マシュを「先輩」と呼びたいだけの人生だった 作:あんだるしあ(活動終了)
船倉に降りたわたしは、その一番奥で、汚れたシーツを頭から被って壁向きに蹲るリカを発見した。
――お兄さんと同じ名前。
――大好きだったお祖母さんにお兄さんと誤認されたまま。
「リカ」
リカは無言で大きく肩を跳ねさせた。
わたしはリカのすぐ後ろに立って――リカを目いっぱい抱きしめた。
「リカ」
わたしの両腕の中でリカは硬直している。ふれあいを拒まれている。それがわたしの胸を痛ませた。
わたしはリカのほうから何かを言い出すまで辛抱強く待った。
「あたしは諦めが悪いから、何度希望を裏切られても、期待するのをやめられなくて――期待してはまた傷ついた。別に大層なことを期待したわけじゃないんですよ? 明日は雨が降るといいなあ、とか。家庭科で作ったクッキーが焦げないといいなあ、とか。おはようを言っても無視されないといいなあ、とか。傷が痛くて蹲ってる時に誰か声かけてくれたらいいなあ、とか。おばあちゃんが今日こそ『りっちゃん』じゃなくて『リカちゃん』って呼んでくれないかなあ、とか。何もかも分不相応。あたしなんかにこれっぽっちも叶うわけないのにね――」
わたしが何かを言う前に、リカはわたしの腕に抱きついた。
「でももう大丈夫ですっ。今は何も望んでませんから。あたしはずっとこのままでいたいです。先輩のおそばで、このままずっと」
心からの笑顔だと、分からないわたしではない。
わたしにはリカにかける言葉がない。だってリカ自身がそれで良しとしている。それを頭ごなしに怒鳴りつけるなんて、もうできない。
リカはわたしのたった一人の「後輩」なんだもの。
「あのね。わたしにとって、リカはリカよ。わたしのマスターで後輩のリカは、こうしてそばにいるあなただけだから」
この子がいつか「立香」と呼ばれても辛くならなくなるまで、わたしだけはこの子を「リカ」と呼び続けよう。
「……先輩」
「ん?」
「さっきは、ごめん……なさい」
「うん。次からは無茶する前に先輩に言ってからにしてね」
「はい」
素直でよろしい。ならばこの件はこれにて落着としよう。
海に飛び込んで濡れたリカの体を早く乾かさないといけない。風邪をひくだけならまだしも、ここは海賊船、不衛生な環境からリカが悪い病気を併発したら大変だ。
などと、わたしが考えていると、シーツを被ったままのリカを、不意の暖かな微風が包んだ。この子、魔術で服を乾かしたんだ。
「戻れる?」
リカは頷いてその場で立ち上がった。
――甲板に戻ればそこは過酷な現場だ。目下の課題は、ヘクトールに攫われたエウリュアレさんの救出と、聖杯の奪還。
だからこそリカの「先輩」であるわたしが頑張らなくてはいけない。
わたしは気を引き締めて、船倉から上がる梯子へ歩いた。
後ろから付いてくるリカに見えるわたしの背中、しゃんとして映っていたらいいな。
甲板に出るなり、慌ただしい船上に出くわした。叶うならもっかいリカとフォウさんと一緒に船倉にリターンしたいくらいには慌ただしかった。
もちろん出ますけどね。はい。任務に私情は持ち込みません。(多分?)
操船に忙しいドレイク船長や子分さんたちより先に、わたしたちはマストにもたれて座り込むアステリオスさんのもとへ向かった。
リカが無言でアステリオスさんの傍らにしゃがんで、アステリオスさんがヘクトールから食らった傷に手を当てた。治癒魔術を始めたのだと分かった。
「えう、りゅあれ、を、たすけに、いく」
やっぱりアステリオスさんの胸はその気持ちでいっぱいよね。
「……今は傷を癒すことに専念してください」
「また会った時にアステリオスさんがケガしたままだと、エウリュアレさんが悲しむ……と思い、ます……」
「大丈夫です。わたしたちも力を貸します。ドレイクさんも、海賊のみんながそう願えばこそ船を進めています。絶対エウリュアレさんを助けます」
アステリオスさんはわたしとリカを交互に見た。
「やく、そく、する、か?」
「もちろんです。ね、リカ?」
「は、はいっ。だ、だからそれまでに、アステリオスさんもっ。元気になって……ください」
「……ぅ」
甲板に戻ってきたわたしたちを、ドレイク船長は見逃さなかった。こっち来て作戦会議に加わりやがれ、なんて言われた日には、すごすごと出頭するほかありません。
議題はヘクトールがエウリュアレさんを誘拐した理由。
大雑把な結論だけど、エウリュアレさんはあんな混戦で危険を冒してまで攫うほど強力なサーヴァントではない。
だからヘクトールの狙いが読めない。聖杯までなら分かるとして、なぜエウリュアレさんまで?
「ま、だからと言って助けない理由にはならないけどねぇ。アイツ、歌、上手いしね」
「歌、ですか」
「歌が上手い奴は好きなんだ、アタシ。船乗りにとって重要なステータスだよ。なあ、お前ら!?」
「うぃーす! やさぐれがちなオレらの心が癒されるっスー!」
子分さんたちから次々に上がるシュプレヒコール。
ドレイク船長は満足げに口の端を吊り上げて、アステリオスさんの腕を力強く叩いた。
「てなワケだ。安心しな。この船であの娘を助けない奴はいないさ」
アステリオスさんもまた、ぎこちなさげだけど笑って、頷きを返した。
……こういう所を見せられると、ドレイクさんがただの「肝の据わった頼れる姐御肌の女性」にしか思えなくなる。彼女はまぎれもない悪人であると承知していても、だ。
その矛盾をわたしが上手く消化できなかろうと、船は止まることなく、海を進む。
お察しでしょうが、補足をば。
「りっちゃん」はお兄さんの愛称です。
リカが「ちゃん」呼びされない理由もこの件にあったりします。
――「リカちゃん」だとお祖母さんを思い出してしまう。
ロマンは彼女の事情を知っているから、あえて「リカ君」呼びなのです。