しん 恋姫†無双 く~ずの一代記   作:ポケティ

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欺瞞・裏切り、そして血讐 三

 陰謀、怨恨、復讐。全ては前哨戦に過ぎなかった。然し、骸が積みあがるには十分であった。

 

 張伯らは呉房県を攻める準備を、曹操らが訪れるよりずっと前から怠っていなかった。その近くでの武器の隠蔽。内通者の確保。それだけではない。呉房県の防備、兵力は筒抜けであった。そして、肝心の夏侯淵らも丸裸にしていた。兵馬の数、荷物の量、行軍経路、補給地、出発の日時。それらを全て知られていては、勝つのは難しい。優秀な者は、それでも惨たらしく敗北を喫っしはしなかった。

 

「三十人から四十人。それが限界でしたか……」

 

 張伯は気を落としはしなかった。喜びもなかった。ただ、予測したとおりであった。奇襲による混乱。もつれ込んだ防衛戦での不和。だが、それでもこの程度の損害を与えるのが精々であった。城壁を黒くした後、張伯らは撤退していた。城の中から立ち上がっていた赤は、もう消え去っていた。

 

「初めから見捨てるつもりだったのですか?」

 

「そんな訳ないでしょう。私たちのために、その身を危険に晒して、敵陣の真っ只中で戦ってくれたのです。私は……彼らを、助けたかった…………」

 

 張伯は顔を右手で隠しながら言った。こんなやり取りもお互い慣れたものであった。女の子に怒りや悲しみの声はなかった。もしあれば、もっと強く問い詰めていたであろう。

 

「私たちが(呉房県を)落とせたとしても、その前に殺されることは予想できたはずです。それなのに、なぜ彼らは戦ったのでしょうか?」

 

 女の子は張伯に頼った。張伯はその答えを持っていた。それは他の者には気付きにくいことだろう。

 

「もし、私たちが拠点にて、妻や子どもを失うことがなかったら、彼らはどうしていたでしょうか?」

 

 張伯は尋ねた。

 

「やはり、此方の方が有利だと思って、もっと勢いづいていたのではないでしょうか?」

 

 女の子は口元に右手を当てて答えた。張伯は幼子のような、可愛らしい返答に鼻を鳴らした。女の子は少しだけむっとした表情を見せたが、大人しく答えるのを待った。

 

「彼らは裏切りましたよ」

 

 女の子は怪訝な表情を浮かべた。張伯はゆっくりと、女の子を答えに導いた。

 

「私たちは、今まで虐げられてきました。彼らもそうです。しかし、違いもあります。何だかわかりますか?」

 

 返答は早かった。

 

「戦っています。命を賭して」

 

 両の眼は、真っ直ぐ張伯を射抜いていた。張伯は思わず顔をそらした。

 

「その通りです。私たちは彼らにとって、仲間でもありながら、同時に羨望の的でもあるのです」

 

 張伯は続けた。

 

「彼らが抱くのは、非常に複雑な、倒錯した感情です。私たちが負ければ残念に思い、勝てば、表面上は祝っていても、内では嫉妬の蛇が渦巻いているのです」

 

 自分たちも立ち上がっていれば、こんなことにはなっていなかっただろう。だが今から合流したとして、受け入れてもらえるだろうか? 活躍できるだろうか? ……そんな考えが腸に詰まっている。

今まで農作業と豪族に黙々と従事していただけの彼らに、何ができるというのだろうか。けれども彼らは、活躍できると、錦を飾れると信じて疑わない。

 

「そして私たちが妻と子を失ったことで、初めて彼らは私たちよりも上にいると感じたのです」

 

 死んだ者は甦らないという真理が、彼らを勇気付けたのだ。例え娘を豪族に差し出していたとしても、息子が一生を畑の上で終えるとしても、死ぬよりはましに違いない。そして上手くいけば、自分たちのちょっとした助力でそれらから解放されるかもしれない。大した苦労はしたくないが、賞賛はされたい、快適な生活を送りたい。まさしく甘えの権化である。

 

「私は、弱き者たちの心の奥底に訴えかけたのです。一歩間違えれば、反対の結果を生んでいたでしょう」

 

