しん 恋姫†無双 く~ずの一代記   作:ポケティ

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新たな隣人

 あの大立ち回りを演じてから、風邪を治すために休養すること三日、張伯はすっかり元通りになっていた。その間仔細変わりなく、張伯はただ横になっているだけだった。  病を押して無理に物事を進めても上手くいかないことを、けだし張伯は知っていたからである。食べ物は、丁程が人を遣って張伯に届けさせていた。その人は別に丁程の部下というわけではないだろう。ただ手すきの者に、張伯に届けるよう頼んでいるだけだろう。毎日人が変わるのを見ながら、張伯は漠然と考えていた。

 

この集落で、張伯が一番知っている人間は丁程であった。伍倉は妹がいるようだし、親分に忠実であること以外、特に知らなかった。親分、張任は、()()()()()ということ以外、出身地くらいしか知らなかった。王才は論外である。必然、張伯がよく知る人物は、丁程であった。

 ただ、その丁程でさえ、張伯が知らないことがいくつも存していた。伍倉との細かい関係、今置かれている状態への感情。そして親分に対して持つ気持ち。張伯はこれらを知ることなしには、苦しい状態になった時、ますます苦難に陥ることになると確信していた。

 

 

 子曰、視其所以、觀其所由、察其所安、人焉瘦哉、人焉瘦哉。(その人のなす所を見、その人の過去を知り、その人の心を落ち着けるところを調べたのなら、その人は人柄を隠すことはできない)。

 

「子(孔子)は何故このようなことを言われたのかわかりますか?」

 

「はい。人の人柄というのは、なす所、経歴、落ちつきどころを見ればたちまちわかると子はおっしゃっております。これはつまり、これらの要素により、人柄が自然と形成されていくということかと愚考いたします」

 

「ええ、其の通りです。子の弟子の中には、人は生まれながらにして善であるなどと虚妄も甚だしいことを主張する輩がいますが、それは全くのでたらめです。人というのは、諸々の要因によりて、善にもなるし、また不善にもなりえるのです」

 

 丁程は高調して釈義を垂れた。張伯にとって、その是非は気にすることではなかった。張伯は、漢に仕える者たちには、どのような知識を身につけていることが求められるのか、それが知りたかったのである。

 ただしそのためには、文字が読めることが不可欠だ。張伯は筆に墨をつけた。その後筆を慎重に運ぶ。暫らくして後、たどたどしくはあるが、孔子の言を筆写するのに成功した。一文字ずつ区切って書けばいいため、その点は楽なのであるが、字(漢字)を美しく書くのには骨が折れる。少しでも墨をつけすぎたり、手が震えたりすると、すぐに字が潰れてしまう。張伯の卓の横には、紙が張伯の胸の辺りにまで積まれていた。張伯も丁程も座して、向き合っていた。

 

「丁郎官、一つお尋ねしたいのですが、よろしいでしょうか?」

 

 張伯は、物事に一区切りがついたのを見計らって話しかけた。

 

「ふむ、聞きましょう」

 

「子(先生)は伍倉とはどのような関係なのでしょうか?」

 

 丁程は、途端に難しい顔になった。そして何も言わず、お茶を淹れる用意をした。それは隠しているというよりも、答えに窮しているようだった。

 

「私は、あまり好意を抱かれていないでしょう」

 

 茶器に丁程の顔が映りこんだ。目は虚ろに見えた。

 

「子ほどの高人物が、なぜ……」

 

 丁程は右眉をぴくりと動かしたが、話を続けた。

 

「それは、恐らく私が何の労もしていないからでしょう」

 

 張伯の思わず反論しようとしたのを、丁程は手で制した。

 

「彼にとって、直接体を動かすこと以外のことは些細なことなのです」

 

「そんな、子は常に帳簿を管理し、人々が餓えることなく食料を配賦しております! 彼にはそれがわからないというのですか!?」

 

 張伯の発言は、そこに自身の地位が貶められるが故の不安が隠れていたとはいえ、正鵠を射ていた。

 

「いえ、彼の言うことにも一理あります。私はこのような商人まがいのことをしているのです。彼がそう思うのも最もです」

 

 次の丁程の発言は、更に張伯を驚かせた。其の言葉は、己の職に対して、何ら誇りを持っていないことを暴露していた。そしてまた、弟子のことも貶している。

 

