それは愛にも似た、   作:pezo

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第一章 平穏と不穏

 

 

――兄貴、空が抜けてる。

 

 

初めて「空」なるものを見たときの妹分の声が遠くで聞こえた気がして、リヴァイは振り返った。

壁の上。シガンシナの雑多な家屋群を遥か足元に見下ろしながら、十数名の調査兵たちが立体起動装置をつけた装備のまま、駆け足で行軍していた。

壁付近での戦闘を想定した、壁上訓練の最中であった。リヴァイはその行軍の最後尾を駆けている。振り返った背後には、ただひたすらに広くて大きな青が広がり、遥か彼方で山の緑と溶け合っていた。

 

一月と少し前、あの地平の向こう側に、彼は妹分たちを置いてきた。正確には、妹分たちの遺体を。

 

「リヴァイ!よそ見するな!!」

 

前を走る班員の叱咤に、リヴァイは一度首を振って、前を向く。後ろ髪を引かれるような感覚があったが、死んだ者は語らないと彼は知っている。壁の向こうに置いてきた昔馴染みが呼ぶ声は、己の心の傷の深さ故なのだ。そう、冷めた心地で分析して、行軍に没頭するよう心がけた。

彼の居場所はもう、地下にはないのだと、彼自身が一番よく理解していた。

 

 

数時間に及ぶ壁上訓練の後、彼ら十数名の調査兵は、装置を下ろして各々に休みをとった。

 

「しかし、壁の上はいいな。向こう。あっちがこの前の調査の方向か?」

 

「ああ。こっちの方向は行ったことがないな。そういえば、北の方角への調査はお前行ったことあるか?」

 

 

「あ、あれ見ろ。あんなとこで駐屯兵のやつ、さぼってんじゃねえか?」

 

「駐屯兵団はほとんど働かねぇからな。壁掃除団ってとこだろ」

 

 

首元を通り過ぎる風は穏やかだ。それぞれに会話を楽しむ調査兵の間にも緩やかな空気が流れているのは気のせいではない。それは、まだ次の壁外調査の日程が決まっていないことが大きいのだろう。噂では、まだここから先二月はないだろうと言われていた。

死ぬ日が決まっていなければ、死地へと飛び立つことを任務とする調査兵たちも、少しばかり生きる余裕が出てくるらしい。

 

――それも、束の間の平和だ。

 

腰に下げた水袋に口を付け、喉を潤しながらリヴァイは思った。常に緊張感を漲らせていた兵団の仲間たちが、こうも穏やかに笑いながら訓練を行なう様子は、彼にとっては初めて見るものだった。

 

「リヴァイ。大丈夫かい」

 

ぼんやりと他の兵士たちの様子を見つめながら休憩していたリヴァイに声をかけたのは、短い金髪が特徴的な線の細い兵士だった。

 

「何がだ」

 

「さっき注意されてたろ。珍しいと思ってさ。体調でも悪いんじゃないか?」

 

「問題ない」

 

無愛想に答えるリヴァイの前に、その兵士は腰を下ろした。

 

 

「そうは言ってもね、顔色もあまり良くないよ。熱があるんじゃないか?自覚症状はない?」

 

青い瞳がのぞき込んできたので、リヴァイは鬱陶しそうに身を引いたが、その兵士は構わず彼に触れようと細い手を伸ばしてきた。

 

「おい、ナナバ。やめろ」

 

「ほらやっぱり。身体が熱いし、力も入ってないじゃないか」

 

その女兵士の細い手を払いのけようとしたリヴァイの手が、逆に彼女に押さえられた。握られた右手首が気持ち悪い。

 

放せ。

 

そう呟いたその声は、しかし音の形をとることなく、彼の喉にとどまって消えてしまった。ナナバの声が遠くの方で聞こえた気がして、マズイとリヴァイが気付いたときには、ぐらりと世界が回って、すぐに視界は暗く落ちた。

 

*****

 

 

――ちぐはぐな世界なんだ。まるで、透明の繭の中に隠されている何かがあるような。

 

 