 他人の畑を耕して、娘と息子は奉公しても、借金は増えるばかり。そんなことで、一生を終えたくない。そんな屈折した体だからこそ、能天気な思考ができるのだ。

 

「恐らく放火以外に、私怨による殺人や、人を嬲る行為も行われたでしょう」 

 

 張伯は炎を見るまで、実際に行われるまで、彼らが反旗を翻すかどうかわからなかった。

 

「なぜ、(彼らは)急に立ち上がったのですか?」

 

「官軍が慌てて逃げ込むことを伝えておきましたから」

 

 予言どおりに事が進めば、勝てるという確信を人は抱く。そして、今まで負け犬であったならば、この機会に勝ち組になりたいと思うのは自然なことだ。

 張伯は、自分たちが勝てるかどうかは皆目見当がつかなかった。だが張伯は、彼らに勝てると思わせたのだ。そしてそれは成功した。

 

「逆に言えば、彼らはここまでお膳立てしなければ、動かないような弱者だということです」

 

 外から火矢を降り注ぐことで、内から火をつけても気付かれないと、張伯は説得していた。これがもし火をつけるのではなく、人を殺すのであれば、彼らも賛同しなかっただろう。

 だが火ならば、いざとなったら敵のせいだと言い逃れができるため、彼らとしてもやりやすかったのだ。火が消し終わるのを待つまでもなく、そんなことはすぐに発覚するにも関わらず。彼らは、全く日和見主義の弱者であった。

 

「ではなぜ彼らは人を殺したのですか?」

 

「あれはただの私の予想です。まぁ、当たっているでしょう」

 

 張伯はそれ以上続けなかった。説明するのが難しかったからである。一歩踏み出せば、二歩目も踏み出せると言う説明もできる。軍が逃げ込んだことによる異常事態により触発された、と言う事もできる。

 何が原因となったのかは、当人でさえわからないだろう。弱者であろうとも人殺しはできるのだ。だが、こんなことは言う気にはなれなかった。

 

 張伯は質問に答える代わりに、別なことを言った。

 

「私は、他の者とは違うのです。考え方や物事の見え方だけではなく、その在り方自体が常人のそれとは異なっているのです」

 

「……曹操ともですか?」

 

 張伯はわずかに顔を歪めた。

 

「彼女は、恐ろしい敵です。今回勝てたのも、敵の将が夏侯淵とかいう青服の女だったからでしょう」

 

 張伯は素直に認めた。曹操の脅威を。そして、相変わらず質問には答えなかった。

 

「全ては、あの女を、戦から引きずりおろすための策です」

 

 張伯は女の子をにらんだ。

 

「あの女は、全てが異常です。今回の敗戦は、彼女の敵が必死になって触れ回るでしょう。そして彼女の首さえ代われば、私たちは勝てるのです」

 

 もちろん曹操がいなくなると、そこで奇妙な関係は終わりを迎えるだろう。だが、曹操がいなくなるだけで良いのだ。そうすれば、勝てる。この国の建立は、ほとんどを農民反乱に端を発している。だからこそ、その資格が自分たちにはあるのだ。

 だがこんなことは、言っても誰にも聞き入れられないことだ。千八百年の年表から国を見通せる者は、他なし、己唯一人。

 

「張という国を作るのです。私たちにはそれが可能です」

 

 張伯の言を、女の子は黙って受け止めていた。張伯が張国の正統性と正当性とについて話し終えた後、やっと口を開いた。

 

「……国を興した後は、何をなさるおつもりですか?」

 

 張伯は少しだけ詰まった。だがすぐに答えた。

 

「これまでと委細変わりありません。私は常に親分を支え続けます」

 

女の子は、目をぱちくりと動かした。表情は、言葉より勝れて物語る。張伯は、己の妻でなければ殺していただろう、と思いながら続けた。

 

「国を治める以上、丁程のような小人が親分に纏わりつくことになります。それを駆除するのが私の役割です」

 

 張伯は当て擦りながら言った。能面と張り合うことの多いこの女の子は、挑発に対しても決して怒りを見せなかった。まるで胸のうちを曝すことが、心だけではなく体も、手にとられることをわかっているかのようだった。

