しん 恋姫†無双 く~ずの一代記   作:ポケティ

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張任、叫びて穀物庫を襲わんとす

 次の日、張伯が丁程の元に赴くと、彼は書を(したた)めているところであった。張伯に気がつくと、手を止めて膝を正した。

 

「おはようございます、丁郎官。何を書いていらっしゃるのでしょうか?」

 

「え、えぇ、おはようございます。新しく(弟)子を取ることになったので、そのことを友人に伝えようと思っていたんです」

 

「ここから書が届くのでしょうか?」

 

 張伯は疑問に思った。郵便制度に似たものは大都市にならあるのだろうが、この辺鄙(へんぴ)な集落では望むべくもない。

 

「ここから二十里程離れた村にいる男に頼んで届けてもらいます。届くまでに少なくとも三ヶ月はかかるでしょう。さて、それでは倉に向かいましょう」

 

 丁程は文を卓の上に置いて立ち上がろうとしたが、すぐに丸めて自身の懐に入れた。

 

「まだ墨が乾いていないのではないでしょうか」

 

「いえ、これは書き直します。出来がよくなかったので。どうしても字には拘りたいのです」

 

 丁程はそう言うと膝を立てて立ち上がった。背は張伯よりもやや低く、頭には白が多く混じっていた。

 

「さて、行きましょうか」

 

 二人は集落の中を通って倉に向かった。人々は相も変わらず動き回っていた。時折ちらりとこちらを見る者もいるが、すぐに目をそらした。

 

「張白、どうしましたか?」

 

「いえ、少し考え事をしておりました。私はもう集落の一員と認められたのであろうと」

 

 ここから問答が始まる。丁程は、こういった話し方をとてもよく好んでいるようだった。

 

「なぜそう考えたのですか」

 

「一昨日も昨日も多くの人が私に話しかけてきました。それは、私がどのような性格なのか、どうやって付き合っていけばいいのか知るためでしょう。しかし今日は誰も話しかけてきません。それはつまりもう私について知る必要がなくなったからではないかと」

 

 ある程度性格がわかり、危険が無いのであれば、そして有力者のお墨付きであるのならば、わざわざ話しかける必要はない。

 

「なるほど。確かにその通りです。ここの人々は今日を生きるのに精一杯ですから、一度脅威ではないと判ずればもう話しかけることはしないでしょう」

 

「なぜここまで貧に(あえ)いでいるのでしょうか?」

 

 貧しい者に、なぜあなたは貧しいのですか、と尋ねるのは無礼だろう。聞いたところで、まともな答えが返ってくるとは思えない。張伯は、大きい家を持ち、文字が読める丁程だからこそ、この問いを発することが出来た。そのことを張伯は自覚していた。

 

「今年が不作というのもありますが、元々この地は土が瘦せていて畑作に不向きなのです。ですから今までは山にある獣を狩って生活していたのですが、それももう難しいでしょう」

 

「それはなぜでしょうか?」

 

「張伯、それは己で考えることです」

 

 そう言うと丁程は道の脇にある岩に座り込んだ。張伯は師に試されていることに気付き、下を向いて長考した。不作。瘦せた土地。山。山の中腹にある森では張任らと会ったが、それは彼らが食料となるものを探していたからなのだろう。

 宴会と聞いて皆が喜ぶのは普通のことだが、あそこまで顔が上気していたのは、久々のご馳走だったからなのかもしれない。張伯が新しく来たからというのはただの口実で、人々の不満を和らげるために元から開くつもりでいたのだろう。

 

「どうですか? 考えは纏まりましたか? その様子だと余計なことを考えていますね。落ち着いて私の問いを思い出しなさい」

 

 張伯は考えを改めた。今師が問うているのは、なぜ山で獣をとるのは難しいのか、ということだ。今まで問題はなかったはずなのだ。なぜなら、それで生きてこれたのだから。であればなぜ今は難しいのだろうか? 

