しん 恋姫†無双 く~ずの一代記   作:ポケティ

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国破山河在

 問題なのは、その場所だった。伍倉は口を滑らせた。緊張を解いていたのだろう、迂闊にも避難場所について漏らした。

 

 普通、山の反対側を、緊急時の合流場所にするだろうか? 

 

 見晴らしの良い尾根を超えようなどと、避難するときに想定するだろうか? 決っしてしない。だが、もし既に山の反対側にいるのを前提とするのであれば、話は変わってくる。伍倉は指示された道を通らず、山を越え、何を為すつもりだったのだろう? そんな危険を冒すのは、それ相応の見返りがなければならない。

 山の向こうには、日頃からの怨敵がいた。

 

 だが、今はそんなものに構っている暇はない。まずは目下の敵を倒さなければならない。

 

「こうして隣を一緒になって歩くというのは、初めてですね」

 

 伍倉は頭をぐっと動かした。さっきから、少し様子が変だった。

 

「悪い気はしないでしょう?」

 

 伍倉は戸惑ったまま足を動かしていた。目の前では、あの女の子が先導していた。一番前を歩く者が一番死に易いという法則を踏みにじる存在だ。

 

「時間がありません。その場所に立ち寄ったら、すぐに親分と合流します」

 

 女の子は言外に、そこに辿りつけていない、まだ生きているかもしれない伍倉の仲間を見捨てる決断を下した。ともあれ、これは必要なことだ。悠長に迷子の死体を捜していたのであれば、いつの間にか敵の本隊に追いつかれている、という羽目になりかねない。

 

「何人集まっていると思いますか?」

 

 酷な事かもしれないが、今のうちに覚悟させるべきだろう。

 

「ん? ああ、信頼できる仲間には全て避難場所を伝えてある」

 

 ……楽観的なのか、それとも目を背けているのか、判断がつかない。それともそんなことも、仲間が殺されているかもしれないことも想像できない馬鹿なのだろうか? 張伯は、桃色が目の前で動くのを眺めていた。

 

 

 意外なことに、一行は大過なく避難場所にたどり着いた。森林の隙間といったところで、川が近くにある。伍倉にしては、中々考えられている。つまり、伍倉はこの場所のことをよく知っていたのだ。それを知ったのは、地図を受け取る前、恐らくは、張伯が逃げる国を伝えた後にすぐ。であれば、彼には地図など無用、むしろ害であっただろう。

 

「よかった……生きていたか!」

 

 伍倉が、両腕を広げて、仲間と抱き合っていた。死んでいたかもしれない、ということには流石に頭が回っていたようである。伍倉の側によくいた七、八人の男はその場にいなかった。女の子は、辺りをきょろきょろと見渡していた。

 

「伍倉、妹は見つかりましたか?」

 

 張伯は言った。伍倉は、顔を背けると、

 

「いや……見つかっていない。恐らく、どこかで迷っているのだろう」

 

 と言った。そして、顔を両手で抑えて、座り込んだ。女の子は、伍倉の背中にそっと手を触れた。伍倉は何の反応も示さなかった。すすり泣きが聞こえる。今伍倉がへたれるのは不味い。張伯は、伍倉に発破をかけた。

 

「これだけ時間が経っても見つからないということは、彼女は生きています」

 

 伍倉はいぶかしむようにして顔をあげた。

 

「曹操は女には目がないと聞きます。あなたの妹は、彼女が戦利品として捕らえているでしょう」

 

 張伯は胸倉を掴まれた。女の子が、伍倉の左腕を両手で押さえ込んでいた。女の子の腕は、服が斜めから切れていた。裂け目が広がり、白い皮膚が露になっていた。真っ直ぐの赤い線が見えた。張伯は言い聞かすように言った。

 

「だからこそ、私たちが助けないで、どうするというのですか?」

 

 

 

 それから親分たちを見つけるのは、もっと早かった。

 

「親分、戻ってまいりました!」

 

「おう、お前たち、生きていたのかっ!」

 

 張任はいきなりこんなことを言ってきた。気が立っていた皆も、これにより毒気が抜けた。全ての者が呆気に取られ、次に発する言葉を失ったのだ。張伯だけは、笑顔でこう答えた。

 

「はい! 親分とこうしてまたお会いすることができて、嬉しい限りです!」

 

 

 そこからは、ちょっとした会談であった。襲われたというのに、空気は弛緩していた。

 

