物語終了後、瀧と三葉さんが付き合い始めて、温泉旅行に来た話です。


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もう子供じゃいられない

 健全な年頃の男子として――瀧はどうしても 女体(カラダ)を求めてしまう。

 勿論、最初からそれが目当てだったわけではない。

 が、外面に惚れたと疑われてもおかしくないほどに、彼女との出逢いはセンセーショナルであった。

 何しろ、流れ行く車窓から車窓への視線の交錯――切っ掛けは、ただそれだけ。

 その一瞬が、通勤途中の二人を線路から引きずり下ろしたのである。

 求め合う二人は広い東京という街の中で奇跡的に巡り逢い、

 語らい、

 別れ際にはまた逢う約束を結び――

 それは連日、

 就業後から帰宅までの僅かな合間を縫い止めるように。

 瀧の心は、みるみる少年へと返っていく。

 彼女を見つめ、

 声を聞き――

 そのためならば、少々高めのお茶代も惜しくはない。

 だが。

 恋する相手の傍にいるだけで――さらなる欲が疼き出す。

 この幸福を、もっと確かなものにしたい。

 ずっと、これからも。

 自分だけのものに。

 そんな願いをこめて。

「三葉さん、俺と、付き合ってもらえませんか?」

 それを聞いた彼女に、驚く様子は見られない。

 かといって、喜ぶ様子さえも。

 ただ、平然と。

「うん、いいよ」

 三葉の中に、未来はなかった。

 今を求めることに精一杯で。

 田舎育ちの彼女にとって、都会のカフェは憧れの的ではあった。

 が、ここに住み始めてから七年も経ってる。

 当初のようなときめきは既にない。

 なくなっていたはずだ。

 そう、思っていたのに。

 瀧という青年と食べる甘味は格別に感じられた。

 彼が美味しそうにスポンジの一欠片を口に含む様は、何故か昔を思い出させる。

 東京生まれの東京育ちである瀧の仕草に、初々しさはない。

 だから、こちらに避難してきた当時の自分を思い出しているのではないはずだ。

 それでも、目を離すことができない。

 ずっと見ていたくなる。

 ずっと見ていられるはずだ、と信じられる。

 だからこそ、

 友達だろうと、

 恋人だろうと、

 夫婦だろうと――

 肩書きに拘る必要はない。

 これからも瀧君とこうして身を寄せて、笑い合って過ごしていけるはずだ。

 そうあれば、私は幸せ――三葉には、他に何も考えられない。

 ここから先の幸せを、思い描くことができない。

 まるで、そこで時が止まってしまったような。

 それほどまでに、瀧との出逢いは彼女を変えた。

 故郷を失うと当時に恋心も失い、

 どんな異性にも興味を持てなくなっていた。

 彼女の人生設計に男の影はなく、

 ただひたすらに友人たちと都会での生活を満喫する。

 何故なら、この街には娯楽が溢れているから。

 かつて夢見て憧れた日々。

 男になんて構っているヒマはない。

 そう、思っていたものだから――

 男の人との付き合い方がわからない。

 三葉が望むのは、こうして一緒にお茶を飲むことばかり。

 来る日も来る日も、飽きることなく。

 カフェを巡ることによって――何かを取り戻そうとしているかのように。

 だが、この繰り返しに、瀧は本能的な(くさび)を打ち込んだ。

「今度の連休、旅行とか……どうですか?」

 折角こんな華やかな場所で暮らしているのに、わざわざ郊外へと赴く理由がわからない――と、これまでの三葉なら突き返したことだろう。

 だが、彼女は二つ返事で首肯する。

 瀧と共に出掛けるのであれば、どこであってもそれは楽しい思い出になるに違いない。

 世間もGWに向けて慌ただしくなっていることだし、どこかに行くなら今のうちに宿は押さえておくべきだ。

 三葉は、すべての旅程を瀧に託す。

 その結果――彼が選んだのは何故か湯畑地方だった。

 冬ならともかく、何故こんな春先に? と思わないこともない。

 が、広々とした浴場は、さぞ気分の良いことだろう。

 それに、観光地ならばカフェだってあるはず――と無意識に考えてしまう自分が、三葉は少し怖くなってくる。

 どうしてここまで喫茶店に固執するのか……それは、彼女にもわからない。

 ただ、瀧と喫茶店と自分――この三つが、何か大切な思いに結びつくように感じていた。

 

