軍事史に名を遺す人間、文学史に名を遺す人間、そして歴史に名を遺す人間。全てを満たすような人間がいるだろうか? しかし、物事には例外というものが必ずある。曹操は、その例外であった。何度も敗北したからといって、誰がその功を否定できるだろうか。長城で詠まれなかったからといって、その詩が辺塞詩の傑作などではないと、誰が言えるだろうか。曹操は、いや曹操こそが歴史に名を遺すに足る人物であった。……蓋しこの時点では、曹操は市井の人間の一人に過ぎない。まだ一人しか殺していない。だが、曹操の、才の片鱗は、すでに現出しつつあった……。
「華琳様、何をなさっていらっしゃるのですか?」
夏候惇は、曹操を真名で呼ぶことを許されている。しかし、真名で呼ぶということは、逆に言えば敬称をなくすということでもある。役職名や字を虚として退けるのが真名である。
彼女はそれを受け入れられなかった。真名で呼ぶと、なんだか敬意が失われるように思えたのである。これは全く、彼女の感覚に拠るものであった。ともあれ、だからこそ彼女は、真名に様をつけるという、何とも矛盾するような奇称を用いたのであった。
「春蘭、堅苦しい言い方は止めるようにいったはずよ」
「申し訳ありません。以後気をつけます」
曹操は、ため息をついた。春蘭の振る舞いはいつものことであった。それでも直らないのは、自分に対して、胸の内でどこか引け目を感じているからだろう。主に対して、それに恥じぬ振る舞いができているかどうか、常に考えているのである。それだからこそ、曹操は春蘭が愛おしかった。
「これを見なさい」
曹操は春蘭に文(書かれたもの)を手渡した。春蘭は、それがほぼ真っ黒に見えることに内心顔をしかめたが、それをおくびにも出さずに文を見た。
「これは……李然の業務記録ですか」
「外れ。これは朝廷に出すものではなくて、私事のものよ」
曹操は悪戯気に微笑んだ。
「えっ! こんなにびっしり……」
「でなければ簡単に手に入らないわ。これを見るに、李然はとっても几帳面な人間だったようね」
曹操は、李然の文を見た。兵の様子、敵の軍容、朝廷の催促……。あらゆることを書き留めておくその頑固さには舌を巻くが、それだけであった。ただ記録するだけなら、そんなものは部下に任せればいい。それをしないのは……。文を持つ手に力が入った。
「李然は、自身の兵を信用していなかったようね」
「しかし、すぐ逃げ出してしまうような軟弱者、信じることなどできますまい」
春蘭は骨の髄まで武人であった。そう、その言葉が自身の敬愛する主の言に逆らっていることに気付かないほど。
「それは違うわ。兵は、将が信を置いていないことがわかると、その力を充分に発揮することは絶対にない」
曹操は、確信を持って答えた。孫子曰く、視卒如嬰兒、故可與之赴深谿、視卒如愛子、故可與之俱死。(兵を見ること嬰児の如くすれば、兵とともに深い谷に行くことができる。兵を見ること愛子の如くすれば、兵とともに死ぬことができる)。
この後の句は、愛しむだけであってはならないと続いている。李然はしかし、余りにも兵を信じていなかった。
「兵が軟弱なら、鍛えれば良いだけ。それを怠って嘆いてばかりでいるのは頂けないわ」
曹操は続けた。
「ただ、李然にはそんな時間はなかった。となれば、目先の多くの兵に釣られず、自分の最も信用する兵だけを連れておけばよかったのよ」
曹操はそう結論付けた。李然は兵の量に気をとられ、質を見失った。それが李然の敗北につながった。それだけではない。善用兵者、修道而保法、故能爲勝敗之政(善く兵を用うる者は、道を修めて法を保つ。故に勝敗を自由に決することができる)――李然がもし己の亡くなることを想定して兵に指示を出していれば、(軍が)負けることはなかっただろう。
「流石は華琳様です! 凡百の将では、単純な数の差に気をよくしてしまうでしょう!」
「そうね。でも、私が一番気になるのはそこじゃない」
曹操は文に鋭い眼を向けた。
「李然は、己の敗北を予見していた。なのに一度は勝利を手にできたのはなぜかしら?」
曹操は、春蘭を試すように言った。春蘭は頭をひねっていたが、日頃の教練の賜物か、正解を言い当てた。
「それは賊に間者が潜り込んでいたからです!」
「ええ、そうね。でも間者といっても、内閒と呼ばれる、敵の内側でそれなりに地位のある者よ」
故用閒有五、有因閒、有内閒、有反閒、有死閒、有生閒、五閒俱起、莫知其道、是謂神紀、人君之寶也。