――あの時に見た「道」は、この壁の中にいる人びとの繋がりと何か関係が。

 

 

揺らめく白い意識の中、呟く女の声が僅かに響く。語りかけるというよりかは、ぼそぼそと呟くような声。それが何を述べているのかは曖昧としてよく分からない。その声を辿ろうと、耳をそばだてようとしたとき。

 

は、とリヴァイは目を覚ました。茶色い天上と、視界の隅で風に揺れる白いカーテンが視界に入ってきた。

ひどく身体が熱く、思考が曇っている。全身の気怠さを抱えながらも、己の身を包む白くて清潔な白いシーツを握りしめた。

自室ではない。いつもの、騒々しくて薄汚い相部屋ではなかった。自分に支給されているものよりも遥かに清潔なシーツは、太陽の匂いを抱きしめていて、リヴァイはくぐもった思考のなかで、そのシーツに頬を寄せた。

 

「起きた?私の声、聞こえる?」

 

女の声が、思わぬ近さから語りかけてきて、リヴァイはぎょっとして咄嗟に身を起こした。

 

「ああ、ごめんごめん。警戒しないで。突然声かけて悪かった」

 

落ち着いた、しかし明るい声が笑った。

 

 

「お前、」

 

「シグリだ。シグリ・アーレント。エルヴィン分隊長の副官だから会ったことあるんだけど、覚えてるかな」

 

黒くて大きな瞳が、リヴァイを見つめる。

 

 

「前の調査で一緒の班になっただろう?フラゴン隊が壊滅した後だったから、あまり記憶にないかい?」

 

 

ベッドの脇の椅子に座り微笑む女が少し首を傾げた。

 

前の調査における、リヴァイと彼の馴染みが属したフラゴン分隊と、奇行種の襲撃によるその壊滅。

 

 

雨と血と、腐ったような巨人の臭気が鼻の奥で臭った気がして、リヴァイは思わず顔を伏せた。

 

 

「大丈夫?まだ横になってないと、」

 

「触るな!!」

 

 

伸ばされた手を、今度こそ冷たく払って拒絶した。

 

 

彼にはもう、地下には戻るべき場所はない。それは確かだが、だからといって地上に彼の居場所があることにはならないのだ。

 

 

 

追うと決めた背中はあるが、それを追う自分の立つ場所は未だ独りの戦場だった。

 

 

 

 

 

シグリと名乗った女は、悪かったよ、と静かに言ったものの、その場を去る気はないらしく、立ち上がりながら話を続けた。

 

 

「壁上の訓練中に倒れたのは覚えてる?あれから半日は寝てたんだ。もう夜も明けて朝になったばかりだ。今日の訓練は休めと命令が出てるから、あなたはしっかり眠って回復に勤めるのが今日の仕事だ」

 

 

はい、と水差しからコップに移した水をリヴァイに差し出してきた。

 

 

「昨日から何も口にしてないんだ。飲みたくないかもしれないが、飲まなきゃだめだ」

 

 

柔和な笑みを引っ込めて、厳しく言う女に、リヴァイは舌打ちしながらそのコップを受け取った。あおった水は冷たく喉を潤す。そこでようやく、彼は自分がひどく喉が渇いていたことに気付いた。

 

一気に水をあおったリヴァイに、女は満足そうに笑った後、空になったコップを受け取って再び水差しの水を入れてくれた。冷たいからもう少しゆっくり飲まないと腹を下す、と一言余計に口を出しながら。まるで子供に言い諭すような口調に苛立ち、何か言おうとするも、潤った身体に、熱による倦怠感が再び襲いかかってきて、彼はずるりとそのまま横になった。

 

女はけだるげに倒れたリヴァイの手からさらりとコップをすくい出して、脇の椅子に座った。

 

 

「……一人で大丈夫だ。出て行ってくれ」

 

 

まさか看病する気ではないだろうなと危惧して、それだけ言えば、女はきょとんとした顔をした後、破顔した。

 

 

「ここは私の部屋だ」

 

「は?」

 

 