       ***

 

 どこかおかしい――いつもと違う瀧の様子に、三葉はところどころで首を傾げる。

 決してつまらなそう……というわけではない。

 でも、どこか上の空。

 さっき見たお寺とか、ああいう建物は好きそうだと思っていたのだけれど。

 何故か、しきりに先を急いでいる。

 行けども行けども、その先へ。

 彼が最も心待ちにしているのはどこなのか。

 その答えが明らかになったのは、夕方旅館にチェックインした時。

「……わあ」

 随分豪華な部屋を選んだものだ――それが三葉の第一印象。

 なんと、バルコニーに小さな浴槽が設置されている。

 当然、温泉を引いているのだろう。

 外の風景も見晴らしがよく、とても気持ちが良さそうだ。

 が、自身の入浴風景を思い描いて――三葉の顔色はみるみる紅潮していく。

 その間、男の人を部屋で待たせておくなんて……それだけでも恥ずかしい。脱衣所のようなものもなく、窓一枚隔てたすぐ先なのだから。

 しかし、ふたりの関係を考えれば、それどころで済むものではない。

 恋人である。

 逆に、個々で交互に入る方が不自然だ。

 瀧君だって、そのためにこの宿を選んだのだろうし。

 社会人になったばかりで、まだお金も貯まっていないはず。

 それなのに。

 瀧と過ごしてきた日々を、三葉は思い返す。

 彼と逢えることが嬉しすぎて、

 これからもずっと一緒にいられるのが幸せすぎて、

 そこに籠められた意味を考えてこなかった。

 しかし、もう向き合わなくてはならない。

 瀧君から求められていることを。

 もちろん、嫌ではない。

 嫌ではない――けれど。

 それには覚悟が必要だ。

 本来それは、日中済ませておくべきだったのかもしれない。

 実際、瀧は心に決めている。

 三葉の気遣いのとおり、新社会人にとって今回のデートは軽くない。

 と、いう事情はあったとしても。

 これまでのように――

 瀧とてアピールは続けてきた。

 自分の部屋に呼ぼうとしたり、

 終電がなくなるまで粘ろうとしてみたり。

 それでも三葉は、常にお茶の場を選んできた。

 勿論、終電を逃すこともなく。

 あと一歩のところで――と、瀧自身は考えていた――彼女の眩さに手が届かない。

 しかし、今夜は、自らの欲望を正直に求めている。

 その()()を持って、付き合っているはずなのだから。

 この部屋で寝泊まりして、何も進展しないはずがない。

 そう、瀧は信じていたのだが――

「え……と、その……()()は、大浴場に行ってみない? ……広そうだし」

 その一言だけで、彼の表情はみるみる崩れていく。

 部屋に専有できる浴室があるのに――!

 三葉とて、男のコの思惑は重々承知している。

 さすがにそれを無下にはしない。

「ま、()()は、だってば! お部屋の方は食後にゆっくり……休憩してから……」

 逃げられない終着地点を意識しては、その過程も気の休まらないものとなる。

 すべては、()()に至るための前準備――

 実際、瀧の方はずっとその心持ちだった。

 三葉が気づく、その前から。

 この地に着く前――

 それこそ、共に電車に揺られながらも。

 常に頭の片隅にこびりついて離れない。

 彼女との、()()が。

 それを、三葉もようやく共感することができた。

 共感しているからこその――大浴場。

 温泉宿と聞いていたから、一応身嗜みは整えてきたが、恋人の視線は同性のそれではない。

 きっと、穴が空くほど見られてしまうのだろう。

 理解し難いところまで。

 だから――最終確認をさせて欲しい。

 生まれて初めて、女として男の前に立つために。

 

