それは愛にも似た、   作:pezo

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第十一章 アーレント 二

「花を持って来てくれたの?嬉しいな」

 

 

女の笑顔が冬の陽光に照らされて、リヴァイは眩しくて目を細めた。

 

 

死んだはずの女が目の前で笑う様に驚きを覚えつつも、数ヶ月ぶりに見たその笑顔に、妙に胸が踊るのを感じる。

 

 

 

ーーそうか。

 

 

 

花を手渡したときに、細い手が革手袋越しに触れた。女は寒空の下、裸のままの両手を真っ赤にしていた。よく見れば、頬も、肩まで伸びた髪の隙間から見える耳も、寒さのために真っ赤に染まっている。

 

その血の通った赤を見ながら、リヴァイは彼女に会いたかったのだ、と己の心を知った。

 

 

最後に言葉を交わしたのは壁の上だった。あれから数ヶ月。

 

 

「彼女の墓前に供えにきてくれたんだろう?」

 

 

シグリ・アーレントの名が刻まれた石板の前で女は振り返った。リヴァイが頷けば、女は隣の石板を指差し、「こちらにもこの花、供えても?」と言った。

 

 

細い指先の指し示す方向へ視線を移して、リヴァイは眉をひそめた。

 

 

 

イワン・アーレント。

 

 

 

 

聞きなれぬ名前の主は、844年の初めに亡くなったことが記されていた。リヴァイが調査兵団に来る、ほんの少し前だ。

 

 

「彼女の夫だよ」

 

 

女が石板に花を供えながら言った。澄み切った空気に、女の声が響く。

 

 

「……どういうことだ」

 

 

「リヴァイ。ここは寒い。街に下りないかい?」

 

 

 

その道中に話すよ。女は振り返って再び笑った。

 

 

 

 

女はどうやら人に連れてきてもらったらしく、馬を持っていなかった。どうやって帰るつもりだったのかと問えば、「あなたを待っていた」と返されて、エルヴィンにしてやられたと、そこでようやくリヴァイは気づいた。

 

リヴァイの黒馬に二人乗りをして帰るしかあるまい。ロングコートの下は長いスカートとブーツを履いていた女の格好は乗馬向きではなかったが、速度を出さなければ問題ないだろう、とリヴァイは馬を撫でた。

 

 

「手を出せ」

 

 

「手?」

 

 

両手のひらを差し出してきた女は、やはり指先も赤く、よく見れば寒さに微かに震えていた。

 

 

リヴァイは呆れたように彼女を見やり、自分のしていた手袋を彼女の手にはめてやった。

 

 

「いいよ!あなたが寒いだろう?」

 

 

「こんな冷え切った状態で何言ってる」

 

 

直に触れた手は、思った以上に冷たく、まるで死体のそれのようだった。薄ら寒く思って、数度さすってやれば、僅かに温度が戻ってくる。

 

 

生きている。

 

 

安堵して、己が首に巻いていた黒いマフラーも外して、女の首に巻いてやる。女が抗議しようとしたのを止めるように、その冷たく赤くなった頬に両手で触れれば、彼女は黒い瞳を大きく見開いて黙った。

 

 

「……生きてるんだな」

 

 

「……うん。帰ってきたよ」

 

 

 

まっすぐ黒曜石の瞳を覗き込めば、そこには微熱を帯びた感情が揺らめいている。

 

僅かな、熱のこもった瞳。

 

頬を少しだけさすり、リヴァイは彼女の額に己のそれを重ねて、瞼を閉じた。

 

 

耳をすませば、すぐそばで彼女の息遣いが聞こえる。

 

 

 

確かに、生きている。

 

 

 

「ーーよかった……」

 

 

 

呟いた言葉に、女が驚いたように目を丸めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

イワン・アーレントは、エルヴィン分隊長の副官を務めていた男だ。その職歴は長く、エルヴィンが班長時代から彼の元で働いていたという。

 

エルヴィンが壁外で出会ったマリという異邦人の世話も、主にイワンが率先して行なっていた。

 

それは、彼女が精神異常者として兵団の監視から解放され、エルヴィンによって彼の友人の娼館へと連れられてからも続いた。

 

