しん 恋姫†無双 く~ずの一代記   作:ポケティ

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闇夜に煌く一つの明かり、敵を誅する

 張任らは官の穀物庫を目指し、暗闇の中を歩いていた。先頭の者だけが松明に火を灯していた。他に灯りはなく、暗闇の中、一行はその小さな灯りを追いかけ続けた。張伯はふと、まるで自分たちが百鬼夜行であるかのような気がした。なにせ見ると死ぬと言われている妖怪の御一行である。今の張任らの列と何が違うのであろうか。どちらを見ても人が死ぬことに変わりはない。張任が張伯に話しかけてきた。

 

「絶対に離れるんじゃねぇぞ」

 

「彼はなぜあんな小さな灯りで道がわかるのでしょうか?」

 

「そりゃ何回も通っているからだ。俺にはよくわからんが、草や石を見ればどこにいるのか大体わかるそうだ」

 

「ここの人たちって、結構すごい人多くないですか?」

 

 妖怪みたいに、と付け加えなかったのは、張伯の思慮による。

 

「そりゃそうだ。でねぇと生き残れねぇからな」

 

 そう言うと張任は張伯を残し、列の前方に消えていった。ただ道を踏みしめる音だけが耳に入った。僅かばかりの月影に照らされて、刃が青白く光っていた。張伯はふと、己が何の武器も持っていないのが恥ずかしくなった。他に松明を手に抱える者たちも、短刀ぐらいは腰に着けているのである。中には右手に剣を、左に松明を持つ者もいた。

 

 張伯が持っている物と言えば、丁程から譲り受けたお古の文房四宝と若干の食料のみであった。当然これで戦えるわけはなく、張伯は丁程の、文人たるもの必ず四宝を離さず、常にこれを携行すべしという言葉に従っただけであった。お古といえど、きずや汚れは見当たらず、その扱われ様は推して知るべしであった。

 武器となりそうなものには、竹の切れ端と己が腕以外何もなかった。列はいつの間にか張伯を置いて行っていた。松明の先は小枝を結び合わせただけの簡素なもので、脂の匂いが鼻についた。

 

「どうされましたか?」

 

 息をやや切らしながら一人の青年が走ってきた。背には弓と矢筒を負い、壮士であった。

 

「私、伍倉と申します。張伯殿とは川で一度会っております」

 

 そう言われると、そうであったかもしれなかった。張伯は張任の側にいた二人の男のうちのどちらかだろうと思ったが、その特徴は当に忘却の彼方にあった。

 

「それで、何ゆえこのように列から離れているのでしょうか? 一度離れればまた遇うのは難しいでしょう」

 

 張伯は腹をくくって言った。

 

「これから戦いに赴くというのに、私は何の武器も持っていません。こんなに恥ずかしいことがあるでしょうか?」

 

 伍倉は信じられないものを見るかのような顔をした。

 

「張白殿のやるべき事は、穀物倉に最も近くの灯りを持つことです。これは最早死地にいるのと変わりはありません。それなのに武器を持っているかどうか気にして何の意味があるのでしょうか? むしろいつでも逃げられるように荷を軽くすべきです」

 

 張伯は伍倉の言葉を聞いて色を失った。そこまで危険だとは思ってもみなかったためである。張伯は、子が親のお使いをするかのような気楽さで、官の穀物倉をたちどころに襲えると信じて疑っていなかった。

 張伯の心情に気が付いたのか、伍倉は脅迫に近い念押しをした。

 

「念のために言っておきますが、逃げたり裏切るような者は斬首と決まっています。ゆめゆめ安易な手段を取ることのないように」

 

 伍倉はそう言うと、しばらく張伯を見たまま視線をはずさなかった。ふと頭を列の方に向けると、また張伯に振り返って言った。

 

「これを渡しておきます。振り回したりせず、突き刺すように使ってください」

 

 伍倉は小さな短刀を張伯に渡した。本来人を刺すためではなく、木を削ったり、皮を剥ぎ取るのに使うものであった。こんなもので敵と立ち向かえるはずがない。その意味がわからぬ張伯ではなかった。

 

「ありがとうございます。ご安心ください、必ずや任を全うしてみせます」

 

 しかし、張伯は決して自決の意を口にしなかった。そんなことをする者は口先だけで、実際は生の汚い者として信用されないことを恐れたのだ。

 張伯は、今が一里先も見渡せない暗闇であることに心から感謝した。もし伍倉が張伯の顔を明かりの元で見ていたら、すぐに見捨てられるか切り捨てられてもおかしくはなかったからである。脚が震え、松明を持つ手は白くなっていた。

