しん 恋姫†無双 く~ずの一代記   作:ポケティ

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欺瞞・裏切り、それに血讐 一

 命というのは、人間の究極の価値であり、決して金品で賄われるものではない。そのことは誰もが暗に知っているのだ。だがそれを実感するのは、誰かが死んでからである。

 残された者たちは、如何にしてその悲しみを癒せばよいのだろうか? そんなことは不可能である。ただ、温かい血のみが、その悲しみをやわらげるのだ。そう、血だ。我らは、血を求めている! 

 

 演説が張伯の頭の中で泳いでいた。これでは少しわかりにくい。反語は強く印象に残るが、使いすぎると理解できなくなる。聴衆が掛け声を挙げられるように、露骨なまでに単純な字句を繰り返す必要もある。誰の血を求めているのか、といった諸点も明確にすべきだ。

 

「いや、血では足りない! それを苦悶や懇願が彩らなければならない!」

 

 家の片隅で、少女が口を結んだまま口述を書き取っていた。字を書くというよりも、筆が踊っているようにしか見えない。硯で休むことがほとんどない。休むにしても烏のように、すぐ飛び出てくる。気が付けば、文ができあがっている。

 

「兄貴っ、郎陵国が曹操の一部隊をおびき出すのに成功したようです!」

 

 王才が駆け込んできた。

 

「そうですか。これで準備は全て終わりました。ここまで走って疲れたでしょう、今は休んでいなさい」

 

「そういたしやす!」

 

そう言うと王才は、来るときよりも早く此処から走り去っていった。

 

 張伯は彼らに、曹操の兵をひきつけるよう指示を出していた。偽の賊の被害をでっちあげ、彼らが調査に向かうところを一緒に挟撃するという策だ。その策に彼らが快く応じた。そしてその謀略の結果が出たのだ。

 曹操の兵を、一部とはいえ動かすことができたのは評価するべきだろう。いきなり背後から襲われ、また助けに来たはずの味方にも襲われれば、たちまちにして曹操の軍は瓦解するだろう。この作戦は成功しなければならない。少しでも損害を出さなければ、誰もが軽んじて、親分の火は消えてしまう。

 

「まったく、随分と()()()()()同盟国です。そうは思いませんか?」

 

 張伯は同盟の要の少女を見たが、うつむいて顔には影が差していた。

 

「不思議なようですね。大敗したにも関わらず、目の前の男はなぜ、自信を持って次の戦いに挑もうとしているのだろうか、と」

 

 少女は頭をわずかに上げたが、何も言わなかった。

 

「まず私たちは負けてなどいません。非戦闘員、それも銃後で安全を享受している者たちが殺されただけです」

 

銃後……?」

 

 集落が襲撃されたからといって、女子どもが全て殺されたわけではなかった。あの化け物めいた女でなくとも、戦うことはできるのである。剣や槍を振るうだけが戦いではない。

 連絡役、諜報、物資調達、治療……。張伯はそれらの役割を全て女性に割り振っていた。だから、集落に暴漢が足を踏み入れた時、外で活動していた女性も多くいた。男女比は確かに偏ったが、死んだのは本当の意味で戦えない者たちだけである。

 

「私たちの拠点は灰塵に帰されましたが、それは逆に言えば、私たちはどこにでも行けるということです。敵が苦労するのはむしろこれからですよ」

 

 集落から立ち上る黒い煙。暗いため此処からでは薄っすらとしか見えないが、ここからでも見えるということ自体、其処での火の強さを物語っている。襲撃から三日、燃やしたということは、もう長居するつもりはないのだろう。つまりはもう移動している。

 

「…………まるで、足手まといがいなくなったから強くなった、って言っているみたい」

 

「その通りです。事実そうなのです。そういったことから目を離してはなりません。現実を見るのです。多くの人間はそれができない。余計な感情に目を曇らされるからです」

 

 此方の足しか引きずらない者はみな死んだ。そして今、味方は身軽になったばかりか、敵への憎悪で燃え盛っている。殺敵者怒也。(敵を殺す者は怒なり)。『孫子』の言葉だ。今は亡き丁程は、軍事を学ぶのにその本を薦めていた。張伯は怒という文字を見たため、たまたまその箇所を覚えていた。

 士気は非常に高い。最早、不利だとか有利だとかを気にしたりはしない。敵を見つけたら真っ直ぐに突っ込む、鬼武者である。いつかの百鬼夜行の再演だ。

 

