魔の国侵攻――三ヵ月目
カレアの愛馬を失ったのは思った以上に痛手であった。
如何に優良馬といえど積み込める重量には限界があり、兼善は銑鉄に二頭分の荷を運ばせ自身とカレアは徒歩での移動を提案した。本来ならばカレアと二人乗りを行い、その背に豊満の象徴を背負いたいと思っていたのだが、現実とはままならないものである。
山脈地帯に入ってから二ヶ月目、そろそろ雪の冷たさや景色にも目が慣れてきた頃。兼善とカレアはゆっくりと時間を掛けて砦の周囲を偵察するトロールやオークのルートを割り出し、発見されないように細心の注意を払って侵攻を再開した。
その甲斐あってか、特に戦闘らしい戦闘が無いまま砦周辺を抜け、現在は三つ目の山の中程まで進んでいた。追跡を避ける為に足跡を定期的に消して方向を知られない様にしていたが、どうやら杞憂だったらしい。
カレアの体調も全快し、その仲も良好だ。
少々良好が過ぎるかもしれない、しかし長年の夢を叶えた幸福感に浸れるのならば多少行き過ぎても構わないだろう。親密な関係になれるというのであればバッチコイ、望むところである。
元々モテる為――もとい、彼女ゲット宣言をする為に成った剣聖。我が悲願の達成も近い、そう兼善は確信する。
「だから正直生殺しは辛い」
「?――どうしたのですか、兼善様」
夕暮れ、後ろに銑鉄を引き連れて歩く兼善とカレア。場所は三つ目の山脈、その麓。
休憩を挟みつつとは言え一日中歩き通したというのにカレアは汗一つ掻いていない。それは体力オバケである兼善も同じなのだが、その額には薄っすらと脂汗を浮かべている。
無論、疲れたからとかそういう理由ではない。
その原因は現在進行形で腕にしがみ付いているカレアにあった、その豊満な胸に腕を抱き寄せ、ニコニコと屈託のない笑みを浮かべ続ける彼女、兼善は必死に腕の感触を頭から追い出そうとするが、残念な事に兼善という男はそこまで器用な人間ではない。
辛い、何が辛いって、下半身的に辛い。
こんな幸せな状況、本来ならば泣いて喜び、「ありがとうございます!」と叫ぶのがデフォルトな兼善だが、こんな事を一ヵ月も続けられたら流石に辛い。
狙ってやっているのならば流石としか言いようがない、カレアは自分をどうしたいのか? 襲うぞ? お前襲うぞ? お? やんのかコラ?
「兼善様?」
「……何でもない」
無理だった。
信頼と愛情百%の輝く笑顔を向けられると、自身の下劣な感情が浄化されて行く。自分には出来ない、こんな、キラキラと純粋な瞳で見て来る美少女を穢れた欲望で汚すなど。
こんな思考は既に何百と行った、その度に我慢を強いられていたのだ。
そもそも旅を始めてから一度もイタしていない兼善としては、既に暴発寸前。
そろそろ、ここいらで勇猛果敢な剣聖から賢者に転職したい所存。
今夜、抜け出そう。
抜け出して、抜こう。
兼善は一人でそう決めた。
「ふふん、ふふーん♪」
一人上機嫌に兼善の腕を抱きしめ、鼻歌なんて歌っているカレア。一ヵ月前、衝動的に告白紛いの事を言い合ってからというモノ、彼女は常に上機嫌である。
隙あらば兼善に抱き着いて来るし、離れないし、食事を準備しようとすると、「お料理は妻の御仕事です!」と取り上げて来る、因みに寝るときは兼善の隣である。
自分の事を棚に上げて何だけれども、俺達いつ結婚したの? ねぇいつ結婚したの?