 張伯はその時ある考えに辿りつき、思わず手を握り締めた。顔面は白くなり、顔は固まってしまった。それでも師に(こた)へて言った。

 

「不作ということは他の村も餓えているということです。食料を求めて山に入るものが増えたため、もう獣がいなくなってしまっているのではないでしょうか」

 

 山の恵み、山菜や木の実も望むべくも無い。

 

「その通りです。ですが気が付いたのはそれだけではありませんね」

 

「はい。丁郎官は朝にこの集落から二十里離れたところに村があると仰りました。ということはその村は十里離れた山にまで出かけなければならない程餓えているということではないでしょうか」

 

「その通りです。この集落の近くには三つの村がありますが、どれも餓えて困っております。ですが本当に怖いのはこれからです。何せ冬が来るのですから」

 

「いま餓えているのにどうして冬など越すことができるのでしょうか!」

 

 張伯は驚きのあまり声を挙げた。あまり収穫が芳しくないのはわかっていたが、よもやここまで餓えに苦しんでいるとは思ってもみなかったためである。一日中何も口にしなかったことはあったが、張伯は餓えというものを知らなかった。今その怖さの淵にようやく近づいたのであった。

 

「このままでは何人もの人が死ぬでしょう。ここの人々もそれを免れることは難しいでしょう」

 

 そう言う丁程は落ち着きを払っていた。それは昨夜下々(しもじも)の人々を助けたかったと言っていた姿とは対照的であった。

 

「何か策がおありなのですね」

 

「いえ、簡単なことです」

 

 丁程は立ち上がると、張伯の目を見て言った。

 

「あるところから貰えばよろしいのです」

 

 丁程の目には皺が寄っていたが、目は丸く、力強かった。

 

 

 

 二人が倉につくと、そこでは張任が一人立ち尽くしていた。

 

「遅かったじゃねぇか」

 

「張大公、なぜこんなところにいらっしゃるのですか!」

 

「そりゃおめえ、決まってんだろ。()()()に来たんだよ。あんな重いもんひょろっちいてめぇらだけで持てるわけねぇだろうが」

 

 そう言うと張任は明かりを持ってさっさと倉の中に入っていった。丁程はその後ろを黙って進んだ。張伯は更にその後に続いた。

 

「それで、何か不足してるもんでもあるのか?」

 

「いえ、一応書類では特に問題はありません」

 

「紙なんて信用できないからこうして見回ってるんだろうが。少しは頭使え」

 

 張任は奥に進んで入った。長い木棒が多く置かれていた。どうやら武具のようだった。丁程は一通り辺りを見回った後、

 

「特に減っているものはありません」

 

と張任に報告した。張伯は長い棒を一本持ってみることにした。前方が鉄で打ち付けられ、片手ではつかめないほど太かった。

 

「おい、危ねぇんだから触んじゃねぇ! おめえみたいな奴に持てるわけないだろ!」

 

「わ、わかりました。すぐ下ろします」

 

 しかし腰をかがめたことで更に腕に負担がかかり、張伯は棒を床に打ち付けてしまった。ばだん、と音が鳴り、棒は手元から三分の二を残して折れてしまった。

 

「す、すいません。こんなに重たいと思わなくて」

 

 張伯は震えながら答えた。足に落としたら、確実に足の骨が折れていた。つまり、ここでは二度と歩くことが叶わなくなっていた。事の重大さに気付き、張伯の足は固まった。

 

「いや、怪我がなかったんならそれでいい。どの道そんなんで折れるようじゃぁ、戦いの時にも役に立たなかっただろう」

 

 張任は顔をしかめて折れた棒を手に取った。

 

「武具はどんどん使えないのが増えてやがる。あっちのやつなんか見てみろ、赤錆だらけじゃねぇか」

 

「親分、それは武器の手入れが悪いからです。きちんと刃についた汚れをふき取って、こんな湿った倉ではなく、もっと乾燥した場所に置いておけば長く持ちます」

 

 倉を支える木には皹が入り、苔と黴の臭いが漂っていた。

 