 いや、事実わかっているのだ。でなければ、どんな言葉にも冷静に対応できるはずがない。

 

「私は特別な人間ではありますが、親分の上に立つ気など毛頭ありません」

 

 張伯は臆面もなく言った。 

 

「あなたは、やがて私の妻であることを幸運に、そして誇らしく思うことでしょう」

 

 張伯は女の子に自信を持って語りかけた。女の子は仮面を被ったままだった。

 

「わかりました…………私も、張大公の治世が輝かしいものとなるよう、精一杯この身を粉にして働く所存でございます」

 

 女の子は丁寧にお辞儀をした。両者は何も言わなかった。お互い話すべきことを既に知っていると感ずるのであれば、どうして何か話す必要があるというのだろうか? 蓋し、これも一つの真理であった。

 女の子はしばらく張伯の所作を見ていたが、やがて家から出て行こうとした。

 

「また、友人に会うつもりですか?」

 

「ええ、あなたの言う友人が誰を指しているのかはわかりませんが、ともかく友人に会いに行きます」

 

 張伯はあけすけに依頼した。

 

「伍倉がなぜあそこまで奮闘したのか、尋ねてみてください」

女の子は、一度煙たそうな目を向けた。そして、

 

「あなたは悪鬼とは正反対の、とんでもない美貌の持ち主です」

 

 と謎の言葉を言い、去った。張伯はなぜ美貌がどうのこうのと言われたのか、わからなかった。張伯は頭を使った。褒めるために言ったのではないのは、直感的に解することができた。

 もし本当に賛美の意があるのなら、相手に伝わるように、遠い国から来た旅人にもわかるように、言うはずである。何かの諺か、故事を踏まえた発言なのだろう。

 

「悪鬼……鬼の反対ということは、人? それも美人。というよりも、美人の反対が悪鬼……?」

 

 いくら考えても分かりそうにない。張伯は、恥を忍んで誰かに聞こうと思い立った。真っ先に頭に浮かんだのは王才であった。しかし、昨日死人の仲間入りを果たしていたことを思い出した。死人の口を開くことはできまい。それに、王才が知っているとも思えなかった。

 文に体を沈めていた丁程も、既に世を去っている。自然、ここにはその答えを知る者は、謎かけをした当人を除いて誰もいないということになる。

 

 謎が解けないのは悔しいが、特段悪いことではない。別に全知全能である必要はないのだから。少しは知らない事があるほうが、驚きや好奇心を満たし、人生を豊かにするだろう。張伯はそんな風に考えた。それにそういった皮肉でしか、相手が翻弄できないのを見るのも楽しかった。

 

 肝心なのは、女の子が、それ程同年代の友人に入れ込んでいるということである。多くの人間と同じように、女の子もまた、できの悪い者に足を引っ張られる存在に陥っている。人の悪口しか言えない、人の背に負ぶさることしか知らない者を友人としているようでは、この先が思いやられる。己の妻である以上、悪友と袂を分かつこともそろそろ学ぶべきだろう。

 張伯は家中を見回した。前の陋屋に劣らない萱葺きの家。だがこれが貴族の家であれば、周りに粗野な人間が徘徊することはない。この家を捨てる時だ。軍事上の必要に迫られたからだけではない。弱虫と手を切るためにも。

 

 

 日が真上から照らしていた。丘の上には、一人の大男が立っている。その足元には、一人の老人が丸まって眠っている。

 

「出立の時間です、親分」

 

 こんなことは百も承知であろうが、それでも張伯は話し掛けた。手には剣を持ち、目を下にやっていた。親分は下を見たまま言った。

 

「王才が死んだのを見て笑っていたそうだが、それは何でだ?」

 

 張伯は動揺した。死んだ者のことが出てくるとは思わなかったからである。もっと、聞くべきことがあると思ったのだ。

 

「あれは違います。あの時、私が死ななかったのが、摩訶不思議に感じられて……」

 

 張伯の答えは要を得なかった。

 

「いえ、えーと、これも違います。えぇっと、私は、死ぬことはないのに、死ぬかもしれないと考えていた自分が可笑しく思えたのです」

 

