しん 恋姫†無双 く~ずの一代記   作:ポケティ

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欺瞞・裏切り、それに血讐 ニ

 血の犠牲には、血で以って償うべし――

 

「つまり、親分のために働きたくない、ということでしょうか?」

 

 張伯は冷たい目で言った。侮蔑を含ませる必要はなかった。彼らが、勝手に補ってくれるのだから。

 

「そういう訳ではありませんっ! ただ、こんな方法を取らなくとも……」

 

「今っ! 私たちの仲間は必死になって、私たちが相手しているよりももっと多くの者を相手にしています」

 

 張伯は語気を強めた。そして、すぐに抑えて言った。

 

「あなた方は、何もせず死ぬより、何かをしたことで責められるのを恐れているのです。そういう者のことを何と言うのか! ……あなたでしたら、わかりますか?」

 

 張伯は尋ねた。小さな女の子に。

 

「……弱虫」

 

 沈黙が流れた。後は、どちらがより長く耐えられるかの勝負であった。張伯は絶対の自信を持っていた。女の子に蔑まれて、奮わない男がいるだろうか? ここにいる単純な男たちであれば、直ぐに立ち上がるはずだ。張伯は両手を枕にして寝そべった。丘のためか草はあまり生えておらず、茶色い地面がむき出しだった。

 

「ここで動かなければ、私たちは死にます……親分も」

 

 張伯は誰も見ずに言った。皆押し黙っている。そして、焦りが芽生え始めていた。張伯は目を瞑って風の動きを感じながら、悠然とそれを眺めていた。

 

「他に方法はないのか?」

 

 何度も同じ事を言う気にはなれなかった。しかし、答えないのも面倒であった。

 

「私たちの士気は高けれど、敵は行軍すること雲霞の如く。これ以外に有効な方は、私には思いつきませんでした」

 

 張伯は目を開けずに答えた。

 

「それをやれば、俺たちは勝てるんだな?」

 

「その通りですよ。できればですがね」

 

 自分が思いつかなかったことは、他の者も思いつかない。そんな傲慢な考えを、伍倉は受け入れた。つまり代案を出せなかった。なまじ剣を握っているため、彼我の戦力の差がまじまじと感ぜられるのだろう。体で感じたことを誤魔化すのは難しい。

 伍倉は、卑劣な策を用いなくとも勝てる、と言う事ができなかった。できるはずがないと、体が思っていたからだ。頭では否定しても、口が動かなかった。おまけにこの問題は人の命を左右するのだ。嘘など、なおさらつけるはずがない。

 

「わかった。俺がやる! だが勘違いするなよ」

 

 張伯は開ける気がなかったが、影が邪魔だったので、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。

 

「決してお前のために、お前の策に乗るわけじゃない! 全ては、親分のためだ!」

 

 伍倉は剣を張伯の首元に突きつけていた。張伯は流石にそこまでやるとは思ってもみなかったが、特に動揺することはなかった。以前小刀を目の前に突き刺した仕返しだろう、とただ判断しただけであった。

 

「その通りです。私たちには共通点が二つあります。一つはお互い嫌いあっているということ、そしてもう一つは全てを親分に優先させているということです」

 

 張伯は剣に触れた。ひんやりと冷気を纏っていた。刃は、人をその身に写すほど研ぎ澄まされていた。指が触れた途端、その周りに雲がかかった。

 

「誰でも構いません。とにかく、その剣にできるだけ血を吸わせてください」

 

 地面の一点が赤く染まった。

 

 

 

 傾いた日が、隠れて進む曹操らを睨んでいた。曹操らは鬱蒼とした山道を歩いていた。敵が待ち伏せる以上、山に入らなければ逆包囲は完成しない。既に敵の潜む場所はいくつかに絞られていた。

 いつ襲われてもおかしくないと身構えているのと、奇襲の来る時期を知っているのとでは、発揮できる武力に差が出る。常にびくびくとしている鼠は疲れきってしまい、十分に力を出せない。反対に予め奇襲に備えているのであれば、十全以上の力で敵をたたき出すだろう。敵は奇襲を知らない。自分たちが襲う側だと信じて疑わない。よって、こちらが有利なのは言うまでもない。

