張伯の後ろを、一人の女の子が小走りにつけていた。張伯はさらに歩を進めるが、女の子も負けじと追いすがった。張伯は独りになりたかった。親分の名誉を汚してしまったこと。それだけが張伯の頭にあった。
以前から真名を早く決めろと、言われてはいた。しかし、張伯はそれをすっかり失念していたのだ。名前など、他人と区別さえできればどうでもよいと考えていたからである。張伯は己の至らなさを悔いていた。それは、誰にも見られず、独りでやるべきことだと信じていた。自分が間違っていたと、他人になど絶対に告白するべきではない。それは他人からの自分への評価を失墜させるに過ぎない。張伯は、これ以上己が蔑まれるのを恐れていた。
張伯は既に家を三回通り過ぎていた。それは女の子に、自分の家が知られないようにする張伯の努力の賜物であった。初めに口を開いたのは女の子であった。
「ねぇっ!」
張伯はびくっと身体を震わせた。いきなり後ろから大声で話しかけられれば、誰でも焦るに違いない。だから、怯えた挙動をとっても不思議ではない。
「一体、いつになったら家に着くの! さっきから回ってばっかり!」
張伯は答えたくなかった。何も言わず別れたかった。だが女の子は腕を組んで、赤い頬を膨らませて、仁王立ちしていた。可愛らしい、桃色の履物が足を包んでいた。地面に落ちた影は、暗闇と区別がつきにくくなっていた。
「ねぇっ!」
張伯は、また体を震わせた。もう一度怒るだろうと思って身構えていたにも関わらず、女の子の声はそんな構えを一砕きにした。張伯は何も言わず、指でさした。それは自分の家であった。
すると女の子は、はっと息をのみ、しばらく動かなかった。張伯はその隙に逃げ出そうかと思ったが、体がこわばって動けなかった。しばらく、沈黙が流れた。女の子は顔を手で隠し、膝から崩れ落ちた。泣いているのだろう。袖で隠した泣き声を張伯の耳は聞き取った。張伯は何も聞きたくなかったが、何か聞かなければならないような気がした。
「何か、ご不便がありますでしょうか?」
そう言って、張伯は己の家を見た。他の家と変わった様子は見られない。
「どうして……どうして……」
女の子は張伯の質問に答えなかった。張伯は狼狽した。女の子が何を疑問に思っているのかわからなかった。そのことについて聞く気力は、もう残っていなかった。張伯は、丁重にもてなすよう、親分に言われていたことを思い出した。
「この家は、ひどいものでしょう。ですが、安心してください。必ずや、もっと壮麗な家をご用意いたします!」
張伯は空手形を切った。女の子はまだ泣いていた。張伯はますます焦りをつのらせた。
「私は、この家に住みません。ですから、ご安心ください。私はあなたに対して、何か求めたりはいたしません。むしろ、ここでの暮らしが快いものになるように、ここが第二の故郷になるように、誠心誠意努力いたします!」
女の子はまだ顔を下に向けていた。気のせいでなければ、さっきよりも泣き声が大きくなっている。張伯は、これ以上何を譲歩すればよいのかわからなかった。張伯は黙って家に入った。そして、中にある、汚れた衣服などを全て出すと、女の子に言った。
「家の中は少しだけ汚れておりますが、食料もありますし、水もこの壷に入っています。もし何か御用がありましたら、手近な者にお尋ねください」
張伯はこれ以上長居したくなかった。張伯は荷物を全て手で抱えると、女の子を置いて飛び出した。女の子の機嫌を損ねるのはよくないと張任が考えているのだから、周りの者も自然と助けるだろう。
集落の外れには、やや開けたところがあり、その真ん中には大きな岩が一つあった。張伯は独り、岩の窪みにもたれかかっていた。横には荷物が置いてあった。張伯の私物は、片手で持ち運べる程度のものしかなかった。張伯は膝を抱えて俯いていた。星々のきらめきで、岩の周りの、緑色の草々が照らされていた。家にいて気が付いたら、草の上に横たわっていた。であれば、また横になっていたら、戻れるのだろうか。
草を踏みしめるが聞こえた。張伯はそれが誰なのか、たちまちにわかったが、何も言わなかった。
「お~い、生きてるか?」
張伯は何も言わなかった。彼に対しては、初めてのことであった。彼は張伯の隣に座った。また酒を飲んでいた。石の硬い感触で、背中が痛かった。
「…………なぜ、私のところに?」