 張伯はようやく考えをまとめた。自分が選ばれた者などと、普通に言っては信じられまい。少しずつ、証明を積み重ねていくしかないだろう。親分は特に顔を見せずに、

 

「そうかい」

 

 と一言つぶやいた。それだけであった。風の音、草がこすれあう音の中、張伯は離れたくてたまらなかった。突如、張伯の心の中では、いきなり足首を筋張った手で掴まれるのではないか、という馬鹿げた恐れが生まれた。それはどんどん強まっていた。

 張伯は地面を見た。他と比べると少し茶色い。そして盛り上がっている。火葬もせずに埋めたのだから、今頃は虫がたかっているだろう。筋肉もないのに、土を掻き出すことがどうしてできるだろうか? まさか、例え超人の女が跋扈していたとしても、僵尸が実在することはないだろう。

 ならば心配することはない……ないはずだ。

 

「お渡しした地図の、一と書いてある道を辿ってください」

 

 張伯は恐れを脇に置くように言った。

 

 道は三まである。つまり、張伯は味方を三つに分けた。一つ。張伯の言うことに最近従い始めた者たち。張伯の部下というよりも、伍倉に不満を抱く者が多い。二つ。今度は伍倉の言うことに従う者たち。当然伍倉が率いる。地図通りに彼らが行動することは決してない。なぜなら、その地図を作ったのは、道を描いたのは、他ならぬ自分なのだから。そして最後。親分の率いる者たち。僅かに残った無力な女子供の全てがここにいる。親分の隊の両側をはさむようにして、張伯と伍倉が率いている。

 

「それではまた、一週間から十日後に」

 

 張伯は親分の通る道選びに、慎重に慎重を重ねた。なるべく楽に、安全に通れる道。それは山の尾根の東側を通る道であった。敵がもし来たとしても、伍倉の兵に当たるだろう。そして、彼らは命がけで時間を稼ぐはずだ。

 

 親分が、張伯にぽつりと尋ねた。

 

「なあ、張白。お前は、俺に何をして欲しいんだ?」

 

「何度も申すように、国を、親分には国を作って頂きたいのです。国と言っても、そんじょそこらのみすぼらしいものではありません。この四海すべてを含むような、巨大な国です」

 

 親分は刀を磨きながらつぶやいた。

 

「国か……そうか、国か」

 

 張伯は我が意を得たりと大きく頷いた。

 

「ええ。親分には、その資格があります」

 

 親分は手を動かしたまま尋ねた。

 

「お前は、俺のために命を捨てるのか?」

 

 親分は、仲間に命を捨てさせるような真似は決してしない。であれば、今自分は覚悟を試されている。

 

「ええ、捨てます。この命、価値はありません」

 

 張伯は瞬きをしなかった。親分も同じであった。親分を助けられずして、己の命に何の価値があるというのだろうか? 

 親分は今までで一番大きなため息をつき、言った。

 

「まぁ、何にせよ、お嬢ちゃんは守ってやるんだぞ」

 

 その後、張伯の手に持つ刀を一瞥した。そして、

 

「頑張れよ」

 

 と張伯の肩をたたいた。肩をたたくのは、期待の表れだ。張伯は意気込んで頷いた。親分の期待に答えられずして、のうのうと素面を晒せるだろうか?

 

 

 こうして、彼らは各々の道に進んだ。張伯は、地図を見ることさえしなかった。すでに頭に入っていたし、三の道に進もうなどと微塵も思っていなかった。どうせ伍倉もニの道など歩んではいまい。張伯ら三十数名は、山の西側、尾根に近いあたりの山道を黙々と進んでいた。山道と言っても、獣道と大差はない。以前の自分であれば、一刻もしないうちに音を上げていただろう。

 山の気候は変わりやすいが、太陽もまた変わりやすいのだろう。既に日が沈み始めていた。

 

「敵は追いついてこないのですか?」

 

 不安の声もあった。

 

「追いつけませんよ。なぜなら、青服はあそこまで手痛い失態を犯した以上、独断行動はできないからです。必ず曹操の許可を仰がねばなりません」

 

「ですが……その、もし曹操が来たら……」

 

「曹操は天子から朝廷で事の次第を明らかにしなければなりません。つまり、遠出をしなければなりません。来れませんよ」

 