「煙が上がっているのを見た時は、もう駄目かと思ったよ」

 

 張任は酒を飲みながら言った。

 

「それで、俺たちはどうしたらいい?」

 

「とにかく、逃げるべきです!」

 

 伍倉が叫んだ。その意見は、皆の思いを代表している。もともと、自分たちだけは当分の間、曹操の首が変わるまでの間は、雲隠れする算段だったのだ。

 

「お待ちください。逃げ切れるかどうか、定かではありません」

 

 女の子が言った。親分たちに着いていた者たちは、少し驚いているようだった。無理もない。今まで何も言わなかった女の子が、突然己の存在を示しているのだから。女の子は伍倉を見ていた。伍倉は、うなだれながら言った。

 

「そうだ。俺と張伯の隊は襲われた。となると、ここも危ない。逃げ切れる保証はない」

 

 伍倉までも、少なくとも一回剣を交える事無くして、逃げ切ることは不可能だという結論であった。逃げるには、敵の数が余りにも多く、此方の足は余りにも遅い。

 親分の前で、愚鈍な足を切り捨てることはできなかった。何せもう子どもなど、隣村に預けていたり、出かけていたのだけが生き残り、もう六、七人しかいないのだ。これを捨てると、間違いなく仲間の連携に亀裂が入る。

 

「とにかく、戦うしかねぇってことか」

 

 親分が吐き捨てた。酒瓶の中に視線を落としている。

 

「その通りです。戦いこそが、私たちに勝利をもたらすのです」

 

 張伯は女の子に視線を送った。女の子は張伯を見て、少ししてから言った。

 

「敵と戦わねばならない以上、速やかに敵を破る方策を立てる必要があります」

 

 伍倉は言った。

 

「対策といっても、何がある?」

 

「敵が寡兵でしたら問題ありません。敵が多い場合、どうするか、です」

 

「どうすると言っても……結局、戦うしかないんじゃないのか?」

 

 伍倉は戸惑っていた。張伯は黙って聞いていた。

 

「いえ、敵が多ければ、そこには将がいる可能性があります。将と戦う方策を、考えなければなりません」

 

 流石である。女の将がいるかどうか、で戦いの質が変わることを見抜いている。張伯はやや上気して言った。

 

「最も警戒すべきなのは曹操です。赤鬼と青鬼とは、金魚の糞に過ぎません」

 

「鬼に二回も襲われてなおその言葉が吐けるとは、大物だな」

 

 伍倉の言葉には皮肉がこもってはいたが、けんか腰ではなかった。不思議と、毒気が抜けていた。ここでは誰もがそうであったのだ。親分がいるからというのもあるが、それだけではないだろう。

 

「まぁ、みんな俺たちでやっつけちまえばいいんだろう? 簡単な話だ」

 

 親分が目を剣に写しながら言った。刃の煌きが、何度か親分の顔を照らした。皺の多い、渋い、黒い顔だった。右には、酒瓶が転がっていた。

 

「張大公。大切なのは、相手の長所を潰すことです。相手が満足に動けないようにして、一気に討ち取ることが必要となります」

 

 この小さな女の子。劉という姓を持つ女。今はまだ、男にも負けるひ弱な人間にしか見えない。しかし、どんなに負けようと必ず生き残り、従う者は多く、拠点を持たずに転戦した人間である。現に、彼女の声に耳を澄ます者は多い。いや、今もなおその数は増えているのだ。

 

 これは果たして偶然かや?――――

 

 否。山賊の真似事をしている現状、根無し草として生きている現状、彼女こそが救世主足りえる資格を持っているのではないだろうか? 

 

「――――ですので、真っ先に赤鬼を倒すことが求められます」

 

「それで、どうやって倒すんだ?」

 

 伍倉が尋ねた。

 

「親分に、赤鬼の一太刀を防いでいただきます。その隙に横からあなたが」

 

「親分を危険に晒そうというのか!」

 

 伍倉は立ち上がった。それを、張任が抑えた。

 

「俺のことはいい。勝てるんだったらな」

 

「しかし……!」

 

「鬼を倒すためには、複数で当たるのが最良です。赤鬼の剣技に対抗できるのは、親分しかおりません」

 

 女の子は、伍倉の左肩を撫でながら言った。伍倉は、しばらくその様子を眺めていた。そして、

 

「……まぁ、上手くかち合えたらになるが、それしかないだろう」

 

 と言ったきり、口をつぐんだ。

 

