それは愛にも似た、   作:pezo

19 / 34
第七章 父の拳銃 二

 

褐色の長い髪に、真っ暗な瞳。人に言わせれば、この眼球は光の加減で黒くも褐色のようにも見えるという。

 

地中深くに眠る宝石のようだ、とのたまったのは、私の後見人でもあるエルヴィン・スミスだったか。

 

鏡の中の女は、まるでつまらなさそうな生意気そうな顔をしている。頬を引き上げてみれば、目尻に少し皺が寄ったような気がする。もうそれほど若いと言える年頃ではなくなってきた。

 

 

鏡台の引き出しから、いつもの化粧道具を取り出して肌を整えていく。眉を切りそろえ、瞼に色を乗せ、唇にも赤を引く。

 

 

そうすれば、いつもの私はいなくなり、夜の女、シシィのお出ましだ。

 

 

今日は特に予約の客もないが、いつもより少しおめかししてみようか、となんとなく髪を持ち上げていると、部屋にリザが入ってきた。

 

ブロンドの髪が美しい彼女は支度はもう既に済んでいるらしく、肩がむき出しになった白のブラウスに赤いフレアの長いスカートを着ていた。

 

女性らしい豊かな曲線と、雪のような真っ白で傷ひとつない肌、そして惜しげなく下ろされた神々しいまでの金色の髪は、まさに神が与えた造形物だと思う。薄くて骨ばかりの体つきの自分とは比べようもないくらい、彼女は本当に愛らしい。

 

 

「新しいドレス、とても素敵ね。リザによく似合ってるわ。可愛い」

 

 

いつも男たちに褒められ慣れてるだろあに、ちょっと顔を赤らめて照れる様子なんかは、思わずぎゅっと抱きしめたくなるほどだ。

 

彼女は店でも人気だし、休日に街に繰り出せば男たちの視線はいつも彼女に集まる。きっといつか、この子にも素敵な男性が現れてこの店を出ていく時が来るのだろうし、その時を見送ってやりたいとも思う。

 

 

「……シシィ」

 

「どうしたの?らしくないわね」

 

 

髪を結いあげながら、いつもはよく回る口が閉ざされているのに首をかしげる。なにやら思いつめたような表情が鏡越しに見えて、思わず振り返れば、「いいの。なんでもないわ」と笑った。

 

 

「シシィ。私が結ってあげる」

 

「ほんと?嬉しい。リザが結ってくれると綺麗になるのよね。お願い」

 

 

自分では結い上げるくらいしかできないが、器用な彼女の手にかかれば、この髪は編み込みなどを施された造形品のように美しく仕上がるのだ。

 

 

「生え際はあまり見えない方がいいわよね」

 

「ええ。自然に見えるようにお願い」

 

 

柔らかな彼女の手が、何やら器用に髪を触る感触にうっとりと目を閉じれば、リザは年頃の女の子らしく、ここ数日にあったことをたくさん話し出した。

 

パンを買い出しに行った時に店の主人からおまけをもらったこと。

ママの髭剃りを新人の男性給仕が間違って使ってしまい、久しぶりにママが凄い声で叫んでいたということ。

昨日の客がしつこくて、もう接客したくないけど、明日も来るから参っているということ。

 

とりとめのないことを、つらつらと話してくれる声はいつものリザだ。あどけなさを残した声に、心が澄み渡るような心地がして、私はその耳心地の良い話に聞き入っていた。

 

 

「……この前、初めて調査兵団が帰還してきたところを見に行ったわ」

 

 

それは、少しだけ、いつもより低い声で語られた。ふと見れば、先ほどまでの笑顔は引っ込んで、何やら思いつめた表情が可愛らしい顔に浮かんでいる。

 

 

「レヴィも見た。あいつ、私が呼んだのに無視したのよ」

 

「彼らしいわね」

 

「ダグラスは、見たことのないくらい怖い顔してたわ」

 

「そう」

 

 

鏡の中を見れば、髪はすっかり整えられて素敵に結いあげられていた。まるで貴族の美しいお嬢さまのように上品だ。

 

 

「私、やっぱり調査兵団なんて嫌いだわ」

 

「そうね。……怖いものね」

 

「シシィも怖いの?あいつらのこと」

 

 

問われて、ダグラス――エルヴィン・スミスの迷いなき双眸が脳裏をよぎる。

 

 

「――そうね。怖いと思うこともあるわ」

 

 

その言葉に何を思ったのか、リザは息を飲んで視線を漂わせた。どうしたのか、と問おうとしたら、不意に後ろから抱きついてきた。

 

いよいよどうかしたのか。やはり何かあったのか。調査兵団がらみだろうか。それとも誰かに虐められでもしたのだろうか。

 

 

「リザ?どうしたの?何かあったの?何でもいいから、辛いなら話してみて」

 

 

抱きつく手をさすって振り返れば、青く、少し緑がかったガラスのような瞳がひそめられて、不意に私に近づいてきた。

 

あ、と思った時には可愛らしい彼女の唇に、キスをひとつもらっていた。

 