 張伯は足を止め、女の子に言った。二人の女の子だけは、親分の隊から外れていた。

 

「お別れは済ませましたか? 次に会うのはかなり後になりますが」

 

 女の子は何も言わず、後ろを歩いていた。目が少し赤いのは、陽射しのせいではないだろう。

 だが張伯は穏やかであった。斜めの陽が頬を黄色に照らしていた。ここさえ凌げば、国が作れると信じて疑っていなかった。それだけではない。張伯は、己は死神を操る力を有していると考えていた。その真価は、死神が傍をうろついた時に試された。

 

 

 隣に立っていた男が突如吹き飛んだ。一瞬、胸に青が見えた。きれいな矢羽だった。

 

 ――そう、矢だ――――、矢なのだ。

 

 そしてこんなふざけたことができるのは、青服だけだろう。男が吹っ飛んでいった向きを考えれば、どこから射抜いたのかは明白であった。張伯は己が狙われているのに気が付いた。そこからの行動は俊敏であった。張伯はすぐに妻を掴むと、自身の胸まで持ち上げた。敵がそんなものに躊躇しない外道だとわかってはいたが、矢の威力を軽減できると考えたのだ。

 

 ひゅっ、という短い音がした時には、女の子の右腕を矢が掠めていた。張伯は冷や汗を流しながら、皆に森の中に逃げ込むよう檄を飛ばした。落日は、すぐそこまで迫っていた。張伯は仲間のことなど構わず逃げ出した。皆がばらばらになって逃げれば、己が助かる確率も上がる。だがすぐ近くの男が射殺されたのを見ると、敵の狙いは己だろう。

 

「全員、森の中へっ! 矢が通らないよう、木々に身を――――!」

 

 張伯は身をかがめながら、森の中に飛び込んだ。怒声と弓の音。そして悲鳴。奇襲を受けるのは、これで三度目であった。一度目は親分と一緒だった。二度目は、多くの的と一緒だった。そして、三度目は、人数も少なく、敵の標的は己であった。

 

 ――いや、違う。ここで潰えるのではない。まだ、此方には戦える兵がいる。生き残れるかどうかは、己の采配にかかっている。すなわち、一つでも間違えれば死が大口を空けて飲み込むだろう。

 

「決して散開してはなりません」

 

 張伯の頭は冷え切っていた。逃げ遅れた者が悲鳴と贓物をぶちまけていたが、一度たりとも意に介さなかった。敵は逃げたのを見て、焦ってはいたが、直に距離を詰めることはなかった。恐らく、青服が止めているのだろう。では、なぜ青服はそのような指示を出しているのだろうか?

 

「張さん、敵は随分と寡兵のようですっ!」

 

 ぶっきらぼうな物言いも、戦場では許される。敵は確かに少ない。あれだけ手ひどく叩いたのだ。そう多くの兵が付き添っているとは考えられない。しかし、今見える兵は、此方の兵を僅かに上回るくらいだ。つまり、敵はいくつかに部隊を分けて、索敵していたのだろう。敵が森の中に入ってこないは、将が弓が使えないということだけではなく、兵数の問題もあるからだろう。

 

「遭遇戦ですか……将は青服。そして、時間が経つほど此方は不利になる」

 

 此方に援軍が来るとは思えない。伍倉は山の反対側にいるのを口実に、絶対に助けには来ない。親分には、助ける程の余裕がない。一方で、敵は将を救おうと、わんさか集まってくるだろう。全くもって、忌々しい青だ。

 

「ここで青鬼の腕をもげたら楽なのですが……仕方ありません。このまま撤退しましょう」

 

「し、しかし、敵は我々を追っています! どうやって逃げるのですか?」

 

 最もな質問だ。張伯もこれには少し悩まされた。偽りの使者を出したり、敵を人質にするような策では、効果が薄いだろう。足音と声が、少しずつ大きくなっている。張伯は自然と木に触れた。茶色く、毛羽立っている。指でつまむと、ぱきっと、小気味良い音が聞こえた。樹齢五十年は軽く越えているだろう。だが、そんな距離では測れないほど、自分は遥か遠くから来た。

 