 だが、曹操は、更に詰めの一手を指すつもりでいた。それは、兵にまず弓で射させ、敵が近づいてきたら応戦するというものだった。木々の隙間から目標を射る錬度を、彼女の兵は持っていた。敵をわずかでも近寄らせず、囲んで殺す策。曹操はわずかな犠牲を出すのも惜しんだのだ。

 

 死不再生、窮鼠嚙貍――死して再た生きずとなれば、窮鼠猫を嚙む。

 

 曹操は、弱兵の命の瀬戸際の蛮行で、愛する兵を失うのは耐えがたかった。必要とあらば愛する兵も犠牲に供する覚悟ではあるが、今はその時ではないと考えたのだ。楽に勝てるのであれば、犠牲もなるべく少なく抑える。それが曹操のもう一つの覚悟であった。

 

「さようなら、かつて敵だった者よ」

 

 鋭い羽音が何度も響いた。遠くから悲鳴と怒声が聞こえる。曹操はゆっくり歩を進めた。剣戟の音は聞こえない。緑と茶色の世界に、赤が点々と降っていた。予想以上に敵は脆弱であった。地面にうつぶせになる者を剣で突き殺しながら、曹操はため息をついた。反対側に潜んでいた夏候惇に追い立てられ、(曹操の元に)逃げてきた者に対処する段取りであったが、意外なことにほとんど誰も来なかった。春蘭の、敵に踊りかかる様子が想い起こされた。

 

「曹孟徳、ここに在り! 誰か戦いを挑む者はおらぬか!」

 

 曹操に向かう者は誰もいなかった。侍者も曹操の名を大声で触れ回っていたが、何の効果もなかった。誰もいないのは予想外なことであった。己の名を知らぬ者はおらぬはずであるし、この絶好の機会、罠だと思っても飛び込まずにはおれまい。それだのに、誰一人として訪ねる者はいなかった。

 曹操はどうしようもない嫌な予感がした。ひょっとすると、自分は何か大きな勘違いをしていたのではあるまいか。そう、何か見落としているのでは……。曹操はこのとき初めてあせりを覚えた。

 しかしながら、戦の最中に余所見をすることなど曹操にはできなかった。いや、誰だってできはしない。常に周りを警戒し、敵の出方を探る。そして味方を統率する。これらを疎かにして、頭を働かせることはできないことを、曹操は誰よりも理解していた。曹操は舌打ちをしながら、戦の早く終わることを願った。

 

 日が半分、地平線のかなたに沈んでいた。

 

「華淋様、敵の将を捕らえました!」

 

 この言葉を聞いたとき、曹操は安堵した。不可解なことがあるにしても、これで峠は超えたと思ったからである。将がいないのに戦い続ける兵は存在し得ない。だが、曹操は、その者を見たときに戦慄した。

 

 

 杖をついた、髪と長い髭が白い、頬が腫れた老人。憎悪の目で此方を射抜いている。曹操はこの者を知らなかった。一瞬間者ではないかと思ったが、それもすぐに否定した。余りにも年をとっているし、学もなさそうに見えたからである。であれば、この者は一体――――?

 

「何者だっ! 名を名乗らんか!」

 

 春蘭が老人の髪を掴み上げて、どやしつけた。だが相変わらず睨むだけであった。春蘭も焦っていた。彼女も何かしらの違和感を見つけたからこそ、こうして敵を捕らえて少しでもその正体を見極めようとしているのだ。

 

「この者は、先ほどまで周りの者に逐一指示を出しておりました。こうして捕まえたために、敵にはもう戦意がありません!」

 

 春蘭の言葉は正しい。将がいないのだから、敵は逃げるか、立ち尽くすことしか考えていない。大勢は決した。彼らの負けは既に明らかだ。それなのに、曹操は己の勝ちを確信できずにいた。

 

