男が松明を持っている。男はこちらを襲わんと、短刀を取り出して踊りかかった。寸でのところで身をかわすが、敵の追撃は止まない。松明をこちらに投げつけたかと思うと、短刀を胸に突き刺した。刺されたのは張伯であった。
張伯はまぶたをゆっくり開いた。あちこちから光が差し込んでいた。張伯はゆっくりと身を起こした。昨夜に戦があったばかりであったが、眠気はすっかり取れていた。水がめで顔を洗った。冷たい水が顔に染み入った。
ふと、水がめが茶色くなっていることに張伯は気付いた。己の腕を見ると、砂が濡れて黒くなっていた。昨夜は風呂にも入らず、そのまま横になっていた。また体を洗わなければならない。ここに来る前は毎日風呂に入っていた。しかしそれはもう、遠い日の出来事に過ぎなかった。家の外が騒々しい。
集落の広場には人だかりができていた。誰もが騒然としていた。男が輪になって口々に議論しあい、それを更に女たちが取り巻いていた。張伯はその人の波を押しのけた。
「おっ! 張伯さん! 丁度よかった。こいつを見てくだせぇ」
外に出ると若い男が一人話しかけてきた。三人の男が縄で縛られ、胡坐をかいていた。顔には青あざがない者はいなかった。地面には武器と防具が並べて置いてあった。
「この近くを警戒してたやつらが、こいつらを見つけてふん縛ったんです。こいつらどうしましょう?」
「伍倉はどこにいますか?」
「あいつはこのことを聞いた瞬間飛び起きて、すぐに仲間がいないか探しに行っちまいました」
飛び起きた、ということは、この知らせを伍倉は寝床で聞いたのだろう。張伯は、己がまだ信頼されるに足るものとして知られていないことを知った。今から駆け回ったところで、部下もいない張伯では何の成果も得られないだろう。
幸いにも今は目の前に、逃げられないように好機が縛られている。簡単に成果が得られる好機が。
「わかりました。彼らには、仲間が他にいないか聞きましたか?」
男は手で頭をかきながら言った。
「それが、いくらどやしつけても口を割らないんです。どうしましょう?」
「なぜ口を割らないのかわかりますか?」
「へっ? あ、いえ、それはあっしにはわかりません」
張伯は三人の男を見た。みな張伯を睨みつけていた。彼らに忠誠心はあるのだろうか? 後漢が滅びるのはまだ先のことだ。盗賊どもへの恐れよりも、漢帝国への忠誠が上回っているのだろう。あるいは、すぐに助けが来ると踏んでいるのかもしれない。そちらの方がずっと、張伯には恐ろしかった。張伯は彼らに歩み寄った。
「どうでしょう、みなさん。みなさんの他にここの集落のことを知っているのは、他に誰かいますか?」
皆押し黙っていた。張伯は膝を屈し、一人一人真正面から向かい合った。目をそらし、隣の仲間を見ていた。中にはつばを吐きかける者もいた。張伯はぬぐいもせず、話しを続けた。
「もし話してくださるのであれば、このまま開放します。帰った時には、偵察に赴いていたが、敵に捕らわれてしまった。何とか隙をみて命からがら逃げ出したと言えば許されるでしょう」
無礼な男が言った。
「そんなことが信用できるかっ! この場所をおれたちは知っているんだ! どの道殺すつもりだろうっ」
張伯は心の中で喜んだ。策が思いついたのだ。
「どうも他の二人はそうは考えていないようですが……。まあいいです。ちなみに、逃がすのは一人だけです」
張伯はそう言うと、彼らを別々の小屋に閉じ込めるように指示を出した。彼らは屈強な男たちに連れられて行った。その間、張伯は敢えて彼らの様子を見ることはしなかった。背後からでも、彼らがお互いの顔を見合っているのが、手に取るようにわかった。
「一人が、張伯さんを呼んでおりやす!」
「わかりました。ところで、あなたのお名前を伺ってもよろしいでしょうか? これまでの働きと共にその名を刻んでおきたいのです」
「小っ恥ずかしいことを言わんといてください。あっしは王才と言います」
張伯は悠然と朝食を摂っていた。あれから二刻も経っていなかった。卓の隅には白い皿が置かれ、食事が盛り付けてあった。酒も一本置かれていた。
「こっちの方は食べねぇんですか?」
王才が腹に手を当てながら話しかけた。
「いえ、私は食べません」
王才はやや期待をこめた眼差しで言った。
「じゃ、じゃあ、あっしが……」
「これは此度の策にどうしても必要なものです。……食料がまだ袋に残っています。それなら自由にしてかまいません」
「や、やったぁ。ありがとうございます!」
そう言うと王才は袋から穀物を取り出し、器を満たし、そこに湯を入れると、一気に掻きこんだ。