「子よ、おやぶ……張大公に助けられてから、子は今までそれによって生きてきたのではないでしょうか? どうして、そのことを侮るのでしょうか?」

 

 丁程には張伯の謗りが届かなかった。丁程は何も言わなかった。丁程は、もし帳簿係もせず、戦いといった体を使う作業をしないのなら、一体どうやって生きるつもりであるのだろか? この質問に、丁程は答えなかった。恐らく、丁程はそれ以外に生きる道がないと考えたからこそ、こうして今も()()()いられるのである。

 丁程は――正しく――儒に縛られた人間であった。例えそれへの疑念が心をかすめていると雖も、丁程の体は動かない。ならば、弟子である自分が子を批難するのはまずい。儒には、忠孝の教えもあるからだ。

 

「申し訳ありません。言葉が過ぎました。ですが忘れないで欲しいことがあります。丁郎官は立派な方です。ここで一番君子に近いのは、子に他なりません。私は、そんな子を誇りに思っております」

 

 張伯は真っ直ぐ丁程を見た。丁程もやや顔を上げたが、すぐに目をそらした。やや耳が赤くなっていた。弟子が引き下がれば、この場は丸く収まるのだ。

 

「ええ、ありがとうございます。それでは、張大公が何か申し付けたいことがあるとのそうですので、今日はこれで終わりにしましょう」

 

 丁程はにこりと張伯に笑いかけた。寝耳に水とはこのことであった。張伯は、丁程に何か言いたかったが、彼の顔を見てやめた。丁程が張伯の問いかけに答える気がないことがわかったからである。それは照れ隠しのせいなのかもしれないが、張伯からしたら、何か知っていることがあるならば速やかに知らせて欲しいところであった。

 

 

 

 張伯は、例の会堂についた。まだ昼をようやく過ぎたところだというのに、またあの宴会の匂いが立ち込めていた。この一週間で一体何回宴会を開いたのだろう? 張伯はげんなりと肩を落とした。だが張伯の目はすぐに、会堂にいる異質な人間たちを発見した。周りの人々は、何となく彼らから距離を取るように動いていたから、それに気付くのは容易であった。何せそれは、張伯がよく身に沁みて感じていることなのだから。明らかに彼らは外来者であった。

 

「ふむ……。なぜ皆さんはどこかよそよそしい態度を見せるのでしょうか? 彼らは客人です。もしかしたら私たちに対して含むところがあるのかもしれませんが、それでもこうしてお越しになったのです」

 

 張伯にとって、この言説は手馴れたものであった。

 

「客を歓迎しないのは、手に刃を持つのと同じことです。同胞に害を与えることなどどうしてできるのでしょうか?」

 

 周りの者は、皆手を止めて張伯を見ていた。張伯が見ると、彼らはすぐに目をそらした。顔がうっすら赤いのは、恥を感じたためであろう。張伯は己の影響力がますます高まっているのを感じた。張伯はうっすらと笑みを浮かべた。

 

「おう、張伯! いたんだったら、早くおれのとこに来い!」

 

「今参上したばかりでございます、親分」

 

 張伯の冷静な指摘にも、張任は動じなかった。

 

「言い訳しねぇで、さっさと来い!」

 

 張任はまたも酒を手に持ちながら、奥に胡坐をかいて座っていた。

 

「いいか、お前、よく聞けよ」

 

「はい、何でしょう」

 

 率直な言葉を言う親分にしては、少しまどろっこしい言い方だった。そして、張伯は次の言葉で仰天することになる。

 

「嫁をもらうぞ」

 

 

 

 いつものように騒がしい宴会だった。違うのは、やや顔ぶれが変わったことと、張伯があっけに取られていたことだけであった。

 

「いいか、今回将軍を討ち取ったっていうんで、朗陵国が俺たちに同盟を持ちかけたんだ」

 

「はぁ、それはまあわかりますが」

 

「話は最後まで聞け。お前、武器を隣村の奴らにあげたそうじゃねぇえか。てなもんで、普通だったら、隣村から嫁を出すのが普通だが、今回はそれに朗陵国の奴らが絡んできた、っちゅうことだ。わかったか?」

 

「いや、何を言っているのか、存じません、親分」

 

 張伯には、親分の言っていることが、全く、頭に入らなかった。朗陵国と言えば、張伯がそこの役人の名前を騙ったことが思い出された。聞くところでは、それなりに大きい国なのだろう。張伯は、そのくらいのことしか知らなかった。

 

「隣村には確かに武器を渡しました。ですが、それは農具と交換したのです。もう取引は終わっております!」

 

 張伯はわずかに声を荒げた。余りに突然な事態に、張伯は戸惑っていた。

 

「お前さんはただ武器を渡しただけじゃねぇか! そんな自分勝手なことがあるもんか!」

 

 張任の答えは、張伯を納得させるものではなかった。正当な取引をしたはずなのに、なぜここまで話が広がっているのか、全く見当がつかなかった。第一、なぜただ武器を渡すことが自分勝手なのだろうか?