 ここまで来たのだ。負けるわけにはいかない。

 

「夜になった時のために、明りの種を持っていますね?」

 

 松脂の入った袋が掲げられた。

 

「森に火を放ちます」

 

 息を呑む声が聞こえた。だが、敵の声も大きくなっている。張伯はもう一度木を振り返った。葉が全て落ちていた。細いのが心配だが、敵をひるませるには十分だろう。

 

「し、しかし、もし味方が巻き込まれたら……」

 

 張伯は刃を突きつけた。耳を切り裂くつもりであったが、突然のことであったため、逸れて木に当たった。

 

「ならば、ここで敵と戦いなさい」

 

 死ねなどという言葉は軽々しく使うべきではない。使ったところで意味はない。逆に、相手にそれを想像させる言葉に意味がある。

 

「何をぼさっとしているのですか? 松脂は全て使ってかまいません。どうせ夜に使う必要はないでしょうから」

 

 また悲鳴が聞こえた。どうやら、森に逃げ遅れた者たちの必死の抵抗が、いま費えたようだ。張伯は、更に足を運んだ。森の奥へ。

 

 

 

「……どこへ逃げるおつもりですか?」

 

 女の子が張伯に問いかけた。幸いなことに張伯は答えを用意していた。

 

「絶対に安全な道があります」

 

「道? 敵に見つかりやすいのでは?」

 

 確かにそうだろう。通りやすければ通りやすいほど、敵はそこを通るだろうし、警戒もする。普通ならば。

 だがすぐに種明かししては面白くない。驚きこそが力を生むからだ。張伯は黙って皆を先導した。しばらくして、一同は森を抜けた。そして、草木はだんだん少なくなっていった。曇ってはいるが、もう夕方になっているだろう。

 

「この道は……まさか」

 

「ええ、三の道です」

 

「なぜですかっ! 敵がこの道を例え知らなかったとしても、必ずや警戒して兵を置いているでしょうっ!」

 

 女の子の怒声は張伯には心地よかった。

 

「逆ですよ。敵は熟知しているからこそ、ここには兵を置かないんです」

 

 果たして、張伯の予言通りであった。見晴らしの良い道だというのに、誰もいなかった。自身に賞賛の目が集まるのを、張伯は背中で感じていた。理由がわかっていないがために、超人と見ざるを得ないのだ。

 

「ほ、本当に大丈夫なんですかい? 今からでも、下に降りた方が……」

 

 だが、この女の子はそうではいけない。凡百の人間と同じであることは、己の妻という立場が許さない。張伯は歩きながら、女の子が考えを開くのを待っていた。下唇に左手を当てて、やや伏し目がちだった。

 

 こうして、張伯らは、最も安全な道を通った。道であるため、移動するのも早かった。煙の臭いは常に漂っていたが、炎に巻き込まれることはなかった。散っている敵は大変だろう。何人死ぬだろう?脇に生えている木々が光を発するのを見ながら、張伯はぼんやりと郷愁に曝された。かつていた場所では、冬になると街路樹に装飾が施され、銀色の絨毯が二枚続いているのかと見間違うほどだった。

 後ろを振り返れば、見よ! 赤い光が敷き詰められている。道のところだけ何も無いのだから、赤はない。埃のような霧が漂っているのが景観を損なっているが、そのお陰で光が拡散され、幻想的な光景になっている。

 

「二つ道があるので、好きなほうを選べますね」

 

「え、えぇっと? 張さん、それはどういう……?」

 

 これだから教養のない者と話すのは疲れる。あの女の子は沈黙と一緒だった。

 

「ただの比喩ですよ」

 

 前哨戦は終わった。だが次の戦いが隣に立っている。張伯は呉鉤を握る手に力を入れた。

 

「……裏切りに」

 

「へっ?」

 

「裏切りに必要なものは何かわかりますか?」

 

 張伯は上を向いたまま言った。

 

 

 

 

 

 夕陽の切れ端に、男が飛びついていた。服は乱れ、所々血がついている。剣を左手に持っている。続いて、三人の男が駆け寄った。

 

「大丈夫ですかっ!」

 

「問題ない。まだ動ける」

 

「いえ、すぐに動けなくなりますよ」

 

