杏ちゃんが、私を迎えに来た。
シューズのゴムが床と擦れて、キュ、キュ、と音を立てる。
足の向きが揃っていない。もう一度。
杏ちゃんが、仁奈ちゃんを連れてきた。
壁一面に貼られた鏡に、ダンスを踊る私が映る。
腕が伸び切っていない。もう一度。
杏ちゃんが、料理を作った。
曲をかけ直し、再び鏡の前に立つ。
表情が硬い。もう一度。
杏ちゃんが、もう飴は要らないと言った。
ステップの勢いを殺しきれず、足首が過度に曲がる。
その痛みに全身から力を奪われ、私は床に倒れ込んだ。
「っ、痛……。」
捻挫。
テーピング用品をカバンから取り出しながら、壁に掛けられた時計に目を向ける。
室内履きのシューズを履いてから6時間以上が経過していることに、ようやく気がついた。
そろそろ帰って、夕飯の準備をしなければ。
「いいんじゃない? まだ帰らなくても。」
私しか居ないはずの室内に声が響く。
その発生源を探そうと辺りを見回すと、それは先程まで自分を映していた鏡だった。
諸星きらりが、そこに立っていた。
「……でも、お夕飯、作らなきゃ。」
鏡の中の私は、しかし今の私の姿をしていなかった。
髪は黒に染まり。
毛先のカールは無く、まっすぐに伸び。
爪はネイルされておらず、短く切りそろえられていて。
フリルやアクセサリーの1つも見当たらない、寒色系の落ち着いた服を身に纏い。
声色は、私よりずっと低く。
「杏ちゃんが居るじゃない。料理くらい、用意してくれるでしょう?」
そして、私のような口調をしていなかった。
「でも、杏ちゃんは、」
「杏ちゃんは、何? あの子はもう、言い訳しなくてもよくなったのよ?
前に進んだのよ?『諸星きらり』と違って。」
諸星きらりは『諸星きらり』に語りかける。
私が直視したくない、しかしはっきりとした事実を。
「あなたと別れてから、あの子は頑張ったわ。
飴を介さなければ他人とまともにコミュニケーションも取れない状況から、杏ちゃんは脱したの。
あなたがひたすら、しょぼくれてる間にね。」
今まで、私と杏ちゃんは共依存の関係にあった。
杏ちゃんは私の飴が無ければ、誰かのために動くことが出来なかった。
「そう。そしてあなたは、『諸星きらり』で居るだけでは満足できなくなった。」
最初はそれだけで満足だった。
背の高い自分が嫌で。怖がられるのが嫌で。
だから、それよりも目を引く特徴を無理矢理に作り出した。
「白い目で見られて、それで安心しちゃったんでしょう?
例え自分が、どうしようもない変人にしか思われないとしても。
それでも怖がられないから。だからあなたは『諸星きらり』であり続けた。」
それでも良かった。
変だと思われても良かった。
私から逃げずに居てくれるのなら。
側に居てくれるのなら。
怖がらないでいてくれるのなら、それだけでよかった。
だから私は、喜んで『諸星きらり』になった。
「アイドルにスカウトされたとき、大層驚いていたわね。
怖がられないために作った『諸星きらり』が。
マイナスをゼロにするために作った『諸星きらり』が。
憧れて憧れて、でも諦めるしかなかった、『可愛い』というプラスに成り代わったんだもの。」
でも、信じきれるわけがなかった。
自信なんて持てるわけがなかった。
私は小さくて可愛いものとは対極の存在。
大きくて、怖がられる存在。
その事実を覆い隠すために作り出した逃げ道が、自分が最も欲しかったものだったなんて。
そんな、夢みたいなこと。
「だからあなたは、ただあれだけのことで絶望した。
オーディションの相手に、ちょっと悪口を言われただけで。
その言葉は、これまでの『諸星きらり』を肯定するどんな言葉よりも信憑性があったから。」
でも、杏ちゃんは言ってくれた。
私を見て、必死になって否定してくれた。
そんなことない。きらりは可愛い。信じられないなら何度だって言ってあげる。
……それがどれだけ私を救ったのか、あの子は分かっていないだろうけれど。
「だからあなたはあの場に立つことができた。
『諸星きらり』は、双葉杏に肯定されることによって、初めてアイドルたり得ることができた。
あまりに脆く崩れそうなその根拠を、双葉杏に全て依存した。
あんなに小さくて可愛い子が、大きいあなたを可愛いと言ってくれたんだものね。」
頑張ろう、なんて言いながら、私は現状で満足していた。
私は双葉杏に飴を渡す。
双葉杏は私を肯定する。
だから双葉杏はアイドルでいられる。
だから『諸星きらり』はアイドルでいられる。
そんな関係に、私は何の不満もなかった。
「でも、双葉杏はそうではなかった。
あの子はあなたよりずっと先を見ていた。
いつか、2人が離れ離れになるときが来る。