 

「いいか、もう一度言うぞ。本当だったら、交易を受ける側の隣村の奴らが、嫁を出すはずなんだ」

 

 張伯にはその理屈は理解できなかったが、張任の言葉をおとなしく聞いていた。

 

「それで、ただ嫁を出すんじゃなくて、もっといいところから嫁を出せばいい、そういう話になったんだ」

 

 なぜそうなったのか。張伯の疑問は、誰も口に出さなかった。だが聞かれずともわざわざ言うということは、これは異例の処置なのだろう。当然のことであれば、先のように張伯が指摘しない限り、さらりと流されるか、省かれてしまう。

 

「それで、偶々朗陵国の奴らが、俺たちと同盟を結びたいっていうので、その仲介を隣村の奴らがやることになったんだ」

 

「はぁ、随分面倒なことになっていますね」

 

 張伯は平凡な感想しかいえなかった。

 

「元はといえばお前のせいだからな! 最初のうちにもらっとけば、向こうも、わざわざ別のとこから嫁さん引っ張らなくても済んだんだからな」

 

 張伯は頭を押さえた。酒を飲んでもいないのに、痛くてしょうがなかった。

 

「隣村の長老、これはお前も会ってるだろう、そいつが朗陵国とかなり大きなつながりがあってな、いいか、ここまでわかるか?」

 

「えっと、とにかく、同盟を結ぶということですから、それはいいことなのでしょうか?」

 

 張任は少し黙ったが、またいつもの調子で話し出した。

 

「まぁ、そうだな。単純に、官に立ち向かう奴らが増えたっていうことだからな。良いことだ」

 

 張任はそう言うと、張伯の背中を叩いた。親分の手は痛かったが、それは褒めるときの癖なのだと、張伯は今更ながら気付いた。

 

「そうですか。それはよかったです。朗陵国と同盟を結びましょう。嫁はいらないので、断わって置いてください」

 

 張伯はここに来てから、嫁が欲しいと思ったことなど一度もなかった。特に、必要を感じていなかった。見ず知らずの他人、それも常識が大きく異なっている人間と一緒に暮らすのは、面倒でたまらなかった。

 

「お前、何言ってるんだ? 嫁をお前がもらうから、同盟が結ばれるんじゃねぇか。馬鹿なこと言ってんじゃねぇ!」

 

 親分は張伯を怒鳴りつけた。張伯は、頭を手で押さえながら、これは褒めての行為ではないと思った。

 

「いや、悪かった。こいつはここの習慣に疎くてな。これさえなければいいんだが」

 

 張任は横にいる、異質な者に話しかけた。よく見ると、着ている物で二種類に分けることができる。一つは、少しよさそうだが、古臭い服を着ている者だ。もう一つは、かなり上等な衣服を着ている。一番上等な物に間違いはないが、明らかにこの中で浮いている。恐らく、前者が仲介をする隣村の者で、後者が朗陵国の者なのだろう。張伯は、先の会話からそう推理した。

 

「ああ、本当にごめんな。こいつはとんでもないところで抜けてるんだ。愛嬌だと思って、ゆるしてやってくれ」

 

 張任の目は、朗陵国の者の中に向けられていた。正確には、人と人の間に話しかけていた。張伯は、体をずらした。そこには、赤い簪をつけた、小さな女の子が正座して、人に埋もれていた。

 

「まさか、嫁っていうのは、ここにいる、この――」

 

 張伯が言おうとした言葉を、張任はわき腹を殴ることで叩き潰した。張伯の腹からは、代わりにうめき声が出た。張伯が地面に突っ伏している間にも、夜の歓声はやむことを知らなかった。

 

 

「それでは、婚約の儀を始めます」

 