それとも後ろに(予定)とでも書いてあるのだろうか?兼善としては一向に構わない。しかし籍はどうなるのだろうか。出来れば東の国に来て欲しい、何だかんだ言っても剣聖の給金って高いし。
「兼善様、そろそろテントを設営しませんか? 日も暮れてきましたし、あの辺りなら風も凌げそうです」
「ん……あ、あぁ、そうだな――では、今日は此処までにしよう」
カレアが指差したのは山脈の影、丁度大きな岩石が壁となっている地点だ。
兼善が頷くと、カレアは笑顔を浮かべたまま兼善の腕を引っ張った。それに対して抵抗する訳でもなく、その背に続く。
カレアの胸は柔らかいなぁ。
そう思いながら知能を溶かす兼善だが、続いて理性も溶けかねない。せめて賢者にジョブチェンジするまでは堪えねばと、一人首を振る。
「カレア、先に行って銑鉄から荷を下ろしてくれ、俺は薪を都合して来る」
「あ、えっと、はい、分かりました……」
兼善がやんわりとそう口にすると、カレアは寂しそうに眉を下げて腕を解く。
そんな表情を見せないで欲しい、今しがた固めた覚悟がドロドロに溶けてしまう。しかし続行すれば溶けるのは兼善の理性である、その下に隠れているのは穢れた獣性だ。
柔らかい感触が腕から離れ、カレアは寂しそうにトボトボと銑鉄を連れてテントの設営に向かった。
「………死にそう」
カレアが可愛すぎて、あと生殺し過ぎて。
兼善は賭博で有り金を全て溶かした様な人間の顔をしながら、煤けた背のまま近くで一番背の低い木に近付いた。両の手で太さを測れば、丁度指で輪を作った時収まる程度の太さ。
この程度なら行けるだろう、そう思った兼善は無造作に打刀を抜き放つと、何ら気負いも躊躇いも無く一閃を放った。
左から右への薙ぎ一刀。
その刃はスルリと木を貫通し、そのまま綺麗に両断する。バキバキと音を立てながら倒れる小さな木、大きさは二メートル半程度だろうか、恐らく出来たばかりの若い木だったのだろう。
兼善は度重なる性欲の獣性を剣技に昇華する事で、何とか剣聖の仮面を保っていた。要するに八つ当たりである、しかし悲しいかな、性欲を溜めれば貯める程兼善の剣技は冴えわたり、最近ではカレアに「兼善様の剣技は、最近増々磨きが掛かっていますね――!」と輝く瞳で告げられるほど。
その度に兼善は、「愛の力かな?」とドヤ顔を晒して来た訳だが、残念な事にその愛の力もそろそろ限界な様です。
「あぁ……あばばばば」
焦点の合わない瞳のまま、リズムよく打刀を振り下ろす兼善。ストン、ストンと倒れた木が等間隔で切り刻まれて行く。後は斬り刻んだモノを縦にもう一度両断すれば薪の完成である。
兼善はソレを明らかに狂人とも言えるイッた顔のまま続けていた。
そして一分ほど、途中から振り抜かれる腕が残像を見せる程に加速していた兼善だが、ふと我に返って足元に散らばった薪を見る。
少しばかり意識が飛んでいた、どうやら剣聖の鋼の精神力でもそろそろ下半身を抑えるのが困難になって来ているようだ。寧ろカレアの様な超絶美少女兼神様に言い寄られて一ヵ月も耐えた己は菩薩の域に達しているだろう、偉い、凄い偉い、流石だ兼善!
「……戻ろう」
打刀の刀身を鞘に納め、そのまま散らばった薪を積み重ねて持ち上げる。両手一杯に薪を持ってカレアの元に帰還すれば、丁度カレアが一人でテントを設営しようとして、四苦八苦しているところであった。
「……カレア、手伝おう」
「あっ、すみません兼善様、お願いします」
テントは本来複数人で設置する様に設計されている、一人でも出来る事は出来るのだが時間が掛かるのだ。兼善は薪を適当に組むと、中に乾いた枝を差し込みながらカレアのテント設営を手伝った。
二人でやれば何と早い事、ものの数分でテントは組み上がり、丁度太陽が山脈の影に隠れる時間となった。夕暮れだ、周囲は茜色に染まって雪の白さが形を潜める。
太陽の光が無くなると途端に寒くなる魔の国、兼善はさっさと薪に火を点けると、周囲を囲む様に薪を設置し野営の準備を終えた。
「兼善様、お隣失礼します」
「……お、おう」
