それは愛にも似た、   作:pezo

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第八章 異邦人 三

 

 

その日は、ひどく雨の酷い壁外調査だった。早朝から出発した行軍は、昼前から突如降り出した雨によって、その歩みを鈍らせていた。

 

「分隊長!後衛の荷馬車班が遅れています!!」

 

森の中を行軍中、背後から伝達のために駆けてきた兵士が告げてきた。行軍の途中で通過した旧文化の集落の遺跡付近で、ぬかるみにはまった荷馬車がそのまま動けなくなってしまったという。その日の荷馬車班の班長はハンジであった。彼女ならば、荷馬車を捨てて合流するのでは、と思ったが、彼女率いる荷馬車に積載されているのはガスや替刃などの補給物資。部隊全体の生命線とも言える補給物資を、命欲しさに投げ出す兵士ではなかったと思い至り、すぐさま自分の班と、ミケ率いる班を連れて援護に向かった。

 

やはり、想像通りハンジは必死に荷馬車をぬかるみから出そうと試みていたが、まるで桶から水をひっくり返したようなひどい雨の上、彼女の班は朝からの行軍で人数を消費していたため、思うように作業は進んでいなかった。

 

作業中に巨人と遭遇しなかったのは、不幸中の幸いといったところだった。すぐさま数人を荷馬車の援護にまわし、他の者を見張りのため、周囲へと配置した。

 

 

 

その存在にいち早く気付いたのは、ミケだった。

 

「誰かいる」

 

無口な彼が、短くそう言ったときは、さすがに耳を疑った。雨の中で臭いは薄いが、確かに調査兵の者とは思えない人間の臭いがする、と。

 

ミケの鼻がきくのは知っていた。しかし、まさか壁外に調査兵以外の人間がいるはずがない。そうは思ったが、彼の巨人の臭いの察知の能力は目視によるそれよりも数倍も優れている。半信半疑ながら、どこから臭いがするのか問えば、集落の遺跡の中からだ、とミケはその方向を見据えながら言った。

 

「……近くに巨人の気配はするか」

 

「いや。まだ近くには来ていないようだ」

 

ならば。

 

「三分だけだ。様子を見に行こう」

 

ミケと共に、数人の部下を連れて、その建物の中へ足を踏み入れた。石造の家屋とも思しき建物の中は、がらんどうで机のひとつもない。部屋もひとつしかないらしく、家屋というより、物置のようなものだった。

 

その建物の隅に、彼女はいた。

 

「おい、生きてるのか?!」

 

部下のひとりが声をかければ、それは生きているらしく、びくりと肩をふるわせて、振り返った。両腕で肩を抱きしめ、壁に向いてうずくまる様子は、何かに怯えている子供のようにも見えたが、その四肢は細いながらも健康的で、雨に濡れた衣類に透けて見えた身体は薄いながらにも女性らしいまろやかな曲線を描いていた。

 

「女?なぜここに?」

 

「お前、なぜここにいる!?いや、どうやってここに来た?!壁外へ無断で出ることは大罪だぞ!」

 

口々に部下が刃を抜いて彼女に詰問しようとも、その女は怯えて私たちを見上げるばかりである。

 

「エルヴィン。どうする?」

 

「……時間はないな」

 

刃を抜いた部下を下がらせて近づけば、不意に女はその怯えた眼の中に抵抗の光を見せた。脇に転がっていた木の枝を握りしめるその姿は、近づく私に対する敵意に満ちていた。そんな枝でどうにか抵抗できるとも思えなかったし、震える身体にその姿勢が虚勢であることは一見してすぐ知れた。

 

なるべく怖がらせないようにゆっくりと近づき、彼女の手がぎりぎり届かないであろうところで膝をついて目線を合わせた。

 

