかけた。
「はい。とっても」
二人はそろってわらいあう。昔のアリアカンパニーのアカリとアリシアの姿によく似ていた。
アカリとアイカとアリスの三人はそれぞれのゴンドラの上に立った。
手を上に上げたアサミはそれを思いっきり振りおろした。
「スタートォ!」
号令で全員のゴンドラが一斉に進みだし、あっという間に視界から消えてしまった。
アイカがいなくなったのを見るとアサミは草の上にバタリと倒れこんだ。
さっきまで隠していたが精根尽き果てたような顔をして横になる。
「無理をするからだよ」
アイがアサミに向けて言う。
「うっさいねん。って何をしとるんや?」
アイとアキは二人で花の咲く一角に座って何やら作業をしていた。
「ほら」
そう言ってアイがアサミに見せたのは花の冠だ。まだ作りかけだが綺麗に編み込まれていた。
「アカリさん達にプレゼントするんだ」
アイはそう言い作業を再開した。
「アイちゃん。私にも教えてもらっていい?」
アキもアイと一緒になって作り始める。
それを見ていたアサミも言い出す
「一緒に作ってやるから私にも作り方教えい!」
そう言いながらアイ達と一緒に作り始めた。
花の冠を編む三人は輪を作るようにして三人で向かい合って座っていた。
「ねえ、アイちゃん」
アキがアイに声をかけた。
「ごめんね。私もっと早く自分からアイちゃんに会いに行けばよかった。朝はあんな事になって逃げちゃったけど」
朝、アリアカンパニーの前にゴンドラを浮かべてうちの様子を伺っていたのは、やはりアキだったのだ。
「アイカ先輩にアイちゃんに会うといいって言われていたんだ」
『アリアカンパニーに会う事がなかったらウンディーネになれなかった』
アイカはそう言ったのだという。
アイカがウンディーネになろうと思ったきっかけはアリシアさんだった。
アカリと出会ってペアになった。
アイカはアカリから大切なものをいくつも受け取った。アカリと一緒にいなければ、一生見る事のできなかった景色をいくつも見る事ができた。
アリアカンパニーの新人のアイも新しいネオベネツィアを見せてくれる。
まるで、この星の女神様のように奇跡に触れる権利を与えてくれるのだというのだ。
「私は、アイちゃんって子はどんなすごい子なんだろう? って思ってたけどアイちゃんは普通の子なんだよね」
怖くなって遠くから眺めたり一緒に会う事になって不安でどきどきしたりした。
そんな事をしていたのがバカらしくなってくるくらいに、アイとは簡単に友達になれたのだ。
アキは手で花の冠を作りながら言う。最後に頭と尻尾を繋いで丸い形にすると、アキはそれを太陽に向けてかかげた。
「アイカ先輩喜んでくれるかな?」
アカリとアイカとアリスの三人はすぐに帰ってきた。
「二人ともムキになりすぎです」
アイカとアカリが先にゴールをしたのを見てアリスは恨めしそうにして言う。
「ウチの後輩の前でかっこ悪いところはみせられないからねぇ」
アイカが言う。そこにアイとアキは花の冠を二人に被せていった。
「私達のプレゼントです」
アイが言う。
その中でアサミは顔を伏せていた。
「まったく、どうしたんというんですか?」
背中に何かを隠しているアサミに近づいていくアリス。
アリスは強引にアキの腕を取った。
アサミの背中に隠されていた歪な形の花の冠が出てきた。
「こんなもん渡せんよ」
形が不ぞろいでできがいいとは言えない花の冠をアサミは投げ捨てようとした。
「待ちなさい」
アリスはそれを止めた。
「あなたの指導員として一つ教える事があります」
アリスは両手でアキが投げようとしていた花の冠を取った。
「心のこもった物は必ず相手に渡すべきです。こめられた想いは必ず相手に伝わるものですよ」
アリスはその花の冠をかぶりニンマリと笑った。アサミに向けて言う。
「ありがとう」
アリスの言葉を聞くアサミ。春風の吹く中闊達なアサミの顔が赤く染まっていった。
「恥ずかしいセリフ禁止!」
アイカがアリスに向けて言った。
「そうや! 恥ずかしいセリフ禁止やで!」
アサミはアイカの後ろに隠れていきアイカと一緒になって言った。
「アリスちゃん。成長したねー」
アカリは目を細めて口をほころばせながらうれしそうにして言っている。
「まさか、アカリ先輩よりも先にアイカ先輩からそう言われてしまうなんて」
アリスは悔しそうにしながら言った。
「みんな変わってく。変わらないものもある」
アカリは言う。
大妖精と呼ばれる三人を師に持つ自分達は、今ではまた小妖精という名前を持ってウンディーネの世界で取って代わった。
その小妖精達は昔の大妖精達と同じように、弟子の娘達と共に笑いあっているのだ。
「だけど、変わったものもある」
アカリは言う。
「アリスちゃんは、私なんかよりも立派なウンディーネに成長してるって事」
「私なんかよりも、アカリ先輩の方が素敵です」
恥ずかしがり顔を伏せるアリス。アカリはさらに続けて言った。
「この素敵な事が何度も続くのはAQUAの奇跡なんだよ。素敵な事は何回繰り返してもいいんだから」
アイカはそれから素早く言った。
「恥ずかしいセリフ禁止!」
アイカの後ろでアサミまで一緒になって言っていた。
二人から同時にビシリと指を指されたアカリ。その姿を見て言う。
「アイカちゃんとちっちゃいアイカちゃんだぁ」
息のあった二人の行動。まるでこの二人が師弟であるかのようだ。
夕焼け空。夕日の光で金色に染まった海の上をアカリの操縦するゴンドラが走っている。
「楽しかったね」
アカリは自分のゴンドラを漕ぎながら座席に座っているアイに言った。
アイはアカリを見上げた。
自分の自慢の師。友達であり、尊敬する先輩であり、アイにとっていろいろな意味を持つアカリ。
茜色の光を浴びてきれいに輝いているアカリは、まるで女神様のように見えた。
「このプレゼントもありがとう。ずっと大事にするよ」
頭に乗っけたままの花の冠を触りながら言うアカリ。
「アカリさんのプレゼントに比べれば大したことないですよ」
「はひ? 私は何か渡したっけ?」
「私にお友達をプレゼントしてくれたじゃないですか」
アカリはニコリと笑った。
「そうだね。大切にしてよ」
少し寒くなった春の夕方の風を浴びながらアイはゴンドラの進む先を見た。
アイの目にアリアカンパニーが映る。
幸せな時間とこの星の神秘に囲まれているアイとアカリにとっては、この星の中心になる場所である。