「この戦い、私たちが勝ちます」

 

 張伯の断言に、能面の少女は驚きを隠せなかった。それは、張伯らが負けると信ずることによる。張伯は、この頑なに心を開かない少女を少し試してみようと考えた。

 

「いいですか。戦いとは、その勝敗が決する前に、決まっているのです」

 

「……夫未戰而廟算数勝者、得算多也」

 

 少女は孫子の言らしき一節をぽつりと呟いた。恐らくそれが、戦う前にその勝敗は決している、という有名な言葉の典拠なのだろう。だが張伯にとって、その内容は気にすることではなかった。

 

 張伯には、豪族、あるいは有力家に嫁に行く者が身につけるべきとされている教えに、それが含まれているのかどうかは皆目わからなかった。もし戦が男の物だと考えられているのであれば、それを学ぶことはむしろ害となるであろう。だが、ここは、張伯の知る国とはいささか異なっている。女の弓で逃げる者の頭蓋骨が貫通するなど、御伽草子にだってありはしないだろう。 

 だが張伯は現実に、己の眼でそれを見た。額から鏃が飛びゐ出、角のようであった。それをやったのは青服の女である。もしかすると弱い者の頭蓋骨は格別軟いのかもしれないが、あの鋭い羽音を聞くに、それはないだろう。張伯の疑心は膨れていた。

 この少女は『孫子』を知っていることをなぜ明かしたのだろうか? それとも、実は孫子の一節というのは嘘で、逆に自分の智を計ろうとしているのだろうか? 表情がほとんどないこの少女の内面を推測することは、張伯には不可能であった。張伯は続けて言った。

 

「託宣だとか、星見ではわかりません。短期的戦い、会戦、決戦の場合、次の四点により決まります。即ち地形、天候。そして自軍、敵軍の情(実情)です」

 

 わずかだが耳が動いて見えた。そこに隠されている感情は、全く読み取れなかった。ぴくりとも眉を動かさない少女に対して、実は感情など存在しないのではないだろうか。そんな疑問が頭をもたげた。いや、それはないだろう。張伯は即座に否定した。初めて家に来た時は、もっと表情がころころと変わっていたはずだ。あの時は少女の幻想が砕けたせいで、たまたま激怒を表したのだろうか? 

 もしかすると。張伯にある予想が浮かぶ。張伯は慎重に、威圧と取られないように言った。

 

「孫子の言うこととどこか異なっていますか?」

 

 沈黙。だがそれが、少女の答えを雄弁に物語っている。

 

「これは忠告ですが――」

 

 張伯は、純粋に思いやりの気持ちを働かせた。常に打算あり気の言葉を身に纏っていた張伯は、今初めて親切心から言葉をかけた。何が張伯をそのような気にさせたのだろうか? 張伯はいつもと話す調子が違うことに気が付いてはいたが、なぜそのように話しているのかまではわからなかった。

 

「過去の人の言葉を信ずるのは止めておいた方がよいでしょう。なぜなら、昔の人は、今生きているのではないのですから」

 

 黄河の流れだって時間をかければ変わるのだ。戦い方であれば、時代と共に、人と共に大きくその姿を変えている。

 

「文(書かれたもの)を重視する人間は非常に多い。丁郎官もまさにそうでした。ですが、文になりそれを私たちが読む時点で、既に大分時間が経っているのです」

 

 この少女は、余りにも盲目的なのだ。有力者の妻として、そうあるよう、育てられている。その教えや生き方に間違いがあるなどと微塵にも思わない。だからこそ、その有力者の家があばら屋であったことに、あれ程深く動揺したのだろう。

 

「今生きている者の言葉でさえ汚泥に塗れているというのに、なぜ過去の人の言葉など信ずることができるのでしょうか? なぜなら私たちは、(過去の人の言には)どんな泥が纏っているのかさえ知らないのですから」

 

 張伯の言葉に、少女は顎に手の甲を当てて考え込んだ。目を下に向けている。

 

「今生きている人の言葉を、信用できると判別するにはどうしたらよいですか?」

 

 中々良い質問だ。

 

「死の淵にある時、あるいはそれに類するような危機的状態にある時、人は着飾るのを止めます。心の底から言葉を振り絞るのです。それこそ、最も信用に足る言葉です」

 

 まさに、今際の丁程の言葉は真実であった。これから死ぬというのに、誰がその後のことを気にするだろうか?