「そうかい、それじゃあこれからはお前が武器の管理をしろ。当然全部磨き上げろよ」

 

「え、いえ、それは」

 

 張伯はたじろいた。これだけの武具を点検、修理、保全するのは、並大抵の苦労では済まない。

 

「できもしねぇことを言うんじゃねぇ。全く、()()()っちゅうのは口だけの奴の集まりなのかい?」

 

「い、いえ私はー、そのー、儒家というわけでは……

 

「自分がやらないで誰かにやらせよう、なんてせこい考えじゃぁ誰も着いてかねえよ」

 

 張任は呆れたように言った。

 

「それより張大公、そろそろ動くべきかと」

 

 丁程が張任に耳打ちした。

 

「もうそんな時期か? 宴会で使いすぎたか?」

 

「このまま座して死を待つ訳には参りません。ここから三十里程離れた場所に、税を納めるための穀物庫が置いてあります。警備する者も少ないため、すぐに勝てるでしょう」

 

「それは確かかい?」

 

 張任の持つ刃に光が灯った。松明の反射で赤くなっている。

 

「すでに人を遣って偵察しております」

 

「よし、わかった。俺が皆に伝えておこう」

 

「少し待ってください」

 

「ん、なんだ張白、怖気づいたか?」

 

 張伯は親分に尋ねた。

 

「税を納めるためということは、そこは官の役人が守っているのではないでしょうか?」

 

「その通りだ。よくわかってるじゃねぇか」

 

「それはさすがに不味いでしょう! すぐに軍が送られてきますよ!」

 

 白磁を奪ったということからわかってはいたが、張任は役人を襲っていた。要するに罪人であった。

 

「じゃあ俺たちに死ねっていうのか? もうこれしか道はねぇ。それに今までも散々襲撃してきたんだ。今更一回増えたところで変わりゃしねぇよ」

 

「え、そうなのですか……。でしたら何の問題もありません。一刻も早く攻めましょう!」

 

 どうやら後漢の威光は既に地に落ちているようであった。ここは雒陽のすぐ近くにあるというのに、それさえも討伐できていのだ。張伯はほっと胸をなでおろした。

 

「てっきり天子に刃を向けるのはよくない、とでも言うかと思っていたが、なんだい、自分が襲われなければそれでいいんかい」

 

「そりゃあ、もちろん。だって、誰だって自分の命が大事でしょう?」

 

「おまえなぁ……。まあいい、別にお前は襲撃に参加しなくていいからな」

 

 張伯はぐいっと顔を寄せて言った。

 

「え、なぜですか! 丁郎官の一番弟子であり、愛弟子でもあるこの張白が、軍師としてかならずや必勝の策を講じてみせます!」

 

「その策は俺たちでも実現できるのか? まぁ、そこまで言うんだ。お前の策とやらを見せてみろ」

 

 張伯は元気よく答えた。

 

「はい、是非ともご照覧ください!」

 

「その自信の源はどこから来るのでしょうか? というか、一人しか(弟)子がいないのであれば、一番弟子になるのは必定ではないでしょうか……それに愛弟子とは……」

 

 丁程が何かぶつぶつと呟いていた。

 

「細かいことは気にするべきではありません。ちなみに親分はどのくらい強いのですか?」

 

「俺が一番得意なのは呉鉤(ごこう)だ。俺は揚州の生まれでな。初めて手に持った武器がこいつなんだ。腕を振り回して力を入れれば人の首は軽く落とせる」

 

 張任は腕を横に振りながら言った。張伯はそれに水をさした。

 

「でも武器が強いからといって、親分が強いとは限りませんよね?」

 

「そうか、そうか。張白、お前はそんな生意気な口を利ける程でかくなったんだな。じゃぁ、一遍この場で闘おうじゃねぇか」

 

 張任は腕まくりしながら言った。

 

「私には武器を持つほどの力はありません。ですが代わりに私には口があります。私はこの口で親分に天下をもたらし、末代まで親分の栄光を語り継ぐでしょう」

 