張伯はその様子に苦笑しながら、隅の食事を持ってその場を後にした。
小屋に入った時、張伯は弛緩した。予想が的中したからであった。つばを吐きかけた男。この男は、他の誰よりも生きたいという意志が強かった。だからこそ、真っ先に、殺されるという考えが浮かんだのだ。他の者はただ怯えていただけであった。全てに怯える彼らの口を開かせるのは、意外と時間がかかる。何せ口を開くのにさえ、恐怖を感じるのだから。
「それで、私に何か話したいことがあるそうですが、それは何なのでしょうか?」
張伯はゆったりと話しかけた。
「そ、その前に、本当に放してくれるのですかっ!」
「――もしあなたが話すのであれば、放しましょう」
張伯は一番に、と付け足すかどうか迷った。捕虜に多くのことを言うのは好ましくない。それを言うとまだ誰も口を割っていないことが明らかになる。張伯はそう考えて、これ以上何も言わなかった。
それっきりめっきり口をつぐむ男に、張伯は男に食事を勧めた。男は初めは警戒していたが、すぐ食べ始め、止むことはなかった。張伯は酒を何度も勧めた。夜の間張伯らの後を追い、何も食べていなかったのだろう。食べ終わると、男は暫らく下を向いていたが、顔をあげて言った。
「お、おれたちは三人だけであなたたちを追うように言われたんです。だからここのことを他に知るやつはいません!」
「たったの三人で偵察したのですか?」
「は、はい! そうです! 誰も夜中に偵察になんか行きたくなかったんですけど、おれたちは嫌われていたんで、行くよう命令されたんです」
張伯は彼は嘘を言っていないと感じた。
「頭領がどうなったのかはわかりますか?」
男は唇を嚙んで言った。
「い、いえ、それは知りません。すぐに追ったので」
「私たちは待ち伏せされていました。なぜわかったのですか?」
男は少し考えた。
「おれは、洛陽南部尉の李然の兵です。ただ、ある日突然準備するよう言われて、ここまで来たんです」
「その李然というのはどのような人なのでしょうか?」
「よくわかりません。特に何かがすごい、っていう話は聞きません」
もう十分だった。男から聞けることは全て聞いた。
「わかりました。ありがとうございます。疎まれているのであれば、何か手柄となるようなものも必要でしょう。少し待っててください。すぐに倉から何か持ってきますので」
張伯はその場を後にした。張伯が最後に見たのは、男が感謝の意を示し、頭を下げる姿であった。やるべきことは多くあった。だが男を助けることはな、それではなかった。
「伍倉のやつが戻って来たぞー!」
遠くに人々に囲まれている伍倉らが見えた。張伯は手を止めて、その声に耳を澄ました。伍倉たちは何も発見できず、徒に体力を消耗して戻ってきた。張伯の予想通りであった。
はぐれた味方は、敵に捕らわれているか、殺されている。探したところで、死体を見つけたところで、こんな山の中にまで運べるはずが無い。途中まで舟で運ぶという手もあるが、あの舟は昨夜の無茶で大分軋んでいた。
「お兄ちゃんっ!!」
伍倉の脚に近づく少女がいたが、これを伍倉は手で払いのけていた。伍倉は焦りの余り、余裕を見せられなくなっているようだ。
王才が慌てて張伯の元にやって来た。伍倉は今後について話すために、至急集まるように王才を遣わした。張伯は王才にねぎらいの言葉をかけ、遅れる由を伝えるように言った。
張伯は歪に膨らんだ袋を持って、真っ直ぐ会堂に向かった。張伯にはやるべきことが山積みであった。生き延びるために。
「これからおれたちはどうしたらいい!」
伍倉は周りに当り散らしていた。伍倉は五、六人の仲間だけで集まっていた。王才もその場にいた。皆その若さとは裏腹に、顔は深く沈んでいた。
張伯はそっとその中に入ると、壁にもたれかかって立っていた。伍倉の目じりには隈が浮かび上がり、目には赤が何本か入っていた。肩には黒く染まった布が巻かれたままだった。
「このまま引きこもるべきか? それとも打って出るか! どうすればいい!」
伍倉は仲間の一人に詰め寄ったが、その者はおどおどとするばかりで、何も答えなかった。いや、答えられないというのが正しい。
「敵に居場所はばれているのか? もしばれているのなら、一刻も早くここを移動しないとっ!」
伍倉は足元に置いてあった壷を蹴り飛ばした。壷は足に当たった瞬間に、蹴飛ばされずにばらばらと砕け散った。周りの者はその音にひるんで顔を背けたりしていた。張伯は冷やかにその様子を見ていた。