しばらくして、張伯は言った。
「ようやく口を開いたと思ったら、それかい。そりゃぁ――」
「私の居所がわかったということは、人々に聞いて回ったということでしょう。それでしたら、女の子の様子についても知っているはずです。であれば、真っ先に女の子のところに行くべきです」
張伯は親分にだけは会いたくなかった。どの面を下げればよいのかわからなかったからである。帳簿係としての顔、勝利の立役者としての顔、丁程の弟子としての顔。それら全てが、この失態の前には役に立たなかった。
「お前、いつから俺を命令できる立場になったんだ? うぅん?」
親分が張伯の胸倉を持ち上げた。会談の時ほどは痛くなかった。
「いいか、俺はなぁ、ここの奴らが安心して生きられるんだったら、それでいいんだよ」
親分は張伯から目を離さなかった。
「その中にお前も入ってるに決まってるだろう!」
親分の声が張伯の耳に木霊した。張伯は知らず涙を流していた。本当であれば、女の子の元に行くのが一番だろう。もし不興を買えばまずいことになるのだから。自分でそう言ったにも関わらず、張伯は、親分が来てくれたことが嬉しかった。気付けば、張伯は親分に勧められて酒を飲んでいた。
「おれはなぁ、前にも言ったかもしれなねぇけど、貧しい出なんだ。だから、何とかして這い上がろうと、必死に勉強したんだ」
親分は、確か益州か揚州の生まれだったはずだ。ここからだと遥か南に行かなければならない。
「でも、ある時、大きな星を見たんだ。あんまり上手く言えねぇけど、本当に綺麗だった。尻尾みたいなのがあって、泳いでるみたいだった」
張伯は親分の声に耳を傾けていた。
「その星が落ちてったんだ。誰に聞いても知らねぇって言うけど、俺は絶対に見たんだ。その星が気になってな。それを追っかけてるうちにここに着いたんだ」
意外だった。親分が、まさかそんな幻想の出来事に惹かれてきたというのが。だがこれも、ここでは普通なのかもしれない。なにせ仙人が山を動かすような国だ。このくらいのことはまだ可愛い方だろう。
「お前を見た時、俺はこう思ったんだ。あの星はお前だと」
「えっ?」
張伯は思わず親分に聞き返した。いきなり星が自分だと言われたのも衝撃的ではあったが、親分の言が正しいのならば、星が現れたのは何十年も前のことだ。
「信じられねぇよな、こんなの。でも、本当にそう思ったんだ。だから、お前は、天の子分かもしれない」
「いやいや、何ですか、天の子分って」
「天から来たんだから、天の子分に決まってるだろうが」
その子分はどこから来たのか、張伯は聞きたかったが、その機会を逸した。
「でもよぉ、そんなに間違ってはいないはずだぜ。何てったって、お前、とんでもないようなことばっかしてるからな」
張伯の顔は一気に暗くなった。ここは、余りにも違いすぎる。張伯は頭をつかまれ、もみくちゃにされた。
「そう下を向くな。お前は変わってるが、俺たちを大事に思ってのことだろう。だったらいいさ」
親分は張伯の背中を叩いて言った。
「武器を渡すなんて、とんでもねぇことだ。でも、お前がやるんだったら、何かそれが必要なことだったんだろう?」
張伯はまだ涙を流していた。今日一日で、親分の名誉、評判はどれだけ変わっただろうか。弟子の不始末は子の責任だ。子分の責は、親分に降りかかる。
「一つ質問があります」
張伯は赤い目で、親分を見据えて言った。
「親分が私を助けたのは、私が、星だったからでしょうか?」
親分のことは、星明りがあるにも関わらず、よく見えなかった。
「そんな訳ねぇだろ。俺はなぁ、はぐれて、浮かない顔をしてる奴は放っておけねぇんだ。丁程だってなぁ、酷いもんだったぜ。今にも死にそうな面してなぁ、山の中を這いずってたんだ、こんな風にな」
不謹慎だと思ったが、張伯は親分の身振り手振りに思わず笑ってしまった。腹の中が熱かった。酒を飲みすぎたのかもしれない。
「だからなぁ、お前は俺の子分だし、星なんだから、これからはもっと上手くやれよ!」
親分が張伯の肩をたたいた。
「いえ、なんですかそれは。子分で星って、意味がわかりませんよ」
親分は大きく笑っていた。張伯の笑いも大きくなった。
一しきり笑った後、張伯と張任は草むらに寝そべっていた。
「泣く子も黙る親分に、一つ聞きたいのですが」
張伯はいつもの調子で言った。