 いつの間にか、丁程が段取りを進めていた。慣れたものか、全く淀みがなかった。張伯は言われるがままに、時には張任に引きずられながら、儀を進めていた。

 目の前の女の子は、俯いていて、その表情は全くうかがえなかった。しかし少なくとも、張伯のことを愛していたり、あるいは宴会を喜んでいるとは思えなかった。張伯でさえ、幾分か愛嬌を振りまいているというのに、この女の子は無言こそが己の役割だと考えているようだった。

 

 隣村の、あの杖を持った老人が、間に座って、何かを唱えていた。何を言っているのかは、聞かなくても問題ないことであると張伯は思った。このような婚約は、恐らく戦国時代のような、嫁を交換して同盟するという、よくあるやつだろう。それに結婚式は、長ったらしいものと相場が決まっている。そして、こういうのは得てして周りのものが勝手に進めるのだ。

 親分や丁程は、婚約することは事前に知っていたのだろうが、そのことを一切張伯に伝えなかった。それはそういうものなのだろう。つまりこの集落では、自由に結婚することができないのが普通なのだ。そして別に練習などをしなくとも、つまりいきなり儀をやることになっても、当事者は何とかなるようになっているのだろう。張伯の推察は半分当たっていた。

 

 一つだけ問題があった。それは、暇でしょうがないということであった。食事も自由にとれず、話すこともできず、ただ正座しているだけなのは苦痛であった。張伯はぼんやりと女の子を見つめた。こちらのことを一度も見向きもせず、黙って下を向くのは、なぜだろうか。これから嫁ぎに来るというのであれば、少しくらいは此方の印象を良くしようと思うはずである。女の子の前の御座だけ色が変わっているような気がした。

 

「それでは、名を拝借いたします」

 

 そこで、話が止まった。張伯は、ぼーっとしていたが、張任に小声で、いや周りにも聞こえる声でどつかれた。

 

「おい、早く名前を言えっ!」

 

「はい、私の姓は張、名は白、字は伯と言います」

 

 張伯は頭を下げた。すると、周りからひそひそと声が聞こえてきた。何かに驚いているような印象がした。

 

「おいっ、真名はどうした! 早く言えっ!」

 

 親分が思わず怒声をあびせた。

 

「えっ、真名ですか? えぇっと、それは、まだ決めていません」

 

 またどよめきが起こった。今度はさっきよりも大きかった。張任が張伯の髪を引っつかんだ。

 

「おい、お前、まだ真名がなかったのかっ!」

 

 張伯は頭を振り回されながら、頷いた。頷く際に髪が何本か抜けた気がする。それが伝わったかどうかは定かではなかったが、張任は張伯を投げ捨てた。そして、すぐに頭を床にこすり付けた。

 

「すまねえっ! こいつは今まで、豪族に酷使されてたもんで、そんで名前を持っていないんだ! ゆるしてやってくれねぇか。どうか!」

 

 張伯は、ここまで悲痛な声を聞いたことがなかった。丁程は、どうしたらよいのかわからず、うろうろと身体を動かしていた。ざわめきは最早抑えられないほど大きかった。

 すると、突然泣き声が響き渡った。女の子の声であった。件の、張伯の嫁となる女の声であった。隣には顔を真っ赤にして、張伯を睨みつけている、朗陵国の男がいた。

場は混沌としていた。怒鳴り声も聞こえてきた。張伯は、何をすればよいのかわからなかった。あちこちから罵声が聞こえてくる。

 混沌とした場をおさめたのは、果たして張任であった。張任は皆に謝り、いろいろな言葉を投げかけ、そして酒を出していた。張任行くところはどこでも、さっきまでの剣幕は嘘のように、笑いが巻き起こった。流石に顔が険しい者も何人かいたが、溜飲は下げたようだった。張伯は、その様子をぼぉっと眺めていた。

 

 親分のすごいところは、親分の言うように、()()()()()()ところだろう。あの女の子まで、何といつの間にか泣き止んでいた。張伯にはわからないことが多かったが、己が信じられない失態をし、それを親分が尻拭いをしたことはわかっていた。

 

 

 

 気が付くと、朗陵国の者や、隣村の者はいなくなっていた。先の女の子を除いて。女の子は、張伯を見ていたが、その目は赤くはれていた。張伯は何も言う気がしなかった。後片付けをしている女たち。眠りこけている男。扉の前には、多くの履物が脱ぎ散らかされていた。扉からは暗闇が忍び込んでいた。張伯は横になった。酔いなどないが、なくとも夢見が悪いことは知っていた。それでも、寝ようと思った。それを妨げたのは、伍倉の声であった。