「私たちが憎いのはわかるわ。もし投降するのなら、あなたたち全員の解放を約束するわ」

 

 次に曹操が起こした行動は、英断であった。すなわち、英雄のみにしか為しえない行為であった。曹操の言は、負けた者であれば誰もが舞い上がるような魔力を持っていた。それなのに、そのはずなのに、この老人は一向に何も喋ろうとしない。曹操の頬に汗がつたった。

 

「春蘭、他の者をいくらか捕らえて、彼の目の前で殺しなさい」

 

 老人はかっと目を開いた。そして、筋肉隆々な兵が三人がかりで抑えているのにも関わらず、起ち上がろうとした。

 

「お前たちのせいで何人死んだと思っている! わしの息子も飢えで死んだっ!」

 

 老人は怨念、憤怒、悔恨。そういった雑多なものを撒き散らした。喉が張り裂けんばかりに叫んでいた。

 

「絶対に、殺してやるからなっ! わしが殺さんでも、あいつが、張のやつが殺してくれるっ!」

 

「今、そいつは何処にいる!」

 

 春蘭が老人に詰め寄る。老人は途端に口を閉ざした。地面に抑えつけられても、目だけは上を向いて、此方を睨んでいた。

 

「答えろっ!」

 

 春蘭が野太い声で威嚇した。

 

「……もう遅い。もう手遅れだ! 死ね、死んでしまえ!」

 

 春蘭は愛刀を構え、周囲を見渡した。だが、特に敵が奇襲を仕掛けようとする様子はなかった。この周囲は曹操が既に、伏兵がいないか調べさせている。

 

「おいっ! 今のはどういう意味だ!」

 

 春蘭はもう一度問いかけた。今度は手を切り落とすことも辞さないつもりだった。だが、返事はなかった。春蘭はどすを利かせて言った。

 

「吐けば、命だけは助けてやる」

 

 春蘭がいよいよ斬ろうとするまさにその時、主人が口を開いた。

 

「無駄よ。もう、その者は死んでいるわ」

 

 老人は目を開けたまま、動きを止めていた。強く抑えすぎたためか、老人が酷く興奮していたためか、そのせいで喉をやったためか。それともどこか怪我をしていたのか。いずれにせよ、やせ細った老いた男は死んだ。

 

「私たちは勝ったのよ」

 

 勝利を喜ぶ兵たちの叫びが響いていた。曹操は物言わぬ骸をじっと見詰めていた。何の表情もなかった。

 

 

 数刻後、答えは早馬とともにやって来た。曹操は皆に下がるよう伝え、夕餉も食べず、部屋に引きこもっていた。夏候惇は部屋の前で直立不動し、誰も入ることを許さなかった。どのような言葉も、慰めも、励ましも、主の重荷にしかならない。夏候惇は誰よりも、真っ先に入りたくてしょうがなかった。だから部屋に入らなかった。

 

 

 

 

 宴会のことを思うと、胸が重かった。脂ぎった食事。扇をただ動かすだけの舞。賛美の気持ちが一片もない祝辞。宦官らの、賤しい視線、嫉みの視線。行きたくないと思うあまり、何度も補給のために立ち止まることにしていた。最初の休憩地は呉房県であり、もうすぐであった。

 全く、げにこの世で最も憂鬱な公事は、参加したくないのに主役として顔を出さなければならない宴会であろう。朝廷から命令を拝命するのであれば、此方のほうから何か働きかけることはほとんどない。しかし散々煮え湯を飲まされてきた賊を退治した立役者ともなれば、ある程度皇帝の無聊を慰める必要がある。愛想よさ、礼儀正しさ、そして見世物となる覚悟。とてもではないが、姉者には任せられないだろう。

 

 そう考えていた時、夏侯淵は"不意の一撃"を喰らったのである。始まりは、列の後ろが騒がしくなったことであった。夏侯淵は喧嘩か何かが起こったのだと思った。しかし、馬のいななきが轟いた時、攻撃を受けているのだと確信した。列の後ろの喧騒を聞いて、前を歩く馬が何頭も嘶くはずがない。何せ何度も戦を経験した、かけがいのない仲間なのだ。となれば、答えはただ一つ。騎手が殺されたのだ。