 

 張伯は今にも逃げ出したい衝動にかられながらも、列に歩みを合わせた。それは張任への恩義や怖いもの見たさではなかった。この列から離れればすぐに死んでしまうと思ったがためであった。

 

暗闇に消えたが最後、もう戻ってはこれまい。横にいる者が誰かもわからず、どこにいるのかもわからず。ある時には列の歩みが亀のごとく感ぜられ、またある時には張伯を遥か彼方に置くような速さで歩いているように感ぜられた。

 

「張伯殿、最後はあなた様の番です」

 

 伍倉が訝しげに張伯を見ていた。張伯は跳ね上がった。今にも自分が死ぬのではないかという思いで胸がいっぱいだった。後ろを見ると、わずかだが小さな灯りが点々と闇の中に落ちていた。列から一人、また一人と抜けていたことに張伯は全く気が付いていなかった。

 

「はやく松明に火を灯してください。それを合図にして、我々は攻め込みます」

 

「わ、わかりました」

 

 そう言うと張伯はすぐに背嚢から竹筒を取り出した。中には火種が入っており、これを使えばすぐに火を灯すことができた。

 

「随分便利なものですね。これは張伯殿が考えられたのですか?」

 

「えぇ、えぇ、そうです。竹は意外に丈夫です。この中に火を入れても、空気がないので、焼けてしまう心配もありません」

 

 上手く二重構造にしてやり、内側の筒に小さい穴をいくつか空けておけば、それを出すだけで空気が入り、少し振るだけで種が真っ赤になる。

 

「へぇ、そうなのですか……おいっ! そこの者! 親分にすぐに伝えろ! 戦の時だとっ!」

 

 伍倉は剣を手に取ると、すぐさま前に走り去った。木造の建物がいくつかあった。どれも四方には松明が置かれ、警備の者が三、四人いた。するとたちまち張任が踊りかかり、叫び声を挙げるまもなく彼らは切り伏せられた。それを見た他の人々がすぐに武器を手に雪崩れ込んだ。

 

「うおおおーっ!」

 

剣戟の音が聞こえる中、張伯は松明を手に立ち尽くしていた。見られていないか気が気でなかった。灯りを持っているのだから気付かれて当然なのであるが、張伯はそれでも敵に見つかっていないという願望を捨て切ることができなかった。

 こんなことは早く終えて、自分の陋屋に戻り、藁の上で横になりたいとも考えた。体は痒くなり、寝心地は良いとは言えない代物であるが、その草の匂いが懐かしかった。多少(たくさん)の警備の者が地に伏せていた。張伯はなるべくそその周辺を見ないようにし、松明を右手に掲げていた。首から汗が滴り落ちた。

 

「殺されるはずがない……松明を持って突っ立っているんだ。実際に剣を持って戦っている人間のほうが、よほど脅威だ」

 

 張伯はやや早く呼吸しながら言った。

 

 ふと一人の男と目があった。簡単な鎧で身を包み、手には大刀を持っていた。張任でさえ鎧は着ていなかった。とすると、今目の前にいる男は敵である。乱闘の末、張伯の元にまで辿りついたのであろう。

 

 来るなよ、来るなよ……。張伯はそう思いながら、背を見せずに下がり始めた。あまり刺激してはいけない。ところが、動くたびに松明の光もふわふわと揺れた。男はそれを目で追っていた。だんだん男はいきり始めた。男は暫鬼気迫る形相をし、しばし張伯を睨んでいた。

 突然、男が襲い掛かった。張伯はあはやというところで刺されそうになったが、なんとか避けることができた。張伯は松明を振り回し、男が近づけないようにしたが、それは大刀より短く、振り回すほど火の勢いは弱くなった。つまり、全くこの勢いを止めることは能はなかった。

 

 男が太刀を振り下ろした。危ないっ! 咄嗟に張伯は横に飛んだ。大振りで隙があったため、何とか難を逃れた。張伯の心臓と頭は警告を発していた。これを何度もかわせるほどの力があると思うほど、張伯は自惚れていなかった。

 

 男は力任せに、太刀を横に振った。張伯はほとんど転ぶようにしてそれをかわした。風で吹き飛ばされそうだった。だがこれで反撃の機会が生まれた。今だっ!! 張伯は松明を勢いよく男に突きつけた。

 男は松明を顔に受けた。火が小さかったため、顔を焼くには至らなかったが、思いもよらぬ反撃を受けたため、男は顔を手で抑えて膝を屈めた。

 

「ううぅ!、殺してや――」

 