 もし明日にでも死ぬとわかっていれば、今日隣人に優しくする必要などどこにもない。後は野となれ山となれというわけだ。

 

「逆に言えば、死に瀕しでもしない限り、人は着飾り続けなければならないということです」

 

 生きている者は、全く持って自由ではない。死に極限まで近づいたときこそ、自由になれるのだ。

 

「中には自由に暮らしている人もいらっしゃるようです」

 

 張伯はその言葉にも動じることはなかった。少女が、此方を窺うようにちらりと見ていたからだ。張伯は目をあわさず、飄々として受け流した。

 

「余計なしがらみが、人を殺すのです。そのようなものは捨てなければ、生きていけないでしょう。曹操を見ればわかります。あれ程の才がありながら、それでも味方に足を引っ張られる。悲しいことです」

 

 もし曹操が軍の全権を任されていれば、つまり自由に税を徴収したり、外交権を持っていたり、あるいは人の生死を欲しいままにできる権限があれば、張伯らは一ヶ月も経たないうちに蹴散らされていただろう。

 曹操はある種の制限を受けながら、敵と対峙しなければならないのだ。まさしく、天子の機能を侵犯してはならないのだ。

 

「曹操のことを、どう見ていらっしゃるのですか?」

 

 ここまで質問されるのは、久しいことであった。優しい張伯はそれに正直に答えてやることにした。

 

「彼女の名は、二千年の時を経ようとも忘れられることはないでしょう」

 

 正確には、曹操が亡くなってからまだ千八百年も経っていないわけではあるが、そんなことは些細なことであった。

 

「勝てるの?」

 

「勝つのです。彼女さえ倒せれば、最早何の敵もいません。むしろ早いうちにあえてよかった。手勢が大きくなる前に倒すことができるのですから」

 

 もし曹操が一国の主にでもなったら、もう手はつけられないだろう。それを思えば、一軍の将に収まっている今が絶好の機会である。

 

「そも、私以外誰一人として、曹操の脅威を認識していなかったからこそ、あのような悲劇が起こったのです」

 

「……どういうことですか?」

 

 一歩間違えれば、誤解を招きやすい表現だ。言ってからそのことに気付き、張伯は補足する必要にかられた。

 

「名のある女が恐ろしいことは皆知っていました。ですが、その中にさえ彼女は収まらないのです。才女、英雄、天稟。彼女を縛り付けるどのような言葉も無意味なのです」

 

「どうして直接戦っても、見てもないのに、曹操のことがわかるのですか?」

 

 張伯にとっては答えにくい質問であった。彼女、いや彼のことが書かれた本や雑誌は巷に溢れている。ところが、それは今ではない。人間の一生のはるか先である。

 

「……私は確かに見たことも聞いたこともありません。ですが、私は彼女がこれから何を為すのか、何ができるのか、何を遺すのかを知っています。…………彼女がいつ死ぬのかも」

 

 唯一つ、張伯の記憶に存する以外は、何の根拠もない言葉であった。自分のみが知る世界の真実。それこそ己と他人とを決定的に分かつものなのだ。決して教えるわけにはいかない。

 少女は何も言わなかったが、張伯がこれ以上話すつもりがないのを知ったのだろう、膝の近くに置いてある、細長い白い布を手に取った。何か堅い物がくるまれている。

 

「これを渡すように、張大公から申しつけられておりました」

 

 張伯は、初めはそれが何なのかわからなかった。訝しげに白い塊を見つめた。なぜ親分は直接渡さず、わざわざ迂遠な方法をとったのだろうか? 張伯は恐る恐る布の片隅を、親指と人差し指とで持ち上げた。するりとほどけて、ごと、と鈍い音がした。

 

「これはっ……」

 

 やや曲がった刀であった。呉鉤(ごこう)である。張伯はそれをよく知っていた。何回も振るわれるところを見ていたからである。白光りする刃。だがその柄は血で黒く染まっていた。刃の血が拭われているのは、劣化してしまうからだろう。では、わざわざ柄の血を残した理由は? ――理由はひとつしかない。その刀がつい先日誰の血を浴びたのかを知っていれば。

 

「……ありがたく受け取りましょう」

 

 張伯は無表情でそれを手に持った。手の内で転がすと、少女の顔が刃に映った。何かを問い詰めるように、こちらをじっと見ていた。張伯はすぐに刀を動かした。

 

「とにかく、これで準備は整いました。後は戦あるのみです」

 