 そうだ、そうに違いない。でなければ、何もしていなかった小娘が、どうしてここまで威風堂々と話すことができるのだろうか? 以前に、こんなにも屈強な男たちに向かって話す機会があったとは思えない。

 

「最悪なのは、どこかの将の軍と戦っている間に、挟撃されることです」

 

 最悪、最悪負けたとしても、劉備ならばいくらでも仲間の命を繫ぐことができよう。何せ歴敗の将軍である。負けても死なないのだ。どんなに負けようとも、戦えるだけの兵が常にその傍にいる。勝てば言うことなし。負けても次がある。ただ強いだけの曹操よりも、決して負けない、死ぬ事がない劉備の方が勝っているのは明々白々だ。

 

「だがよぉ、その、青鬼だか何だかを倒した後はどうすんだ?」

 

 親分は言った。

 

「親分、青鬼ではなく赤鬼です」

 

 女の子がすばやく訂正した。ここいらで援護をした方がよいだろう。

 

「みなさん、泣いた赤鬼という古話をご存知ですか?」

 

 皆、呆気に取られて此方を見た。

 民衆から石礫を投げられる青鬼。本来であれば、誰も知るはずのない昔話。今から見れば未来話というのも、不思議な話だ。

 

「赤鬼は、己のために死んだ青鬼に涙を流すのです」

 

 そこには、彼女の優しさが込められている。同時に致命的な隙も隠れている。

 

「最初に死ぬのが赤であろうと青だろうと、何の違いもありません」

 

 

 古話とは違い、再び一緒になれます――――

 

「それで、あー、今の策について、お前は特に何かないのか? 言うことは?」

 

 伍倉が尋ねた。

 

「ありません」

 

 伍倉はつっかえながら話し掛けた。

 

「いや、いつもなら、自信満々に……こう、何かあるんじゃないのか?」

 

 張伯は揺るがなかった。

 

「妻の意見に全面的に従います」

 

「だが、その、信用できるのか?」

 

 伍倉は確実に女の子を信用している。もし伍倉自身、女の子を信用していないのであれば、彼女の口を開かせてはおかなかっただろう。伍倉は、いやここでは誰もが女の子を信用しているのだ。そして、夫が妻を信用しないことなどあり得るだろうか?

 

 女の子は服を整えて言った。

 

「私の名前を、ここにいる者全員に、お預けいたします」

 

 女の子の目は茶色く、丸かった。それには、見ている者を引き込むような力があった。虹彩の文様を見ていると、自然と離れられなくなる。

 

「私の真名は、小香と言います。私は決して、張郎官の意志に違えません」

 

 姓は劉。字は備。真名が小香。七傑の一人。曹操の、永遠の好敵手。曹操に唯一立ち向かえる英雄。

 

 

 

 

 雲が空を覆っていた。いやな色であった。だが、逃げるのに適した天気だ。鬼退治の後すぐに姿を隠すこともできだろう――――そうだ! あの女の子は桃色の服を着ていた。そして、その仲間には三人のお供がいる。であれば、鬼に負けることなどありはしない! そうではないだろうか? 張伯は己に何度もそう言った。

 

 その時、得も知れぬ不安が燻ぶった。その正体が何なのかはわからなかった。何か見落としている、そんな思いが今更巻き起こったのであった。一体、何を見逃しているのか? 全ては順調に進んでいるのではないだろうか?何を恐れる必要があるというのだろうか? 全ては順調に進んでいるように見える。同時に、何かを忘れている。 福音は、恐れの中に舞い降りた。

 

 

 張任、蜀郡人、家世寒門。少有膽勇、有志節、仕州為從事。

 (張任は蜀郡の人にして、家世は寒門であった。少くして膽勇を有し、志節を有し、州に仕えて從事と為った)。

 

 任厲聲曰、「老臣終不復事二主矣」乃殺之。劉備嘆惜焉。

 (張任は厲聲して曰く、「老臣は二主に復た事えずして終える」劉備乃ち之を殺し、嘆惜した)。

 

 

 ――――今のは、何だ? 頭に、突如として文字が浮かんだ。しかも、漢文であるにも関わらず、その意味が精確に取れた。いや、少なくともそう思えたのだ。勿論、丁程に師事していたため、この程度の文に迷うことはない。しかし、己は初めてこの文を見たのだ! だのに、どうしてこんなにも意味が鮮明なのだろうか?