 鳥のように張伯は、飛び上がって短刀を手に握ると、それを男の胸に突っ刺した。張伯は馬乗りになった。びくん、と男の体が一瞬揺れた。男は顔を上げて張伯を見た。何かを言おうとしていたが、それが口から出ることはなかった。男は張伯に向かって崩れこんだ。

 

「口だけの臆病者かと思ってたが、中々どうして、やるじゃねぇか」

 

 張任が隣に立っていた。右手は血で汚れている。地面に赤い水滴が垂れていた。

 

「親分……」

 

「顔は見ねえ方がいいぞ、ずっと頭に残るからな。おっと、もう遅かったか」

 

張伯には、戸惑いと、腹の奥に冷たいものがあった。

 

「親分、どうして」

 

 それ以上言葉は出なかった。

 

「どうして、ってのは何のこと言ってんだい?」 

 

 張伯は口をつぐんだ。何を聞こうと思って言ったのか、わからなかった。何かを考えて発した言葉ではなかった。

 

「まぁ、俺は最初切り込んでからはお前の近くにいたよ。お前は気が付いていなかったみたいだけどな」

 

 張任は薄く笑った。

 

「それで、どうだい。調子は? ん?」

 

「もう脚が震えてねぇじゃねぇかよ。随分と落ち着いてやがる。案外肝っ玉が太ぇんだな」

 

 親分は、張伯に凭れかかった男を蹴飛ばすと、張伯に言った。

 

「そら、さっさと行くぞ」

 

 張伯は黙ったまま座り込んでいた。張伯の闘いを張任は黙って見ていた。いよいよという時は助けに来てくれるのだろうが、果たしてそれが間に合うのかどうかは疑問だった。けれども張任の意図はわかっていた。〝戦の空気”というのを張伯に知って欲しかったのだ。

 

 口だけの人間を張任は必要としていなかった。丁程の補佐が彼の仕事だが、それは必ずしも必要ではない。丁程は補佐などいなくとも何年も集落の運営をしていたのだ。むしろ張伯に教えることがある分、彼に負担となっていた。だからこそ張任はもっと張伯に別なものを求めたのだろう。

 

 もちろん初めは張任は、張伯を戦に連れて行こうなどと思ってもいなかったに違いない。しかし、他ならぬ張伯が策士として名乗り出たことから、考えを変えたのだろう。やや否定的ではあったが、張伯の意見は張任にとって新鮮なものだったに違いない。だからこそ、その才をもっと使えるようにするために、実戦に張伯を投じたのだ。

 しかし、張伯の心は暗澹としていた。張任の意図はわかったが、不満は募るばかりであった。助けてくれてもよかったのに。あるいは死ぬかもしれないということをあらかじめ教えてくれれば。理由を知っても、それに納得できるかどうかは別問題であった。

 張伯は座り込んだまま、ぼんやりと転がった松明の火を眺めていた。

 

「親分、大変ですっ! 倉に食料がこれぽっちもありません!」

 

 倉からある者が飛び出してきた。

 

「何だとっ! おい! それは本当か!」

 

 張任はその者に詰め寄った。

 

「は、はい、どの倉も空です! 麦一粒も見当たりませんっ!」

 

 張伯はそれを聞いて思わず立ち上がった。何かまずいことが起こっているのは容易に想像がついた。いくら食料を洛陽に届けるための中継地点と雖も、何も倉に残っていないはずがない! 

 

「これは罠ですっ!」

 

 張伯が叫ぶか叫ばない内に、たちまち矢が処処から飛んできた。何人かが地面に倒れこんだ。張伯の近くにも矢が飛んできたが、どこから飛んできたのかはわからなかった。矢は全て闇の中から放たれていた。

 その時ぱっと倉から火の手が上がった。途端に張伯らは灯りのただ中に立たされた。警備の灯りだけでなく、倉まで燃えたとあれば、闇夜でも狙いをつけるのは簡単だ。

 

「親分っ! ここは逃げましょうっ! 敵は明かりの中にいる私たちを容易に狙うことができますが、反対に私たちは敵がどこにいるのかすらもわかりません!」

 

 張伯は頭を低くして、転がり回りながら言った。

 

「わかってるっ! 野郎ども! 撤退だっー! 火の近くによるなっ! 家に戻るぞ!」

 

 張任の怒鳴り声を聞き、皆撤退を始めた。しかし敵がこの隙を逃すはずはなかった。張任は闇の中目掛けて、地面に転がっていた矛を投げつけた。ぎゃっ、といううめき声がした。