女はよく見れば、かなり小綺麗な格好をしていた。身につけた薄茶色のワンピースは膝下あたりまでで、少し短い。顔は東洋人のような顔つきにも見えたが、目鼻立ちがはっきりしているので、かなり美人の女性であることはすぐにわかった。化粧はしているものの、雨と涙でぐちゃぐちゃになっている。長い黒髪も、雨でしとどに濡れそぼっていた。しかし、その長い前髪の下では黒い瞳が鋭く光っていた。

 

 

その光に、興味を覚えた。

 

 

「怖がらなくていい。君に危害を加えるつもりはない」

 

彼女は聞こえているのかいないのか。何も答えなかった。

 

 

彼女に手を伸ばせば、咄嗟に枝を私めがけて振り切ってきた。が、その枝はあっけなくミケに奪われ、彼の兵団のマントごと、彼女は身体をミケに抱え上げられた。

 

突然のことに驚き暴れるものの、160センチメートルほどの彼女の小柄な体格では、二メートル級の屈強な兵士であるミケは全く動じなかった。

 

「おい。暴れるな」

 

「君、あまり暴れると下着が見えるぞ」

 

ミケの腕に噛みつこうとする野生味溢れる女に忠告するものの、彼女はなにやら聞き取れない言葉を口に叫ぶだけである。まるで、言葉が通じないようだった。

 

「ミケ。そのまま荷馬車へ。壁内までハンジに監視させる」

 

そのとき唯一の女性兵士であったハンジに彼女への監視を任せ、荷馬車を救出した我々の班はすぐに本隊へと合流するために行軍を再開した。

 

 

彼女の存在はその班の者には守秘義務を課して、なるべく他の者の目に触れないようにした。

 

 

 

 

 

その後、無事に壁内へと戻ってすぐに兵団の地下牢へと彼女を拘束し、キース団長へ報告した。

 

 

団長は最初は驚いたものの、存外冷静に対応した。団長の見立てにより、彼女の処理は私に任されたのだ。その理由として、言葉の通じない彼女を、「精神異常者」として兵団内で判断したのだ。精神を病んだ人間は、特別に罪には問われないという規則を利用したのだろう。

 

 

キース団長は壁内における諍いには事なかれ主義的な一面がある。その時も、彼は駐屯兵との面倒なやり取りや、そこから生じるであろう軋轢を避けようとしたのだと思う。

 

かくして、彼女は調査兵団本部へと連れられてから一月後には、無罪釈放となった。

 

 

しかし。

 

 

その一月の間に、私にはどうしても彼女を「精神異常者」として見ることができなかった。

 

 

彼女は確かに全く未知の言葉を喋る。しかし、その思考は明晰で、優れたもののように思えてならなかったのだ。

 

 

 

その証拠に、彼女は牢に入れられてから数日。毎日顔を見せていた私に対し、自分を指差し「マリ」と、己の名前を述べたのだ。

 

 

「マリ?」

 

 

大きく頷いた顔の輝きは今でもはっきり思い出せる。

 

 

それが彼女の名だと知った時は、私も子供のように喜んだ。そして彼女の身振りを真似て自分の胸を指差して、「エルヴィン・スミス」と何度も言った。

 

 

私の名前をたどたどしく口にした彼女に、思わず鉄格子ごしに手を伸ばしてしまったほど嬉しかった。

 

 

 

それは、彼女が正常な判断のできる人間であることを示すと共に、彼女の話す言葉が、壁内のものとは異なるものであることを示していた。

 

 

 

そして私は仮説を立てた。

 

 

 

彼女、マリが、壁外から来た人間である、と。

 

 

 

残念なことに、彼女は壁外に来るまでの記憶はほとんど抜け落ちていて、壁外の情報は全く得られないと知るのはさらに先の話だが。

 

 

 

私の仮説を知る人間は、兵団内ではキース団長と、ミケ・ザカリアス、そしてハンジ・ゾエだけだった。全員彼女の存在を知るなかで、私が信頼している人間で、そのなかでも口の堅い者たちだった。

 

 

