それは愛にも似た、   作:pezo

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第六章 拳銃と海 三

リヴァイが湯浴みを終えたのは、夜もかなり更けた、就寝時間も近い頃合いであった。

 

たった1日だけでかなり消耗した、とリヴァイは疲労を引きずりながら兵舎の中をひとり歩く。

 

早朝、日の出とともに壁外調査へ出て、戻ってからその処理を行ない、夕刻からは狙撃の件で憲兵団からの取り調べと兵団内の調査。なかなか身心ともに疲労の多い暗鬱たる一日であった。

 

 

 

部屋に戻れば、棚の上に新しくかえられた水差しが置いてあった。シグリが毎日のように入れ替えてくれている水である。リヴァイはその水を棚の上に飾っている木鉢の片方に注ぐ。

 

水が与えられている、向かって右側の植物はもうすっかり元気を失ってしおれてしまっていた。

 

コップから半分ほどの水を注いだ後、リヴァイは残りの水を一気に仰ぎ飲んだ。執務机に置いた酒とグラスを取り、隣の部屋へと続く扉を叩く。

 

隣の部屋にいるであろう主人からは返事はない。ドアノブに手をかければ、鍵はかかっていないようで、その部屋は呆気なく彼の侵入を許した。

 

 

「シグリ。起きてるか」

 

 

部屋の壁という壁にはぎっしりと様々な本が敷き詰められている。部屋の隅には今日の調査で持ち帰った聖母像が黙して佇んでいて、薄気味悪さが漂っていた。

 

中央に配された大きな研究机の上が整理されているのは、ひとえにリヴァイの日頃の掃除の賜物である。ハンジほどの不潔さはないが、この部屋の主人は書類を上に積み上げる癖がある。

 

 

その机の奥。扉から最も遠い壁の脇に備えられたベッドで、女が横になっている。ベッド脇の小さなテーブルの上ではランプの炎がゆらりと揺れている。

 

彼女は本を開いたまま、顔の上に乗せて、黙していた。

 

 

「入るぞ」

 

 

黙ったままの主人を無視して、リヴァイは部屋へと入り、ベッドの脇に立った。女はまだ黙している。

 

 

「エルヴィンから酒をもらった」

 

「寝てる」

 

 

女が言う。起きてるじゃねえか、と思ったが、リヴァイは何も言わずそのまま無遠慮にベッドへと腰掛けた。突然傾いたベッドに驚いたのか、女は怪訝な顔で半身を起こして、

 

 

「勝手に部屋に入るな」

 

 

と抗議してきたが、何を言うか、とリヴァイは無視した。

 

 

「入られたくなけりゃ鍵をかけておけ。警戒心ってもんがねえのかお前は」

 

 

女は珍しくふてくされたような表情をしている。普段、取り繕ったかのように冷静な笑顔を崩さない女の顔に、リヴァイは少々気分を良くした。

 

 

「酒だ。付き合え」

 

「疲れてる」

 

「明日からしばらく休みだろ」

 

「でも明日は会議だ。今日できなかったぶんのね」

 

「夕方からじゃねえか」

 

 

少々の寝過ごしは許される。こんな夜だ。ひとつ付き合え、と女の抗議を無視したまま、リヴァイは瓶のコルクを抜いた。芳醇なアルコールの香りが鼻をくすぐる。

 

二つのグラスにその黄色くも透き通った葡萄酒を注いで、彼はシグリに差し出した。

 

 

彼女は渋々、といった風にそのグラスを受け取った。押しには弱いらしい。

 

 

「乾杯」

 

 

リヴァイが己のグラスを差し出せば、怪訝な顔を隠そうともせずに、それでもシグリはそれに応じた。

 

二つのグラスが、かつりと軽い音色を奏でた。

 

 

「……何か話があるんじゃないのか?」

 

 

 

 

喉をちりりと焼くようなアルコールの味。甘く舌触りの良い割りに、アルコール度数は高いらしい、と一口飲みながらリヴァイがぼんやりと思ったとき、シグリが酒を仰ぎながら言った。

 

ランプの光が黒い瞳に揺れて、褐色に輝いている。膝を抱え、胸に本を抱きながら酒を飲む姿は、怪訝そうにはしているものの、警戒心のカケラも感じられない。

 