       ***

 

 風呂上がりの食堂で、一つの鍋を二人で(つつ)く。

 これまで、それを意識することはなかった。日常的に、大きなパフェを分け合ったりしていたし。

 その度に、彼氏がいるって便利ねぇ、などと都合の良いことを考えていた。

 が、今夜は心身ともに恋人同士になるのだろう。

 そう思うと……今もすでにキスをしているも同然ではなかろうか……などと三葉はこの食べ方が恥ずかしくなってくる。

 瀧は、昼からいつもより食が細かった。その理由が三葉にはよく判る。苦しくなるほどお腹に詰め込んでしまったら……後で恥ずかしい思いをするかもしれない。

 これでは食べづらくもなるというものだ。

 しかし何より気になってしまうのは、瀧の視線。

 たどたどしい会話の間でさえも、浴衣の合わせを明らかに凝視されている。

 これはもはや、眼力で肌蹴させようとする勢いだ。

 同じように――三葉自身も、彼の胸元が気になってしまう。

 それが脱ぎ落とされた時、あの狭い浴槽で肌と肌を合わせることになるのだから。

 嬉しいのか、

 恥ずかしいのか、

 自分の感情すらわからない。

 ただ……こんなことなら、もっとネットで予習しておけば良かった、と間抜けたことを悔いる。

 どんなに見つめ返そうとも、三葉には彼の浴衣の中身を思い描くことができないのだから。

 

 食事から戻ってくると――

 部屋はとんでもないことになっていた。

 二組の布団が、仲良く並んで敷き詰められている。

 旅館として珍しくもないサービスではあるのだが――

 状況が状況だけに、下世話な雰囲気は否めない。

 それまで、すぐにでも飛びつきそうな空気を醸し出していた瀧も、これには面食らってしまった。

 過度の緊張は二人を硬直させ、どうすることもできずにただ座り込む。

 が――

 時計をチラチラと気にし始める瀧。

 あれからもうすぐ一時間は経とうとしている。

 食休みとしても充分のはずだ。

 ゆえに、三葉は俯いたまま切り出す。

 これ以上焦らして、変な形で爆発させては、残念な思い出になりかねない。

「そろそろ……入る?」

「……ああ」

 それが意味するところに、二人は身を竦ませる。

 が、瀧がモゾモゾと足から下着を抜き始めたのを見て、三葉もそれに倣うことにした。

 中に着ているのは、風呂上がりのブラジャーとショーツのみ。

 それを服の内側で器用に取り除いた。

 すると、身を包むのは薄い浴衣だけ。

 パットもないので、厭らしく浮き上がってしまっているかもしれない。

 これはもう、裸も同然。

 なのに、ここからそれさえも――!?

 まごついている間に、瀧は帯を解こうとしている。

 それが緩められた先には、きっと、男のコが――!

 三葉には、それ以上見ていることはできなかった。

 かといって、それ以上自分の衣に手を掛けることも。

 目を瞑ったまま立ち上がり、軽く恋人の方に腕を差し出す。

「瀧君、脱がせてっ!」

 それは少しだけおどけるように。

 羞恥心を誤魔化すように。

 驚いて喉を詰まらせる瀧の息遣いが聞こえてきた気がする。

 きっと、目蓋の向こう側からは、生まれたままの姿の男の人がこちらをひん剥こうと迫ってきているのだろう。

 というか、あっという間に迫ってきた。

 迷ってくれる様子もなく。

 だが――

 指先は震えているのに躊躇はない。

 先を焦りながらも怯えている。

 もっと深く触れたいはずなのに、生地だけを摘むように。

 理性と本能が、あまりにちぐはぐ。

 男のコって、ちょっと面白い。

 それで、三葉の心も少しだけ軽くなった。

 恥ずかしいのは自分だけではない。

 一緒に恥を掻くのなら――!