「いらねぇよそんな口。俺はここいる奴らが安心して暮らせるならそれでいいんだ。わかったな?」

 

 張任は張伯の前に来ると、その目を見て言った。張伯と丁程は息を止め、顔を見合わせた。そんな奇妙なやり取りが暫らく続いた。親分は本気なのだろう。それはわかっていた。ただ、それに何を言えばよいのかわからなかった。沈黙が、どれ程続いただろう。張任が口を開いた。

 

「さて、それじゃぁ闘おうか」

 

「えっ! その話はもう終わったではありませんか! いくら何でも勝負になりませんって!」

 

「ばっきゃろ。勝負にならなくても闘わなきゃいけねぇ時があるだろうが。早くそこにある中から一つ武器を持て」

 

 張任は呉鉤を灯りに当てながらその刃の切れ味を確かめていた。張任がそれを振り回すたびに空気の切れる音が聞こえた。張伯はその風音を聞きながら、闇の中で煌く白き刃を目で追いかけた。

 

「張大公、それはさすがにお戯れが過ぎるのではないでしょうか。張白の腕を見てください。あの腕では石ころはおろか箸さえ持つことはできないでしょう。あの脚を見てください。あれでは少し歩いただけで倒れてしまうでしょう。このような弱き者と一対一で闘うのは恥ずべきことではないでしょうか」

 

「丁郎官、さすがに私はそこまで虚弱ではありません!」

 

 丁程も、もちろん年老いた元文官であり、虚弱そのものであった。鍬さえ持てるのかどうかも怪しい。

 

「うーむ、確かに武器も持てねぇこいつじゃあ、こっちが勝った気になれねぇな。闘いはやめだな」

 

「そこは勝つ前提なのですか!」

 

「じゃぁお前さんは俺に勝てるっていうのかい?」

 

 張任は何気なく呉鉤を張伯に向けた。ひゅっという音が聞こえただけで、張伯は頭をそらした。

 

「く、口の力なら……」

 

「口の力ねぇ……。そんなものに頼るよりも鍛えたほうが何ぼかましじゃねぇかな」

 

「張大公、そのお言葉は私にも突き刺さります……」

 

 こうして一行はその場で解散となった。

 

 

 数刻後には、張伯は己の家に戻っていた。前の家のことをすっかり忘れているためか、この家が馴染みの場所となっていた。長板が立てかけてあるだけの玄関口を通ると、自然な足取りで藁の上に寝転がった。

 

 初めての戦とあって、張伯は高揚としていた。この時代最も優れた者は誰だろうか。何せ人間とは思えぬ偉業を築いた英雄達の時代である。張伯はそのいくつかを覚えていた。誰もが一番にその名を口にする曹操、何度負けてもその徳で人を惹きつけて止まない劉備、それを補佐する天才軍師孔明。同じく劉備配下の忠義の豪傑、関羽。それと対照的なのが裏切りと武勇の呂布。他に呉の地盤を築いた負け知らずの孫堅。

 

「あと各地を放浪してた趙雲なんていうのもいた。いや、それよりも張遼が防御に優れていたはずだ。だとしたらこの七人、いや()()に注意してれば大丈夫か」

 

 張伯はふと張任の実力が気になった。あの巨躯であれば、丸太でさえ悠々と持ち運べそうだ。あの様子を見るに、剣技も相当優れているだろう。

 

「関羽になら親分でも勝てるかな。でもかなり強かった気がするから無理かな。待てよ、関羽と呂布はどっちが強いんだ? 忠孝を褒められてる関羽じゃあ、武力一辺倒の呂布には勝てないか? とすると親分は関羽と呂布の間かな」

 

 張伯はいつか相見えることになるかもしれない、歴史に名を残す英傑たちに一晩中思いを馳せたのであった。

 

 

 