因閒は郷閒であり、その郷閒には郷人を用いる。そのため、(内閒ではなく)郷閒と言ってもよいかもしれない。併し曹操は違った。一介の山賊に内閒、まるで官位を持つ者がいるかのように扱った。ただの山賊ではなく、漢には及ばずとも、その様相はかなり整っている(秩序だっている)と見なしていた。
春蘭は考え込んでいた。それが何を意味するのか、まだつかめていないようだった。やはりまだ兵の指揮に不安が残る。ただし、間者がいたおかげで首領を捕らえられたことに気がついたのは評価できる。
「少し聞き方を変えるわ。李然は、首領を捕らえたけども、その後に己が負けると考えていた?」
春蘭は即答した。
「いえ、そんなことは露ほども思っていなかったでしょう。むしろ、錦を飾る準備を考えていたはずです」
「ええ、そうね。じゃあ、内閒は、負けると考えていた?」
春蘭は少し考えたが、同じく「否」と答えた。
「負けるとわかっていて、首領を売るようなことはしません」
ここまで考えられれば、正解まではあと一歩だ。曹操は更に質問した。
「ええ、その通り。わかるかしら? 李然も内閒も負けるとは考えていなかったのに、負けたのよ。もちろんそこには油断があった。でもそれだけかしら?」
曹操は春蘭に顔を近づけた。春蘭は目を白黒とさせていた。
「彼らが予期しないことが起こったのよ。それが何なのか、確かめる必要があるわ」
「しかし、それでしたらわかります。首領の右腕の勇腕によるものです」
曹操は、李然が戦うと聞いた時から、賊の仲間を金で買収していた。つまり、間者に仕立て上げていた。それは決して自身が戦うことを予期したためではなく、李然の動静を知るためであった。宦官に与さないといえども、張り合う必要のある人物である。調べるに越したことはない。それが、今回は大きく役に立った。
「……私は、そうは思わないわ」
春蘭は逡巡した。答えは絞られていた。
「まさか、最近首領に拾われたという人でしょうか?」
曹操は何も言わなかった。それによって、肯定の意を示したのだった。春蘭は、当然納得していなかった。
「しかし、
曹操には予感があった。
「彼はとても嫌われているみたいね。でも春蘭、考えてもみなさい。もし何もできない人間なら、どうしてそこまで嫌われるの?」
ある予感。
「私の母は、かなり陰口を叩かれたわ。金で官位を買っただとかね。でも、もし母が金を持っているだけだったら、彼らはそこまで言わなかったはずよ」
そう、彼こそが自身の敵だという感覚。
「嫌われるというのは、それだけ注目を置かれているということよ。ただ単に首魁の男妾というだけでは、そこまでならない」
曹操は思わず舌なめずりをしたが、それを春蘭に見とがめられた。
「華琳様……。まさか、その者が白い肌を持っていて、容色に恵まれているということだからというのでは……」
「あら、だから何なのかしら?」
曹操の目が妖しく光る。
「春蘭、今晩寝所にいらっしゃい。可愛がってあげるわ」
「な……華琳様」
春蘭の顔がぱっと赤くなった。曹操は春蘭の手を取ると、真っ直ぐ寝台に向かった。卓の上に置かれた李然の文。その端も、薄っすらと赤くなっていた。
曹操は天才であった。己が殺した者のことなど気にせずにいられるくらいに。春蘭もそうである。主人のためなら何をしようとも意に介さなかった。命乞いをする者など、曹操にとっては醜悪で、みすぼらしさの体現者であった。彼は権威を傘にして、いや、権威を借りて脅そうとした。それが通じないとわかるや、たちまち糞尿を垂れ流しながら、助命を請うた。
造五色棒縣門左右各十餘枚……。曹操は、自身の監督する門に、警告の棒を掲げていた。不幸なことに、彼にはそれらが見えていなかったのだ。有犯禁者,不避豪彊,皆棒殺之。(だからこそ、その身に何度も(それらを)こすりつける羽目になった)。
狐は死んだ。問題は、虎であった。蹇碩という名の虎は、京師でも大きな権力を持っていた。それに宦官でもあった。
今まで曹操は宦官の仲間だと思われていた。今やその宦官の叔父を殺した曹操は、宦官にとって敵であった。身内だと思っていた者に対しての怒りの方が、敵に対するものよりも激しさを極める。曹操が李然の後任として、賊の退治に赴くよう勅命が下ったのも詮無きことである。肝腎なのは、曹操はその全てを予期していたということである。
「華琳様……」
春蘭がぽつりと声を漏らした。春蘭は目を手で隠しながら言った。
「なぜ、殺したのですか?」