 男が剣を振り上げるよりも早く、三人の男は拘束された。そして男自身も、槍を突きつけられた。

 

「何をするっっ!」

 

「相も変わらず怒鳴ることしかできない。だから人がついてこないんですよ」

 

 張伯が闇から姿を現した。決して近づこうとはしなかった。伍倉は形勢が不利なことを悟ってか、弁術に賭けた。

 

「なぜ味方を裏切るっ! こんなことをして、親分が何というかっ!」

 

 伍倉を囲むものたちは、何も言わなかった。むしろ怒気を強くした。

 

「その通りです……本当に残念ですよ、伍倉。まさか私たちを裏切るとは」

 

「何だとっ! お前こそ、親分を裏切りやがって!」 

 

 張伯は隣の者から槍を掴むと、柄を伍倉の鳩尾に突きつけた。そして、

 

「首を刎ねなさい」

 

 と指示を出した。だが、残念なことに、率先して動く者はいなかった。躊躇いと戸惑い。まずはそれらが取り除かれなければならない。

 

「なぜ三の道は安全だったのか。それは、私たちがその道を通らないことを、敵は知っていたからです」

 

 張伯は伍倉が息を整えられない間に決着をつけるつもりでいた。

 

「敵は地図を秘密裏に入手したというよりは、内通者を得たのですよ。丁程と同じような、ね」

 

 つまらない嫉妬や恨みから、味方の足を引っ張ることしかできない無能。それを、伍倉と言う。敵に行路を教えるなど、百害あって一利なしであることがわからない。感情の檻に捕らわれ、正常な判断ができない。

 

「し、しかし、伍倉の奴も敵に襲われているんじゃ――」

 

「その通りです。敵には見逃す理由がありませんから」

 

 そんなこともわからない屑なのですよ、と張伯は付け足した。伍倉は抵抗しようとはせず、ただ睨むだけであった。抵抗すれば、槍で心臓を貫かれるのを悟っている。張伯は、このまま殺せる流れに持っていけるだろうか、確信がなかった。挑発すれば激高するだろうか? わずかな逡巡。その隙に、邪魔者が頭を下げた。

 

「お待ちください。いま伍倉を殺すべきではありません」

 

 張伯は頭を右手で抑えた。

 

「伍倉の兵は私達よりも多かったのを思い出してください。そんな彼らが敗れたということは、必然的に敵の総数は想定よりも多くなります」

 

 反論するのは難しい。敵も精兵だが、此方も山賊である以上、優劣は簡単につけられない。となると戦力の違いは数から生まれる。それに、伍倉の兵が軟弱であることを主張するのは、危険を伴う。伍倉が傲慢だからといって、その兵まで嫌われているとは限らない。

 だが女の子が仄めかしていることにも目を向けなければならない。この場合の想定というのは、張伯の想定である。それを暗に当ててみせ、そしてそれを否定しているのだ。

 

「敵の様子について、ご教授願えませんか?」

 

 女の子は膝をついて尋ねた。今ここで殺したら、確実に不興を蒙る。伍倉はひどく汗を流しながら答えた。

 

「突然、奴らが襲ってきたんだ。数はわからない。三十か四十くらいだ」

 

「おや、あなたの兵と同じくらいではないですか? なのに無様に負けたのですか?」

 

 伍倉は無視して続けた。

 

「一人とんでもなく強い奴がいたんだ。奴は次々と……仲間を、切り殺したんだ。赤い服を着ていた」

 

 女の子は、汗を布で拭いてやりながら言った。

 

「それは本当ですか?」

 

「ああ、そうだっ! あいつは化け物だ! あいつさえいなければ、勝てたんだ!」

 

 本来であればここいらで、見苦しい言い訳だと言うつもりでいた。だが張伯は驚きで体が止まっていた。そして震わし始めた。

 

「赤鬼が来ている……? 馬鹿な、来れるはずがない」

 

 歩いて優に一週間はかかるだろう。張伯はぶつぶつと呟いていた。ふと、ささやき声が耳から入った。

 

「馬であれば、使い潰すのであれば可能です」

 

 張伯は驚いて顔を上げた。女の子が、丸い目で此方を見ていた。張伯はすぐに顔をそらした。

 