 

「敵襲っ――!」

 

 夏侯淵は兵に素早く指示を出した。兵は素早く各々武器を取り、連携をとって敵に対した。だが、今夏侯淵らがいる場所は、周囲をやや高い丘に囲まれた、くぼ地であった。敵はどこに潜んでいるのかわからなかった。どこにでも潜みうるからだ。夏侯淵は、自分たちがかなり不利な地形にいること、同時に罠に嵌ったことを悟った。

 

「絶対に陣形を崩すなっ! お互いが背中を守れ!」

 

 弓矢がそこかしこから飛んできた。既に包囲されている! 夏侯淵の顔は、その服と見分けがつかないくらい青ざめた。だがそれも数秒のことであった。すぐに怒鳴り声をあげて己を鼓舞すると、弓を手にとって、一人の賊の頭を打ち抜いた。

 何頭かの馬が、弓に当たったのか、自軍を駆け巡っていた。これこそが敵の狙いだったのだ! 最初に馬を殺したのは。

 これを仕組んだ敵は、どこまでも冷静に此方を殺そうとしている。そして、敵は此方がこの道を通ることをあらかじめ《《知っていた》》。鉄がぶつかり合う音が、鋭い羽音が、其処彼処から聞こえてくる。敵もいくらか倒れているのだろう。だがこの奇襲を、此方はまったく気が付いていなかった。仲間を残して宮中に赴くのだから、敵とは当分戦わないだろうと、高をくくっていたのである。

 

 違う、そうではない。夏侯淵は倒れた兵士に声をかけた時、気が付いた。仲間を置いていく罪悪感。それが、警戒心を鈍らせたのだ。もし士気が低い兵であれば、例え凱旋の道であろうとも、異変には気が付いただろう。

 敵と戦わねばならぬまさにその時、主に直接従う兵たちが剣や槍をその手に握り締めているとき、自分たちは宴会の余興や作法について話を詰めていたのだ。堅い結束に結ばれた兵たちが、引き裂かれていた。無論、そのことさえも主は、華淋様は利用なさっていた。敵の行動を操るために。だが、それは敵も同じであった!

 

「おのれ下郎っ! 思い通りになると思うなよ!」

 

 夏侯淵の髪は逆立ち、弓からはきしんだ音がしていた。矢を番えると、そのまままた放った。一人が吹っ飛び、その後ろに立っていた者も巻き込んだ。二枚抜きには至らなかったものの、敵を畏怖させるには十分であった。だが敵は怯むことなく突撃を仕掛けている。その姿は、紛れもなく精鋭であった。その顔は、憤怒に染まっていた。

 

「殺してやるっ!」

 

 一人の敵兵が、夏侯淵に襲い掛かった。しかし、すぐに周りの者たちの槍によって串刺しにされた。それでも猶、手を虚空に動かし、目で射抜いていた。戦況は明らかに不利であった。夏侯淵にはもう一つ懸念すべきことがあった。目の前には呉房県があるのだ。そして、そこには城壁がある。それが不気味であった。奇襲にしても、なぜ賊はわざわざ此処を選んだのだろうか? これではたちまち城壁の中に逃げられてしまう。

 だからこそ、夏侯淵らは油断をしていたとも言える。そんな単純なことを、これほどまでに利口な策を練る者が見逃すはずがない。何か、何か罠があるのだ。

 

 夏侯淵はこの時、大きな選択を迫られた。このまま逃げ込むか、それとも戦うか。逃げ込めば、明らかに有利だ。城があるのだから、敵も容易には攻められないはずだ。かといってこのまま戦っても、勝てるかどうか夏侯淵にはわからなかった。今までこんなことはなかった。難しい判断は、全て主が下していた。この時初めて、夏侯淵は己の真価を試されることとなった。

 