下に布を敷き、二人分のスペースを用意したものの、カレアはそんなモノ眼中にありませんとばかりに兼善の真隣へと腰を下ろした。その際にさり気なく腕を取り、当然の様に抱きかかえる。
天国――否、兼善にとっては生き地獄の始まりであった。
「ふふっ、兼善様、今日の御夕飯は何にしましょうか?」
「そう、だな……偶には違う物も食べるか――確か数日前に摘んだ山草が残っていた筈だ、西の国の、何と言ったか」
「あぁ、アレイユですね! はい、銑鉄の荷に残っていると思います」
「それとジャガイモもあっただろう、今日はアレを炒めるか、スープにして食べよう」
兼善はごく自然に、何でも無いかの様にカレアと言葉を交わす、しかし内心ではカレアの香しい匂いや柔らかい感触に内心で一杯一杯であった。
最近では胴体部位の鎧だけ脱ぎ、銑鉄の荷に括りつける徹底ぶり。これは最早ワザとやっていると言っても良いのではないだろうか、絶対ワザとだろう、怒らないから正直に言って欲しい。
「では、私は材料の用意をするので、兼善様は鍋の用意をお願いしても良いでしょうか?」
「勿論、任せてくれ」
「ふふっ――でも、すみません兼善様、もう少しだけこのままで……♡」
「………」
これだ。
焚火を用意し暖まる体勢に入ると、彼女はいつも五分か十分程、兼善の体に密着して幸せそうなオーラを撒き散らす。その間兼善はカレアの様々な誘惑、匂い、感触等々に打ち勝たなければならないのだが、それの何と困難な事か。
これを一ヵ月――そう一ヵ月である。
溜まるべくして溜まると言うか、逆に溜まらないならソイツは最早男ではないというか、仏の領域と言うか。兼善は通常の男性と同じ程度――否、それ以上に健全である。
「………」
腕に擦り寄って、満面の笑みのまま抱き着くカレア。
それを半ば死んだ目で眺める兼善、抱く感情は虚無である、暴れ狂う内心の獣性を必死に抑えつけ、脳裏に浮かべるは幼き頃に見た道場での練習風景。上半身裸で必死に剣を奮うむさ苦しい男達。
それだけで兼善の愚息はしょんぼりと首を垂れるのだが、既に何度となく試した方法。兼善の体には男の裸体に対して免疫とも耐性とも言えるものが付いてしまった、男達の裸体をイメージしても下半身の獣はそそり立ったまま。
言っておくが別に同性愛者という訳ではない。
「……? 兼善様、どこかお体の具合でも?」
兼善の虚無顔を見てカレアが、ふと不安そうに問いかける。
すると兼善は穏やかな表情を浮かべ、「いや、なに、随分幸せだな――と思ってな」なんてそれっぽくはぐらかした。
まさか内心で今すぐ襲いたいなんて思っていました、などと言える筈が無い。
兼善はカレアとの言い合いを経て精神的に向上心を持ったハズだった、小心者というレッテルを取り払った筈だった。
けれどこればかりは別問題。
「そう、ですね……えへへっ、旅が始まる前は、東の剣聖と呼ばれる人とこんな関係になれるなんて、夢にも思っていませんでしたから」
恥ずかしそうに笑って、そんな事を言うカレア。その可愛らしい笑顔に下半身を刺激されながら兼善も重々しく頷く。兼善レベルになれば獣性を堪えつつ剣聖の仮面を被る等朝飯前である。
ただし夕飯までは続かない模様。
思えば苦節二十六年、カレアと言う最愛の女性を得る為に随分と遠回りした気がする。
「あぁ俺も、西の国のパトリオットとこんな仲になるとはな、旅に出る前の俺に教えてやりたい位だ――将来は剣聖の座に相応しい、どこぞの格式高い家から嫁を貰うものとばかり考えていたが、いやはや、この身で恋が叶うとは、人生捨てたものではない」
兼善はしみじみと、そう回想する。
実際問題、東の武士最強と呼ばれる剣聖を国が独身のまま捨て置く筈が無い。どこか高名な武家より剣才を持つ娘を宛がうか、或は剣聖の持つ権力に擦り寄る家が娘を差し出しても何らおかしくなかった。
故に兼善は別段嫁欲しさに走り回る必要はなかったし、分かっていたからこそ宛がわれた部屋で春画を読みふけって居られたのだ。
そんな事情を聞いたカレアは、ふと兼善に向けていた笑みを消し、寂しそうに俯きながら呟いた。