 まだ日が昇らぬ頃、集落の前には多くの人が集まっていた。男共はみな鎧はつけておらず、軽装であった。しかしその手には様々な剣が握られていた。後ろには背嚢があり、雑多なものが入っていた。張伯は腰に袋をいくつか下げるだけで、何も持っていなかった。丁程はその脚では走れないということで家に留まっていた。

 女たちが男共に奮起をさせようと、そんなへっぴり腰でいるな、上手い飯作って待ってるよ、帰ったら伝えたいことがあるんだ、などといった言葉を投げかけていた。

 

 そんな中、齢五、六の小さな女の子が張伯に話しかけてきた。

 

「あの、すごい人だってききました! あ、あの、お、お兄ちゃんをまもってください、おねがいします!」

 

「君の名前は?」

 

 張伯は尋ねた。

 

「あ、兄は久遠、です………………わたしは、陣冬です」

 

「真名を言われても私にはわからないよ。ただ、安心しなさい。私の策を用いれば、君の兄が死ぬことはない」

 

「ほんとう、なんですか……?」

 

「ああ、約束しよう」

 

 張伯は右手の小指をさしだしたが、相手はそれを見もしなかった。

 

「じゃぁ、なまえをおしえて!」

 

「私は姓は張、名を伯という」

 

「そっちのなまえじゃない!」

 

 陣冬と名乗る女の子は、手をあたふたさせながら言った。

 

「ということは私の(あざな)かい? いや、それとも私の真名かな?」

 

「しんめいをおしえて!」

 

「すまない。真名は私にはないんだ。私は遠くの地で生まれたからそのような風習がなかったんだ」

 

「やくそく! した!」

 

「だからそれでもういいだろう。他に何を言いたいんだい?」

 

 すると女の子は見る間に顔を赤くして、

 

「うそつき!」

 

と叫ぶや否や、張伯が声をかける間もなく、右腕を両眼にあてて走り去って行く……

 

「おう、大丈夫かい、お嬢ちゃん」

 

 とはならなかった。張任が女の子の目の前に立ちふさがっていた。腰を低くし、顔を横に広げて話しかけた。

 

「何かあったのかい?」

 

 女の子は黙って顔をうつむけていた。

 

「久遠の兄ちゃんは好きかい?」

 

 すると女の子はびくっと肩を震わし、ちいさく頷いた。

 

「そうかそうか。実はな、おじさんは久遠兄ちゃんにいっぱい助けてもらってるんだ」

 

「そうなの?」

 

 女の子は顔をあげて呟いた。やや目が赤い。

 

「ああ、そうだ。この前なんかすごかったぞ。山に出かけたはいいが、おじさんがどじって足を滑らしちまったんだ。当然痛くて歩けねぇもんだから、俺のことはいいから置いて行けって言ったんだ。そしたらあいつ、絶対にいやです。ここで置いていったら、妹の陣冬に合わせる顔がありませんって言って、おじさんを背負って山の中を歩いて帰ったんだ」

 

「お兄ちゃん、すごい!」

 

「そうだ、すごいんだ。それにお兄ちゃんは優しいってことも知ってるかな?」

 

「うん!」

 

 女の子は誇らしげに張任に返事をした。もう沈鬱な面持ちはなくなっていた。

 

「そんなお兄ちゃんがやられるわけないだろう? むしろ悪いやつをこ~んな風にやっつけちゃうよ」

 

 張任は大きく両腕を動かした。心なしか、その腕は自分に向いているかのように張伯は感じた。

 

「うん!」

 

「ただ帰ってきたらお兄ちゃん、すごく疲れているかもしれない。だから陳冬は、久遠兄ちゃんが帰ってきたらゆっくりできるように、家のことを手伝ってあげなさい」

 

「は~い!」

 

 そう言うと女の子はぱっと駆け出し、人々の中に紛れていった。

 

 

 張任は張伯を見ると、大きなため息を出した。

 

「お前なー、もう少し上手くやれよな。相手はまだ子供だぞ」

 

「親分、真名ってそんな軽々しく言っていいんですか? きちんと許可をもらっていたのですか?」

 