ふと見遣れば、部屋着のリヴァイと同じく、彼女もまた寝間着であったようで、長袖のゆったりとしたワンピースに身を包んでいた。

 

常に兵士然として、時折まるで男のようにも見える女の姿に、リヴァイは少々意外に思ってまじまじと見つめた。

 

 

「何?」

 

「いや、お前、女だったんだな」

 

 

はあ?と呆れたような間抜けな声がシグリの喉から漏れた。

 

 

「……まさか、知らなかったの?」

 

「いや。忘れてた」

 

 

言えば、女は今度こそ呆れたように「そりゃ、光栄だ」と言いながら酒を仰いだ。

 

 

「あまり一気に飲むな」

 

「そんなに弱くないよ」

 

 

 

どうやらそれは本当らしく、あっという間に一杯目を空にした女は、リヴァイの手から瓶をとって手酌で注いだ。リヴァイの杯にも入れて、二人は黙々と言葉もなく酒を嚥下し続けた。

 

 

 

言葉がなければ、酒は進む一方である。その沈黙の酒盛りに終止符を打ったのは、瓶の酒も半分以上胃の中に消えた頃だった。

 

ザルのリヴァイは全く酔わないが、シグリもほとんど顔に出ていない。ただ、少しだけ、目尻が微睡み始めていた。

 

 

 

「お前、なぜラング商会と会っている」

 

 

 

その唐突な問いを予想していたのだろうか。シグリは眉ひとつ動かすことなく、「なぜ?」と逆に問い返してきた。

 

 

「数ヶ月前から、お前がラング商会の会長と度々会っているのは知ってる」

 

 

「……エルヴィンの命令?」

 

 

 

黙してリヴァイが頷けば、シグリは否定することなく「そうか」と呟きながら酒を一口仰いだ。

 

 

「俺に飲ませてる毒の水と、何か関係があるのか?」

 

 

脈絡のない問いかけである。しかし、シグリは不思議そうな顔一つせず、グラスを片手に膝の上に顎を乗せた。

 

 

「……何が言いたいの?」

 

 

そこには、兵士然とした雰囲気はなくなり、妙齢の女性らしいとろりと甘い雰囲気を纏った女がいた。

 

酒が入ると随分変わるものだ、とリヴァイは横目でその様子を見ながら思った。

 

 

 

「今回の狙撃。兵団内に内通者がいれば、事は簡単だ」

 

 

「そうだね。兵団内の構造と、調査後の兵士の動きを知っていれば、特別な訓練を受けていない者でも本部に忍び込んでエルヴィンを狙う事は出来ないこともない」

 

 

 

こくり、とシグリはグラスを仰いで、酒を飲み干す。

 

 

 

「つまり、その内通者が私であると。私がエルヴィンを裏切っていると言いたいわけだ」

 

 

「そうだ」

 

 

言いながら、まるで友にするかのように、リヴァイは女の空いたグラスに酒を注いでやる。女もまた、不穏な会話にそぐわない丁寧さで、その酒を両手でうけた。

 

 

「じゃあ、私も聞きたいことがある」

 

 

くふふ、と笑う。まるで、内緒話をするかのような気軽さである。愛らしさまで覚えるほど屈託無く笑ったところをみると、顔には出ていないが、酔いは相当回っているのかもしれない。

 

 

 

「ハロルド商会とあなたの関係は?何をして援助をつかみとったんだ?」

 

 

「俺がハロルドと不正取引をしたと?」

 

 

「そうだ。ついでにネタも上がってる。あなたが引き渡したのは、エルヴィン分隊長の副官が持つ、拳銃の設計図だ」

 

 

 

黙したリヴァイに、ふふ、と笑ったシグリがするりと右手を枕へと伸ばした。リヴァイが反応するより早く。それこそ、まるで酒なぞ飲んでいないかのような素早さで、彼女はそれをリヴァイに突きつけていた。

 

 

「知ってるだろ?これは、壁内では出回っていない新式の拳銃だ」

 

 

 