 

 続けて、酷い頭痛に襲われた。立つこと叶わず、両手で頭を抱え、座り込んだ。汗と痛みは止まらず、ますます増え続けた。だが、息をつくのが辛くとも、頭は回っていた。見たこともない文章が頭に浮かぶ。そんなことがあり得るだろうか? しかも、それは、母国の言葉ではないのだ。諸々の疑問は一先ず置いておこう。耐えるので精一杯の頭痛も、何とかどけておこう。その意味を、考えるのだ。

 ……張任とは、親分のことだ。そして、蜀郡出身というのも当たっている。だが、間違いもある。從事になど、なっては、なってはいないのだ。そして、劉備が之を、つまり親分を、殺す……

 

 もし、本来は從事となるはずが、例えば流れ星を見たせいで、山賊になるとしたらどうであろう。全くばかげた考えだ。こんなことを話しても、誰も聞く者はいない。だが、それを信じる者が、それを否定できない者が、一人だけいた。

 

 ――――その星が気になってな。それを追っかけてるうちにここに着いたんだ

 

 考えようによっては、流れ星のお陰で、親分の命が救われたとも言える。だが、ここには劉備もいる。もしかしたら、万が一のことだが、親分が從事にはなっておらずとも、劉備は之を殺すのではないだろうか? 

 

 膝をついた男に、声をかける者はいなかった。皆、各々の準備のため出払っていた。

 がやがやと、何か声が聞こえる。何かの喧騒だ。怒鳴り声だ。張伯は、徐に立ち上がった。戦の準備がもう終わったのだろうか? 頭の痛みはもう収まっていた。劉備が親分を殺す? 馬鹿馬鹿しい。言い方は悪いが、親分は、今はまだ山賊の首領に過ぎない。殺す理由は無い。そもそもあの女の子に、何ができるというのだろうか。そうならないよう、他ならぬ夫が、見張っていれば良いのだ。上手く使いこなせれば、天下はもっと楽に取れるだろう。蜀とかいう、山奥の小国しか築けなかった劉備だが、国づくりには比類ない才能を発揮するに違いない。

 

 騒ぎがますます大きくなっていた。再開を分かち合うだけで、こんなにも騒がしくなるものなのだろうか。いや、そんなことはないだろう。何か喧嘩でも起こっているのだろうか? 張伯は、争いごとの調停をすることを思い、ため息をついた。

 

「助けてくれーー!」

 

 小男が一人走ってきた。その様子はただ事ではない。背中には何本か矢が刺さっていた。襲撃されたのだ!

 

「どうしましたか。何があったのですか!」

 

 張伯は小男の目の前に立って、彼を止めた。張伯についていた者の一人だった。小男は今にも逃げ出しそうであったが、張伯は両肩を抑えながら尋ねた。

 

「敵が、敵が襲ってきたんだ! とんでもない数だ!」

 

 小男が張伯の腕を振りほどいた。

 

「曹操はいましたか?」

 

 張伯は尋ねた。小男はその瞬間固まった。恐らく、いたかどうかわからないのだろう。だが、これで聞けることはすべて聞いた。

 

「あなたは、何度も私のことを助けてくれましたね」

 

 張伯は笑いかけながら言った。張伯は小男に背中を見せて、指差した。

 

「いいですか、ここから逃げるには、あの道を通るのが最も安全です」

 

男は体を前のめりにして言った。

 

「どこ、どこですかい? どの道をっ…………ぐっ……ぁ……」

 

 小男は、死への道を通った。ここなら、もう死ぬことは決してない。なんと安全な道だろうか。張伯は悲鳴の元に駆け出した。頭痛のせいで戦に遅れるなんて、どうかしている! 

 

 

 戦場は、張伯が思っていたよりも広かった。敵が多かった。此方の三、四倍はいるだろう。張伯は顔を青くしたが、そんなことでは止まらなかった。敵が先に攻撃してきたが、此方がやるべきことは変わりない。想定よりも、少し数が多いだけだ。

 

「俺たち山賊が、山で負ける訳がないっ! 二人がかりで一人を殺せっ!」

 

 伍倉が駆け回りながら叫んでいた。ああして目立つことで、囮も兼ねているのだろう。軽業のように足を踏み出し、襲い掛かる矢を避けていた。だが、青鬼ならば、こんな小細工をものともしない!