彼女とのキスはそれほど珍しいものではない。じゃれるように笑いながら、冗談のように頬にキスを贈られたことは今まで何度もあったが、こんな思いつめた表情で、唇にされたことは初めてで、驚きで言葉を失ってしまった。

 

 

「シシィ。私はあなたが好きよ」

 

「え、ええ。私もリザのこと大好きよ」

 

「違うの、シシィ。私は、」

 

その時、ノック音が響いて、ママがドアから顔を出した。

 

「シシィ。レヴィが来てるわよ」

 

 

今日一番最初の客の到来を告げたママに、リザはするりと私に絡めていた細い腕を解いた。

 

 

「リザ?」

 

 

「さあ、シシィ。何ぼうっとしてるのよ。行かなきゃ。あいつ、シシィにご執心だから、遅くなると機嫌が悪くなるわよ」とちょっとふてくされながらも笑った。

 

 

 

 

 

 

レヴィ――リヴァイは、いつものように黒いジャケットを羽織った姿で店の奥の、いつもの席にいた。

 

店の奥にありながら、店内を一望できるその席は、店の勝手口にも近く、そこを好んで座る彼の警戒心の強さが表れているような座席だ。

 

いつものように、眉間に皺をよせて、まるで世界の終わりの1日のような表情をのせている。目の下のクマも色濃く、「不景気な顔」と彼を指してダグラスが言ったのもあながち間違いじゃない、と失礼ながらに思う。

 

それでも、その表情が決して不機嫌故のものではないということに気づくには、それなりの時間を要した。けれどもまだ、彼の笑う顔はお目にしたことがない。彼はどんな時に笑うのだろうか。

 

 

「レヴィ」

 

 

呼べば、ちらりと薄い灰色の鋭い瞳が私を見つめて、ひとつ頷いた。これも、いつもの彼の仕草だ。

 

でも、今日、彼がそこにいることはいつもと大きく違う。

 

 

「レヴィ。あなたがダグラスの指示なしに来てくれたことって初めてね」

 

「……ああ。今日は仕事は抜きだ」

 

 

隣に腰掛けると、彼が一つ距離を詰めてきた。下から、見上げる灰色が鋭く私を捉える。

 

 

 

「お前に会いにきた。シシィ」

 

「……初めてね。嬉しいわ……」

 

 

 

会いに来た、と彼は言ってくれた。しかし、席についてしばらくしても彼は特に何か話すこともなく、黙々と私の注ぐ酒を飲み干すばかりだった。いつしか、店内も客で賑わいをみせはじめていた。

 

彼がようやく口を開いたのは、それからまた暫く経ってからだった。店内も賑わい、店の奥で弾かれるピアノも、暖かなテンポのある曲を奏でていた。

 

 

「お前の叔父。レオン・アーレントの死についての件だが、悪かった」

 

 

ぽつりと。前を見据えてグラスを傾けながら言った。ガラスのふちを掴む独特の持ち方で、器用に酒を飲む姿からは、彼の真意はよく掴めない。

 

 

「あなたが謝ることじゃないわ。……あんなこと頼んで申し訳なかったと今は思ってるの。あなたが断ってくれてよかった」

 

「叔父の不審死について、真相を知りたいと言っていたのはいいのか」

 

 

一年半前の工場での不審火。あの人はとんでもなく潔癖で、工場の隅から隅まで安全衛生を徹底した人だった。特に火の取り扱いについては、かなり気を配っていた。そんな彼の工場での、あり得ない火事。

 

 

「……いいの。真相は分からなくても、きっと私の予想は当たってるから。確証が得たかっただけ。私では探れない憲兵団の情報をあたなに集めて欲しいだなんて、あなたの立場を危うくさせるお願いだったわ。断ってくれて、本当に良かった」

 

 

そうか、と男は私を見ることなく頷いた。

 

 

「でも、どうして今頃?」

 

「……いや、大した意味はない。ただ、少し聞きたくてな」

 

 

レヴィは、少しだけ躊躇ったあと、身体を起こしてソファに背中を預けた。中空を見ながら、何かを思い出すように、つらつらと話し始めた。

 

 

「俺の母親は娼婦だった。俺がまだクソの捨て方も覚えてない時分に死んだ。それから少しの間、ある男と一緒に暮らしたが……そいつもすぐに俺の前からいなくなった。訓練兵への志願可能年齢より少しガキの頃の話だ。それから、ほとんど一人で生きてきた」

 

 

手を見やる。その手は彼の小柄な体格の割に大きく、骨ばっていて、固そうな男のそれだった。

 

 

「生きるために生きてきた。別に他の奴らみてえに地上に行きたかったわけでもねえし、死ななけりゃそれで十分以上だった。それでも次の瞬間、ナイフで切られてあっけなく死ぬもんだとも思ってた。まあ、そりゃあ今でもそう変わらねえが……そんな生活しか俺は知らねえから、なんだ。その、よく分からないんだが」

 

 

どうやら、彼の生い立ちは前置きだったらしい。少しだけためらって、私を見つめて「叔父ってのは、家族なんだろう?」と尋ねてきた。

 