 そう言って張伯は立ち上がった。少女はどうするだろうか? もしこのまま逃げ出しても、少女には先があるのだろうか? 親元に帰れば、多少肩身が狭くとも生きていけるのだろうか? 何にしても、此方に不利益なことがないようにしなければならない。

 

「敵であれば誰でも殺すのが彼らのやり方なのでしょう? 私もついていきます」

 

 意外なことに、少女は乗り気であった。

 

「わかりました。では、後方で隠れていてください」

 

「いえ、私も戦います」

 

 張伯は驚いて振り返った。少女の眼は強かった。才のない女でもいくらでも戦える、と張伯は信じていた。そして、そのことは誰もが知ることであった。

 そんな張伯でも、実際に少女をどう使えばよいのかわからなかった。箸でさえ持てなさそうなこの貧弱な女に何ができるというのだろうか? 頭が多少なりとも他人より良かったからといって、それがいくさ場でなんの役に立つというのだろうか?

 

「あなたに何ができるというのですか?」

 

「この姿なら、兵を油断させることができます。それで何人か刺し殺せるでしょう」

 

 張伯は身じろきひとつしないでかたまっていた。どうも、この少女の内面がわからなかった。少し脅してからは口答えは減ったが、代わりに別の面倒くささがあった。

 

「敵は残忍です。裸の女の方が、まだ敵を殺せるでしょう」

 

 張伯はため息をつき、言った。

 

「あなたの役目は、見届けることです。張大公の勇姿を」

 

 張伯はそう言いながら、少女の頬を撫でた。これが初めての触れ合いであった。隙間から差し込んだ星明りに照らされ、青くなっていた。けれどもその頬は張伯の手よりも温かかった。

 外から短い足音が聞こえる。その音からして、背丈の低い女の子だろう。張伯は家から出る気は無かった。招く気もなかった。

 

「それまでは、お友達と一緒に居なさい」

 

 張伯を除いて、誰も居なくなった。張伯は仰向けになり、天井を眺めた。小さい無数の隙間から明りが入っていた。天井全体が、まるで星空のようであった。張伯は、その中でも一番大きい明りを見ていた。曹操。彼女を倒さない限り、未来はない。だがそれは不可能ではない。()()、彼女は何度も負けている。違うのは、その負けを最初に刻むのが、自分たちだということだけである。勝たなければ。どんな手を使ってでも。

 

 

 二千年後にも名を残すかもしれぬ女は、来るべき襲撃に備えていた。 

 

 

「敵が郎陵国に向けて移動しているのを発見しました!」

 

「それは確かなのね?」

 

「はい。武器を背負って、こそこそと移動する輩が彼ら以外いないのであれば、ですが」

 

 夏侯惇は言った。

 

「それより、どうして秋蘭を洛陽に向かわせたのですか?」

 

 そのせいで、曹操の戦力は半減したと言ってもよい。ただでさえ少ない軍が分かれたら、ますます弱くなるのは自明の理だ。

 

「宦官らが、天子を交えて祝会を開くためだそうよ。功労者がいないと、祝会は開けないそうだから」

 

 そして、天子のおわす会を欠席することは誰もできない。

 

「なっ! そんなの、罠に決まっております!」

 

 曹操も参内するよう申し付けられていたが、残党の狩りをするため、という理由で辞退していた。それが通ったのは、宦官らが本気で招こうと思ってなどいなかったからである。とにかく、それだけの力が曹操にはあった。だがさしもの曹操も、誰も送らないでいるということはできなかった。

 実際、これは罠であろう。下手な者を送れば、厄介な問題を背負うことになる。例えばその者に褒美を与え、離心の心を植えつける、といったことが考えられる。だからこそ、親愛している身内を送らなければならなかった。

 

「そうね。でも、そうでもしなければ彼は動かない」

 

 曹操の意図は、その罠さえも利用することにあった。

 

「まともにやりあう気がないのだから、自分から出てくるこの絶好の機会を狙うしかないわ」

 

 曹操は、己を囮にする気であった。

 

「彼は迂遠な手で敵を倒すのが好きみたいだから、私も真似しただけ。こんなにも上手くいくとは思ってもみなかったけど」

 

 夏侯惇はすぐに飛びついた。

 

「しかしこのままでは奴らの罠にかかります!」

 

「その罠というのは何を指しているのかしら?」

 

「決まっております! 郎陵国が知らせた、我らを殲滅する策のことです。全く、我らも舐められたものです」

 

