仁奈ちゃんの母親は、私を見て怖がった。
陽が落ちようとしている中、誘拐事件があった街をうろつく娘を見て。
このままでは危ないからと、自宅に連れ帰ろうとしていた母親が。
それでも、私を見て怖がった。
娘を見捨てたとか、そんな糾弾をするつもりはない。
そんな批判は的外れだ。
ただ、怖かっただけなのだ。
自分が愛そうとする娘の身の安全など、頭から抜け落ちてしまえるほど。
私が怖かっただけなのだ。
「突然の訪問、失礼します。」
杏ちゃんの話によれば、仁奈ちゃんの母親は、仁奈ちゃんを愛そうとしていた。
母親は子を愛するものであると。
愛するべきものであると。
愛さなければならないと。
かつて愛されなかった彼女は、その考えに固執しているとすら言えた。
「市原仁奈ちゃんの、親御さん、ですね?」
彼女が私を怖がり、彼女が仁奈ちゃんを愛そうとしているのなら。
私のこの姿は、客観的に見て都合が良かった。
彼女は私を恐ろしいものとして認識している。
ならば。
「私は、あなたが加えた虐待行為の証拠を持っています。」
彼女を脅すのに、とても都合がいい。
「……こちらを。」
可哀想に思えるほど萎縮しきった彼女に、左上をホチキスで綴じた十数枚の書類を渡す。
杏ちゃんが夜遅くに少しずつ作っていたものだ。
彼女がそれに目を通していくにつれ、ただでさえ少なかった血が更に顔から引いていく。
「仁奈のママはね、ちょっと疲れちゃったみたいなんだ。」
私は仁奈に、簡単な手筈を説明する。
どうやって、仁奈の母親が仁奈をどう思っているかを知るのか。
その答えを出す方法を。
「だからイライラしちゃうし、だから仁奈に辛く当たっちゃう。」
女手1つで娘を育てるのは、きっとただでさえ大変だ。
その上、憎い相手の血が混じっている。
「仁奈のママも、それは良くないって思ってる。」
そんな我が子ときちんと向き合うだけの環境が、そもそも整っていない。
そんな状況で解決を急いでも、決して良い結果になりはしない。
きらりはそう分析した。
「今日は、あなたを訴えるために来たのではありません。
交渉をしに来たのです。」
彼女は精神的に疲弊しきっていた。
まともな判断ができないまでに。
そんな状態で、仮に杏ちゃんのような、小さい子がこんなことを言ったとしても。
相手にすることは無かっただろう。
「私とて、親子を引き剥がすことはしたくありません。」
日記の内容を聞く限り、彼女は杏ちゃんを「仁奈ちゃんと同じくらい小さい子」と認識していた。
杏ちゃんが17歳であると証明しても、それを受け入れてくれるかどうか。
納得してくれたとして、杏ちゃんを責任能力のある人物だと思ってくれるかどうか。
見た目というのは、特に話し合いの場において、理不尽なほど重要な要素だ。
私も杏ちゃんも、それを良く理解していた。
「あなたは非常に困窮しています。
肉体的、精神的、そして経済的に。
仁奈ちゃんと適切なコミュニケーションを取るための、前提条件を満たしていない。」
だからこそ、私なら都合が良いのだ。
初対面で彼女に恐怖を与えた私ならば。
彼女と会うだけで、話し合いの優位に立つことができる。
頭ごなしに否定されることも、耳を塞がれることも、癇癪を起こされることもない。
そんな状況で、彼女が加えた虐待について詳細に記された書類を渡せば。
彼女を、脅すことができる。
「だからさ。一回、休ませてあげよう。」
考えるだけの余裕が、彼女には必要だった。
仁奈と、どのように接するべきか。どのように接したいのか。
そもそも接するべきなのか。
「ゆっくり休んで。ゆっくり考えて。」
その最適解は、きっと誰にも分からない。
でも彼女は、答えを出さなければならなかった。
彼女は、仁奈を愛そうとしているのだから。
「それから、答えを聞こう。」
それがいつになるのかは分からない。
彼女が答えを出すその日は、いつになるのか分からない。
それでも。いつか答えは出る。
「その日まで、私が仁奈ちゃんを育てます。」
正確には、私と杏ちゃんの2人で。
実際のところ、育てる、なんて大層なものではない。一緒に暮らすだけだ。私達にできるのは。
私も杏ちゃんも、アイドルとして軌道に乗ってきている。
仮にすぐ失脚したとしても、3人で暮らしていくだけの資金は既に貯まっていた。
経済的な点に関しては、問題はなかった。
「ですが、これはあくまで応急処置です。
仁奈ちゃんには愛情が必要で、私にはそれは与えられません。」
仁奈ちゃんを抱きしめてあげることはできる。
叱ってあげることはできる。
料理を作ってあげることはできる。
「あなたがどちらを選ぼうと、私はこれ以上の干渉はしません。
仁奈ちゃんと暮らさなければあなたを訴える、といったことはしません。
一度落ち着いて、ゆっくりと考えてくだされば、それだけで構いません。
その上で、あなたが決めてください。
仁奈ちゃんと一緒に暮らすか。暮らさないか。」
でも、母親にはなれない。
仁奈ちゃんの母親は、今目の前に居る、この人しか居ない。
それの代わりなんて、誰一人としてなれるはずがない。
なっていいはずがない。
「答えが出るまで、私が預かります。」
「……それは、分からない。」
仁奈の母親が、どんな選択をするのか。
仁奈の望む選択をするのか。
それは、本人にしか分からない。
「だから。最後になるかもしれないから。」
こんな小さい子に言うべきことじゃない。
こんな小さい子が、1人で決められることじゃない。
そんなこと、私にだって分かっていた。
だから。
私も向き合うと決めた。
仁奈に、幸せになってほしいから。
逃げ続けるままの私が、言うことが許されるものじゃないから。
仁奈と一緒に、向き合うと決めた。
「会いに行こう。
会って、1回くらい、我が儘を言おう。」
1人で失敗するのは怖いけど。
一緒に失敗するなら、少しだけ安心する。
そんな、後ろ向きな前の向き方。
そして仁奈は、向き合うことを決めた。
「1つだけ、条件があります。」
彼女がどんな選択をするか。それを強制することはできない。
それを強制したとして、それは仁奈ちゃんの望むものではない。
「仁奈ちゃんに、会ってあげてください。」
だから。これが最後である可能性も、十分にあった。
もう二度と触れられない。
もう二度と会えない。
そんな可能性が、確かに存在していた。
「会って、我が儘を聞いてあげてください。」
だからこそ、仁奈ちゃんの面倒を見る交換条件として提示した。
怒られて。傷付けられて。そんなのが最後だなんて。
そんなのは、嫌だから。
「……ママ。」
下を向き、小さい声で。
それでも、キグルミを着ていない。
ウサギを脱いだ市原仁奈は、ぽつりと呟いた。