「――今、もし、万が一兼善様が国に帰って、兼善様が御国の誰とも知らぬ女と婚姻すると聞いたら、私は嫉妬に狂ってしまうかもしれません」
「ははは、そうなったら俺はカレアに殺される覚悟を決めねばな! どこぞの誰とも分からぬ輩にやるよりは、このそっ首、お前にやった方が何倍も良い」
カレアの沈んだ声に対し、兼善は溌剌とした笑い声を上げる。そうなれば殺されても文句は言えまい、カレアと言う女性と恋仲になった今、浮気する気は微塵もないが――仮に武家でも何でもない、
兼善はきっと流れに身を任せて気付けば手遅れ、なんて事もあり得る。
だって恋愛の情は無いし、何かイケる気がする、多分。
無論兼善の気のせいであるが。
兼善の首を差し出そう宣言に、カレアは俯いていた顔を上げ、パチクリと兼善を見つめた。
そして思わずと言った風に口元を和らげ、「もう、何を言っているんですか兼善様」と彼の肩を小突き、言った。
「兼善様の御首を獲るなどと――刎ねるのは女の首に決まっているではありませんか」
「そっかぁ」
兼善は穏やかな声と共に頷いた。
そうか、浮気をすれば刎ねるは己の首では無く、相手の首か。
そうか、そうか。
「そこまで俺を想ってくれるとは、全く果報者だよ、俺は」
「ふふんっ、この不肖カレア、剣技は兼善様に遠く及びませんが、この愛だけは負けておりません!」
自信満々に、輝く瞳とガッツポーズを添えて叫ぶカレア、可愛い。
けれどそうか、首を刎ね飛ばされてしまうのか、俺の浮気相手は。
ではこのそそり立つ、穢れた金閣寺は己でどうにかするしか無いのだろう。浮気すれば相手の首が物理的に飛び、万が一、億が一、それが名のあるの武家の娘などであったら目も当てられない。
兼善は無言で空を仰いだ。
「――諸行無常、あぁ、世の仏よ、我に一片の慈悲を恵み給え」
或はカレアの気が変わる事を期待するか。
いや、多分無理だろうなぁと兼善は心の中で呟く。
あの輝く瞳、赤く染まる頬、信頼と言う言葉を体現しているかのような仕草。
藤堂兼善と言う男がどれ程下劣極まりない、それこそ塵の様な人間であっても、彼女はその奈落の様な深い懐で全てを受け止めるだろう。
但し、女性関係は除く。
己の右手に人間一人の命が掛かっている、頑張れ右手、踏ん張れ右手。
全ては
☆
真夜中、カレアと見張りを交代した兼善は独り静かにテントを抜け出した。
兼善に寄り添う様にして寝ていたカレアは、二人分の毛布に包まって安眠している。その寝顔たるや天使も裸足で逃げ出す程の愛らしさ、まぁ兼善は天使を見た事など一度もないが。
「――今が好機ぞ」
兼善は空を見上げ月の位置を確認し、それからカレアと同じく眠りこけている銑鉄の脇を通って静かにテントから離れる。カレアの体内時計は完璧であり、兼善との交代時間が来ると起こす間もなく目を覚ますのだ。
その為余裕を持って、カレアの起床から凡そ一時間早くテントを出た。
無論見張りを兼ねている兼善は必要以上にテントから離れる事が出来ない、故に五十メートル。兼善が何者かの気配を感じられる範囲、その内側にテントを捉え続けながら事を成す必要があった。
狙うは比較的物陰の多い、木々の乱立した場所。
幸いにしてテントの近くに五、六本の木とブッシュが生え揃っている最高の環境があり、兼善は音を立てない様細心の注意を払いながら木陰に身を隠した。
「さぁ……起きろ我が半身、仕事の時間だ」
兼善は腰の打刀を地面に鞘ごと突き立て、自身の股間に手を置く。瞬間、兼善の脳裏を掠めるはカレアの胸の感触、視界の暴力、この一ヵ月――いや、それだけではない、この旅が始まってから三カ月間、溜めるに溜めた材料の数々。
それらが凄まじい波となって兼善を殴り付けた。
兼善は自然と同化する、興奮さえも胸の内に秘め、血が股間を盛り上げ始める。
その盛り上がりは過去最高の硬度と長さを誇り、兼善の全獣性が叫ぶ。
――今宵、我は獣性を解放し、真の自由を得る、人が人足る為に、男が男である為に、それは自然の摂理で在り、同時に世に繁栄を齎す
「俺はイク、世の理を得る為―――抜刀」
兼善は言葉と同時に股間を外気に露出させようとする、しかし、それよりも早く何者かの気配を感じた。
