マシュを「先輩」と呼びたいだけの人生だった 作:あんだるしあ(活動終了)
わたしたちがジキル氏のアパルトメントに帰り着くなり、アンデルセンさんは勝手に自室を書斎に定めて、そこに籠もってしまった。
だけど、わたしたちに彼を咎める時間は与えられなかった。
「そのまま聞いてくれ。スコットランドヤードの電信を傍受した。――切り裂きジャックがヤードを襲撃している」
「あいつか! やっと出て来やがったか、あの野郎!」
「切り裂きジャックというと……」
「この時代の人間じゃない。サーヴァントだ。クラスはアサシン。霧の中で何度かやり合ったんだが、何度やっても逃げられちまう。おまけに顔も姿も具体的能力も思い出せやしねえ。あーもう、苛つくぜ! 切り裂きジャック、って名前を聞けば、ああそうかあのアサシンか、と思うので精一杯だ!」
隠蔽、いえ、記憶の書き換えスキル? 「切り裂きジャック」の来歴にそういうスキルか宝具に昇華できるエピソードはあったっけ。
「盾公! リカ! 出るぞ!」
「あ、はい、すぐに! リカ、行ける?」
「がんばり、ます」
「フォウっ」
すると、わたしたちの話が書斎まで届いたのか、アンデルセンさんが居間に顔を出した。
「外出か? ならそう言え。土産は……そうだな。スコーンあたりが欲しいな」
「お・ま・え・は・来・な・い・の・か・よ!! いや来られても役に立たねえけどさ!」
「作家が戦場で役に立たないのは当たり前だろうが」
アンデルセンさんの開き直りっぷりといったら、それはもう堂々としていらした。彼が口を開くたびに、一読者として大事にしていたものが音を立てて崩れ去る。やるせない。
「オレが馬鹿だった。行くぞ!」
「了解!」
「は、はいっ」
モードレッド卿は部屋を出しな、ぶ厚い甲冑を纏った。
……今さら気づいた。よくよく考えたらこれはすごいことなんじゃない? アーサー王や円卓の騎士たちの前でも、甲冑どころか兜さえ脱がなかった「あの」モードレッド卿が、ジキル氏の部屋にいる時はあんな無防備な格好でいるなんて。
「全速力で行くぞ。マシュ、リカを抱え上げろ。人間の足に合わせる暇が惜しい。サーヴァントの全力疾走でヤードを目指すんだ」
「分かりました。――リカ、ちょっとごめんね」
わたしはリカの脇と膝裏にそれぞれ手を回して、リカの体を抱き上げた。そして態勢が横になったリカも、当たり前のようにわたしに強くしがみつく。
“ディンドラン”
――誰かがリカに呼びかけた。
たった一度しか聴いたことがない、懐かしい声。今のは。
「盾公! ぼさっと突っ立ってんじゃねえ! 足を動かせ!」
「す、すみません!」
いつの間にかモードレッド卿との間に空白が生じていたことに気づかなかった。
彼女の言う通りだ。戦場で気を抜いてる暇なんてない。
わたしはリカをしっかりと抱えてから、先を行くモードレッド卿の背中を追いかけて走り出した。
薄暗い空がとっぷりと闇色になった時刻。わたしたちはようやくスコットランドヤードに到着した。
わたしはリカを腕から下ろして、盾を実体化させて臨戦態勢。
だってこんなにひどい血臭がする。魔霧とは別の、腐食の霧が頭に忍び込んでくる心地がする。ぺちゃぺちゃ、と。きっと赤い色をした水溜まりを踏んで、何かが歩いてくるのが聞こえる!