 

「伍倉、青鬼が狙っているぞっ!」

 

 その瞬間、伍倉は飛び跳ねて、一間余り離れたところに着地した。そして、そのまま這って岩に身を潜ませた。別に青鬼の姿を認めたわけではなかった。ただ警告しておこうと言っただけだった。それが功を奏した。

 

 伍倉の右肩には、矢が突き刺さっていた。けれども、もし咄嗟に跳ねていなかったのなら、心臓に穴が空いていただろう。ここまで敵味方入り乱れた中、精確に将を射抜く芸当ができるのは、この場には一人しかいない。

 

「助かった!」

 

「どこからっ! どこから射抜かれましたっ!」

 

 伍倉はうめき声をあげつつ答えた。

 

「向こうの、左奥の木々が密集しているところだ!」

 

 細かな位置まで知る必要は無かった。どうせ向こうも動くに違いない。やるべきなのは、敵に動揺を与えることだ。

 

「と、とにかく、火をつけるのですっ! 青鬼の軍であれば、必ずひるみます。例えどんなに小さな火であろうともっ!」

 

 幸いなことに、火種はまだ残っていた。物持ちの良い兵士というのは、どこにでもいるものだ。すぐにぱっと炎が燃え広がる。心なしか、向かってくる敵兵が少なくなったような気がする。忌々しいが、それに助けられた手前、文句は言えまい。

 

「炎の中で戦うのです! そうすれば、敵は近づいてきません! 炎と共にっ!」

 

 怒声の中、どれだけこの声が響いたのか予測がつかなかった。それでも、口を動かさないよりはましだろう。張伯は指示を仰ごうと、後ろを振り返った。そこには、鬱蒼とした木々があるだけであった。張伯は思わず叫んだ。

 

「劉備っ! いや、違う。えーと、確か…………誰かっ! 妻を知りませんか! 私の妻は何処にっ!」

 

 だが何の答えも返ってこなかった。張伯の背筋は凍りついた。この乱戦の中、小さい人を探すのは至難の業だ。それにそんな暇もない。だがそれでは駄目だ! 何としてでも、見つけ出さなければならない! 劉備がいなければ、何ができるというのだろうか? 劉備なしで、曹操を打ち破れるというのだろうか? 否! そんなことはない! 張伯は敵味方そっちのけで、女の子を捜し始めた。

 

 そんな時、張伯は木の根っこに足をとられ、転げ落ちた。そのすぐ後ろを、風が横切った。

 

「赤鬼です! 赤鬼がここにっ!」

 

 張伯は数瞬後に叫んだ。顔が見えなくとも、色がみえなくとも、敵が何者かは直に分かった。警戒の外から突然切りかかる実力があるものは、一人しかおるまい。

 張伯は必死になって、味方の元に、なるべく騒ぎが大きいところに這い転がった。後ろを振り向きたい衝動にかられたが、そんな悠長なことをしたら殺されるだろう。張伯にできることは、なるべく狙いをつけられないよう動き回り、背を低くすることだけであった。

 

「張伯、よく引きつけた! 伍倉、ここであいつをぶっ殺すぞっ!」

 

 頼もしい声が聞こえた。張伯は、その顔を見る時間が無かった。余りにも早く、鬼に向かって走りだして行ったからである。張伯は後ろを振り返った。親分の大きい背中が見える。更に奥に、赤色の何かがちらりと見えた。何時間も睨みあっているように感じた。だがそれはほんの数秒だったのだろう、赤鬼が大きくなった。そして、親分が剣を振りかざした。

 

 

 何の音もしなくなった。赤鬼が、ゆっくりと、幅の広い刀を横に振った。そして、頭と胴体の間に隙間ができ、それはゆっくりと大きくなった。緑や茶色が一瞬見えた。その後、すぐに赤が広まった。親分の右手から、白い刀がきらめきながら抜け落ちていった。

 

 赤い両眼が、じろっと動いた。その目は、明らかに此方を向いていた。口を開けて何か言ったが、聞き取れなかった。音は全て消えていた。そして、赤鬼は歩を進めた。此方に向かって。だが、すぐに男が飛び掛った。伍倉が、まるで弾丸のように、鬼に突っ込んでいったのである。周りの者も、それに呼応してか、わらわらと敵に押し寄せて行った。

 

 

 だが、男は、ある男だけは、踵を返すと、一目散に駆け出した。余りの速さに、奥から様子を窺っていた青鬼でさえ、咄嗟に指示を出すことができなかった。こうして一人の男だけが、戦場から離れて行った。

 

 

 