黒い銃口が、リヴァイの眉間に添えられる。ひやりと硬く冷たい感触を額に感じながら、リヴァイはそのままの姿勢でじっとシグリを見ていた。

 

彼女の右手には、狙撃の時に持っていた、黒くて弾丸がいくつも装填された連発式の拳銃が握られている。憲兵団へと見せたものとは違う、彼女の「私物」だというものであった。

 

 

「俺が、その設計図を盗み、ハロルド商会に引き渡したと言いたいのか」

 

 

「違わないだろ?」

 

 

 

2人の間に、沈黙が落ちる。

 

 

 

女は笑っている。リヴァイもまた、突きつけられた拳銃に恐怖を覚えるより先に、背中を走る愉悦に似た快感を覚えていた。

 

 

「拳銃を下ろせ。酒が注げねえ」

 

 

 

抗議すれば、女はあっけなく銃口を下ろして、代わりにグラスを持ち上げてリヴァイの目の前へずい、と寄せた。現金な女だ、とリヴァイはそれに酒を注いでやる。今度は女もその瓶を取り、リヴァイの空の杯に酒を注いでやった。あっという間に瓶の中身は空である。

 

 

 

二人して酒を仰ぎ、うまい、と零す。さすが、エルヴィンが持っていた酒なだけある。

 

 

「それさ、あなたのその推理。残念だけど違う」

 

 

「そうかよ。お前のそのクソみてえな推理も間違ってるがな」

 

 

うん?と女が首をかしげた。

 

 

 

「じゃあ、あなたがハロルド商会と個人的に会ってる理由は?今日戻ったら私の部屋から設計図が消えてたのは誰の仕業?あなたしか部屋に入れないのに?」

 

 

「そっちこそ、ラング商会と会ってる理由はなんだ。第一、俺に毒を飲ませ続けるなんざ、並大抵の理由じゃねえだろう。何がしたい?」

 

 

 

再び沈黙がおちる。ちりり、とランプの火が一際大きく揺れた。火が、小さくなりつつあった。

 

その沈黙を破ったのは、今度はシグリの方であった。拳銃の安全装置を掛け直し、それをサイドテーブルに置いて、どさりとそのまま仰向けに横になった。

あぁ、と間の抜けた声に、緊迫した空気が一気に緩んだ。

 

 

「疲れたよ。もう今日はこの話はやめよう。もう何も考えたくない」

 

 

 

疲れた、と再び小さく泣くような声で呟く。細い指を額に乗せて、彼女は何かに耐えるように、きつく目を閉じた。

 

 

「リヴァイ」

 

 

 

呼ばれて、彼は少し覗き込むように彼女を見つめる。女は目を伏せたまま。泣いているのだろうか。

 

 

「私はエルヴィンのことは裏切るつもりはないんだ。それだけはウソじゃない」

 

 

いつもは凛と張り詰められた声が、か細く震える。悲しんでいるのか。怯えているのか。

 

彼女の真意は、リヴァイには想像すらできない。

 

ただ、なんとなく。そのきらきらと光を抱く瞳を見たくて、顔に手を添えた。彼女の上に乗りかかるような姿勢に、ぎしりとベッドが軋んだ。

 

ゆっくりと開けられた大きな瞳は、ランプの僅かな光がきらめいていた。どうやら自分はこのきらめきを気に入ったらしい、とリヴァイは他人事のように思う。

 

 

「泣いてるのか」

 

 

ふるふると静かに彼女は首を横に振った。白い首の下に、普段はシャツに隠された鎖骨がある。艶めかしく白く輝く骨に、こくりとリヴァイは喉を鳴らした。

 

 

「泣けよ。澄ました顔してんじゃねえ」

 

「何それ」

 

 

リヴァイはつ、と手で女の頬をなぞった。くすぐったそうに女は首をすくめる。抵抗するしぐさはないが、少しばかり体の筋肉がこわばっているのが、手のひらごしに伝わった。

 

 

「お前がエルヴィンを裏切るつもりがないなら、これ以上は聞かない」

 

 

言えば、女は驚いたように目を丸くした。そもそも、リヴァイがエルヴィンから命じられたのは、シグリの監視と護衛である。相反するようなその命令の目的は判然としないが、リヴァイはそれでいいと考えている。あの金色の考えていることは、己には到底知り得ることはできないのだ、とこの数か月の間でいやというほど理解している。