「あの女の子は、なぜ泣いていたんですか?」
張任は右手を枕にして張伯の方を向き、二本の指を立てた。
「お前には、二つ間違いがある」
張伯は思わず息を呑んだ。
「一つ。まずあの女の子は今も泣いている。そして二つ。こっちが肝心なんだが、お前はまだ女の子の名前を知らない」
図星であった。妻となったというのに、その妻の名前を張伯は知らなかった。恐らく何度か名前は出たはずだが、気にも留めていなかった。
「ええと、それじゃぁ、名前を教えていただけ――」
「そりゃだめだ。張白、お前が自分で聞くんだ。そうじゃなきゃ意味がねぇ」
親分の言う意味とは何か、張伯にはわからなかった。しかし、赤い表情が真剣になったのを見て、その必要があることはわかった。
「では、なぜ今も泣いているのか、教えてくださいますか?」
「本当だったら、お前が自分で知るのが一番なんだけどな。できそうにないから、教えてやる。お前が頼りないからだ」
できそうにない、という言葉に一瞬張伯はつまったが、それもそうだと納得した。
「いいか。そりゃあ、あの女の子にとっては不本意な結婚かもしれねぇ。でもそれを夫であるお前が支えてやれば、不満はなくなるだろう」
「しかし私は食料や水を与えましたし――」
「要はほったらかしにしたんだろ?」
さしもの張伯も、親分に詰め寄られれば、告白するしかなかった。張伯はうなだれた。親分の前では、素直になれた。
「仰る通りです」
「あの女の子は、とんでもなく嫌だったかもしれないが、期待もしていたはずだ。戦で大きく勝利した、すごいやつだってな。
でも来てみたらどうだ。軟弱で、どんくさくて、何も分かってない、赤子みてぇなやつで、人の言うことは聞かないし、そんで」
「すいません、もう勘弁してください」
きっとこれは、親分が常日頃から思っていることなのだろう。
「まぁ、だから、碌に案内もしてくれないし、家もぼろいしってんで、嫌になったんだろう」
親分は言った。
「でも、家については我慢してもらうしかねぇ。ただでさえ人手が足りねぇからな。だから、それ以外のところを何とかするんだ」
「はいっ! わかりました。誠心誠意努力いたします!」
親分はため息をついた。
「いいか、お前、それあの嬢ちゃんに言ってないよな?」
張伯は何も言えなかった。一瞬戸惑ってしまい、それで張任には十分であった。張任は長いため息をついた。
「やっぱり、お前は、何というか、駄目だなぁ」
張任は頭をかいた。張伯も頭がかゆくなった。
朝日が昇っていた。張伯が目を覚ますと、張任はおらず、水と食料が残されていた。張伯はまず川に行って体を洗った。張伯のやることは、もう決まっていた。張伯は荷物を全て持つと、集落に向けて真っ直ぐ歩いて行った。
張伯は家に着いた。中では、女の子が正座していた。泣きはらしたのか、目の周りはすっかり変わっていた。
「おはようございます」
張伯もまた、荷物を隣に置くと、正座した。
「私の姓は張、名は伯、字は白といいます。真名は、持っておりません。是非とも張白とお呼びください。名前を教えていただけますか?」
張伯は女の子が応えるまで黙っていた。じっと此方を見ていたが、案外早く答えた。
「名が伯だなんて変なの。おまけに真名もないなんて」
女の子は鼻を鳴らした。
「私の姓は劉、名は瑛、字は恵蘭……真名は教えない」
「いえ、ありがとうございます。ところで私は何とお呼びすればよろしいでしょうか?」
張伯は、もしかしたら失礼に当たるのかもしれないが、正直に聞くことにした。それが何も知らない自分には一番だろう。劉瑛は戸惑ったが、やや顔を歪めて、
「劉瑛でいい」
と言った。真名を交わすというのは、相当慎重になされなければならない。だが逆に、それがなされないことも問題の元である。恐らく普通であれば夫婦は真名を交わすのだろう。ということは、真名を交わさないのは……。張伯は無理に真名を聞こうとはしなかった。代わりに、別のことを聞いた。
「それでは劉瑛、一緒に朝食をとりませんか?」
そう言って張伯は、隣にある荷物の中の袋を指差した。
「……朝食を運んでくるっていうの、あなただったの」
張伯の元に置かれた食事は、一人分にしては多かった。張伯はその意を察していた。
「親分って言われている人、すごく優しかった」
「ええ、そうでしょう。なんせ親分は、『泣く子も黙る親分』なんて言われていますから」