 男は、足を動かし続けていた。止まったら死ぬと考えていた。心臓の高鳴りが煩かったが、後ろから、草木を通り抜ける音が聞こえてきた。

 

「ひっ、奴らが、奴らがっ――」

 

 死神の足音は近づいていた。このまま逃げていても、いつか追いつかれるのでは? それとも逃げ切れるか? 頭の中では諸々の考えが走っていた。だが、肝心の精神は限界を迎えようとしていた。男はでたらめに走り、何度も転びかけていた。

 

「負けるはずはない、負けるはずはっ……!」

 

 何度頭を振り払おうとも、心は叫んでいた。だがそのたびに、目に、首が自然と浮き上がる様子が浮かんだ。違う。違うっ! 少し怪我しただけだ。そう! あの時、咄嗟に首をそらして鬼の槍を回避したのだ。今頃、意気揚々と賊を屠っているに違いない。呉鉤、いや刀を使って、力を入れて、一太刀で、頭を……

 

 駄目だっ! 今このことに固執するのは不味い! 男は頭を振った。今は親分のことを考えるのは止めるべきだ。もっと、他のことを考えなければ。……それにしても、伍倉の猪突猛進ぶりには本当に驚いた。今頃は何人も、ばったばったとひき殺していることだろう。だとすれば戻らなければ不味い。伍倉に手柄を取られれば厄介なことになる。彼だけが功を得るのは良くない。それに敵前逃亡は死罪だ。帰らなければ――

 

 早く帰るんだ、という声が何度も聞こえていた。だというのに、足は反対の方向に動き続けていた。男の顔は蒼白を通り越して、真っ白であった。今は敵を引き離せているが、それは相手が、此方が動けなくなるまでゆっくりと待っているからだ。これは狩りの常套手段だ。獲物は初めは徒に抵抗するのだから、疲れるまで付かず離れずの距離を保てば良い。

 

「帰らなければ、早く帰って……」

 

 ――――だがどこへ? 皆のところへ。だが、もう皆は殺されているだろう。だとすれば、帰る場所など、どこにも、どこにもありはしない。これでは戦えない。このままでは、待ち受けるのは……。急に体が冷えてきた。さんざん走って、息を切らしているというのに、寒くて仕方がない。吹き付ける風のほうが暖かい。

 

 少しずつ、足が重くなっていた。矢鱈滅多に手を振り回したため、手も痺れていた。張伯はついに膝をついた。身体中から、汗が吹き出ていた。もう、ここで死ぬのだろうか? もう戦意は消散していた。息も絶え絶えに、男は死を受け入れ始めていた。だがそんな時だった。どこかからか声が聞こえた。

 

 殺せ……殺せ……

 

 鈍い、低い声だ。下の方からだ。見れば、右手はずっと刀を握り締めていた。そして、信じられないことだが、刀から声がしている。この声は、そうだっ! 紛れもない親分の声だ! これはかつて親分が持っていた呉鉤だ。その呉鉤が、喋っているのだ。

 

「何だこれは……?」

 

 声はたちまちにして消えてなくなった。これは十中八九幻聴だろう。だがそうとわかっていても、その怨嗟の声は、自然と身体に染み入った。男にふつふつとある感情が沸き起こった。それは怒りだった。なぜ、どうして、殺されなければならない……!

 どこがいけなかったというのだろうか? それがいけないなどと、誰が決められようか。確かに食料も奪い、人もそれなりに殺しはした。だが、そうしなければ確実に死んでいた! それでもなお、飢えに苦しみながら野垂れ死ねとでも言うつもりか! 生きるということが、そんなにも罪だとでも言うつもりかっ! 

 

 呉鉤が、小刻みに揺れている。それは、だんだん大きくなった。ついには、山を動かすほどになった。

 男はその時、初めて後ろを振り返った。それが良かった。

 

「あれは…………男……?」

 

 男は背後を追う者が、赤鬼や青鬼だと、魑魅魍魎の群れだと、勝手に勘違いをしていた。果たして男の目に映ったのは、兵具を身につけた三人の男であった。遠目からではよくわからないが、あの女の兵なのだから訓練を受けているのは間違いない。だが、そんなことは男の気にするところではなかった。

 

「男だ……女じゃない…………女じゃないっ! 女じゃないっ! 女じゃないぞっ!」

 

 男は歓喜と殺意の混じった声をあげた。もう囁き声はいらなかった。何をなすべきか、心で理解したからである。敵の姿はちらりと見えるが、準備する時間は十分にある。

 

「こっちは山で生きてきたんだ。三人で勝てると思うなよ……」

 

 男は呉鉤をちらりと見た。そうだった。この呉鉤は親分から託されたのだ。その呉鉤から訓示を授かり、そして今、己は親分の思いを受け継いでいるのだ。であれば、どうして負けることなどあり得るのだろうか?