「――ッ?!」
その気配は余りにも空気に溶け込み、さしもの兼善でさえ察知するのに若干のタイムラグがあった。しかし捉えた、気配はテントではなく兼善の方へと向かっていた。
兼善は股間を素早く仕舞い込み、紐をきつく結ぶと地面に突き刺した打刀を手に取り、間を置かず抜刀。
空かさず月の位置を確認し、忍び寄っていた相手に刀身の腹を向けた。
瞬間、月光が刃に反射して人影の顔を照らす。突然光に目元を照らされた相手は暗闇の中驚愕を露わにし、思わずその身を硬くする。
「刻が悪かったな間抜け」
これより股にぶら下がる聖剣を抜刀しようと心躍らせていたと言うのに、それを阻害した罪は万死に値する。
目を晦ませた瞬間、兼善は地面を蹴って加速し肉薄、そのまま刃で首を裂いてやろうと意気込む。折角手に入れたお愉しみタイム、邪魔されてなるモノかと即時斬殺を決行しようとしたが。
不意に、覚えのある匂いが鼻腔を擽った。
人影へと斬り掛かっていた兼善は、その正体に気付き直前で斬撃の軌道を変更。刃は人影では無く、その隣にあった大樹の中ほどまで斬り裂き、兼善は刀を振り切った。
「……誰かと思えば、カレアか」
「は、はい、兼善様」
兼善が振り抜いた刀の軌道、その中心に居たのは他ならぬカレアだった。
内心で危なかったと盛大に汗を流す兼善、あと一歩気付くのが遅かったらカレアの首を落とすところであった。カレアの気配をギリギリまで悟れなかったのは、恐らく長い時間一緒に居過ぎた為だろう。
カレアの居る空間、気配を体が平常だと思い始めている。
カレアは額に一筋の冷汗を流しながら、引き攣った笑みを何とか浮かべていた。騎士に対して言うのも何だが、恐ろしい思いをさせてしまっただろう。
兼善は心から反省した。
「すまない、そうとは知らず刀を抜いてしまった――しかし、一体どうしたと言うのだ、まだ交代の時間では無いだろう」
「す、すみません、何となく寒気を覚えて、目を開けてみたら兼善様がテントに居らず、その、居ても立っても居られなくなって、思わず」
「……探しに来たのか」
何と言う兼善探知機。
内心で戦慄し、思わず嘆いた。
傍を離れただけで気付き、自分が何処に居るか悟って最短距離で歩いて来たのだろう。カレアが目を覚ましてからテントを抜け出し、兼善を発見するまで明らかに短すぎる。
兼善は未だ股の聖剣すら抜いていなかったのだ、それはつまり兼善がテントを抜け出した直後に気付き、後を追ったという事。
兼善は納刀しながら天を仰ぎ見た、自分は股のコレを慰める事すら許されないのか。
まるで昇る月が自分を嘲笑っているかの様に見える、このど畜生。
「え、えっと、その、兼善様は此処で何を?」
「――厠だ」
兼善がぶっきらぼうに、自身の股間をポンと叩きながら答えると、カレアは一瞬、「かわや……?」と疑問符を浮かべ、しかし動作によって理解したのか顔を真っ赤にした。
「すす、すみません兼善様、私、そうとは知らず……」
「なに、気にするな、事は終わった後だ」
「そ、そうですか……」
もう一度なんやかんや理由を付けて慰める気にはならない、先の一閃で兼善の愚息はすっかり縮み上がってしまった。これはもう素直に寝るしか無いだろう、兼善はカレアの横を通り抜けると、「さぁ、体が冷える、テントに戻ろう」とカレアに声を掛けた。
「――ッ!」
しかし、カレアの隣を通り抜けようとした兼善の腕をカレアは突然掴んだ。
思わずと言った風に兼善は足を止め、そのまま振り返って「カレア?」と呟く。彼女は顔を赤くしたまま、しかし確固たる意志を秘めた瞳で兼善に問うた。
「……あの、兼善様、本当に、本当に此処には、その、トイレをしに?」
「あ、あぁ、そう言った筈だ」
「本当の本当ですか?」
「―――」
兼善は知らず知らずの内に背筋を凍らせる、何だこの問いかけはと。
まるでカレアは、兼善が排泄をしにこの場に来たのではないと確信しているかの様な物言い。思わず口を噤む兼善、するとカレアは小さく息を吸って――兼善に爆弾を投下した。
