「総員、撤退せよ!!全速力で駆け抜けろ!!!」
前方で班長が叫んだ声が耳の奥でこだました。言われなくても、バカみたいに走っている。鬱蒼とした巨大樹の森の中、奴らの息づかいがすぐ背後で聞こえる気がした。
「振り返るな!走れ!!!」
斜め前を走っていたイワンが私の顔を鬼の形相で睨み付けながら叫んだ。必死で振り返りたい欲求を抑え込み、恐怖に震える奥歯をかみしめて手綱を握り直した。
薄暗い森の向こうに、平地に広がる木々の切れ目を見つけて、僅かに生きる希望を見いだした気がしたそのとき。
「 」
何か言ったような。何も聞こえなかった。前方を行くイワンの頭が、その巨大な口に横から飲み込まれて、首が。
真っ赤に染まった視界に目を閉じた瞬間に、私の身体はしたたかに地面に叩きつけられた。
ぼたぼたと液体が地面を打つ音と、身の毛のよだつような咀嚼音が耳に入ってきたのと、鼻をつく濃厚な血が香ったのは同時だった。見上げれば、目の前でその巨人が人間の胴体を食んでいたところであった。
――ああ、自由の翼が見えない。赤く滲んで、兵服の翼が。
巨人がぐるりと首をもたげながら、胴体をかみ切ろうとする音が森のなかに響く。そうか。人間と同じ、平らかな歯しか持っていないから、かみ切れないんだろう。
場違いにそう思った矢先に、その巨大な黒目が私を捕食対象として捉えた。あの、黒くて焦点の合わない瞳は、まるで鮫のような――。
「シグリ!!」
飛べ。
そんな声が聞こえた気がして、はっと我に返る。両脇の立体機動を握りなおしてアンカーを射出しようとするも、装置は間抜けなガス音だけ出して動かない。
「故障した?!」
目の前でイワンのものだった下半身がぐしゃりと音を立てて地に落ちた。口元から下を真っ赤に染め上げた巨人が、手を伸ばしてきて。私は、迫り来る死の恐怖に凍り付いてしまった。
――何を、期待してたんだろう。
世界は私を中心には動いていない。この世界のなかでは何もかもが無意味で、主人公になんてなれない私は、物語の始まる前に退場する。無意味に。無惨に。名も無き惨めな一兵卒として。
生きる意味も見いだせずに。何も残せずに。
「シグリ!!!」
アンカーの射出音と、ガスの噴射音が聞こえる。
――シグリ。
「勝利」を意味する名を託してきた男の顔が脳裡をよぎった。その期待に答えることも、否と言うことすらできずに。
しかし、一向にその瞬間は訪れない。あれと瞬きをしたのと、巨人がその張り付いた笑顔のまま、ゆっくりと地にひれ伏したのが同時だった。
「シグリ!大丈夫か!?」
「……ミケ?」
巨人のうなじを削いで舞い降りたのは、分隊随一の実力を持つ屈強な兵士だった。
「飛べるか?」
「い、や、故障、して」
トリガーを握っても、カチカチと音がするだけだ。何度も握ってみていたら、馬たちが走り寄ってくる音がした。
「ミケ!シグリ!無事か」
「ああ」
「すぐ出発する。巨人の群が迫ってきている。まずは本隊に合流だ」
数体の蹄の音。頭上で男達の声がする。
「シグリ」
呼ばれて、顔を上げれば、僅かに森に差し込む陽光に、金色の髪を輝かせた碧眼の男が手を伸ばしていた。
「乗れ」
生きろと言われた気がして手をとれば、あっという間に馬上へと引き込まれた。男の両腕に囲まれるような形のまま、馬が駆けていく。
イワンだったかけらが背後に遠のいていき、進む道の途中に「駆けろ」と号令していた班長の首や、同じ班員の女性兵士のキレイな右手が落ちていたりして、その死体のカケラたちに「自分が生きている」ことを実感した。
生きている。生きている。生きている。
――生きている。
森を抜ければ、草原の緑と、透き通った空の青が広がる。隔たりのない広野に出て、後ろの男を仰ぎ見れば、彼は珍しく眉をひそめて苦渋に満ちた表情をしていた。
「――エルヴィン、」
手綱を握る大きな右手が、私の身体を少し抱いた。
「君が生きていて、よかった」
それが彼の人としての本音だったのか、それとも調査兵としての言葉だったのか。それは今となってはどうでもいいことだ。
それは、私の初めての壁外調査であり、二度目の壁の外の体験だった。
844年、春のことである。