 しかし哀しいかな、敵の勢いは止むことなく、矢の雨の中、張任と張伯は走り回った。張任は何本もの矢を手の武器で叩き落した。何人かの敵が張任に切りかかった。しかし張任はこれを全て弾くと、近くの者がこれらを切り伏せた。矢はひっきりなしに飛び、張任らは動き続けなければならなかった。

 

「おい、おめぇら! 俺が殿を務める。お前たちはさっさと帰れっ!」

 

 伍倉が何処からか叫び声を挙げた。

 

「親分、その任はこの倉に任せてください!」

 

「ばかやろぉ! お前には妹がいるじゃねぇか! さっさと帰れっ! 帰らねぇとこれだぞ!」

 

 張任の剣幕に伍倉は押され、急いで近くの者どもを引き連れて一目散に野原に向かった。張伯もその後を慌てて追いかけた。

 

「待ってくださいっ! 私も、私も連れて行ってください!」

 

 何度か矢が脇をかすめ、背にも刺さったが、背嚢のために無事であった。張伯は矢を抜き取った。矢じりは鈍く光っていた。わずかだが油のようなものが塗られていた。恐らく毒なのだろう。もしこれがかすりでもしたら。張伯は思わず矢を投げ捨てた。背後には何人もの官の兵が追っていた。

 

「追っ手がいるぞ!」

 

 伍倉は槍を手に持ち、身を翻すとたちまちニ、三人の追っ手を蹴散らした。他にも剣を手に、官の兵に斬りつける者たちもいた。後退しながら剣を打ち合うこと十合を越え、決着がつかずにいるうちに、隙を狙って伍倉が突き殺した。

 張伯を殺さんとする三人の官の兵がいた。張伯は敵の戟を回避し、地面を転がった。すぐに手に収まるほどの石を拾うと、これを敵に投げつけた。防御すること能はず、一人は腹を押さえてうずくまった。一人は走っている途中で体勢を崩し、たちまち味方に切り伏せられた。

 最後の一人は意に介さず張伯に襲い掛かって来たが、伍倉が横から突撃した。赤と銀色の穂が、張伯の目の前に突き出た。顔に水滴が飛んだ。

 

「お前たち、全員いるかっ!」

 

 伍倉が皆に呼びかけていた。地面に転がった松明が、その苦虫を噛み潰したような顔を照らしていた。

 

「いいか、よく聞けっ! 俺たちはこれから船に乗って川を上って帰る! 準備はいいかっ!」

 

「残って戦っている者もいるのに、おれたちだけで帰るのかっ!」

 

「黙れっ! これは親分の命令だっ! 俺だって残って戦いたい。だが、もしここで全滅したら、だれが家にいる妻子を守る? もしかするともう襲われているかもしれない! 今すぐ戻るぞ!」

 

 伍倉はそう言って川に走って行った。舟というのは、恐らく奪った物資を運ぶために用意していた船なのだろう。三艘もあった。これなら全員乗れるだろう。張伯は後ろを振り返った。大きな灯りがいくつもあった。時折悲鳴が木霊した。あそこでいままさに張任らが戦っているのだろう。いまここにいる者たちは若い顔ぶれが多かった。とするとあそこで戦っている者たちは……。

 

「どうしたっ! 早くお前も乗れっ! 死にたいのかっ!」

 

 伍倉の言葉が耳に届き、張伯は翻って舟に飛び乗った。ゆっくりと舟が岸から離れ始めた。誰もが口を開かず、必死に舟を漕いでいた。親分は大丈夫なのか? そんなことを口に出すのは憚られた。誰もが手を動かすことで、胸中の不安を追い出そうとしていたのだ。

 するとまた追っ手が現れた。七、八人だろうか。各々が弓を構えている。彼らはすぐに張伯らに向かって矢を放った。更に後ろからも、明りが何本も大きくなっているのが見えていた。

 

「身を伏せろっ!」

 

 張伯は背嚢を上にして舟板に突っ伏した。他の者は身を伏せながら、手には梶を握っていた。幸いにも船に飛び乗ってくる者はいなかった。後ろから声が聞こえた。

 

「畜生っ! やられた、いてぇよ、いてぇ……」

 

 張伯は後ろを振り返った。そして見てしまった。背中に何本もの矢が刺さっているのを。一番後ろにいた彼は、一番矢を受けたのだ。この傷ではもう助からない。

 

 こっちも矢で応戦しろっ! ばかっ、そんなことより早く舟を漕げっ! 舟の中は阿鼻叫喚であった。揺れる舟の上から敵を狙うのは難しい。反対に、揺れない陸からなら簡単だ。