「転進だっ! 陣形を崩さぬまま、城壁に進むぞっ!」

 

 夏侯淵は前者を選んだ。どちらを選んでも、後悔からは逃れられないだろう。だがそれに囚われるのは、生き残ってからだ。夏侯淵は親衛隊、自軍の中で最も優れた者たちに包囲を突破させた。敵はすんなりとそのままに任せた。無理に包囲を維持する必要がないと知っているからだ。完全な包囲では、敵は死に物狂いで戦う。

 だが、もしそこに穴があれば、敵は無理に戦おうとはせず、そこから逃げようとする。そうなれば、ただの的になるだろう。夏侯淵は殿を務めながら、転進を開始した。夏侯淵には覚悟があった。絶対に、陣形を崩さない――何としてでも、凌ぎきる――

 

「あそこに、首領がいますっ!」

 

 夏侯淵はその言葉に気をとられた。見れば、赤い旗が一本だけ立っていた。張と書いてある。旗を持つ者の隣りには、剣を持った男がいた。兜はつけていないが、簡単な防具を身につけていた。そして、斬りかかろうとはせず、周りの者を鼓舞していた。

 

 あいつだっ! 夏侯淵は思わず弓を構えた。しかし、それが罠であることは一目瞭然であった。此方が後退しようというまさにその時、都合よく首領が姿を見せるだろうか? 否、そんなはずはない! こうしてあと少しで勝てる、という期待を抱かせ続けたまま絞め殺すのが、賊の策なのだ。

 

 夏侯淵は激情する体を押しとどめながら、後退し続けた。敵が恐ろしかった。どこまでも此方を殺そうという、冷酷な意図があった。敵の怒りも、此方の罪悪感も、全てが計算されている。全てを策に織り込んでいる。夏侯淵は底知れぬ悪意に身震いしながら、門を潜り抜けたのであった。

 

 

 

 

 雲から陽射しが抜け出ようとしていた。今日は多くの人が死ぬことになる。けれども、それは序幕に過ぎない。まだ重要な人間が死ぬわけではないからだ。

 

「正直に言えば、敵が一人も死ななくても良いと、私は考えています」

 

 張伯は唐突に口を開いた。

 

「私たちは血を欲しています。必要なのは、血がそこにあるということです。血というのは出てきた途端、最早それが誰のものだったのかは関係なくなるのです」

 

 張伯は真っ赤な地面を、事も無げに見下ろしながら言った。さながら多くの人間が織り成す交響曲、いや単旋律と言ったところだろうか。歩く場所が制限されるのを、張伯は苦々しく思った。

 

「病気になるので、触れてはいけませんよ」

 

 忠告にもかかわらず、女の子は膝をついて、倒れ伏したものの顔に手を当てていた。女の子が動くたびに、血溜まりに波紋ができた。衛生観念というものを知らなければ、こんなものであろう。手を洗うという発想さえないのであれば、疫病がやたらめったら這い回るのも自然の理だ。張伯は血の側には近寄らなかった。

 

「敵は壁の中に逃げ込みましたか。まぁ、予定通りです」

 

「……どうなさるおつもりですか? このまま城攻めを敢行なさるのですか?」

 

 女の子は倒れた兵の目を閉じながら言った。

 城の中に篭る敵兵を倒すのは至難の技だ。一介の山賊では、攻める体勢を作ることさえできはしない。城攻めは度々失敗するが、城攻めをするために包囲すること自体難しいのだ。であれば、それを利用しない手はない。敵将がそう考えるのも最もだ。だからこそ、都合が良かった。

 

「私たちは、より有利になっているのです。理由は三つあります」

 

 張伯は言った。

 

「第一に、彼らはこの国の駐屯兵ではありません。第二に、県の中には邪魔者がいます。第三に、彼らは身を寄せ合って閉じこもっています」

 

 火の手が中からいくつか上がった。張伯の指示通りであった。壁の外からは火矢が降り注ぎ、中からは誰かが火をつけまわっているように敵には見えるのだから、堪ったものではないだろう。

 