質問の意図が読めず、首を傾げれば、彼は説明を続けてくれた。

 

 

「俺には親や兄弟なんかもいねえ。仲間はいたが、普通のやつらの言う「家族」なんてもんには縁が薄い。だからよくわからねえんだが……。お前にとって、レオン・アーレントは、家族だったんだろ?」

 

 

その、言葉と視線の意味を悟って、恥ずかしさといたたまれなさが胸を締め付けた。

 

どこまで知り得たのか。彼は、どこまで事実に近づいたのか。

 

 

「ご、ごめんなさい。私、あなたに嘘を…。レオンと私は血のつながりは、」

 

「そんなことはどうでもいい。てめえの嘘は大した問題じゃない。レオン・アーレントがお前の叔父でも父親でも、赤の他人でも何でもいい。お前にとって、レオンはなんだったんだ」

 

「どうしてそんなこと聞くの……?」

 

 

灰色の瞳が、ちらりと私を見遣った。けれどそのまま、すぐにまた中空に視線を戻した。

 

 

「どうしてだろうな……。知りてえのかもな。その男が何者だったのか。お前にとってなんだったのか」

 

 

ひとつ、息を吐きながら、レヴィは自分の膝に肘をのせて頬杖をついて、今度こそ私を正面から見つめてきた。

 

 

「俺を巻き込みやがったくせに、もう一人の女は何も喋りやがらねえ。だがここにいるお前なら、何か話してくれるんじゃねえかと期待したのかもな」

 

「……もうひとりの、」

 

「シグリ・アーレント。いつも澄まして笑ってやがる。どこまで剥いでも澄ました顔しか出てこねえが、中身はえげつねえもん抱えてるあの女だ」

 

 

彼の右手が伸びてきて、私の髪を左耳にかけながら、頬を少し撫ぜた。

 

 

「なあ。お前はどうだ、シシィよ。話す気はあるか。俺に」

 

「あ、あなた、どこまで知ってるの」

 

「エルヴィンに報告を受けたことだけだ。ラング商会のこと、シグリとハロルド商会のこと。それから、レオン・アーレントと設計図のことだけだ」

 

 

彼はさらにその奥の事実を、どこまで気付いているのか。

 

 

「あなたに話せることは少ないわ」

 

「話せ」

 

 

その薄い灰色が、鋭く私を捉えて、まばたきひとつすら許されないような感覚に陥る。凍て付くような視線とは裏腹に、彼の右手は優しく頬を撫でている。

 

 

「レオンは私の叔父でも何でもないわ。ただ、知り合いのお父上だったというだけ。家族でも何でもないの」

 

「赤の他人になぜ執着する」

 

「……わからない。いえ、ただ、彼の技術は……」

 

 

まだはっきりと覚えている。技師としての強い矜持に支えられた、彼の洗練された技術と開発の数々。それらを生み出す両手がまるで神様のようで、それらを生み出すときの彼の瞳が、子供のように輝いていて、私はあれがとても好きだった。

 

 

「壁の中の数少ない希望だと思った……」

 

「希望?なんだそれは」

 

「…………」

 

 

 

どう話せばいいのか。語る言葉を私は持たない。持っていない。

 

喉から出てこない声に気まずくなってうつむけば、左頬から男の暖かな手はするりと引いていった。わずかに彼がため息をつく。

 

 

「お前も話せないのか」

 

「…………ごめんなさい」

 

「シシィ。いや、マリか。それとも……なあ、お前は誰だ。お前は何者なんだ」

 

 

 

レオンとは。シグリとは。アーレントとは。シシィとは誰か。マリとは何者か。

 

 

 

「お前は、なんて呼べば応えてくれる」

 

 

 

彼は、私に向き合っている。それに応えられない己に、吐き気がしそうだった。

 

 

「私のことを、見つけてくれたら……」

 

「何?」

 

「いえ。ごめんなさい。何でもないわ」

 

 

言って、立ち上がった。体調が優れないと言い訳して、逃げるように彼の傍から店の奥へと引き返した。心配して部屋までついてきてくれたママに、レヴィへのお詫びだけを伝えてもらった。

 

リザにレヴィへの接待を頼んだが、彼は断ってすぐに帰ったと、部屋で休んでいればママが教えてくれた。

 

突然仕事を放棄して客を捨て置くような真似をした私にも、ママは優しくそっとしておいてくれた。レヴィも、特に文句も言わずに帰ったと聞いた。

 

 

 

 

 

その夜、ダグラスことエルヴィン・スミスからの早馬で、ハロルド商会のハロルド会長が死亡したとの報せを聞いた。

 

死因は内臓損傷によるものらしかった。顔を含めた全身に、見るも無残な殴打の跡が無数にあったことから、強盗による殺人であろうということだった。

 

 

それが、奴らの仕業であると私は直感した。

 

 

レオン・アーレントもまた、そうやって殺された。

 

 

王政から派遣された憲兵団に。その、設計図を手にしていたという理由によって。

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。