「今宵、我は獣性を解放し、真の自由を得る、人が人足る為に、男が男である為に、それは自然の摂理で在り、同時に世に繁栄を齎す聖なる行いである、何人たりとも邪魔する事叶わず、我が聖剣は万物を断つ」
「!?」
驚愕であった。
或は戦慄であった。
兼善がこれ程動揺を露わにしたのは何時振りか、視線を一瞬だけ彷徨わせ、その顔に驚愕を張り付ける。それはカレアの放った言葉が聞き覚えのあるどころか、つい先ほど脳裏に浮かべたモノと完全に一致していたから。
思わず一歩退き、兼善は額に汗を流す。
まさか知らず知らずの内に、己はこれを口にしていたのかと。
「何故――それを」
「私の耳は騎士としては未熟ですが、兼善様の声ならば呟きだろうが何だろうが、何百メートル先でも拾って見せます」
何それ怖い。
「兼善様、此処に来たのはトイレの為では無いですよね? 何か――何か大切な事を、私に隠しているのではありませんか!?」
カレアが兼善に接近し、その瞳を覗き込んで来る。既に兼善が排泄の為にこの場に来たと言う言い訳は破られ、カレアは確信を持って兼善を問い詰めていた。
まずい、兼善は何とか逃げ道を探ろうと足掻く。
当たり前だろう、誰が慕っている人物に、「実は貴女をオカズに抜こうと思っていました」なんて面と向かって言えるものか。そんな事をする位ならば兼善は切腹を選ぶ、その場で腹を斬る、臓物を垂れ流して死んでやる。
故に兼善は顔を逸らし、沈黙を選んだ。
下手に言い訳を重ねれば傷口が開きかねない、兼善は引き際を心得ている男だ。故にこれ以上の致命傷を避けるべきだと考えた。
まだ、まだ大丈夫だ、まだカレアは本質には気付いていない、そう思いたかった。
「兼善様――まさか、毎晩お一人で……?」
あっ、駄目だコレ、もうバレてら。
兼善は虚無顔になった、最早終わりである、兼善終了のお知らせ。
剣聖は西の国のパトリオットで愚息を沈める獣と成り果てました、南無阿弥陀仏。
無論、カレアはそんな意図を含めて言った訳ではない。
先の言葉と兼善の鋭い一閃、その事から彼は夜な夜な自分に内緒で修業を続けていたのではないかと考えたのだ。
自分に分からない様に、見張りを続けながら剣の鍛錬を行う。
カレアから見て兼善は才能の塊であるが、それ以上に血の滲む様な鍛錬を行って来たのだと理解していた。故に彼がそんな事を秘密裏に敢行していても、何らおかしくはない。
カレアはそんな兼善を水臭いと思った、同時に悲しく思った、何故自分に声を掛けてくれなかったのかと、教えてくれなかったのかと。
東の国は謙虚と隠れた努力を美徳とするらしいが、恋人の前で位素顔を晒してくれても良いのではないかと。
無論全て勘違いである。
「兼善様、何故、何故私に言って下さらなかったのですか?」
「言える訳ないじゃん……」
ボソリと呟かれた兼善の本音。
溜まっているから何とかしてなんて、そんな事を白昼堂々面と向かって言える程兼善の心臓は強靭ではない。事戦闘に於いては無類の大胆さを持ち合わせる彼だが、女性関係ではノミの心臓である。
それとも、それとなく床に誘えと言うのか。
この俺に、未だ
そんな事に挑むなら四魔将全員と一度に戦った方がマシである。
「私は兼善様の恋人です! 彼女です! 交際相手です! そんな相手にこそ、素顔を見せるべきだと思います!」
カレアは興奮した様に顔を赤くして、兼善に言い放った。その気迫たるやいつものカレアからは想像出来ぬ程で、心の底から吐き出しているのだと分かる。
しかし兼善からすれば逆である、大切だと思っているからこそ見せたくない面がある。
兼善はつーんとそっぽを向いたまま、口を噤んだ。
そんな態度を見せる兼善にカレアはムキになって、更に詰め寄って叫ぶ。
「私では力不足なのですか……!? 誘うに値しないと……っ」
「いや、そんな筈が無い」
そもそも興奮材料はカレアな訳ですし、そんな彼女を誘うに値しないなど口が裂けても言えない。するとカレアは更にヒートアップし、涙目で抗議した。
「では何故っ、私の心配ならば不要です! 兼善様と一緒なら、どんな
えっ、何、行いって、プレイって事?