娼館とは言え、滅多なことでは身を売ることのないその店で、マリは給仕として仕事をしながら言葉と教養を身につけた。その好奇心に付き合う形で、イワンは様々なことを彼女に教え込んだ。

 

それだけでなく、エルヴィン分隊長の指示で彼女に兵士としての訓練をつけていたのもイワンだった。

 

 

 

貪欲な知識欲を持つマリが最も関心を持ったのが、イワンの父親、レオン・アーレントの工房だった。彼の父親は、内地の工場都市で憲兵団向けの対人武器を製作していた技師であった。工房は小さいながらに、レオンの技術は丁寧かつ高度であったという。

 

イワンはたまの休日は彼女を連れて父親のもとに訪れては、父が女に技術を授けていく様を見ていた。

 

その頃には、彼女はすっかり壁の中の言葉を流暢に話せるようになっていた。何より彼女は非常に器用な類の人間であり、教えたことはほとんど難なくこなすことができた。

 

エルヴィン分隊長は彼女をなんとかして調査兵団に入団させようとしていたし、彼女が住まいとしていた娼館の店主であるアリスは、客に人気の出始めていた彼女を正式な従業員として雇い入れたがっていた。

 

イワンは工房での仕事を彼女に勧めた。

 

 

 

「私は正直決めかねててさ。調査兵団に入って死ぬのも怖かったし、客をとるのも嫌だった。レオンのもとで働くのは魅力的だったけど…、内地へ行って壁外から遠のくのは躊躇われた」

 

 

リヴァイの後ろで、女はとつとつと話していた。ふらふらと揺れている。リヴァイは女の手を引いて自分の腰に回してやった。

 

 

「しっかり掴まっとけ。落ちても知らねぇぞ」

 

 

女は何がおかしいのかくすくすと笑った。

 

 

「エルヴィンを始めとして、皆んな優しかったよ。存分に迷えばいいって言ってくれてさ。特にレオンは、私を実の娘のように思うと言ってくれて。……本当に嬉しかった。私も彼のことを父親のように慕ったんだ」

 

 

自分の技術を貪欲に吸収しようとする若い娘に、彼が実の息子にも秘密にしていた技術を教えるのは自然なことだったのかもしれない。レオンは弟子も持っていなかったから、彼女を弟子としても重宝し出していたのかもしれない。

 

 

「それが、連発式散弾銃だった。彼の設計図をもらったときはひどく興奮したよ。この壁の中の技術は偏っている。巨人殺しの技術は高いが、それ以外はやけに低い基準でとどまっている。まるで誰かに禁止されているかのように、学者も技術者も、誰もが未知の領域への冒険を躊躇っていた。でもレオンはそうじゃなかった。新しい技術の模索を、私は初めて目にして高揚したんだ。それが人殺しの道具だったとしても、私にとっては魅力的だった」

 

 

 

ゆっくりと歩く馬の上で、彼女はひとつ大きなため息をついた。リヴァイは頷きもせず、それを黙して聞いている。

 

 

「興奮して、工房から戻ってまずエルヴィンに話した。そのあと、アリスの店で客相手にその話をしたのが全ての元凶となった。そこに居合わせた中央の憲兵団によって、王政への反逆者としてレオンは不審火を装って殺された。私もまた、憲兵団に追われる身となった」

 

 

 

そのとき、策を弄して彼女の窮地を救ったのはエルヴィン・スミスだった。今のように戸籍を偽装するような力はまだなかったが、彼女はマリという名前を捨てて、彼の名付けた「シグリ」という名を騙った。そして、さらにイワン・アーレントと婚約させ、戸籍を堅実なものとした上で、憲兵団の目をくらませるために、彼女を調査兵団へと入団させた。

 

 

 

それが、843年のことである。

 

 

 

「訓練を受けてはいたものの、訓練兵団を経験してなかったから、実戦に出るまで半年以上もかかったよ。特別待遇の入団だったから、最初はとにかくイビリもひどかった。でも、もう私にはそこしか生きていく場所がなかったし、技術を磨かなければ壁外へも出れなかったから、必死で訓練したんだ。気づけば、訓練では先輩方より良い成績をおさめられるようになってた」