伍倉はこの期に及んで、つまり張任が帰って来ず、誰かが人々を統べなければならない状況で、自身の役目を何も果たしていなかった。物を壊し、いたずらに仲間の焦りを募らせ、不安を煽るばかりであった。およそ人を率いる者、指導者として相応しくはなかった。しかし、張任がいない今、人々の宗(中心)にいるのは彼であった。張伯は慎重を期して、暫らく何も言わずにいた。
「他に意見がないなら、みんなを避難させるぞっ!」
伍倉は怒鳴り声をあげていた。ややかすれている。この剣幕の中で発言するものは、一人だけいた。張伯は、言を発するなら今しかないと思った。
「お待ちください。それは愚策です」
急に場が静まり返った。
「この場所のことは敵に知られていません。それは断言できます」
「あんな末端の兵の言うことなど信用できるかっ!」
伍倉は頭を振って言った。
「いえ、彼らは全員同じことを言いました。別々の部屋に入れてのことですので、信じてもよろしいでしょう」
「全員殺しているじゃないか! 徳のかけらもないやつめ! 丁郎官が嘆いていたぞ!」
「伍倉殿、あなたは敵にこの場所を知られることを恐れていました。だから私は彼らを殺したのです」
「なんだとっ!」
伍倉は張伯に掴みかかろうとしたが、王才と二人の仲間に止められた。
「今やるべきことは、親分の行方を捜すことです。もし捕まっているのであれば、すぐに救出に向かいます」
張伯は周りを見渡しながら言った。
「また、たとえこの場所が知られているとしても、人々を移動させるのは良くありません。移動すれば助かる、逃げれば助かる、この場から離れれば助かる。本当にそうでしょうか? 逃げた先の私達を誰が守ってくれるというのでしょうか。そんなことをしても益する所は何もありません。そんな考えでは、勝てるものも勝てません」
「勝てるだとっ! 何故お前がそう言い切れる! 親分のお気に入りだからといって、出しゃばるなっ!」
「敵は今、散々煮え湯を飲まされた雪辱を果たしました。とすると、そこにはもう勝とうという意はありません。これこそ私たちが勝てる道理でなくて何なのでしょう?」
伍倉は言葉に詰まった。張伯はそれを見て素早く畳み掛けた。
「あなたは舟で、己が死んだ後は、私に指揮を委ねると言いました。しかしあなたは本当はそんなことはしたくない。今の様子でそれが分かりました。それでもなお、そんなことを言ったのは何故ですか?」
「……それは…………」
伍倉は葛藤していた。張伯は、伍倉が次の言葉を出す前に、自分がその言葉を言うことで、その場を己のものとした。
「親分がそう言っていたから、そうですね」
図星であった。親分が張伯に任せるように言った、ということを張伯はわざと強調した。伍倉は血気盛んな勢いを削がれた。
「しかし、今おれは死んでいない! 生きている! だから――」
「その通りです。ですからお願いがあります」
張伯はすっと顔を上げた。
「私の策を集落のみなさんに伝えてください」
伍倉は顔を真っ赤にした。張伯が自ら伝えるより、伍倉の方が皆が納得しやすい。最も、自分が唯の伝達役になるなど、親分の右腕ぶる伍倉にとっては恥でしかないだろう。
「私の策を親分は採りました。なぜあなたは親分と違ってそうしないのでしょうか?」
伍倉は張伯を睨んだ。張伯は決して狼狽の色を見せなかった。ここで引いたら負けだ。
「……わかった。だが、もし失敗したら」
「その時は腹を切りましょう。ですが、一つ約束してください」
張伯は身を乗り出して、伍倉の顔すれすれまで近づいた。
「もし私の策に皆が従わないのであれば、その時はあなたが腹を切ると」
互いの視線が交差した。伍倉は今にも切りかからんとしていた。張伯は、自分が切り殺される
張伯には自信、闘志、智恵があり、伍倉には焦り、不安、そして疲労があった。果たして、伍倉は張伯から目をそらした。
「みなさん、聞いてください。先ほども言いましたように、敵は勝利に酔いしれています。いますぐ襲えば我らが勝利することは確実です」
「しかし、親分はどこにいるんだ? 親分がいなかったら、俺たちは何もできねぇ」
仲間の一人が話しかけた。張伯はあらかじめその質問を予期していた。
「もし親分がどこかに隠れているのであれば、私達が襲ったのを知ればすぐさま駆けつけてくださるでしょう。もし敵に捕らわれているのであれば、そのまま助けてしまえばよいのです」
張伯の言葉に一同はとらわれていた。張任を助けたいという思いは誰もが同じであった。張伯はそれを利用した。その気持ちに訴えかけたのである。
「昨日は親分の指示があり、私達はここまで引き上げました。そして今日攻めないのは腰抜けのやることです。親分の恩を忘れていないのであれば、今すぐ戦うべきです」