 男の目が、今までになく鋭くなった。

 

 

 

 

「それで、結局あの男は逃げたのかしら?」

 

「申し訳ありませんっ! 部下に追わせたのですが、その内三人が殺されているのが発見されました!」

 

 兵が死ぬのは慣れない。こんなところで死なずに、その命をもっと別なことに使って欲しいと思う。だが、兵が死ぬことに尻込んではならない。彼らの犠牲を忘れないこと、無駄にしないことこそ、英雄に、いや将軍に必要な資質である。これが曹操の考えであった。

 

「そう。ここの後始末は春蘭に任せるわ」

 

「はっ!」

 

 戦いは終わった。蓋を開けてみれば、大勝であった。突撃しか繰り返さない山賊など、脅威ではなかった。曹操は、怪我をした者をあつく労うように指示し、死体場を離れたのであった。

 

 山の中は、冷気が漂っていた。護衛の秋蘭は、弓を握り締め、手が白くなっていた。無理もない。手塩にかけた三人もの兵が殺されたのだ。曹操はその現場が見たかった。どうやって殺されたのか、気になって仕方がなかった。それは、ともすれば不謹慎と言われるかもしれないが、曹操は意に介さなかった。

 

 

 大木が見える。その下は踏み荒らされ、骸が横たわっていた。うなじを後ろから切られている。苦しむ間もなく死んだことは、一つの救いだろう。

 

「足跡をわざと乱して、そこに気をとられるようにしたようです」

 

 人を追跡する時、最も重要なのが痕跡、中でも足跡である。足跡を見れば、相手が疲れているのか、怪我しているのか、背丈はどのくらいか、どれくらいの重さか、そしてどこに行ったのかがわかる。命令を受けた三人は、絶対に逃がすわけにはいかないと考えていた。そして、危険であるため、慎重に動くように指示を受けてもいた。

 

 曹操は木の後ろに回った。この大木の周りには草木がない。だからまさか追っている敵が潜んでいる訳はないと、油断したのだろう。兵の一人が腰をかがめて、どこに足跡が続いているか見ようとした時、刃が煌いたのだ。

 あの男は、油断を誘うためというよりも、素早く殺せるようにこの場所を選んだのだろう。

 

「向こうで二人やられたようです」

 

 大木の少し先だった。曹操は頭を働かせた。ここで突然、追う側から狩られる側になったのだ。味方は動揺しただろう。では、敵は、あの男は何をしたのだろうか?

 味方の一人は、仰向けに倒れていた。首の正面を下方向から、横に切られている。

 

「不自然ですね」

 

 そう。不自然だ。同じ男同士で、そこまで身長差がないのであれば、普通は上から切られているはずだ。あの男は刀を持っていたのだから。死体が槍を持ったままである以上、技量にもそこまで差があったとは思えない。

 曹操は更に観察した。首を切られては、声も出せない。最期は、無残なものだっただろう。右手に持った槍には、真新しい傷は見当たらない。更に視線を下にやると、足に草がついているのが見えた。草と言っても、ほとんど枯れていて、少し引っ張っただけでは千切れなかった。

 

「草を結んで、罠を作って置いたようね」

 

 つまり罠で転びかけたところを、下から切りつけられたのだ。味方を殺されても、追跡を止める訳にはいかない。だから、逃げる敵を追いかけようとしたのだろう。ところが味方を殺された動揺は、やはりあったのだ。もしもう少し時間が経っていたら、罠にも気が付いただろう。敵はどこで誰を殺すのか、周到に考え抜いていた。

 

「最後の一人は、砂玉を投げられて、目が見えなくなったところを殺されたようです」

 

 秋蘭が悔しさをにじませながら報告した。これで全容がわかった。配下の兵が殺されたにも関わらず、曹操は敵の手腕を認めていた。敵は、三人とも奇襲や不意打ちで殺したのだ。もし木の後ろに隠れているのが見つかったら。罠に足をとられなかったら。砂玉が当たらなかったら。