 

 

「……望んで調査兵団に入ったわけでもないのに、壁外へと出たかったのか?」

 

 

リヴァイが問えば、女は少しだけ笑って、「早く死にたかったんだ」と言った。

 

 

「私を娘のように思ってくれてた人を、馬鹿で愚かな知識欲で殺してしまったんだ。こんな壁の中、もう嫌になってたんだ」

 

 

 

彼女が初めて調査兵として壁の外に出たのは844年のはじめ。花が咲き始めた春のことだった。

 

 

彼女と同じ班に配属されたイワンは、そこで班員もろとも、奇行種によって食い殺された。彼女は、ミケ・ザカリアスとエルヴィン・スミスに助けられた。

 

 

 

ーー君が生きていて、よかった。

 

 

 

あのとき。エルヴィン・スミスはそう言った。

 

 

それが、彼個人の感情だったのか、それとも調査兵団の分隊長としてのことだったのか、女には良くわらかない。ただ、生きる意味も見失っていた女に、その言葉はひどく心に響いた。

 

 

 

それから、女はその男のために生きてきた。

 

 

 

「イワンは、私の壁の外での記憶を信じてくれてた人だった。塩の水や氷の大地、炎の水、砂の雪原。それを一緒に見に行こうと言ってくれた。彼がなぜそんなに私を信じてくれてたのかわからなかったけど、私にとって彼が大事だったのだと気付いたのは、壁外から戻ってきてからだった」

 

 

女は自嘲するように笑った。

 

 

「それまでは、自分が助かって良かったとしか考えてなかった。死にたくて外に出たのに笑っちゃうよね。イワンが死んで悲しいとも思わなかった。ただ、私じゃなくて良かったって……それだけしか思わなかった」

 

 

壁の外から戻り、女は自分の汚い人間性に気付かされた。そして、そこからはとにかく生き汚く、長く生きていこうと心に誓ったのだ。

 

 

何度も命を救い、彼女を求めるエルヴィン・スミスのもとで。

 

 

そうこうしているうちに、仲間たちとの絆は勝手に強くなり、いつしか彼女自身、調査兵としての自覚に芽生えていったのだという。

 

 

ハンジ・ゾエとの壁外の語りと誓い。

 

ナナバの優しい心遣い。

 

ミケの寡黙ながらも誠実な兵士の心構え。

 

それらに触れていくなかで、女はエルヴィン・スミスの第二の副官として、兵団の中で急速に地位と信頼を築き上げていったのだ。

 

 

「調査兵として戦えたのは、壁の中に来てからの私の最大の幸運だったんだよ」

 

 

寛大な仲間たちに恵まれた。そう女は言ったが、リヴァイに言わせてみればそれは彼女自身が掴み得たものである。彼女の努力と忍耐は、並大抵のものではない。どうせ入団当初から、訓練後に遅くまで書物を読み漁り、勉強に勉強を重ねていたのだろう。そうした努力家を、調査兵たちは決して無碍にはしない。生きる努力を惜しまない人間は、調査兵団にとっては貴重な人材だからだ。

 

 

 

「……そうか」

 

 

リヴァイは頷いた。

 

 

高台を降りれば、眼前にはマリアの広大な平地が現れる。小さな森の近くを女は指差した。そこに、今身を隠している家があるという。

 

その場所をゆっくりと目指しながら、リヴァイは、シグリの夫となっていたイワンという男に思考を巡らせた。

 

 

聞けば、完全なる偽装結婚のようなもので、それこそ夫婦らしいことなどほとんどなかったという。女はあまり、イワンについて話をしたがらなかった。ただ、「彼は真面目で、奥手で、私には何を考えてるのかわからなかった。エルヴィンの命令とはいえ、こんな女を嫁にとらせたうえに、ろくにそれらしいこともなく死なせてしまった」と声を落として言った。

 

 

リヴァイが思うに、イワンはおそらく、彼女を好いていたのだろう。それも早い段階から。

 

 

男が彼女に想いを伝えていなかった理由も検討はつく。

 

 

 