兼善は困惑した、まるで自分が異常性癖者の様に見られていると思ったから。
少なくとも兼善はそれ程性に関しては詳しくない。多少は春画にて知識を得ているものの、実用に足るものなど幾つかあるか。
そもそも話、童貞の自分にそんなハードなプレイは不可能である。
というか彼女は誘っているのだろうか、何故そんなにグイグイ来るのだろうか。
これが据え膳なのか? 据えられちゃっているのか?
「か、カレア、一つ勘違いしている様だが、俺は未だ童貞だ……経験豊富の様に言うのは止めて欲しい」
「それ程の力をお持ちでありながら、未だに道程だなんて……――兼善様、無礼をお許し下さい、謙遜は美徳と言いますが、過ぎた謙遜は毒となります」
「えっ、強さと童貞って何か関係性があるの? 強いと童貞じゃなくなるの……? というか俺、童貞って思われていないの?」
一応世界最強って呼ばれているのに、未だ童貞(真実)なのですがそれは。
「兼善様!」
茶化していると思われたのか、カレアはキッと眉を吊り上げて叫ぶ。その勢いに思わず兼善は一歩後退り、下がった分カレアが一歩詰めた。その瞳からは爛々と光る強い意思だけを感じる。
「う、いや、しかし、だな……こういうのは、そう、もっと何というか、段階を踏んでからと言うか」
「ならば何時なら良いのですか、一年後ですか、二年後ですか……!」
「い、いや、そんなに時期を空ける気は……」
「兼善様!」
兼善は半泣きになった、そして死に物狂いで思考を回してカレアに指を突き付ける。一本立てた人差し指、カレアは突き付けられた指に驚き、目をパチクリさせている。
兼善は俯いた状態からぐっと瞳に力を籠め、カレアを射抜いた。
「こ――この地を抜けたら、そう、この地を抜けたら、カレアを誘おう」
そう腹の底から言葉を捻り出した。
山脈地帯は寒い、故に行為を行って万が一にでも風邪をひいたら拙いから、と。前は暖まる為に一発どうですかなどと考えていたが、その時との兼善とは違うのだ、進化したのだ。
小心者としてはランクアップを果たしたが。
「……この地、というのは山脈地帯の事でしょうか」
「あぁ、この先の森林地帯、其処に入ったら――覚悟を決める」
カレアは兼善を確りとした、強い視線で捉え問いかける。
兼善の瞳がギラリと光り、視線は鋭く、力強く、何処までも深い。その瞳にカレアは凄まじい重圧を感じ、思わず唾をのみ込んだ。どれ程に凄まじい鍛錬が待っているのか、想像がつかなかった。
しかし彼女はこと兼善に関しては臆す事を知らない、少なくとも本人はそう思っている。
故に返す言葉は既に決まっていた。
「不肖、このカレア、兼善様の為ならば、どんな苦難も耐え切る所存です――!」
「そ、そうか」
そんなハードなプレイ、出来ないんだけれど、もしかしてコレは期待されているのだろうか。
互いの思い違いは何処までも平行線で、交わる事を知らない。
内心でとんでもない約束をしてしまったと頭を抱えた兼善だったが、まぁどうせ数ヶ月後の事など憶えていないだろうと高を括った。目の前で頬を赤くし、まだ見ぬ修行に想いを馳せるカレアの執念を甘く見ていたのだ。
斯くして、兼善の聖剣を抜き放つ時は延期と相成った。
彼は明日も、その獣性に悶えながら生きていく。
書いていて楽しかったです(小並感)
恐らく次回は少し短い&戦闘回、そしてその次から森林地帯へと入ります。
森林地帯はカレアさんの回が一話あって、恐らくヤンデレフルスロットルだと思います。
一応次の話は書き終わって、今は森林地帯の入りを書いています。
次の投稿は2~3日後でしょうか、それ程遅くはならないかと。
感想、いつもありがとうございます。
全て目を通しているのでどしどし送って頂けると嬉しいです。
返信は滞っているのですが、その分本編に時間を割いているので許して貰えるとありがたいです……。