「…………問題はありません。馬は限られますから、援軍の赤服の兵は少数です」

 

「ですが、赤鬼と青鬼がいる以上、少しでも多くの兵で親分を守る必要があります」

 

 女の子は言った。

 

「それに、赤鬼がいるのなら、曹操も」

 

 張伯は岐路に立たされた。ここで女の子もろとも伍倉を殺すことは可能だ。丁程との密会を指摘すれば良い。しかし、ここで伍倉を殺すのは不味い。曹操もこの山に来ているのであれば、伍倉の手も借りる必要がある。とにかく、数を集めなければ話にならない。ただでさえ少ない味方を更に分けたのでは、敗北は必至である。

 

「それで、別れた時のための集合場所はどこですか?」

 

 女の子が伍倉に尋ねていた。此方の意図を察知している。今は夫を支える貞淑な妻を演じているが、いつ牙を現すとも知れない。劉という姓を持っているのだから、何かしら歴史に名を残していたのではないだろうか? 

 

「この次の丘の向こうですね?」

 

 闇の中で、いつ敵が襲いかかるともしれない中、友好的でない人間たちを取りまとめる。肝っ玉が太いだけでは足りない。折衝、交渉の力がなければらない。皆さっきまでの殺意はどこへやら、腑抜けている。場は、この少女に支配されている。

 

「とにかく、できる限り仲間と合流するのを優先しましょう」

 

 もしや、この少女こそ、劉備ではないのだろうか。そんな突拍子もない考えが浮かんだ。実は劉備は、劉備となる前に名を変えたのではないだろうか。それが己の行動により、己の妻となり、名を変える機会を逸したのではないだろうか。そう考えれば辻褄があう。

 劉備。草履売りの賤民。類まれな人望、人をひきつける力を持つ。当然、人を見る目もある。どこか似ていないだろうか? 恐らく、婚姻がなければ、この少女は没落を続け、靴売りに転職していたのではないだろうか?

 

「……いかがなさいましたか?」

 

 女の子が張伯に問うた。

 

「いえ、あなたの言う通りにしましょう」

 

 少女に従うというのは、己の存在意義を脅かすものであるが、今は仕方がない。あの曹操が来るかもしれないという、緊急事態なのだ。劉備という、曹操の好敵手を使わぬ手はない。できれば孔明も欲しいが、特に見当たらない。まさか、伍倉の妹がそうなわけではないだろう。

 

「そう言えば、伍倉、あなたの妹はどこにいるのですか?」

 

 場が静まり返った。特に聞いてはいけないということはあるまい。

 

「…………敵から逃げている途中にはぐれた」

 

 伍倉は搾り出すように言った。

 

「そうですか。見つかると良いですね」 

 

 伍倉は一瞬ぎょっとしたような顔を見せたが、すぐに

 

「あ、ああ」

 

 と言った。決戦のときは近い。曹操はいないのが望ましい。だが、もしいたとしても、ここで倒してしまえば天下が手に入る。張伯には迷いはなかった。

 此方は何年も山を歩いた歴戦の山賊である。一方、相手は曹操率いる精兵。どちらが勝利するかは五分五分だ。そして、その勝利は誰によって決まるだろう? 当然、天の手により決まるのだ。

 

 明日は、長い一日になりそうだ――。

 

 張伯は、そんなことを思いながら、眠りに就いた。寒い、冬のことだった。闇の中、煙の臭いがわずかに漂っていた。

 

 

 

 

 盜蹠日殺不辜、肝人之肉、暴戻恣雎、聚黨數千人橫行天下、竟以■終――

 

 

 

 




 次話が第一章最終話になります。


先日ご紹介した、新発見された石碑の日本語版記事です。
「モンゴルの岩壁に2千年前の銘文 「後漢書」と同じ内容」
(https://www.asahi.com/articles/ASKDT56MZKDTPTFC00Q.html)
 日本で紹介されるまで大分時間が経っていますね……。

 此方は、2002年に古井戸で発見された木簡の研究の続報です。
「「不老不死の薬探せ!」 始皇帝の命令、木簡から確認」
(http://www.afpbb.com/articles/-/3156672)

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