曹操が殺したのは、まだ一人しかいない。
「それが必要だったから。それ以外にないわ」
曹操の即答に、春蘭が答えるまで暫しかかった。
「華琳様のお考えはよく承知しています。ですが、忌々しいとはいえ、宦官と手を組んだほうがより早く栄達を望めるのではないでしょうか?」
これは、春蘭にとって、できれば受け入れて欲しくないことだ。今から宦官と手を結ぶのが不可能なわけではない。やりようはいくらでもある。春蘭は、主のためを思い、口に出したのだった。
「それはないわ。私の目標はわかっているでしょう」
曹操は春蘭の手を持ち上げた。
「今の漢は、余りにもゆがんでいる。私は、それを正したい。でも――」
曹操は手のひらを上に向けて言った。
「宦官と一緒になっていては、そんなことはできない」
曹操は天蓋を見ながら、つぶやいた。
「閹豎之官古今宜有、但世主不當假之權寵使至於此。旣治其罪當誅元惡一獄吏足矣」
曹操の手は、赤く汚れていた。手が赤くなったのは、文を読んでからであった。春蘭には、それがもっと前からついているような気がした。春蘭は曹操の親戚であり、生涯仕えることを誓っていた。曹操のために働くには、曹操の考えを知らなければならない。だが、春蘭にはそれがよくわかっていなかった。しかし春蘭は未来について、今の漢について、曹操が何を不満に思い、変えようとしているのかは知っていた。
ただ、曹操が宦官についてどう思っているのかは、よくわからなかった。曹操の祖父は宦官であった。曹操は、自然宦官であるはずはないが、それでも宦官の一員として見なされていた。そのことを曹操が不満に思っていることを、春蘭は知っていた。
では曹操が宦官を敵だと思っているのか? それについてはわからなかった。今の言葉を聞くに、好むと好まざるに関わらず、必要だと考えているのは確かだろう。では、他ならぬ華琳様は、どうお思いなのだろうか。果たしていつかその思いを、自分に打ち明けることはあるのだろうか。春蘭は曹操の胸をぼんやりと見ながら、眠りについた。
一方で、曹操は、
賊には、賊で力を持つものには、男しかいない。
もし女が一人でも居るのなら、間者が知らせるだろう。あるいは戦の時に、誰かが見ているはずだ。李然は男だったのだから、あの戦は男たちの戦いであった。それにたまたま賊が勝っただけである。
もし官の将軍が女であれば、将軍として取り立てられるような女であれば、決して敗れはしなかったであろう。男だったから、敗れたのだ。では結局、何が引っかかっているのだろうか?
「何かが、何かがおかしい……」
いや、そもそもなぜ自分は男妾を敵だと思ったのだろうか? 賊で権力を持つものに、男しかいないのは不自然ではないのだ。 ……その答えは、既に自分が言っている。一度奇襲を受け敗北したのに、それを覆すような大戦果を収めたからだ。しかも来て間もない、春蘭に言わせれば
曹操ははたと気付いた。この話は、それが女であれば何の疑問も抱かない。男だからこそ大事なのである。普通の男に、首魁のいなくなった賊を率いて勝利をもたらすことなどできるだろうか? そもそもそのような判断を下すことができるだろうか? 否、そんなことはできはしない。捕らえられた首領を取り返し、ついでに敵の将軍をぶっ殺す。こんなことができるのは、普通は女しかいない。
曹操の分析はそこに終わらなかった。今度は、なぜ自分がそんな簡単なことに気が付かなかったのか、ということを考え始めた。男同士の戦い……李然……奇襲……。
「なるほど。私は、知らぬままに、男同士の戦いというので、戦に対する注意を失っていた」
曹操は独り言を言った。
「おまけに自分が
曹操は反省したのである。反省というのは、自分の今までの行動を省みることである。それができるものは少ない。なぜなら、自分の行いなど、自分の性質など、誰も注視したくないからである。自分の知らない面にどれだけの人間が自力でたどり着けるだろうか。それこそ、天才でもなければ不可能であろう……。
曹操は女性に注視する余り、男たちの戦いを、無力な者同士の争いだとおざなりにしていた。戦う兵は、圧倒的に男性の方が多い。しかし曹操は、それを率いる将は、兵を蹂躙できる人間は、女しかいないと考えていた。
だが今回の戦いは明らかに、女性の将と同等の働きを、男がしているのだ。これを見逃していては、いつか足をすくわれていただろう。男だからと軽視して。
曹操はこの日、
李然が破れてから、わずか一週間後のことであった。