そのときのために準備をしておかなければならないことを、あの子はちゃんと理解していたわ。」
だから双葉杏は、この共依存の関係から脱却しようとした。
2人では居られなくなったときに、1人で歩いていけるように。
そして、双葉杏はそれを実現した。
「あの子は1人で歩いたわ。
情けなく泣き言を繰り返しているだけだったあなたを、あの子は迎えに来た。
誇らしげに大きく口を開けて、あなたの名を呼んでいた。」
喜ばしいことだった。
喜ぶべきことだった。
事実、私は嬉しかった。
でも、胸に湧き上がる感情は、それだけではなかった。
「1人で歩けるようになってしまった。
あなたはまだ、歩けないのに。
双葉杏が居なければ、歩くことができないのに。
あの子は1人で歩けるようになってしまった。」
不安だった。
最初に感じたものは、不安だった。
あの子が1人で歩けるのなら。
どこにだって行けるのなら。
私の元から離れてしまうかもしれなかったから。
「それに気付き、すぐに自分を嫌悪した。
だって、それは喜ぶべきことだから。
他の後ろめたい感情の全てを抜きにして、手放しに祝福するべきことだから。」
でも、私はそれができなかった。
決して同居するはずのない相反した感情が、確かに同時に存在していた。
「それからしばらくして、あの子は市原仁奈を連れてきた。
仁奈は親から虐待を受けている。双葉杏はそう言った。
それは、双葉杏と限りなく似た境遇であるということ。」
双葉杏は過去とも向き合っていた。
過去の自分を救おうと。
私はまだ、直視しようと思うことすらできていないのに。
「恐れていたことが現実になった。
あの子はどんどん歩いていく。
あの子はどんどん離れていく。
あなたの足は、まだ立つこともままならないのに。」
捻挫した足首が、ずきり。
諸星きらりの言葉に反抗するように、私は立ち上がろうとする。
……痛みに耐えきれず、無様に床に打ち付けられた。
「無理よ。あなたの足は治らない。
あなたは双葉杏無しでは歩けない。
自由に動けるあの子が来るのを、ただ待つことしかできないの。」
市原仁奈は言っていた。
双葉杏は、キグルミを着ていない仁奈の方が好きなようだと。
「隣に居るだけで劣等感に苛まれる。
あの子はあなたが持っていないものの全てを持っていた。
あの子はあなたが渇望するものの全てだった。」
キグルミ。
ありのままでは愛されないと思った少女が、愛されるために纏った外殻。
それは、形こそ違えど。
『諸星きらり』と、全く同じ。
「見る度に憧れて。見る度に救われて。見る度に自分に絶望する。
あの子が普段から可愛い格好をしないことに苛立ちさえ覚えることもあった。
それでもあの子が居なければ、あなたは自分を保てない。
あの子に肯定されなければ、あなたは『諸星きらり』で居られない。」
ならば、彼女が『諸星きらり』の正体を知れば。
それが市原仁奈と同様、愛されたくて着飾ったニセモノだと知れば。
双葉杏は、きっと私を肯定しない。
……可愛いなんて、言ってもらえない。
「双葉杏が居なくなったら、『諸星きらり』はどうなるでしょうね。
支えが消えてしまったら、『諸星きらり』はどうなるでしょうね。
可愛らしい双葉杏とは何もかも違う『諸星きらり』は、どうなってしまうのでしょうね。」
聞いていたくなかった。
これ以上、諸星きらりが発する言葉を聞きたくなかった。
私は這いながら鏡の反対側に移動し、両手で耳をかたく塞ぐ。
「小さくて可愛らしいあの子とは違う。
弱くて守られるあの子とは違う。
あなたは大きくて怖いもの。
あなたは凶暴で孤独だもの。
そんなあなたが、アイドルで居られると思う?
可愛いって言葉を、もらえると思う?」
それでも声は途切れない。
手をすり抜けて、頭に直接流れ込んでくる。
「思い出しなさい。
あなたはどういう存在だったのか。
夢から目を覚ましなさい。
手に入るはずのない幻想は、十分堪能したでしょう。
……さあ、鏡を見てご覧なさい。」
諸星きらりに逆らえない。
首が勝手に動き始める。
目がひとりでに見開かれる。
「あなたはアイドルなんかじゃない。
あなたは可愛くなんてなれない。」
鏡。
自分の姿を映し出す道具。
そこにある、ものは。
「だって
醜い咆哮が聴こえる。
その悲鳴は、鏡の私が発していた。
その怒号は、私の声帯が震わせていた。
鏡を見る。諸星きらりがそこに居た。
諸星きらりが口を開く。私の口が開かれる。
私が大きく息を吸う。諸星きらりの肩が上がる。
諸星きらりが声を吐き出す。私の喉が何かを吼える。
私は『諸星きらり』じゃない。
諸星きらりは、私だった。