「熱中症かと思ったけど、どうやら風邪のような症状も出てる。感染病だとまずいから、医務室から移動させたんだ。地下特有の感染病だと、他の兵士にうつればどうなるかわからないからね。逆に、地下にはない病気にかかってしまったのなら、しっかり看ておかなければいけないし」

 

 

だから気にせず寝てていいよ、と笑う女の手元には、何やら分厚い本が開かれていた。うつろになりつつある思考のなかで、周囲に視線を配れば、なるほど、そこは確かに医務室ではなく、一人の兵士の自室のようだった。

 

 

小さな一人部屋は、班長クラスに与えられる部屋である。その小さな部屋のなか、壁面の棚には本がびっしりと詰め込まれており、ベッドの反対側の壁には大きな執務机がある。その上には、何やら書類が積まれていた。本や書類の類が多い殺風景な部屋のなかで、ベッド脇にある小さな出窓に添えられた青い花だけが、人間らしさを演出していた。

 

物の多い部屋だが、しっかりと掃除は行き届いているらしく、リヴァイが寝泊まりする相部屋のようなカビ臭さもなかった。薄汚い、と彼が嫌悪していた調査兵団の兵舎のなかでも、なかなか居心地の良い場所に思えた。

 

 

「また治ったら仕事が待ってるんだ。今は休んだ方がいい」

 

 

ゆったりとした女の声に、意識は鈍化していった。ここで寝るのはまずいと彼の理性は告げるが、久方ぶりのベッドと、身体を侵食する熱に、いつしか意識は遠のいていった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「おや、珍しいな」

 

 

白いベッドの中で眠る新兵の姿に、その男は面白そうに言った。シグリはしい、と人差し指を立てて「やっと眠ったところだから」とそれを諌める。

 

 

「君に懐いたのか。妬けるな」

 

「冗談。起きてた時はまるで警戒心の強い野生動物そのものだったよ。それほど調子が悪いんだ。医者が言うにはおそらくただの風邪らしいけど……。精神的なものもあると思う」

 

 

ふむ、と頷いて男は執務机の椅子に腰かけた。

 

 

「しばらく任せていいか」

 

「いいけど、私はどこで寝ればいいの?」

 

 

声を潜めて、シグリは問うた。さすがに男性兵士を女性兵士の私室にとどめ置くのはまずい、と異を唱える。しかし、彼女の上官である男は「治るまでは隔離しておきたい」とその反論をあっさりと棄却して、簡易ソファを運ばせると妥協案をうってきた。

 

 

「地下街特有の感染病ではないとは言い切れない。感染の可能性が少ない君が適任だ」

 

「……わかった」

 

 

ため息一つ。交渉は成立したらしい。シグリは立ち上がって、リヴァイの額に乗せていたタオルを取って手桶の冷たい水にさらした。

 

 

「ついでに彼と仲良くやってくれ」

 

「……どういう意味?……エルヴィン、私にどう動いてほしいの?」

 

 

呆れたような声が少し上ずったのを、今度は男がしぃ、と人差し指を立てて咎めた。

 

 

「まだ言えない。ただ、数日後にはまた「彼女」に会いに行く。手配しておいてくれ。あと、君とリヴァイにはしばらくの間、組んでもらおうと考えてる」

 

 

碧眼の男――エルヴィン・スミスが言った。副官である女性兵士はしばらくの間、その揺るぎない碧眼を見つめた後、「承知しました」と答えた。

 

 

「でも、彼と組む、というのは?」

 

「しばらくの間だけだ。君の研究の助手にでもすればいい。彼に「世界」を教えてやってくれ」

 

 

言って、エルヴィンは席を立った。そして、「話は変わるが」と執務机の書類をひとつ指さした。

 

 

「シグリ。この件からは手をひけと言ったはずだ。二度はないぞ」

 

「……何もしてない。書類整理してたら出てきただけだよ」

 

 

 

「死ぬことになるぞ」

 

 

 

部屋から出る前に、冷たい視線をひとつシグリに投げて、エルヴィンはするりと部屋から出て行った。

 

 

後に残ったのは、女の溜息と、新兵の規則正しい寝息だけだった。

 

 

 

 

 


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