 

「大変ですっ! 親分!」

 

 その言葉に、張伯は跳ね起きた。嫌な予兆であった。

 

「何だ、どうした!」

 

「曹操とかいう女が、今度は十万の大軍で攻めて来るそうです!」

 

 場は静まり返った。卓を運んでいた女は、卓を床に転がした。皆固唾を呑んで伍倉を見ていた。張伯はそのことに驚いたのではなかった。張伯は、曹操が女だという伍倉の言葉に驚いたのでもなかった。張伯は、親分が、卓の上の陶磁器の皿を叩き割ったことに驚いたのでもなかった。張伯は、親分の顔に驚いたのであった。

 親分は、今までに見たことがない程、先の宴会でさえ見たことがない程、苦渋の表情を浮かべていた。張伯は、それが恐ろしいと感じると同時に、親分がそんな顔をするのが悲しかった。張伯は思わず言葉を繋いだ。

 

「えっと、みなさん、もしかして、曹操のことを知っているのですか?」

 

 誰も何も返さなかった。張伯は、目をせわしなく動かし、体を揺らしながら言った。

 

「えぇっと、曹操という名前は、聞いたことがあります。でも、大したことはありません。冷たい人間で人望もないですし、そんなに強くもありません。安心してください」

 

 張伯の言葉に、いくらかの人は顔をあげた。だが、その顔は物憂げであった。

 

「お前は、曹操が女だって知ってるのか?」

 

 張任がいつもとは違う、剣呑とした口調で話しかけた。

 

「いえ、それは全く存じませんでした。男だと思っていましたから。でも、女だったら、ますます大したことはありませんよ」

 

「ふざけてるんじゃねぇっ!」

 

 張伯は壁に叩きつけられた。しかし、張任はすぐに張伯の胸倉を離した。張伯の目に涙が浮かんだ。

 

「いいか、張伯。お前は知らないんだろう。女は、確かに力は弱いし、頭も弱いかもしれない。でもな、例外っちゅうのが必ずある。女で偉いやつは、人間じゃねぇ。化け物なんだ」

 

 張任は、全身に悔しさをにじませていた。張伯は何も言えなかった。張任が嘘をついているとなど思ってもいなかったが、信じられなかった。

 

「その、化け物というのは、どれほどなのでしょうか」

 

 張伯はつぶやいた。張任は目の前にいたが、うつむいて床を睨んでいた。

 

「私は、洛陽で何人かに会ったことがあります」

 

 丁程が、いつの間にか隣に立っていた。

 

「彼女たちは、本当に天才です。私は、彼女たちの足元にも及びませんでした」

 

 丁程は、悲しみを目にたたえながら話した。

 

「武芸が優れる者であれば、人を文字通り跳ね飛ばすことができます。智に優れた者であれば……もしかすると、道に到達することもできるかもしれません」

 

 張伯は、信じられなかった。いや、信じたくなかった。あれ程意気揚々としていた親分が沈んでいるのは見たくなかった。女の将軍が攻めて来るというだけで、これほど沈鬱になるとは考えられなかった。彼らは、曹操を知らずに、女の将というだけで恐れているのである。

 

「朗陵国は……どうするでしょうか?」

 

 張伯は言葉を濁した。朗陵国の同盟が、薄氷の上に築かれていることは、派遣された妻を見ればわかる。

 

「もし、私達の敵になるのであれば、彼らを、先に――こちらが」

 

 張伯は、女の子を横目で見ながら張任に、しどろもどろに話し掛けた。張任はじっと張伯の方を向いていたが、すぐに怒鳴りつけた。

 

「おい張伯! こうなった以上、ますます嬢ちゃんを手厚くもてなさなくちゃならねぇぞ。なんたって、もしおめぇの言うように朗陵国の奴らが裏切ろうっていうんなら、まず嬢ちゃんへの扱いに対して文句を言うに決まってるんだからな!」

 

 張伯は、その言葉に恐れ慄いた。自分の振る舞いに、全てがかかっている。もし、この女の子の不興を買ったら、朗陵国は敵に回る。そうしたら、そうしたら――――。

 

 張伯は、女の子をちらりと見た。その表情は、やはり窺えなかった。




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