「お茶ー。」
事務所のソファにどっかりと座り、私は天を仰いだ。
「自分で淹れろ。」
そう言いながらも彼は器用に両手でグラスを3つ持ってくる。
1つを手元に置き、1つを仁奈に優しく手渡し、1つを私の目の前に乱雑に叩きつけた。
扱いの差が顕著である。
麦茶が跳ねないように気を遣っていることなんて、付き合いの浅い相手には分からないだろうに。
「じゃあ仁奈、この人がアイドルについて説明してくれるから、ちゃんと聞いてね。」
仁奈をアイドルとして事務所に所属させるための書類は、夏休み中にも関わらずプロデューサーが持ち前の社畜精神をすり減らして完成させた。
後は仁奈本人の署名が必要で、そのためには仁奈が一通りの説明を受け、同意した上でペンを握らなければならなかった。
今日私が汗だくになりながらも外に出た理由の1つがこれだ。
「せっかく来たんだし、お前も自主練でもしたらどうだ?」
説明に使うのだろうPCやら書類の束やらをテーブルの上に広げながら、彼が軽口を叩く。
お前「も」という部分が引っかかって返答を出せないままでいると、彼は言葉を続けた。
「諸星は最近毎日やってるのに。今日も……、」
「……きらりが? 自主練?」
思わず声を遮る。
私が驚愕に目を見開くと、彼も同じような動作を取った。
え? 知らないの? why? とでも言いたそうな表情。
「用事としか、言ってなかったから……。」
顔に書かれた文字に答えると、その文字は「しまった」に書き換わる。
きらりは私にそのことを知られたくなかったのだ。
1つ、疑問が浮かび上がる。
何故きらりは隠そうとした?
夏休みだからといって、だらけてばかりいては身体が鈍る。
だから自主練をする。
そのことに何一つおかしい点も、ましてや後ろめたい点なんてあるはずがない。
それこそ、双葉杏はこのことを知っている、と、プロデューサーが当然のように誤認するくらいには。
その程度には、隠す理由が思い当たらないのだ。
まあ、それはそれとして。
早急に私がするべきことは。
「……チョットヨクキコエマセンデシタネ?」
「……オレハナニモハナシテナイ。」
これは、聞かなかったことにしておこう。
あと、レッスン場付近は通らないようにしよう。うん。
「……じゃ、私は暇潰しにぶらついてるよ。」
「ちゃんと聞くんだよ」と仁奈の頭をキグルミ越しに撫でながら立ち上がる。
いつもならば自ら灼熱地獄へ足を踏み入れようとする私に怪訝そうに声をかける彼も、先程の失言の影響か、代わりにこんなことを言ってきた。
「日が暮れる前に切り上げろよ。最近誘拐事件があったらしい。」
それはあれか、私が誘拐されそうなほど小さいから言っているのか。
失礼な。これでも17歳だぞ。
17歳は誘拐されないのかと言われると、そんなことはないんだろうけれど。
「後で迎えに来るから、それまでよろしくね。」
それでも癪に障るので、聞こえなかったフリをする。
ポケットの中。
家を出る前に仁奈からこっそり拝借した、仁奈の家の鍵。
その感触を確かめながら、私はドアノブに手をかけた。
目当ての表札は、すぐに見つかった。
「市原」と書かれたそこは、古いアパートの一室だった。
私の家よりも家賃は安そうだ。
思考の片隅でくだらない感想を述べながら、外から観察していく。
新聞受けには何も挟まっていない。
何も取っていないのか、こまめに回収しているのか。
メーターボックスを開ける。
電力量計、水道メーター、ガスメーター。どれも回っていない。
仁奈の言葉通り、家には誰も居ないようだ。
私は鍵を開け、室内へと侵入する。
本当にもぬけの殻なのか、もう少し注意深く確認するべきという認識はあった。
しかし、それは何だかやりたくなかった。
仁奈をあれだけ傷付けたような奴のために、慎重に時間をかけるような真似は。
これくらい雑な扱いで丁度よかった。
どうせ万一発見されたとしても、子供のイタズラで通る見た目だ。
扉に内側から鍵をかけ、部屋を見渡す。
存外綺麗に暮らしている。
それが第一印象だった。
心の中と同じくらい、ゴミ屋敷かと思っていた。
だが床にゴミは散乱していないし、物も綺麗に整頓されている。
仁奈が埃を吸い込む生活を送っていなかったことを喜ぶよりも先に、何故だろう。舌打ちが出た。
適当に見て回りながら、仁奈の言っていた「ママの机」を探す。
それらしいものは、家の中に1つしか無かった。
というより。
「……学習机じゃん。」
なんでこれが「ママの机」なんだ。
これは本来仁奈が使用して然るべきものだろう。
仁奈の母親は、その場に居ずとも、仁奈を通さずとも。
その痕跡だけで、的確に私の神経を逆撫でした。
引き出しを下から順に開けていく。
古臭い学校のアルバム。次。
キーホルダー等の小物数点。次。
筆記用具。次。
一番上の引き出しには、鍵がかけられていた。
これが当たりで間違いないだろう。
筆記用具の中にあったクリップを曲げ、針金を作る。
頭の中で簡単な鍵の構造を思い浮かべながら、カチャカチャと手を動かす。
……しばらくして、カチャリ、と音を立て、鍵が外れた。
引き出しを開け、中を確認する。
日記。
表紙にそう書かれた、キャンパスノートが数冊。
それが全部だった。
「……はぁ。」
何を見られたくないのかと思えば、こんなものか。
もうちょっとマシなものを隠しておいてくれ。
落胆に息を吐きながら、ナンバリングが最も古い一冊を乱雑に抜き取り、パラパラとめくる。
私が3歳程度の頃から書かれていたそれの内容は、極めて平凡なものだった。
学校でこんなことがあっただとか。あの服が欲しいだとか。
不規則に間が空く日付から見て、何か出来事があった日にのみそれを書き残しているようだった。
そんなものに興味なんて無い。適当に読み流していく。
日付が今から10年前になるまで読み進めると。
前後に、1ヶ月以上の開きがある部分があることに気付く。
それは今までに無いほどの、大きな空白だった。
なんとなく気になって、その前後の部分を、今度はしっかりと読み直す。
そして、文字列の意味を脳が理解した瞬間。
「……なんだ、これ。」
急激に意識が冷やされる。
喉が乾いて張り付きそうだった。
震えた手がノートを落としかけていた。
見間違いであることを反射的に期待した。
なんだこれ。なんだこれ、なんだこれ!?
頭の中でそれだけを連呼する。
実際に口から漏れ出していたかもしれなかった。
ページをめくる手が、加速度的にその頻度を増していく。
それは1人の女性の独白だった。
それは1人の母親の懺悔だった。
それは1人の人間の、自分にかけた枷だった。
『いつか仁奈は、私を許さないだろう。
その時のために、こんなものしか残せない。』