 意を決して、瞳を開く。

 だが、彼女がそこで見たものは――

「…………」

 気圧された、ということはない。

 見惚れた、ということもない。

 このとき抱いた感情は――憧憬。

 とてもとても遠い日を、何故だか呼び起こさせられる。

 それはまるで……カフェでの瀧を見ているような。

 裸の彼に、どうしてそのような懐かしさを感じるのかはわからない。

 だが、それがかつて奪われた自分のものだと思えてしまう。

 他人の身体にそのような感情を抱くのは奇妙なことではあるのだけれど。

 この身体は――私の身体でもある――!

 二度と思い出すことのない記憶と心が結びつき、三葉の脳裏に拙い単語が浮かび上がった。

 

 すきだ

 

 それは、瀧にさえ言われたことのない言葉。

 言われたことのないはずの言葉。

 なのに、彼の言葉だと確信が持てる。

 嬉しいのに悲しくて、もう絶対に手放したくない――

 無我夢中で抱きしめてしまった時、しっとりとした熱で、自分も裸であることを思い出した。

 それでも、彼女の中に恥じらいはない。

 いや、ある。

 が、それよりもっと大きな幸せを感じていた。

 そして、止まっていた時間が動き出すような感覚も。

 これまでどこか――学生気分が抜け切れていなかったのかもしれない。

 呑んで騒いで、せっかくできた彼氏とも、相も変わらずカフェ巡りばかり。

 大学生の頃から何も変わっていなかった。

 でも――

 私だって、もう二五だし。

 瀧君とは恋人同士だし。

 こうやって男の人と裸の付き合いをするのには――むしろ、遅すぎるくらい!

 感極まった三葉は、ぐいと瀧を引き寄せる。

 ふたりはもつれ合ったまま、布団の上へ。

 一糸纏わぬ男の人に、自分の女が押し倒されている。

 しかし、三葉はそれを恐れない。

 だってこれは、当然の成り行きなのだから。

 今夜は、そのためにあるのだから!

 年齢的にも、むしろ適切な頃合いに差し掛かっている。

 だから、それを意識しつつも――その前に、決めるべきことは決めておきたい。

「ね、うちにはいつ挨拶に来てくれるの?」

 ここまで興奮に滾っていた男の瞳が、その瞬間凍りつく。

 そして、瀧が萎縮していくのが、密着しているからこそ三葉にも判った。

 が、女としてここで引くわけにはいかない。

 子供のじゃれ合いから大人の触れ合いへ。

 その末に築かれるものもあれば、産み落とされるものもあるだろう。

 でも、その順序を誤ってはならない。

 そのためには、彼氏に男気を見せてもらう必要がある。

 うちのお父さんに逢いに来るのは気後れするでしょうねぇ……と娘は他人事のように思う。

 そんな彼女にできるのは、これくらいか。

「お風呂はちょっと後にしよ? 汗、掻いちゃいそうだから」

 後ろ向きな男のコにエールを送ると、三葉は逃さないように彼の背中を抱き締める。

 そして、奪うように唇に吸い付いた。今度こそ、紛うことのないファーストキス。

 新たな柔らかさに、瀧の中から再び男の欲が膨れ始めた。

 しかし、それを求めるのなら……心に決めなくてはならない。

 友達でも、恋人でもなく、

 さらにその先まで、共に過ごしていくことを。

 三葉の気持ちはようやく、時間に追いついたようだ。

 今度は、瀧が急ぐ番。

 欲に見合った責任を取れてこそ、大人の男なのだから。

 




期間限定企画『こんな君の名は。の短編を読んでみたい』というリクは引き続き募集中です。書きやすそうなネタを拾っていきたいと思っているので、お気軽にコメントとか下さいな。


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