また、目の前の女も、金色と同じく、自分よりもさらに様々なことを思考しているのだとリヴァイは知っている。ならば、その彼女が「裏切らない」というならば、信じてみるのも一興である。

 

 

「俺もあの男を裏切るつもりはない」

 

 

「信じろって?あなたを?」

 

 

「ああそうだ。信じろ。俺もお前を信じよう」

 

 

今度こそ、女は驚きを顔に出して言葉を失ったようだった。まっすぐに落とされるリヴァイの視線に逡巡した後、小さく、「わかった」と呟いた。

 

お互いに疑問とわだかまりを残しつつも、二人の探り合いはひとまずの終止符となった。

 

副官であるシグリの、ラング商会との関係。そして彼女が毎日のようにリヴァイに用意する水差しに入れられた毒。

 

懐疑の種は多いものの、リヴァイは女を信頼すると決めた。その判断の根拠は、ほとんど彼の地下街で仕込まれた勘によるところが大きい。

 

何を信頼するのか。見極める根拠とするのに、人の言葉と行動はひどく曖昧だ。

 

リヴァイは、彼女の瞳のきらめきを好み、信じることとした。馬鹿らしい根拠だが、こういうときの勘が外れることはそうそうない。リヴァイは、黒曜石のような瞳をたたえた顔を撫でながらそう思う。

 

そんなリヴァイの思考を止めたのは、その黒曜石の持ち主のたじろぎであった。

 

 

 

「あ、あのさ、リヴァイ……」

 

「なんだ」

 

「ちょ、ちょっと、その手、どけてくれないかな」

 

 

おびえるような、少し照れるような表情で、彼女が言ったので、リヴァイは頬を撫でるようにしていた己の右手の行方にようやく気付いた。しかしどうにも滑らかな肌を手放すのが惜しく感じて、

 

 

「なぜだ」

 

 

と問えば、女は「えぇ?」と素っ頓狂な声をあげて、しどろもどろに目を右往左往させた。いつかの夜のように、特段拘束しているわけではないが、彼女は抵抗しない。ただただ少女のように狼狽えるシグリに、リヴァイはその女のことを知りたくなった。

 

 

この女は何を思って行動しているのか。何のためにエルヴィンを裏切らないと誓うのか。

 

なぜ、命をかけて壁外の地獄へ赴くのか。

 

 

 

「……どうしてお前は調査兵団にいるんだ」

 

 

「え?」

 

 

「無駄死にだと思わねぇのか。お前なら、他にもできることがあるだろう」

 

 

女は少したじろいだ後、枕元に放り出された分厚い本に手を伸ばした。開かれたページに、大きな魚が描かれていた。

 

 

 

「……海に住む、巨人より大きな海獣。クジラっていうんだ」

 

 

 

彼女の右手の細い指が、挿絵の大きな魚を愛しそうに撫でる。するりとリヴァイの手から彼女の頬は逃れ、きらりと煌めく瞳をその絵に向けた。リヴァイの視界に彼女の右手首の付け根にくっきりとついた、注射の跡が入った。

 

訓練の後、毎日のように机に向かう彼女の右手を蝕む、炎症を抑えるために、自ら注射を打つ姿は痛々しくリヴァイの瞼の裏に鮮明に焼き付けられている。何度も打たれた薬剤の通る道は、白い肌に赤黒い穴の跡を残したのだ。

 

 

それは、日夜歴史を書き綴る、彼女の痛みの証しだ。

 

 

「壁の中は息がしづらい。でも、壁の外はそうじゃない」

 

 

「巨人がいてもか?」

 

 

「うん。そこは確かに地獄だけど。きっと楽園があるんだと思う」

 

 

語る瞳は、先ほどまでの狼狽を忘れ、外の世界に夢見るきらめきを宿している。リヴァイは身を起こして、その彼女の姿をまじまじと見た。

 

 

「楽園があるのか?」

 

 

「だと、いいなと思ってる」

 

 

女が笑った。それはリヴァイが初めてみた、彼女の偽りない笑顔だった。

 

 

 

 

 


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