「……いつの間に、内通者を用意されたのですか?」

 

「彼らは皆、困窮しているのです。私は彼らのことを思いやっていると、同じ仲間だと思わせただけです」

 

 皆が貧困にあえいでいるのならば、怒りを抱くことはない。精々、たまに訪れる官吏、徴税人をにらみつけるだけだ。しかしもし、自分の娘を売らなければならない程借金を抱えていて、豪族の畑で必死に働かなければならないのなら、その豪族が娘を(債務)奴隷にしていたのなら、その怒りは凄まじいものになる。そして、その感情は()()できる。

 

「なんと素晴らしい! あれ程までに精美な軍が、いまや稚児のように右往左往しています。間抜けなものです」

 

 張伯は快活に笑った。彼らが共同して立ち向かえるはずがないことを、張伯は確信していた。今まで守ってきた者からすれば、突然軍が押し寄せ、戦う羽目になったのだ。余計な荷物を持ち込んだ余所者。嫌悪を抱かずにはおれまい。そして軍からすれば、慌てて逃げ込んだ先が安全とは限らない。事実安全ではないのだ。両者が不信を抱けば、行き着くところは反目に決まっている。

 

「やはり私の思っていたとおりだ! 軍などというのは近代以前では、鼻つまみ者に過ぎない! 嫌われて当たり前。来なければいいと誰もが思っている」

 

 張伯は自然と高笑いをしていた。この世で一人しか理解できない言葉を言うくらい、気分が良かった。数日前は囲んで叩く側だったのが、今では逆転しているのだ。これほど皮肉なこともないだろう。後ろにいる女の子は、食い入るように炎を見つめていた。

 

「炎から逃げ惑う女の悲鳴が聞こえます」

 

 女の子は、張伯の脚を見ながら言った。

 

「私にも聞こえていますよ。それがどうかしましたか?」

 

 張伯には、少女が何を言わんとしているのかわからなかった。まさか己の聴力を自慢したいわけではないだろう。となれば、何か皮肉や比喩を使っているのだろう。

 

 ……もしかすると、女の悲鳴が聞こえるというのが、この女の子にとっては看過しがたいことなのだろうか? 戦うならまだしも、逃げようとしてむざむざ焼け死ぬのは女にとって恥ということなのだろうか? 

 相手はわかっているのに、自分には分からない。それは恐怖を生む。そんなことは策士には、軍師には、あってはならない。張伯は目を細め、頭を働かせた。

 

「ふむ……」

 

 今一度考えてみよう。こうして話すことができることは、科学の枠組みを一蹴している。今まで日の本で暮らしていたのに、どうして突然古代蛮族の世界に訪れ、あまつさえ言葉を話せるのだろうか? 字は読めなくとも、話が通じるというだけでおつりが来る。だが本来、会話というのには、文脈、つまりはお互いの文化的背景、知識が共通していることが必要不可欠だ。

 張伯は当然母国語を話しているつもりでいる。そして、相手も母国語を話している。その母国語は同じではない。ならば一見話せるように見えても、どこかで齟齬が起きないはずがない。となれば、これがその齟齬なのだろうか? いずれにせよ、早いとこ解決したい問題ではあった。

「私は、実は異国、海を超えた遥か先の生まれです」

 

 張伯は正直に白状した。

 

「ですから、ここのことを余り知らないのです」

 

 張伯は懇願のまなざしを向けた。

 

「この身浅学菲才なれば、お教えするのは恐れ多きことでございます」

 

 何も教える気がないのだろう、女の子は淀みなく言った。そして丁重に頭を下げた。

 

「それはあなたが女だから、あるいは妻だから教えられないということでしょうか?」

 

「いいえ、そういう訳ではございません」

 

 張伯はゆっくりと近づいた。瞳孔が、ほんの少しだけ大きいようにも見える。

 

「私は嘘を言ってはいません。旅人に対して、寛容さを見せ付けるべきではないでしょうか?」

 

「……あなたは既にここに根付いていらっしゃいます」

 