 夏侯惇の言うことは正しかった。かの国が賊とつながっていることは、足の報告からとっくに知っていた。そしてその国は裏切って、此方についた。

 誰も敗北している、落ち気味の山賊などに付き合いたくなどはないからだ。この策が実行されれば、逆に今度は賊の方が挟撃されるだろう。最も実行されれば、の話だが。

 

「彼は果たして、彼らの裏切ることを予測していないのかしら?」

 

 曹操の問いかけに、夏侯惇はたじろいた。

 

「彼の本当の狙いは、同盟国との挟撃ではないわ。その間の狭い山道での奇襲よ」

 

 曹操の眼は鋭かった。卓の上には、黒で覆われた地図があった。高さ、位置、距離。他にも天候までも記載されている。

 曹操は、すでに三点計測法を知悉していた。それだけではない。秘密裏に部下を育成し、測量を可能にし、あまつさえ地図を作らせていた。曹操は人知れず感謝の念を覚えていた。東観(後漢の宮中図書館の総称)に残されていた、名前さえ忘れられた技術士の製図法。これがなければ――

 

「事前にこのことも知らなければ、私たちはここで殺されていたでしょうね」

 

 同盟国を信用せで、その裏切りを利用する策。曹操の智勇、そして詳細な地図。どちらかが欠けていたら、死んでいただろう。罠に罠を重ねる策。人は一度罠に気が付くと、安心してしまう。それを、この男は利用していた。曹操は、冷静に安心の末路を思い浮かべていた。

 

「裏切りのおかげで、私たちは敵の動きが読めて、安心してしまう、というわけですか……」

 

 夏侯惇はぽつりとつぶやいた。

 

「さて、それじゃあ、引導を渡すことにしましょう。私も前に出るわ」

 

 夏侯惇が何か言おうとするのを、曹操は手で制した。

 

「将が前に出なければ、兵は着いて来ないわ。それに、彼は随分と私に入れ込んでいるようだから、姿を見せるくらいは良いんじゃないかしら?」

 

 兵者詭道也、怒而撓之也――。曹操は目を瞑ったまま、高々と唱えた。怒った彼らを、姿を見せることでかき乱そうというのだ。

 

「しかし、あの男が、他にも何か奇妙な策を用いるのではないでしょうか?」

 

 夏侯惇は尋ねた。

 

「軍師には指揮官よりも多くの責が課せられているの。もし軍師が予測していない事態が起きて、それで何かしらの被害を受けるのなら、それは軍師の責に当たるわ」

 

 曹操の表情を、夏侯惇は前に一度見たことがあった。いつか、叔父を罠にはめたことを自慢した時の顔であった。彼は曹操の行いを悪くとることにかけては誰にも劣らず、母に告げ口ばかりしていた。そのため、ある日曹操は目の前で苦しんでみせて、「卒中惡風」と言ってやったのだ。それを信じた叔父は、手痛いしっぺ返しを食らうことになった。

 信用がなくなると、人は例え事実を言っても信じられることはない。それは曹操が予測を立て、そして実践を通じて身につけたことであった。

 

「彼が罠に気が付いて何か言ったとしても、もう誰もそれに着いていこうとはしないわ」

 

 曹操の手には力がこもっていた。だが、それはすぐに消えうせた。自身が敵と認めたはずの者が、こうもあっけなく翻弄されているのは、安堵と同時にどこか物足りなさを感じさせた。

 

 敵の襲撃などいくらでも予測できるはずだ。襲撃を受けるのは仕方ないとしても、その被害を和らげる程度のことはあらかじめできたはずなのだ。物質的な側面で言えば、門を二重にしたり、堀を深くしたり、見張り台を立てることがそれである。そういった対策を怠ったつけを彼は払うことになった。それだけである。

 

「彼は襲撃が予測できず、そして独りだけおめおめと逃げたのよ。殺されて当然。むしろ死んでいないのがおかしい」

 

 曹操は左ひじを卓につけ、手を頬に当てながら考えていた。曹操の興味の炎は消えていた。目はどこにも向いていなかった。どこか遠く、あるいは虚空を見つめていた。

 

「きっと、彼はそれでも生きているからこそ、私の敵足りえるのでしょうね」

 

 曹操のため息を、夏侯惇は立ったまま見守っていた。

 

「でもそれももう終わり。春蘭、彼らを全員殺しなさい」

 

 陽射しが曹操の卓に置いてある、一枚の紙を照らしていた。そこには、散々逃げ回っていた男のことが、余すことなく書かれていた。




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