血まみれのナイフを逆手に持った少女が、現れた。
「あれ? そっちから来てくれたんだ。それじゃあ……ふふ。わたし、どうしようかな。わたし、おなかが空いてるの。ぺこぺこ。だから、ありがとう。あなたたちの魔力を食べておなかいっぱいにする」
「ドクター、ヤードの内部は……」
《……動体反応は、キミたち以外には2つだけだ。そこにいるジャックと、もう一騎》
ゆらり、と霧が流れて、そのもう一騎の姿も露わとなった。
女性と見紛うほど秀麗な面立ちと、線の細い体を包む白衣の、男。
「あなたもサーヴァントですね?」
「はい。私はキャスターのサーヴァント。貴女たちの知る『計画』を主導する者の一人です。ああ、私のことは『P』とでもお呼びください」
「P」と名乗ったキャスターは、わたしたちに対して敵意も害意も浮かべていない。
「残念ながら、スコットランドヤードは全滅しました。全てが惨たらしい死に様でした。しかし、必要なことでした。やむなき犠牲。そう表現することがせめてもの手向け」
「P」が掲げた掌の上に数枚の紙が現れた。暗くて文字までは判別できない。
「スコットランドヤードには、私たちの必要とする品が、厳重に保管されていました。ですので、残念ですが、彼らは皆、大義の障害となってしまったのです。私はどうしようもないほどに哀しみを禁じえない」
「P」が掌を握ると、紙束はさっぱり消えてしまった。
わたしの口から、言葉が溢れて突いて出た。
「……矛盾、している。あなたの語ることは破綻している。自ら悪を名乗り、犠牲にした人々を憂えてみせながら、あなたの声には全く血が通っていない。仮にあなたが本当に哀しんでいるのだとしても、その哀しみに誠意が伴っていないのなら、それは全く哀しまないのと同じくらいに質が悪い!」
「ええ、そうかもしれませんね、凛々しい少女騎士。だから今も、あどけない少女にこう言うのです。――ジャック。彼女たちを任せます。あの中の誰かはあなたたちの母かもしれませんよ」
「P」の言葉をスイッチに。
殺人鬼が、無垢な少女へと変貌した。
「そう、なの? ……何だ、そうなの。ふうん。それじゃあ、おかあさんにするみたいに、するね。帰らせてくれる? わたしを、おかあさんの中へ」
切り裂きジャックが抱いている何らかの切望を――モードレッド卿が言葉で切って捨てた。
「だめだ。お前は座へ直行だ。ここで殺す」
この時ばかりはわたしもモードレッド卿に全力で同意した。
切り裂きジャックを放置してはだめ。「P」の手駒に使われて殺人を重ねるのは、ロンドン市民のためにも、あの子自身のためにも、いけない。モードレッド卿の言う通り、切り裂きジャックはここで止めるんだ。
霧が立ち込めてきた。魔霧とは肌を刺す感触が異なる。
切り裂きジャックは薄く笑って霧に紛れて姿を消した。アサシンだけあって不意打ちの何たるかを心得ているようだ。
「リカ、吸うな! 毒の霧だ!」
リカは急いだ様子でフォウさんをローブの中に隠してから、袖を寄せて自身の口と鼻を塞いだ。
切り裂きジャックはどこへ行ったの?
辺りは魔霧に満ちていて様相が把握できない。彼女がどこから奇襲をかけるか分からない。その緊張に、冷たい汗がうなじを伝った。
鈍い光がいくつも飛来した。医療用メスだ。狙いは――わたしとモードレッド卿ではない。リカだ! くっ、間に合うか……!
「や……ッ!」
その時、リカのリュックサックから例の魔本が一人でに飛び出した。
魔本はリカの頭上でページを開いて回転した。すると、リカを守るように風が渦巻いて、飛来したメスを全て弾き返した。
魔本がリカの手に落ちた。
「守って、くれたの? ……ありがとう」
リカが無事で安心した。でも、その気持ちと同時に湧き上がった、この、黒くて粘っこい感情は何だろう――? いやだ。胸が、燻る。
わたしはリカのもとへ今度こそ駆けつけた。
「リカ、大丈夫?」
「はい先輩っ」
「フォウ!」
またメスが霧の中から投擲された。わたしは構えた盾でメスを防いだ。――何て合理的なシリアルキラー。わたしたちの中で一番非力な者から確実に始末しようとしていっる。
「チッ、埒が明かねえ。盾公! オレが一瞬だけ霧を晴らす。テメエが奴を見つけて動きを封じるんだ。できるな?」
モードレッド卿の言う通り、勝ち筋は今の所そのくらいだ。わたしは堅く頷いた。
モードレッド卿が王剣を高く掲げた。
「赤雷よッ!!」
赤い稲妻が周囲一帯に落ちるや、霧が吹き飛んだ。
見つけた。キョトンと立ち尽くしている切り裂きジャック。ヤード正門の真ん前。
わたしは盾を握り締めて、切り裂きジャックへ走り迫った。
――奮い立て、わたしの体。罪深きを断て、わたしの盾。
「此よりは地獄。わたしたちは炎、雨、力―――殺戮をここに」
「
「
ナイフと盾が真っ向からぶつかり合った。
力で押し勝ったのはわたしのほうだ。ありったけの魔力で宝具を疑似展開した。
結果として切り裂きジャックはナイフごと弾かれて、ヤードの格子戸を超えて玄関まで転がった。
でも、あんなモノ、二度は、受け止められない。
――切り裂きジャックの宝具のエネルギー源は、強烈で膨大な怨念だった。
何をどれだけ呪い、恨めば、あれほどの絶望が生まれるのか。狭くて清潔な世界で育ったわたしには想像さえつかなかった。
盾に縋るように頽れたわたしの横を、モードレッド卿が通り過ぎた。
モードレッド卿は地べたに転がる切り裂きジャックに淀みなく歩み寄った。
「おかあ、さん。やだ、やだやだやだ。いたい、よ。どうして、なの? ねえ、ねえ」
モードレッド卿は無言で切り裂きジャックの霊核に王剣を突き立てた。
――月は中天。
長い一夜は、まだ終わらない。