 女の子は一歩も譲らなかった。張伯はそれ以上何も言わなかった。不穏な空気を破ったのは、腰ぎんちゃくであった。

 

「まぁまぁ、難しいお話はこれくらいにして、今は戦に集中するのはどうでしょうか、兄貴」

 

 王才は、肩に矢筒を背負っていた。五、六本しか入っていなかったが、張伯は王才が一度も矢を放っていないことを看破した。声がいつもとあまり変わらない。もし火矢を放つことに抵抗があったのなら、何かしら心の疲れや動揺が表れているはずだ。そしてもしそれがないのであれば、この場には来ないで味方を大きく助けているはずだ。そうすれば、虚栄心を満足させることができる。

 こうしてここに来たのは、指示を仰ぐためではない。撃ちたくないという、臆病に端を発している。

 

「弦が、少したわんでいますよ」

 

 たわんだ弦で矢を放つのは、手綱のない馬車を操ることぐらい難しい。

 

「えっ。あ、いえ。これは使ってたら、緩んじまったんです」

 

 張伯は王才の嘘のつき方を既に熟知していた。王才は黒であった。にも関わらず、張伯はそれをおくびにも出さなかった。

 

「それ程までに弓を使い続けるとは。流石です」

 

「何でも任せてください、兄貴」

 

 王才はそう言うと大げさに胸を叩いた。そして、二度と手を胸から離すことはできなくなった。愛の矢により、二つは繋ぎとめられたからだ。

 

「がっ…………!」

 

 王才は目を一瞬大きく開けた。そして、胸に視線を向けた。右手を動かそうとしたが、血が吹き出ようとしたためか、動作を止めると、ゆっくりと横向きに倒れた。張伯は素早く女の子を見た。驚いているのだろう、倒れている王才を見つめていた。だが、何も声はかけていない。そして、助けるそぶりも見せていなかった。

 

 数瞬後、張伯は慌てて何処から矢が放たれたのかを確認した。矢の刺さり方を見れば、どの角度から放たれたのかが分かる。そしてそれを元にすれば、距離もたちまちにしてわかる。青色の何かが、ちらっとだけ動いて消えるのが見えた。あれだけの距離から――。張伯の全身につめたいものが走った。そしてそれはもう、抑えることができなかった。

 

「何と、何ということだっ!」

 

 張伯は顔を右手で抑えながら、叫び出した。手を当てた途端、首筋から汗が噴出した。そしてついには腰をかがめた。

 

「やはり、やはりそうだった!」

 

 張伯は体を震わしながら叫んだ。手ががくがくと動き回っていた。

 

「私には、例えるならそう! 天が味方している!」

 

 そこからは、張伯の独壇場だった。

 

「万物が、私に味方している! いつだってそうだ。死んでもおかしくない状況を、私は何度も乗り越えてきた! 如何に私が優れていようとも、危ない時はいつでもあった! いや、違う、私には天が、神が味方している!―――私が特別だからだっ!」

 

 張伯は肩で息をしながら、王才を見下ろした。

 

「王才、あなたは私以外の頼みも聞いていたはずです。よく私の側を離れていましたからねぇ。それは誰ですか?」

 

 張伯は王才に近づいた。その表情は此処からは見えない。

 

「教えてくださいよ」 

 

 張伯は肩を蹴飛ばした。仰向けになった。右手が動いたが、それは背中から突き刺さった矢が地面に当たって動いたためであった。王才は、引きつった表情で固まっていた。

 

 張伯はやや目を大きく開けたが、鼻で笑った後、ゆっくりと門に向かって歩を進めた。矢が掠めても、張伯は気にも止めなかった。それが刺さらないことを、確信していた。自分には天がついている。天子行何畏――――




 8/15に、匈奴に勝った記念に作られた石碑が発見されました。
「历经近2000年班固所撰《燕然山铭》摩崖石刻找到了」(http://history.eastday.com/h/20170816/u1a13197569.html 2017年11月3日閲覧)に詳しい解説が載っているので、是非お読みください。

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