 

「川を逆に上っているとはいえ、敵に追いつかれるのはこの舟が重いからです」

 

 張伯は男と真正面から対峙した。男は何のことだか呆然としていた。だがその意を察したようだった。驚愕の顔を向けた。

 

「戦ってくれませんか?」

 

 逆上して殺されるかもしれない。張伯は胸の中で、短剣を右手に持っていた。男は視線を下に落とした。その時、松明の明かりが、足元を照らした。男の顔はどうしてだか、真っ赤になっていた。それに何処かからかさび付いた臭いがする。男は意を決したように顔を上げると、

 

「親分のために、負けるなよ」

 

 と言った。そして、舟から飛び降りると、岸にすぐさま這い上がった。張伯はあっ、と声を漏らした。まさか男がこれを受け入れるとは思ってもいなかった。男は敵に切りかかった。一人倒れた。他の敵も気が付いたのだろう、矢の矛先が男に向いた。そして、暫らくして、男は闇に消えた。

 

「張伯っ!」

 

 伍倉が怒鳴りかけた。見ると、伍倉の左肩に矢が突き刺さっていた。肩に手を当てながら、伍倉は敵が来ないか目を凝らしていた。

 

「もし俺が死んだら、お前が指揮を取れっ! 忌々しいが、お前が一番親分に目をかけられている! みんなもそれでいいなっ!?」

 

 張伯は黙って頷いた。何度か舟を漕ぐと、たちまち手が熱くなった。もしかすると血が出ているかもしれない。しかし張伯は手を一度も見ることなく舟を漕ぎ続けた。矢はいつの間にか来なくなっていた。

 

 

 

 集落に着いた時には、誰もが疲労困憊であった。正確には、家族の身が安全だとわかった途端に皆崩れ落ちた。各々家族、親戚、兄弟、あるいは故人(親友)らと抱き合い、互いの命あることを喜んでいた。

 ただ一人、張伯だけは立ち尽くしていた。その眼は遥か遠くに見えるかすかな明かりに向いていた。近くでは多く見えたが、遠くからでは一つの明かりに見えた。戦いはどうなったのだろう? 張任は生き残っているのだろうか? ここからでは到底わからない。

 張伯は伍倉を探した。果たして伍倉は、陣冬と名乗った女の子に話しかけていた。伍倉は彼女の兄であった。陣冬は伍倉に抱きついて離れなかった。伍倉の左肩は布で覆われていた。

 

「敵は追撃してくるでしょうか?」

 

 張伯は伍倉に話しかけた。伍倉は顔だけ張伯の方に向けて言った。

 

「わかりません。一応親分の指示で、松明の灯りは途中で、この集落から離れたところに続くように置いておきました」

 

 落ち着いたのか、口調が丁寧になっている。

 

「えっ、そうなのですか。あれ、でもそれだと帰ってこれないじゃないですか」

 

 伍倉は呆れ顔に言った。

 

「それは張伯殿、あなただけです。ここは私たちの住処です。途中まで灯りがあれば、どこへ行けばいいのかは何となくわかります」

 

 その時張伯は、伍倉の脚の間から覗いてこちらを睨みつけている者がいるのに気が付いた。張伯は何も言わなかった。否、言えなかった。彼女も何も言わず、ただただ睨んだままだった。

 

「それでは私はこれで失礼します。これから万が一の襲撃に備えて見張りを立てなければならないので」

 

「わかりました。私も用事があるので、これで失礼します」

 

 女の子は張伯を目で追いかけながら、伍倉にしがみついていた。最後まで一口も言葉を発っしなかった。

 

 

 

 家に戻り、張伯は藁の上で寝転がっていた。今回の襲撃は完全な失敗に終わった。次は、敵の襲撃に備えてこちらが守る番だ。伍倉はこちらの居場所が判明していないかもしれないと考えていた。

 しかし、それは最も危険なことだと張伯は思った。希望的な見方こそが味方を敗北に向かわしめる。悲観論との謗りを受けようとも、軍師は必ず最悪の状況に陥ることを念頭に置いておかなければならない。それができるのは、自分だけだろう。

 張任にそこまで考えている暇はない。彼は人々を統率しなければならない。おまけに今は連絡さえつかない。丁程は軍事にはからっきしだ。伍倉もその様子を見るに武人肌だ。張伯は決意を新たにし、眼を閉じるのだった。

 

 

 ……張伯の頭には、敵を倒した後に出てきた親分、恨み言一つ言わずに舟から飛び降りた男、ただただじっと睨んでくる女の子の顔が渦巻いていた。


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