ーーどうせあの金髪野郎のせいだ。

 

 

 

彼女のそばでうろつくエルヴィン・スミスという男。

 

女は自分では気付いていないが、どうにも彼に固執している。エルヴィンもまた、彼女に対してのみ、いつもは鋭い思考も少々歯切れが悪くなる。おまけにあの風貌と才能。副官であったというイワンが身を引くのも無理はない。

 

そんな男に偽装結婚をさせるとは。やはりエルヴィン・スミスはろくな死に方をしないだろう、とリヴァイは呆れた。

 

 

 

ーーお前はどうだ、リヴァイ。

 

 

 

柄にもなく、問うてみる。あの男からこの不可思議な女をさらってみせる技量はあるか。

 

 

「なあ」

 

 

問えば、女は、ん?と返事をした。

 

 

「エルヴィンは、シグリを壁外追放にするふりをして秘密裏に壁の中へと戻した。シグリは死んで、散弾銃の件でお前を追っていた憲兵団の追跡もまいた。そして、ほとぼりが冷めた頃合いを狙って、また兵団へと戻る。そういう計画だと。それでいいんだな?」

 

 

女は頷いた。

 

 

「なら、お前は今度は誰になったんだ?お前の名前はなんだ?」

 

 

「まだ、決まってない」

 

 

名無しだよ、と女は笑った。

 

 

 

マリ。シシィ。シグリ・アーレント。

 

 

 

どれもこれもこの女の名前だ。名前を変えても、この女であることには変わりはないし、変えられるものでもない。それでも、名前は重要だ。リヴァイはそう思っている。

 

 

 

「なら、次は俺につけさせろ」

 

 

「え?名前?私の?」

 

 

そうだと言えば、女は呆気にとられたように少し黙して、

 

 

「私、犬とか猫じゃないんだけど」

 

 

「知ってる」

 

 

「もうなんか、あんまり人につけられるのこりごりなんだけど。ちょっとなんかもう、重いっていうか……」

 

 

「それくらい背負えよ。情けねえ」

 

 

 

えぇ、と情けない声を出した女に馬が少し驚いてわななく。リヴァイは、そんな馬を少し撫でてやって、足を止めた。

 

 

振り返り、女の黒い瞳を見返してやれば、う、と女は息を飲んだ。

 

 

 

これは、つまらない所有欲のあらわれだとリヴァイは重々知っている。

 

 

 

ただ、なくしていく人生の中で、何かを名付けることがあっても、悪くないと不思議と思えた。

 

 

 

「名前をつけてやる」

 

 

 

ゆっくりと左手を彼女の頬に伸ばせば、女は「危ない」と、リヴァイの手から逃れるように顔を伏せて、リヴァイの腰に回していた手を握りしめて、彼の服をつかんだ。

 

 

別に、リヴァイにしてみれば女がどう思っているかは大して重要なことではない。

 

 

 

だから、逃げようとした女を、優しく逃がしてやるつもりなど毛頭なかった。

 

 

 

女が金色の男しか見ていなくても、リヴァイが彼女の見る夢も過去も理解できなくても、それは理由にならない。

 

 

 

ーー気に入れば手に入れる。

 

 

 

それだけだった。

 

 

かの男のように、優しく身を引く上品な人間性は毛頭持ち合わせていないのだ、とリヴァイは思いながら、彼女の耳に口を寄せた。

 

 

曇天の空から、再び白い雪がちらつきはじめている。

 

 

澄み切った空気のなかで、誰に聞かれるわけでもないのに、リヴァイはその名前を彼女に小さく囁いた。

 

 

女は息を飲んで、彼を見つめ返した。

 

 

「ブサイクな顔だな」

 

 

「なっ!!なに、」

 

 

抗議しようとした白い女の口に、己のそれを重ねて、その先の言葉を奪った。

 

 

 

一瞬、女の体は強張ったが、抵抗はしなかった。それに大きな満足感を得て、リヴァイはその甘さにそっと瞼を閉じた。

 

 

 

 

845年。

 

 

 

その年の初めの冬に降ったその雪は、彼らの心に溶けるように染み入って、暖かな記憶として残った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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