「だから相手はまだ子供だって言ってんじゃねぇか。全く、お前は点で駄目だなぁ」

 

 張伯は身を乗り出して答えた。

 

「いえ、親分がすごいのです」

 

「そりゃ当たり前だ。何せ俺は泣く子も黙る張任って言われてるんだからな」

 

「ああ、それってそういう意味だったんですね」

 

「他にどういう意味があるんだよ?」

 

「いえ、親分の顔が怖いので、子供はみんな黙ってしまうという意味かと」

 

 張任は肩の力を抜きながら言った。

 

「はぁー。お前は口の力だの何だの言ってる割には、余計なことばっかり言うなぁ」

 

「それこそが三寸の舌の妙技でございます。話しているうちに相手はいつの間にかこちらの術中に嵌まるのです」

 

「お前の場合、自分の口で掘った墓穴に嵌ってるよ……」

 

 張任は更に脱力しながら尋ねた。

 

「それで、期待はしていないが、必勝の策とやらはできたのかい?」

 

「はい。耳をお貸しください」

 

 張任はじとっとした目で張伯を見たが、渋々顔を近づけた。

 

「いいですか、私の策は夜襲です。夜に敵を襲うのです。さすれば敵にはこちらの数がわからず、どこから攻撃されているのかもわからず、味方の位置もわからず、右往左往するばかりでしょう」

 

 夜襲。単純だが、それ故に効果は絶大で、何より対策も難しい。これが張伯の答えであった。張任は黙ったまま張伯を見ていたが、大きな、大きなため息を一つ出した。

 

「それで、帰りはどうするんだ」

 

「帰りとはいったい?」

 

「夜に襲うってことは夜に帰るっていうことだろうが! それで俺たちはどうやって、何も見えない暗闇の中ここまで帰るんだよ!」

 

 張伯には、行きと帰りの計画は初めからなかった。

 

「えぇっと、途中で休憩をすれば」

 

「休憩をすれば無駄に食料を使うじゃねぇか! それに軍に追いつかれたらどうする?」

 

「それでは、えーと、そうだっ! 人を道中一定の間隔で灯りを持たせて置いておくのです。さすれば帰る時に目印になります」

 

 親分は睨みをきかせながら言った。

 

「そうか、わかった。じゃあお前が一番穀物庫に近い灯りを持て」

 

 張伯はその様相に否定できず頷いた。

 

「え、えぇ、わかりました」

 

 会話を終えると張任は人々の中心に歩いていった。方々で話し合っていた者たちは、親分に気が付くと皆黙り、視線で親分を追った。一歩地を踏む度に人々が静かになった。終に全く静かになった時、張任は大きく息を吸い込んだ。

 人々の誰もが言葉を待っていた。出立の言葉を。敵を打ち倒すのに、景気の良い言葉を。

 

「よし、野郎ども! 出発だ! 俺たちはこのままだと食い物がなくて冬を越せねぇ。なのに役人どもは相変わらず俺たちに税を要求している。奴らに人の情けなどない! だからこそ、俺たちは官の穀物庫をこれから襲う! でなければ死ぬだけだ! 野郎どもっ! 覚悟はできてるか! 今が出発の時だ! この張任の後に続けー!」

 

 こうして張任は六十余の男共を従え、一路官の穀物庫を目指したのであった。一部の男たちは、警備のためなどで集落に残っていた。張伯は、意気揚々と周りを見渡した。女たちは皆、気丈な顔を被り、元気よく送りだしていた。

 

 

 

 偶然にも、時を同じくして張伯が称した七傑の一人が洛陽北部尉に任ぜられたのであった。その姓は曹、名は操、字は孟徳という。弱冠であった。張伯と七傑が一人が顔を合わさんとする日が近づいていることは、この時はまだ誰も知らなかったのである。

 

 




更新
 人名の呼称
更新
 題名変更。以前は、「張任、己が義を示さんとして、穀物庫を襲わんとす」です。

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