しかし、キース団長はその仮説を一蹴した。ミケは半信半疑だったが、知識欲の深いハンジは興味深さに滾っていた。

 

 

 

兵団の地下牢で彼女を保護していた一ヶ月。彼女はほとんど食べものを口にしなかったから、あっという間にその身体はやせ細っていった。だが、生への欲求を失ったわけではなく、食欲の代わりに知識欲に飢えていた。

 

 

 

 

 

 

「彼女に簡単な子供用の絵本を与えれば、貪るようにそれを読んだ。様子を見に行くたびに何度も読み聞かせをさせられたよ。数日のうちに彼女は必要最低限の単語を習得した。その後は簡単な日常会話の学習にうつった。子供向けの絵付きの本を片手に、何度も何度も読み返していた。一月後、無罪釈放となったときには、たどたどしくはあったが、最低限の意思疎通が出来るまでになっていた」

 

 

紅茶を一口飲みながら、その頃のことを思い出すようにエルヴィンは少し笑った。

 

 

「あの時は大変だった。何度も何度も簡単な単語や文章を朗読させられたからな。団長には尋問だと言いながら、1日の多くの時間を彼女の学習に費やしたよ。彼女と、どうしても意思疎通を図りたい気持ちの一心でね」

 

 

貪欲に文字を貪り、己の声に耳を傾ける女の知識欲に、胸が踊ったのは間違いない。まるでそれは、金の卵を産む雌鶏を、雛から育てるような感覚にも近いと感じた。

 

 

利己的な関心からくる欲と、雛を自分の手の中に入れている庇護欲。

 

 

「……そんなに早く言葉を話せるようになるもんなのか」

 

 

リヴァイが問えば、エルヴィンは少し顔を曇らせた。

 

 

「それが、彼女を「精神異常者」として団長に判断させた所以となった。彼女は何らかの疾患で言語を失っただけで、再学習によって思い出したに過ぎない、とな」

 

 

紅茶を飲み干したカップを置きながら、エルヴィンは窓の外の青い空に視線をやる。

 

 

彼女と出会ってから、2年が経とうとしていた。

 

 

「彼女が壁外にいたことを知る人間もだいぶ少なくなった。その中でも、俺の仮説を信じているのは、ハンジとミケくらいのものだ。彼女自身も、自分自身の存在を信じられずにいる」

 

 

「どういうことだ」

 

 

「彼女の記憶は曖昧だ。しかし、確実に彼女はこの壁内の社会に違和感を覚えている。曰くは、その記憶のために、らしいが、彼女自身、その曖昧な記憶は自分の妄想の産物かもしれないという懐疑を抱き続けている」

 

 

 

その曖昧で、しかし自身の中に確固として存在する違和感。そして自分の正体のわからぬ浮き足立った不安感。

 

 

それらを払拭するためのように、そして彼女自身の存在を証明するかのように、彼女は壁内の知識を貪るように得ようとした。それは、今でも変わらない。

 

 

 

自分の存在の不確かさと異物さに、誰にも理解されない孤独を抱きながら、必死に言葉と知識を吸収する様は、狂気的にも見えた。

 

 

その姿は、エルヴィンに哀れな存在として見えている。

 

 

 

「彼女がどこから来た者なのかは判然としない。壁の外から来たのかどうかもよくわからない。ただ、彼女の視線は壁内にはない感性がある。だから俺は彼女に研究をさせたし、彼女の壁のない世界の記憶を信じている」

 

 

 

それに、とエルヴィンは壁を見ながら言う。生まれた時から、彼の生存域を決めつける遥か高くそびえる壁。

 

 

「俺は彼女に罪を背負わせた。一生消せない罪だ。その俺が、彼女を信じないわけにはいかない」

 

 

 

エルヴィンにしては珍しく、まとまりのない話に、リヴァイは黙して聞くばかりである。何の罪か。彼が問えば、エルヴィンは視線を伏せて言った。

 

 

 

 

「父親殺しだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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