劉瑛は黙って張伯を見た。張伯は突然会話が中断したことにうろたえた。
「これから一緒に住むの?」
劉瑛が尋ねた。張伯は、少し押し黙った。
「ええ、そうなります。昨晩は、私が突拍子もないことを言いましたが」
「もし私が、一人で住めるんだったら、故郷には悪いことは言わない、って言ったとしたら?」
張伯は固まった。劉瑛は、己の置かれている状況を、よくわかっている。
「…………例えそうであったとしても、私と劉瑛が夫婦であることに変わりはありません。ですから一緒に住むということが必要であるということに、賛同の意を示しては下さらないでしょうか?」
劉瑛はそれ以上何も言わなかった。張伯もである。
張伯は鍋に火をかけた。熱くゆだった水に、穀物をいれた。それを器に移し、二人で黙って食べた。日の光に、食べ物が照らされていた。
「おいしかった」
劉瑛がぽつりとつぶやいた。だいぶ気を許しているようだ。張伯は尋ねた。
「ところで劉瑛に一つ聞きたいのですが、劉備という名を耳にしたことがありますか?」
劉瑛は眉をぴくりと動かして、張伯を見た。
「知らない。劉なんて姓の人はたくさんいるから……どんな人なの?」
「人をひきつける才があります。誰もが彼……彼女のために命を捧げることを惜しまないでしょう」
「女性? 会ったことはあるの?」
「会ったことはありませんがよく知っています。恐らくですが女性です」
張伯は片づけをしながら答えた。曹操が女性であるのなら、劉備も女性であろう。とても不思議な論理だが、それがここでは正しいのだろう。
「どうしてその女の人が気になるの?」
劉瑛の口調にはやや棘があった。張伯はここで、己の選択が誤っていたことを悟った。女性の前で他の女性の話をしてはいけないというのは、古今共通のことなのかもしれない。それに今聞く話題でもなかった。
「……怖い人だからです。彼女は多くの人を従えます。その中には才ある人も多くいるでしょう」
「曹操よりも?」
張伯の手が止まった。張伯は、己が曹操について知っていることを話すかどうか、換言すれば嘘をつくかどうか、選択を迫られた。自分がある程度曹操について知っている、ということはすでに知られている。
「彼女はまだ多くの人を従えてはいません。ですから、曹操の方が、軍を率いている分、強いと言うこともできるでしょう」
劉瑛は皿を洗う手を止め、張伯を真っ直ぐ見た。
「張白。あなたって、誤魔化す時は言葉を飾ったり、曲解したりするのね」
「……それは多くの人がすることです。劉瑛、あなたは黙るのかもしれませんが」
張伯は心のどこかで劉瑛を侮っていたのかもしれない。小さい女の子だと。だが劉瑛の観察は鋭く、そして自分よりも遥かに常識をわきまえている。張伯は……恐れ始めていた、この小さい女の子を。もしかすると、才ある女性とは……。
「言っとくけど、私は曹操みたいな化け物じゃないから」
劉瑛の指摘に張伯はうなずけなかった。その観察眼を脅威に思ったからである。
「こんなの、誰でもわかるから。あなたが、できないだけ」
張伯は言葉に詰まった。劉瑛はそれを冷たい目で見ると、
「弱虫」
と舌を出し、遊びに行くといって、家を出て行った。張伯は、怒る気にもなれなかった。何はともあれ、劉瑛とは少なくとも敵対関係にあるわけではない。まだこの集落のために動いてはくれないだろうが、それでも今の現状を良しとしよう。
それに考えてみれば、どうしてこの集落のことを悪く言えるのだろう? 手紙を届けるにしても、誰かに頼む必要がある。であれば、悪口など、とてもではないが書けないだろう。
一人張伯は、家の中で横になっていた。考えることは山ほどある。まさか曹操が女性だなんて、誰が考えるだろうか? それに同盟を組んだにしても、それが有効に働くかどうかはまだわからない。己は考えなければならない。それが、弱虫の青虫にできる唯一のことなのだから。
天文中:
彗星見東方、長六七尺、色青白、西南指營室及墳墓星。彗星在奎一度、長六尺、癸未昏見,西北歷昴、畢、甲申、在東井、遂歷輿鬼、柳、七星、張、光炎及三台、至軒轅中滅。營室者、天子常宮。墳墓主死。彗星起而在營室、墳墓,天下有大喪。
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