 普通の軍師は、その綱渡りな策を非難するだろう。けれども、どれか一つでも失敗したら上手くいかない策を、敵は全て成功させたのだ。穴だらけな策を誹るより、それをやり遂げたことに注目すべきだ。

 

「残りの三人の行方は?」

 

 追っ手は七人だった。三人で二つに分かれ、残った一人は連絡のために後ろから着いていた。敵は三人仕留めたが、依然として三人が追跡していた。

 

「まだわかっておりません」

 

 普通であれば、こんな運任せに頼るような敵が、また勝つはずがないと思うであろう。だが曹操は普通ではなかった。曹操は、もう三人とも殺されているか、動けなくなっていると直感していた。

 

「敵の追跡はもうしなくて良いわ。連絡のつかない三人を探しなさい」

 

 軍は、決して味方を見捨てない。いや、見捨てられない。例え死んでいることがわかっていたとしても、できる限り故郷に返してやるのが、軍の本務でもある。

 

「なぜですか? 今こそ、奴を仕留める好機ではございませんかっ!」

 

 秋蘭が叫んだ。だが曹操には、もう戦う気力がなかった。

 

「いえ。もう終わりよ」

 

 曹操は上を向いて言った。秋蘭はややたじろいた。

 

「あの男にはもう何もないからよ」

 

 曹操は遠い目をしていた。

 

「誰があの男のために戦うというのかしら? 負けた山賊の一味を、誰が助けるというのかしら?」

 

 あの男は、もう敵ではない。

 かつて、あの男は敵だった。あの用兵術には、見るべきものがあった。宦官といつの間にか手を結ぶ交渉力。指揮官としての決断力。だが、それは既に昔のことであった。

 

「不利な状況からの足掻きは、まさに私の敵足るに相応しいものだったわ」

 

 曹操はため息をついた。それは、敵を倒したことによる安堵だろうか? 曹操にはわからなかった。秋蘭は何を言ったものか、迷っていた。

 

「まぁ、あの男も、いずれは山賊狩りに殺されるでしょう」

 

 口に出た言葉が、果たして本当に主君の求める言葉だったのかは、わからなかった。何となくそうではない気がした。

 

 この日、曹操は、勝利の王冠を手に入れた。同時にそれは、敵を失ったことを意味した。

 

 

 

 

 

 男は馬に乗り、逃げようとしていた。騎乗は今までしたことがなかったが、そんなことを気に留めることはなかった。馬の蹄が、横になっている御者を何度も蹴飛ばしていた。男は物のついでで骨を砕かれないよう、慎重になりながら、勢いよく飛び乗った。馬は、手綱を握った途端走り出した。どこまでも、どこまでも。

 

「曹操、私は決して許さないっ! 必ず、必ずだっ! 必ず戻って、息の根を止めてやるからな――っ!」

 

 怒号は、山河に吸い取られた。こんなところで倒れるわけにはいかない。まだ何も為していないのだ。ここで死んだらどうなる? 誰が、誰が親分の勇姿を伝える? このままでは、曹操の引き立て役にもなれず、史書に名を遺すこともない。況してや国など――

 

 突然、馬はでたらめに動き回り、前脚を上げ下げした。突然乗ってきた者を、振り落とそうというのだろう。馬の首に寄りかかりながらも、男は決して手綱を放さなかった。直感として、馬を自由にさせれば死ぬとわかったのだ。男は手綱を思いっきり引いた。馬は嘶き声を一つあげると、また力強く走り出した。

 

 

 あの高潔な生き方を。あの笑顔を。あの力強さを。 

 それを知る者は、もう一人しかいない。だが、だからこそここで死ぬわけにはいかない。

 

 

 

 

 男は、この日、初めて生きる理由を見つけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 これにて、第一章終了になります。番外編の後、第二章となります。一年間お付き合いしてくださって、ありがとうございました。

 曹操の墓の新発見です。

「曹操陵地上建筑曾被有计划拆除 并非“不封不树”」
<http://news.sina.com.cn/o/2018-03-02/doc-ifyrztfz6337299.shtml>

「曹操墓考古发掘取得新进展 存在“毁陵”行为」
<http://www.ha.xinhuanet.com/hotnews/2018-02/26/c_1122451865.htm>

日本語版
「曹操高陵は計画的な墓荒らしに、考古調査で判明―中国」
<https://news.infoseek.co.jp/article/recordchina_RC_576407/>
 日本語版だと、三行になるようですね……。

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