沈黙が続いていた。張伯はまだ言葉が必要になるのかと思い、辺りを見回した。すると、一人の仲間が握り締めた右手を挙げた。
「お、おれは、親分を助けたい! みんなもそうだろう!?」
皆互いの顔を見回し、その思いを確認した。
「それでは、出陣の用意をしましょう。日が昇る前に出発します」
各々その場を後にした。伍倉は俯いたまま座っていた。張伯からはその表情は窺えない。
「それでは、人々を率いてください」
何も反応がなかった。
「この策は急を要します。今すぐ動かなければ私たちに勝ちの目はありません」
「聞こえていますか? 集落の人々を集めてください」
伍倉の目の前の床に短刀が突き刺さった。刃に伍倉の顔が写りこんだ。伍倉はのろのろと面をあげた。恐らく、いもしない敵を探している間、伍倉は仲間に当り散らしていたのだろう。何の成果も得られなかったのもまずかった。伍倉はたまたまその求心力を失っていた。
しかし、張伯の言うことが信用されたのは紙一重の差であった。新参者の言うことなど誰が信用するだろうか? もし王才に会っていなかったら、もしかすると伍倉が押し切っていたかもしれない。張伯はここで、政治というものを無意識に身につけつつあった。
「……お前は、なぜ戦うことができる? お前だって昨日は死ぬ寸でのところだった。何故だ?」
張伯はわずかな間固まった。
「それは、なぜなのでしょうか。私にもわかりません。ただ、一つ言うのならば、私は自分が死ぬとは思えないのです」
伍倉は信じられないものでも見る眼を張伯に投げかけた。
「昨日は確かに死にかけました。しかし、痛い思いはしていません。どうも、死ぬという感覚が私にはないのです」
これは張伯にとって新たな発見だった。生の危機に遭えば、誰だってその命を知るであろう。しかし張伯にはそれがなかった。伍倉に脅された時はあれ程震えていたというのに、いざ殺し合いをする段になったら、そんなことは頭から吹き飛んでいた。張伯にとって死は恐ろしいものではなかった。あるいは、もうそうではなくなっていた。
この策が成功しなければ、伍倉の手によって張伯は殺されるだろう。伍倉は張伯のことをよく思っていない。今は一時的に気を落としている伍倉も、いつか張伯のことを疎んじるだろう。そしたら、あの男のように、危険な場所に赴く羽目になるかもしれない。
張伯は罵詈雑言を撒き散らしていた男の最期の姿を思い浮かべた。五人がかりで押さえても暴れることを止めることはかなわず、何とか王才が首を切り落としたのであった。伍倉はもう何も言わず、張伯をじっと見ていた。
太陽が真上に昇っていた。張伯は広場に立っていた。周りの視線が集まる。張伯はしばらく何も言わなかった。静かになった。
「みなさん、知っての通り、私たちは負けました。敵の卑劣な待ち伏せにあったからです。しかし、私はみなさんが一度の負けでその意を失ったりはしないと信じています! 私たちは今まで勝ち続けてきました! であれば、次の戦いでも勝つでしょう! 親分を助けるため、今一度立ち上がりましょう! 親分の恩は山よりも高く、海よりも深いのです! 今度は、我々が親分を助けるのですっ!!」
張伯は力の限り声を震わした。突然、その口調を静かにした。周りもつられて沈黙する。
「私は、着の身着のまま彷徨っていたところを、親分に助けられました。親分は、こんな得体の知れないよそ者にも慈悲をかけてくれたのです」
張伯は涙ぐんだ。みな張伯の言葉に聞き入っていた。聞き入っている、ということは、得体の知れないよそ者だと、誰もがが薄々感じているということでもある。
「私は、親分を助けたいっ! みなさんもそうでしょう!? いえ、みなさんの方が私よりも親分の恩が多いのではないでしょうか!」
張伯は言葉を継いだ。
「であれば、いま立ち上がらないでどうするのですかっ! 私たちは親分がいないと何もできないでしょうか? いいえ、そんなことはありません。私たちは親分に恩を返すことができます! 今こそ戦の時です!」
張伯は言葉を言い切った。みな言い知れようのない感情に震え、涙を流していた。伍倉は人に紛れて立っていた。ここからでは、その顔を窺うことはできなかった。
張伯は親分の演説を参考に、自分の演説を竹紙に書いていた。しかし、一字一句同じことを言ったわけではなかった。張伯の涙は全く嘘ではなかったのだ。
張伯は、今、初めて人の上に立ったのであった。
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